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Potter's Diary

私の生活諸々と陶芸作品の紹介(ヒューストンより)

ポルトガルの旅 その1

2011-07-12 | 旅行

先日、例によって夫の学会でポルトガルに行ってきました。
ポルトガルと言えば、日本と最も古くからお付き合いのある国のひとつなわけで、日本が取り入れた洋物のルーツの国。おまけに「スペインよりも食べ物がおいしい」なんていうことを何人かの人に言われたので、いったいどんな国なのだろう、どんなにおいしいものがあるのだろう、と私の期待は膨らむだけ膨らんだのでした。

まずは夫の学会のあったリスボン。泊まったホテル、ペスタナパレスはすばらしかったです。郊外にあり、広大な庭のあるお城のようなホテルでした。ただ、毎朝でる朝食のビュッフェはいまいち。果物がなぜかおいしくなかった...スペインのオレンジはあんなにおいしかったのに... それでもここのプールサイドで、サングリアを飲みながら寝転んでいた時間は「至福の時」でした。気候も最高で、ほんとに気持ちがよかったです。


宿泊したペスタナパレス・ホテルです。

 到着した日、ホテルのプールサイドでくつろいだあと、リスボンのセンター、バイシャ地区の方へ食事に出かけました。


そして地元のおいしいモノを食べようと、できるだけ観光客があまり行かないようなレストランを探して_。
 
こんなレストランを見つけました。ブロークンな英語で「5分待ってね」で、待たされること30分。ようやくテーブルに案内されてメニューを見ると、

こ~んなかんじ。ぜ~んぶポルトガル語。英語のメニューもなし。観光客の行かないレストランを探したワケだから、当然といえば当然なんだけれど、何をたのんでよいやら皆目検討もつきません。ヨソのテーブルを見て、レストランで唯一英語ができるウエイターさんに、「あれは何?」と聞いたり、Iphone のGoogle translateを使って調べたりで、かなりの時間をついやしてようやく注文。


うさぎとあさりのナンチャラ、とか、けっこう不思議な取り合わせのお料理たちでしたが、まぁまぁの味でした。

 

 


グラナダ -アルハンブラ宮殿-

2010-09-13 | 旅行



グラナダ最後の朝、アルハンブラ宮殿の見学です。個人ツアーのガイドさん(これも国営です)アルフォンソさんとホテルの入り口で会って、いよいよ宮殿へ。

 

ほんとうに美しい宮殿でした。シェラネバダ山脈からの雪解け水を利用して、宮殿のいたるところに水が流れていたようです。それも自然の水圧を利用して宮殿内に水を引き込み、あちこちに池や噴水を作っています。部屋の中にも水の流れがあり、なんとトイレも水洗だったとか.... 水はその頃、豊かさの象徴であり、権力を現していたそうです。

他国の使徒たちと会った接見の間で、この真ん中の部屋が王座だったそうです。後ろから光が入って、王を照らし、会う人には王の姿だけで顔などが見えない工夫がされていたそうです。



部屋の中の水盤と水路。美しい天井。昔はステンドグラスだったそうです。


一番期待していた12頭のライオンの中庭のはずなのですが...なんてことか、工事中だったのです。それで、こんな写真しかとれませんでした。あ~あ...また来なくっちゃ!


建物の外は水を利用した美しい庭が続いていました。


ざくろがあちこちになっていました。グラナダはざくろという意味で、シンボルでもあるそうです。


宮殿の北にヘネラリーフェという広大な美しい噴水庭園があります。そこの奥にある宮殿は夏の別荘として使われていたそうで、水と風をうまく取り入れて、室内が涼しくなるような工夫がされていたそうです。

とても美しい庭園でした。ここでグラナダ出身の作曲家ファリャが「スペインの庭の夜」を作曲したのだそうです。今ヒューストンに帰って来て、この庭を思い出しながら、ファリャの幻想的なこの交響詩を何度も聞いています。
あの宮殿の中で、あの庭で_いったいどんな人々がどんなふうに暮らしていたのだろう... 王位継承問題ではかなり血なまぐさい事件が続いたということですが、あの美しい宮殿を見ると、どうしてもロマンを想像してしまいます。もう一度訪れてみたいところです。
それにしても_ エジプトでも思ったことだけれど、昔の人たちってホント賢かったのねぇ。その割には、それから何百年も経った今、思ったほど進歩してませんね... 人類の歴史ってどこかで空回りしている部分があるのね、きっと... 


