心理学の本(仮題)

【職場に】心理学書編集研究会(略称:心編研)による臨床心理学・精神医学関連書籍のブックレヴュー【内緒♪】

幸福――W不倫におまけのコミ心,そして話はいつしか専門性へPART3

2007-07-30 12:18:38 | 特集・シリーズ
金曜日に続きをUPしようと思っていたのですが,できず,週を超えちゃうと,続き意識もやや希薄になっちゃいますが,かまわずTSUDZUKI(かっこいい表記! 今日お前ン家遊びに行っていい?)をやろうかと。へえ。通称「W不倫シリーズ」です。

で,いきなりですが,

専門性とは何だろう。

たぶん,セラピストに訊ねると,「それは,クライエントのためですよ」と気楽に答えるんじゃないかと思います(妄想です)。

ま,臨床心理士の専門性を考えるとき(なぜお前が考える必要があるのかというツッコミはノーの方向で),おのずと対照的に考えてしまうのが,医師の専門性とは何か,ということですね,私の場合。

で,古より,教えてちゃんの私なんで,とあるドクターに聞いたことがあるんですね。「いろいろと医学の分野は広がってますけど,基底たる医師の専門性は何だと思いますか?」その先生は非常に簡単に答えました。

「命ですよ。それを守るのが医師の仕事です。それが専門性です」

ひざ,痣が出るほど打ちましたよ。それが原因で遊離軟骨(ネズミ)が暴れだして……。まあ嘘ですけど(ネズミのほうね)。

ネズミはいいんですが,医者は,死刑囚でも治療しますよね。私はこれは象徴的だと思うんですが,「命」に対して,誠にフェアな態度をとっている。下手をしたら患者の希望よか,「命」をとったりするくらいです。自殺者を治療するわけですから,やはり,「命」なんですね。昔よく使ってた「命を守るためなら死んでもいい!」なんつう姑息な冗談なんて,その現実感覚の前には,言葉遊びにすらしてもらえないですね。

TVドラマで恐縮ですが,懐かしの『ER』(つっても実はまだ続いてるんですけど)なんて観ていると,ま,最近では『Grey's Anatomy』とかも人気ですが(オモロス。でも『SIKCO』と合わせて観たほうがいいか),『ER』ね,もちろん,フィクションなんですけれど,犯罪者でもちゃんと治療したりね,そういう場面が出てくるわけです。警察と対立したりするわけです。警官が,「この犯人は警察官を撃ち殺した奴だから治療などせんでもいい」なんてことを言うんですよ,これが。けれど,ドクターは「ノー」なんて啖呵を切るわけです,カックイイ。医者の専門性は,そういうところを端緒にしている気がします。ま,その端緒は倫理の端緒でもあるんでしょうけれども。


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まあ紀元前からの伝統といってしまえばそれまでかもしれませんけど,これぞまさに「普遍」ですわな。全集は診察室に飾りたいマストアイテムNo.1! 教典,と揶揄する気にもなれない,わりかし崇高な感じで,結構稀有ですね,この存在感は。

翻って,「心理」には,そうした専門性や倫理性の「端緒」はあるのだろうか。心理のヒポクラテスは誰だ,ヴント? フロイト? スキナー? ウォルピ? ロジャーズ? ヒポクラさんの強烈さに比べるとイマイチ弱いか……などと悩むわけです。まあ紀元前は反則ですよ。

となりますと,誰が言ったか,俄然「クライエントのために」という言葉が出てくるような気がします。

1対1の個人療法の世界では,そうしたことは多少,可能なのかもしれません。クライエントの周囲がいかに困っていても,頑なに1対1を続ける事例論文は多いですし,そのセラピスト以外との関係を,セラピーの場に持ち込むことはあまりしない(気がします)。転移-逆転移で動いているかのように見えるセラピーの論文には,そういうのが多い感じがします。セラピー場面に登場人物が出てこない。でてきても,それは父や母としてのセラピストで,セラピストの代用であったりします。100%クライエントのために,セラピーが成り立っている。もちろん,それで治るのならばOkiDokiですが,きっとむつかしい。時間がかかる。1週間に1度,たった1時間以外は,クライエントはセラピーの外にいるわけですから。というか,それはセラピストのためのセラピーであるような肝。

