興味の無い方には残念ながら、凱旋式の警句について続きなのですが、これが中々に複雑で面白いものなのです。凱旋式にて凱旋将軍に対して、とここまでは共通する話なのですが、
誰がは、使用人というものと、奴隷とするものがあり、その人物が、凱旋将軍の戦車に同乗するものと、そうでないものがあります。
さてここからが問題で、何を言うかについては「メメント・モリ」を筆頭に「後ろを見よ」というものがあることは前回書いた通りなのですが、別の本では「貴方は神のごとき装束を纏っておられますが、死すべき身分のものでございますぞ」と囁き続けた、とあります。背後に控えた奴隷がとして、これが果たしてメメントモリを口語意訳したものに過ぎないのか、そうではなく将にこの科白そのものを吐いたのか、正直判断がつきかねる所なのです。
更に混乱に拍車をかける事に、高名なローマの歴史家リウィウィスの言葉では「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という風に言ったと書かれており、これは全く違った台詞になっています。警句であることは何と無く伺えるとしても、これを理解するにはタルペーイアとカピトリヌスの二つの語句についての更なる説明が必要になると思います。
タルペーイアの岩とはローマ七丘の一つ、カピトリヌス丘(現カンピドーリオ)にある旧跡で、丘から突き出たこの岩から、古代に罪人を突き落として処刑をしていたという謂れのある場所です。(などと実際には行った事も見たことも無い奴が、知ったように説明してるのがこの文章の肝で、机上旅行に興じているのだと思ってください)
タルペーイアは、ローマの始祖王ロームルスの時代まで遡る話なので、果たして何処まで真実を伝えるものか定かではありませんし、諸説あるものを取捨語って行きます。
女性の割合が少なかった初期のローマにおいて、ロームルス達は近隣のサビニ人を騙してサビニの女達を手っ取り早く強奪しました。当然、サビニ人達と紛争に発展しますが、ローマ側の砦を守る司令官タルペーイウスの娘タルペーイアが、ローマを裏切ってサビニ人の王タティウスに砦に通じる道を内通したというのです。
これは、タルペーイアがサビニ人の王タティウスに一目惚れをしたのが裏切りの理由とするものと、金や宝石に目が眩んで裏切った話などがあり、裏切りの報酬を求めたタルペーイアに対し、タティウスは持っていた腕輪を投げつけて彼女を気絶させます。それに続く兵士達が投げた腕輪や楯の山に押し潰され、タルペーイアは死んでしまいました。
爾来、ローマではこの岩において国家犯罪者を処刑する様になったといいます。
一方、カピトリヌスとは執政官を勤めたマルクス・マンリウス・カピトリヌスの事で、古代共和制ローマの転換点、BC390年にガリア人ブレンヌスによってローマが陥落させられた時、かろうじてカピトリヌス丘に残った防衛隊の一人でした。
夜影に乗じて奇襲を仕掛け、一気に丘を奪おうとしたガリア人でしたが、カピトリヌス丘にあるユーノー神殿に飼われていた聖なるガチョウがその気配に驚いて騒ぎ出します。ローマ兵達も異変に気付いて目を覚まし、ガリア人を何とか撃退しました。
それを讃えて、マンリウスはカピトリヌスの名で呼ばれるようになるのですが、その後に、王になろうとした廉でタルペーイアの岩から突き落とされてしまいました。この事を指すのが「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という科白な訳で、確かに警句として成り立つものです。
しかし、マンリウスが本当に王を目指したのかは分かりません。共和政下において独裁的な王制の復活は、ローマ市民の最も唾棄すべき事柄でしたし、権力闘争というか、足の引っ張り合いは日常茶飯事のローマ政界で、彼が元老院の不正を告発した事が議員の恨みを買い、嵌められただけだったのかもしれません。
それにカピトリヌスの丘を死守したとは言え、結局ローマはブレンヌス率いるガリア人に賠償金を支払うことでローマを取り戻したのです。ブレンヌスが賠償金を量る天秤に不正な細工をしたのを知り、ローマは抗議をしますが「敗者に災いあれ」という侮蔑の言葉を投げつけられるのです。
将にその時、颯爽と現れて、佩いていた剣を投げつけ「ローマは話し合いではなく、剣でお返しをする」と言ったのが、ローマを追放されていたマルクス・フリウス・カミルスなのですが、この話は「ローマ人の物語」には描かれていません。紙面を割けなかったのか、後世に潤色されたものと考えたのかも知れません。確かに余りにタイミングが良すぎる話で、名誉を何より重んじるローマ人にとってこの事件は酷い屈辱でしたから、歴史は勝者によって作られる典型と見ることも出来ます。
最後に一つ、カピトリヌスのユーノー神殿は、ガリア人を退けたことでモネータ、警告するという意味の性質を付され、ユーノー・モネータ神殿と呼ばれるようになります。この神殿の隣にローマの造幣所が丁度あった事から、ローマでは貨幣の事をモネタと呼ぶようになるのですが、何と英語のマネーがこのモネータに由来するものなのだそうです。