グラナダ “パラドール・ド・グラナダ”

2010-09-10 | 旅行


バルセロナをあとにして、今回の旅の最後の地、グラナダに向かいました。
グラナダでは、この旅の一番の楽しみだった、アルハンブラ宮殿(地元ではアランブラと発音していました)の中にあるホテル“Parador de Granada”に泊まりました。宮殿の中にホテルがあると聞いて、なんとしても泊まってみたいと思い、インターネットを駆使してなんとか予約を取りました。国営のホテルと聞いてちょっと驚きましたが、予約のやりとりもとて迅速で、フラメンコのお店などを聞いてもすぐに返事をくれるなど、なかなかのカスタマーサービスでした。ホテルは、確かに古い建物、正確には歴史的建造物を利用していますが、中は古さを残しながら、モダンなインテリアをうまく溶け込ませて、シックなとてもすてきな内装になっていました。泊まっていて、とても気持ちのよい、居心地のよいホテルでした。
 

もともとは宮殿の一部だったものを15世紀にカトリックに制覇されてから、修道院として利用されていた建物のようですが、中庭もとても美しく、心静まる空間でした。
 

この日はグラナダの街をまわるツアーバスの乗ったあと、夕方サン・ニコラス展望台に行き、赤く夕日に染まるアルハンブラ宮殿をながめ(アルハンブラとは赤という意味なのだそうな)、しばしロマンチックな時を過ごしました。


その後、いそいでホテルに引き返し、ホテルにある、美しいテラスのレストランで夕食をとったあと、ホテルお勧めのフラメンコを見に行きました。
宮殿とは反対側の山の中腹にあるそのお店は、あまり大きくはなくて、洞窟を利用したものでした。生まれて初めて目の前で見たフラメンコ、情熱的な踊りだと聞いてはいましたが、曲そのものは、歌も声もメランコリーなのに、その激しいステップとギターの音は、振動として体に伝わってくるほどで、男性の踊りでは、ステップで床に火花が飛び散るほどのすごい迫力でした。
夢中になって踊りにひきこまれているうちに、グラナダの夜はふけていきました...


バルセロナ その3

2010-09-08 | 旅行




3日目のバルセロナはピカソ美術館へ。
 
こんな道を通って行くと、ピカソ美術館があります。よ~く気をつけないと、通り過ぎてしまいそうなくらいのじみ~な表示ですねぇ。もちろん中は撮影禁止。
 
中庭のようなところからピカソの作品が見えます。
このピカソ美術館にはピカソの初期(十代)の作品がけっこうあるのですが、あまりにも成熟した作品で驚きました。いろいろなアーティストの影響を受けながら彼の作品が変化して、ピカソらしい彼だけの作風を確立していった様子がとてもよくわかりました。こんなにいろいろなピカソの作品を見たのは初めてです。
このあと、若き日のピカソや当時のアーティストたちが集まっていたというカフェ「4Gats」があるというので、行ってみました。
 
なかなかシックな店内で、しかも食事もとてもおいしかったです。


カテドラルの前を歩いていて、ふと見上げると、大きなピカソの壁画が_。

4日目、この日の早朝に、残っていた娘が一人でヒューストンに帰りました。そして私たちは、いよいよサグラダ・ファミリアへ。






見れば見るほど不思議な建物です。圧倒的な存在感で目の前に建っていました。もう「スゴイ!!」としか言えません。ここの地下にはガウディの設計アイディアなどが展示されていますが、それもまたとんでもなく奇抜。エレベーターで上まで行き、階段でおりてきました。


 途中から階段はこんな螺旋階段になります。

 
まだまだえんえんと工事は続いています。20年後くらいには完成予定なんだそうな... 工事が終わってクレーンがとれたすっきりした姿を見てみたいものです。20年後ねぇ... 


地下の作業スタジオで外尾さんがもくもくと仕事をしていました。


バルセロナ その2

2010-09-07 | 旅行


2日目の早朝、娘の一人がボストンに帰りました。そして、この日、私たちはレンタカーでバルセロナから車で2時間くらいのところにあるというBesaluという街に行く予定でした。ところが、ホテルにやってきたレンタカーは新しいホンダのシビックなのですが、なんとオートマティック車ではなく、スティックシフトのマニュアル車ではありませんか!!これにはさすがの夫もびっくり。「こんなの学生の時以来だよ~」と言いながらも運転席へ。今回国際免許証を持ってきたのは夫だけだったのです。ホテルの前の道から「いざ出発!」と思ったら、即エンスト。え~、Besaluに今日中にたどりつけるのかなぁ~、と不安に思いながら、なんとか道路に出て、なんとか出発。ところがナビがない!!ホテルでもらってきた地図で私がなんとかナビしながらようやく高速道路に出て、一安心。でもねぇ、国が違えば道路標識も違うのです。乗り換えの道の案内は当然でているものだと思ったら、出てないのです。あっという間に行き過ぎて、気がつけばフランス国境まであとわずか_。「わぁ~、フランスに行けるんだぁ」と言いながらUターン。しかたなく最後の切り札でIPhone登場。海外のローミングは極力避けていたんだけれど、こうなったら仕方ありません。IPhoneで娘にナビをしてもらってようやく目的地のBesaluに到着しました。