とはいえ,確かに,その一部はクライエントのためにもなるわけですが,それはセラピーという場だけの話であって,治療室の外側ではどうなっているのか事例論文では窺い知れないことが多い。たとえば,4年とか続く事例があるわけですが,家族やクライエントの周囲の人はどう思っているのか,ほんと,心配になることがあります。

いや,実際問題として,会社の同僚がセラピーで4年も週1で4時退社とかしていたら,「何だか,毎週毎週セラピーだとか言って,もうかれこれ4年も会社を早引きしてさ……」と思うことでしょう。「ちょ,ちょっと今日は忙しいから時間,動かせない?」などとお願いしたくなることもあるかもしれません。

ま,他の治療にだって,周囲の無理解はありますけれどね。どちらにせよ,「長ッ」と思ってしまいます。「悩み」みたいなものは,たとえ,重度の抑うつであれ,悪性腫瘍を持つ患者さんの「命」のように象徴的なものでもないですから,余計に白い目で見られることがありそうです。

しかし,それでも,セラピーは100%クライエントのために進行します。「クライエントのために」という言葉は,個人療法では可能かもしれません。

一方で,家族療法家などは,周囲を巻き込んで治療をしていきますね。そういう状況では「クライエントのために」というのは,あまり意味をなさない気がします。IPって言葉もあるくらいですしね。

たとえば,クライエントは離婚したいと言っている。個人療法ではそれを受け止めるなり,ちょっと待てと押し留めるなり,別れろと背中を押すなり,という対応がある。言い分はクライエントの側の一方的なものですから,話を多少割り引いて聴くにしろ,やはりクライエント寄りの立場になるでしょう。「いや,ボクはそうじゃない。神のようにフェアだ」という人がいれば(自分で自分を神と称するような手合いはまあ信用しないほうが確率的には正解と思えますが),ま,本当にメシアか,よっぽどオメデタイ人です。人間にはバイアスがかかります。コミュニケーションというものはそういうものです。絶対にそれは避けて通れません。

しかし,家族療法では多人数を相手にするわけです。そうなると,ずいぶんと話が違って聴こえるでしょう。離婚したクライエント一人の話を聞いていたときには,離婚するよう背中を押そうとしていたのが,相手の話を聞くとそうしない方がいいような気がしてくる。あるいは,違う可能性について考えてみたくなる,はずでしょう。

これはまことにフェアな方法です。

でも,果たして,それは「クライエントのために」ということになるのでしょうか。もっと言ってしまえば,一体,だれがクライエントなのか。フェアになった分,堂々巡りになっているような感じがします。

例をもう一つ。

たとえば,不登校。以前,不登校児には,登校刺激を与えるな,とありました。少し前の偉い先生の本なんかにはそう書いてあったりします。ですが,不登校児がドンドン増えてしまった。話を聞くと,「つまんねぇことで休んでんな」などと思ってしまう。と,さすがに登校刺激を与えるようになった。そしたら,登校しだした! ま,これは当たり前の話です。登校刺激って,登校したから「登校刺激」と言えるのであって,登校しなかったら,登校刺激でも何でもないですから,という屁理屈はさておき。

私も中学のとき,1週間くらい部屋に立て篭もっていたことがあるんですが,学校に行くと気恥ずかしくなるわけですね,これが。行きたくないわけではないけど,メンドーみたいな少年期の心でしたから,もし,登校刺激が与えられたら,3日くらいで出てきたかもしれません。

ま,オッサンの過去の回想はほっておいて,「登校刺激」に戻るわけですが,

登校刺激を与えることはクライエントのためなのか?

あるいは,

登校刺激を与えないことが,本当にクライエントのためになるのか?