誰がは、使用人というものと、奴隷とするものがあり、その人物が、凱旋将軍の戦車に同乗するものと、そうでないものがあります。
さてここからが問題で、何を言うかについては「メメント・モリ」を筆頭に「後ろを見よ」というものがあることは前回書いた通りなのですが、別の本では「貴方は神のごとき装束を纏っておられますが、死すべき身分のものでございますぞ」と囁き続けた、とあります。背後に控えた奴隷がとして、これが果たしてメメントモリを口語意訳したものに過ぎないのか、そうではなく将にこの科白そのものを吐いたのか、正直判断がつきかねる所なのです。
更に混乱に拍車をかける事に、高名なローマの歴史家リウィウィスの言葉では「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という風に言ったと書かれており、これは全く違った台詞になっています。警句であることは何と無く伺えるとしても、これを理解するにはタルペーイアとカピトリヌスの二つの語句についての更なる説明が必要になると思います。
タルペーイアの岩とはローマ七丘の一つ、カピトリヌス丘(現カンピドーリオ)にある旧跡で、丘から突き出たこの岩から、古代に罪人を突き落として処刑をしていたという謂れのある場所です。(などと実際には行った事も見たことも無い奴が、知ったように説明してるのがこの文章の肝で、机上旅行に興じているのだと思ってください)
タルペーイアは、ローマの始祖王ロームルスの時代まで遡る話なので、果たして何処まで真実を伝えるものか定かではありませんし、諸説あるものを取捨語って行きます。
女性の割合が少なかった初期のローマにおいて、ロームルス達は近隣のサビニ人を騙してサビニの女達を手っ取り早く強奪しました。当然、サビニ人達と紛争に発展しますが、ローマ側の砦を守る司令官タルペーイウスの娘タルペーイアが、ローマを裏切ってサビニ人の王タティウスに砦に通じる道を内通したというのです。
これは、タルペーイアがサビニ人の王タティウスに一目惚れをしたのが裏切りの理由とするものと、金や宝石に目が眩んで裏切った話などがあり、裏切りの報酬を求めたタルペーイアに対し、タティウスは持っていた腕輪を投げつけて彼女を気絶させます。それに続く兵士達が投げた腕輪や楯の山に押し潰され、タルペーイアは死んでしまいました。
爾来、ローマではこの岩において国家犯罪者を処刑する様になったといいます。
一方、カピトリヌスとは執政官を勤めたマルクス・マンリウス・カピトリヌスの事で、古代共和制ローマの転換点、BC390年にガリア人ブレンヌスによってローマが陥落させられた時、かろうじてカピトリヌス丘に残った防衛隊の一人でした。
夜影に乗じて奇襲を仕掛け、一気に丘を奪おうとしたガリア人でしたが、カピトリヌス丘にあるユーノー神殿に飼われていた聖なるガチョウがその気配に驚いて騒ぎ出します。ローマ兵達も異変に気付いて目を覚まし、ガリア人を何とか撃退しました。
それを讃えて、マンリウスはカピトリヌスの名で呼ばれるようになるのですが、その後に、王になろうとした廉でタルペーイアの岩から突き落とされてしまいました。この事を指すのが「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という科白な訳で、確かに警句として成り立つものです。
しかし、マンリウスが本当に王を目指したのかは分かりません。共和政下において独裁的な王制の復活は、ローマ市民の最も唾棄すべき事柄でしたし、権力闘争というか、足の引っ張り合いは日常茶飯事のローマ政界で、彼が元老院の不正を告発した事が議員の恨みを買い、嵌められただけだったのかもしれません。
それにカピトリヌスの丘を死守したとは言え、結局ローマはブレンヌス率いるガリア人に賠償金を支払うことでローマを取り戻したのです。ブレンヌスが賠償金を量る天秤に不正な細工をしたのを知り、ローマは抗議をしますが「敗者に災いあれ」という侮蔑の言葉を投げつけられるのです。
将にその時、颯爽と現れて、佩いていた剣を投げつけ「ローマは話し合いではなく、剣でお返しをする」と言ったのが、ローマを追放されていたマルクス・フリウス・カミルスなのですが、この話は「ローマ人の物語」には描かれていません。紙面を割けなかったのか、後世に潤色されたものと考えたのかも知れません。確かに余りにタイミングが良すぎる話で、名誉を何より重んじるローマ人にとってこの事件は酷い屈辱でしたから、歴史は勝者によって作られる典型と見ることも出来ます。
最後に一つ、カピトリヌスのユーノー神殿は、ガリア人を退けたことでモネータ、警告するという意味の性質を付され、ユーノー・モネータ神殿と呼ばれるようになります。この神殿の隣にローマの造幣所が丁度あった事から、ローマでは貨幣の事をモネタと呼ぶようになるのですが、何と英語のマネーがこのモネータに由来するものなのだそうです。