でも,学校に行かないより行った方が「予後」はいいです。高卒より大卒のほうが経済的には恵まれますし,それはたいていの場合,幸福につながります。ほどほどとか,分相応とかありますが,ないよりはあったほうがいいのが金です。学歴と経済性には統計的にも有意な差があるはずです。この事実はどうしようもないけど,否定できません。

だから総論としていえば,不登校するより,登校した方が私はベターだと思います。でも,子どものころには3週間くらいボーッとする時間があってもいいかな,とも思います。といって,すぐに困ったら休む癖がつくと,働き出してから困るかもしれません。もちろん,ケースバイケースでしょう。

スクールカウンセラーの問題も複雑です。何をもって「クライエント」とするのか? SCは学校側に立つのか,それとも子どもたちの側に立つのか,あるいは,家族(PTA)につくのか。教師につくのか。教師には,主流派と反主流派があるでしょうが――どっちにつくのか。それとも,コウモリのようにフラフラするのか。そして寓話のコウモリのように誰からも相手にされなくなるのか。

その辺りの議論が曖昧なまま,SCは導入されているような気がします。その曖昧さがいいのかもしれませんが,よっぽど人徳があるか,うまく立ち回れる人でないと,つぶれそうです。学校の葛藤に巻き込まれでもしたら,決断や判断をし続ける必要があるでしょう。少なくとも,SCは集団を見る視点が必要です。

周囲をある程度無視できるところにある個人療法では,セラピストは決断や判断を保留できる立場にいると思います。しかし,個人療法でさえ,「多数」の場面が出てきます。たとえば,先にもあげたように「妻が夫と別れたいと思っている」というような場面です。そのとき,面接室は3人の登場人物が現れることになります。「ひどいんです,別れようと思って」と彼女は言う。もちろん,セラピストは勧めもしないし,考えを押しとどめようともしない(ハズ)。ですが,セラピストである「あなた」は,クライエントの選択について何某かの判断をしている。

決めるのは彼らだとわかっていても,なるべくクライエントの決断に手を貸すことはしないようにしていても,暗に言ってしまったりすることもあるかもしれません。別れるのに反対ならば,「別れたい」というところではいつもの反射的な肯定は出ないかもしれない。「なるほど」というところを「ふむ」と溜めるように肯いているかもしれません。もちろん,その辺りのトレーニングは積んだはずですが,といってまったく感情が出ない人はあまりにも機械的で人間的ではない気もします。

腕の立つセラピストならば,妻の収入や財産について相当に聞き出しているはずです。離婚をしたほうが幸福なのか不幸なのか──もし離婚を勧めないならば,クライエントじゃないだれかの立場も慮りつつ,グレーゾーンへのソフトランディングを試みるはずです。「ふうむ。別居という選択肢は考えられました?」とかなんとか。素人なんでよくわかんないですけどね。

さて,臨床心理は,コミュニティ心理学の実践にかなり近しいSCがいて,ガチガチの精神分析家がいて,家族療法家がいて,ロジャリアンがいて,エンカウンターグループのファシリテーターがいて,CBTの人たちもいて,その人たちが「臨床心理士」という名乗っている。

それぞれには信念があって,それぞれの専門性というのが微妙に違うのもわかります。それにそれを一色に染めるべきだとも思えませんしね(一色に染めるほど突出したものはないし,別にそんなのなくてもいいし)。

そこで再び,

共通の専門性って何だ?

と思うわけです。

「クライエントのために」なんていうのは,答えとして平凡すぎます。そもそも,そんな言葉には思想がありません。医者のいう「患者のために」というのと同様に思想がない。「命のために」には思想があり,行動がある。「命」はそれを抱えている患者個人よりも,より大きな概念ですから。じゃ,命を直接的に扱えない我々は,「クライエントの経済状況の向上のために」とか,「クライエントの幸福のために」とか,「クライエントが最終的には『なかなか実りのある人生じゃったわい』と思いつつ,死ねるために」とか,せめて,なんか言わないとならない気がしてならないのですね。

もし,本当にコミュニティ心理学が「社会改革」をモットーにできるのならば,眩しすぎる存在です。生きるうえでの純粋な問題意識だけで成立することも可能なわけです。つか,それってそもそも「学問」のあるべき姿なんでしょうけどね。

でも,「改革」には対立する「抵抗勢力」がどうしても存在するわけですよね。でも,抵抗勢力である為政者から金をもらっている以上,大胆な「改革」なんか提出できないような気がします。そういう意味でもやっぱ「金」。為政者は金をばら撒くこと(と,同時に絞ること)で,為政者にとっての最大の抵抗勢力だった「大学人」を取り込んだ感じさえありますもん。

話は変わりますが,大学の制度改革は,なんかもの凄いことになっています。その昔,帝大教授(講師だったか?)であった夏目漱石は気骨のひとであったなぁ。むしろ夏目岩石ですな。いや,ほんと,現代社会で自由を実現する最大の手段は金を儲けることですよ。そういうことになってしまっている。そういうことがリーマン・ワールドだけじゃなく,アカデミックの世界にまで入り込んでしまっている。なんか嫌だなぁ。怖い現実です。

愚痴終了。

閑話休題。

で,専門性をしっかりと規定しないで,つまりもっと言えば,「臨床心理学的って何だ」と確固としたイメージがなければ,臨床っぽいものへ「適応」「従順」になるだけの気がします。

もちろん,現実との折り合いは大事です。それが大人であることだと思う。でも,心の奥底には,したたかさや精神性を持っていてほしい。なんかガッコーチョーチキジー! みたいになっていますが。

個人的にはセラピストの専門性を「幸福」って言うべきかな,という気がします。そうじゃないと,「たましい」とかになってしまいますからね! まあ「たましい」だったらまだいいんだけど,前世がスピリチュアルして背後霊が(鼻から)エクトプラズムしちゃうような話になっちゃうと,そのうち,深夜に雨戸を突き破って新聞が配達されちゃうので,それは遠慮したいなと思いますね。毎晩だと修理費もバカになりませんから(何の話か)。まあ,つまりレスポンスビィティがない。

「幸福」ってのはどうですかね。「クライエントの幸福のためにわたしたちは働いています」――というのが,正しい姿のような。「幸福」とは何か定義せよ,と言われると,またむつかしいですが。そういえば,憲法にある「幸福」っていうのは,どういう基準なんでしょうね。生活保護レベルなんでしょうかね。もし,近所に憲法学者の方がいたらちと聞いてみたいんですが,なかなかいないんですよね,憲法学者。今度,法学編集者の同僚に聞いてみよう……。

とはいえ,「専門性=クライエントの幸福」というと,消えましたね,完全に,「心理学」が……。ま,いいのか,消えても。でも,それじゃ,弁護士やソーシャルワーカーと変わらないか…。つか,それはサービス業の永遠なるゴールなのか。

「心理学の知見とテクニックをもって,クライエントの幸福のためにわたしたちは働いています」

うーむ。



結局ここまで長々と書いてみてわかったのですが,



これ,




村瀬嘉代子先生の本に書いてありますね。



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まあ介入という意味でもすごいことになってますが……。枠とか治療構造とか飛び越えたところばかりが(是非を問わず)クローズアップされたりもしますが……,このアプローチを教条的に習おうと思っちゃうことは,このアプローチの本質とはあまりにかけ離れたものである,ということだけ言っておきましょうかね。

などと,ほざいてみたところで,なんとも締まりがつかないなあ。オリジナルは極北にあるのか! と嘯いて恥ずかしさをLet's Split Off! 結局,なんか物凄い時間をかけて書いてみたんですが,尻つぼみでスマソ。

実は「臨床医学は生命のために,臨床心理学は生活のために」というのも考えたのですが,語呂が悪いし,インパクトも弱い……。まあ一応思いついたので,書いときます。

そんなことより,村瀬先生,過去に特集やってるので,そちらもよろしければドゾ。

【お慕い】臨床の人 村瀬先生を考える【申し上げております】 パート1

パートまであります。

ともあれ,私たちは結局,W不倫のカプーにどうすればよかったのでしょうね。ヨメとダンナにチクるべきだったのでしょうか……。

これまでの話からすれば,主催者がサークルを存続させるという専門性をもって(どうやるかは別にして)介入すべきだったんでしょうが,所詮は「モテたい」に毛が生えた程度の志しかなかったわけで,使命も信念も責任感もあったもんではない。それじゃあ,瓦解も無理からぬというもの。

え? 俺? 俺っちは,そのー,遊離軟骨(ネズミ)が体内を暴れまわってたので,それどころじゃなく……。


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