Besaluの街はまるで中世の時代にタイムスリップしたような、そこだけが昔のままのたたずまいを残している街です。でもそこにフツーに人々が暮らしているからびっくり。馬に乗ったよろいを着た中世の騎士がそのへんの角から現れてもおかしくないような、映画のセットのような街なのです。


見る分には素敵ですが、住むにはいろいろと不便もあるのだろうなぁ、と想像しますが、見ていると、古さをうまく利用して、美しく暮らしている様子。暮らし方が上手なんだなぁ。


手作りイベリコ豚のハムやソーセージ、うさぎの肉などを売っている肉屋さん。

この橋が13世紀くらいからこの街を外界から守ってきた砦のような存在のようです。この橋を渡ったすぐのところに素敵なレストランを発見。

川にせりだしたテラスの上、大きな木が木陰を作っていて、とても涼やか。お料理もとてもおいしくて、もう一度訪れてみたいステキなレストランでした。


帰りもどうしたものやらバルセロナへの道を通り越して西へ西へと_。再び娘にIPhoneでナビをしてもらってなんとか帰ってきました。いやぁ、IPhoneってやっぱりすぐれものです。


バルセロナ

2010-09-07 | 旅行

アムステルダムを後にして親子4人(娘のボーイフレンドは、一足先にアムステルダムからボストンに帰っていきました)、バルセロナに向かいました。バルセロナでは、日本から来た友人夫妻と合流してさらににぎやかなたびになりました。
初めてのスペイン、初めてのバルセロナ。まずは乗り降り自由なツアーバスに乗って街の北側をひとまわり。
 

ヨーロッパの街は、ほんとうにどこの街もしっかりと歴史を背負っていて美しい。バルセロナの街は、そんな美しい歴史的なたたずまいの多い景色の中に、ガウディの不思議な建物が不思議にマッチしてしまっている街でした。
 
 
ガウディの作品ーガルシア通りにあるカサ・ミラ(左)とカサ・バトリョ(右)



ガルシア通りには、こんな素敵な街灯がならんでいました。

スペイン風におそ~い昼食を食べて、午後はグエル公園へ。



もともと住宅街を作ろうと、ガウディがパブリックスペースの建設を手がけたそうなのですが、住宅がまったく売れなくて、モデルハウスをガウディ自身が買い取って住んだのだそうです。結局住宅地にはならずに、こうして公園になっていますが、これが住宅街だとしたら....なかなか不思議な世界だったことでしょう。
  
不思議な道がゴルゴダの丘の方へ行く途中にあります。


街の市場を想定して作られた広場なのだそう... いやぁ、ガウディってスゴイ!! 

 

 

 

 


アムステルダム

2010-09-05 | 旅行

夫の学会をかねてアムステルダム、スペインに行って来ました。
今回は、娘たちもそれぞれ途中から合流して、久しぶりの親子旅行になりました。
アムステルダムは運河の街。ボートも利用できるし、電車も通っているので、けっこう動くのには便利です。旅行者用の、美術館や交通機関のチケット、いろいろなクーポンを含めたI-amsterdamという便利なセットもあってお得です。

初日はまずはアムステルダム国立博物館へ。
  
とにかくここアムステルダムにはミュージアムがたくさんあるので、それを全て見て回ろうと思うと大変です。私はゆっくりと時間をかけて見る方なので、一日に一つのミュージアムを見るのがせいいっぱい。2年前に来た時はこの上の写真の「牛乳を注ぐ女」(フェルメール)が貸し出し中で見られなかったのですが、今回はもどってきていました。でも、「手紙を読む青衣の女」(フェルメール)が修復中ということで、みられませんでした。とはいえ、レンブラントの大作などがずら~りとならび、集中して見ていると、めまいをおこしそうなくらいの量の作品がならんでいます。


ホテルのすぐ前の道で、こんなに大きなミュージックボックスがちょっと昔懐かしい音を奏でていました。


私たちと同じ日に到着した娘の一人とそのボーイフレンドと共にハイネケン・ビール・ミュージアムにも行きました。1時間ほどのツアーのあと、ビールを試飲して、そのあとは一人2杯ずつビールが飲めるという、ビール好きにはたまらないツアーです。娘のボーイフレンドは、私の分と、カウンターでおまけをもらって合計5杯のビールを飲んでごきげんでした。
翌日は、ロシアのエルミタージュ美術館のアムステルダム館で特別展"Matisse to Malevich"をやっているというので、そこにも行ってみました。

広い芝生の庭に静かにたたずむ比較的小さな美術館のように見えましたが、中は明るく、カフェテリアもなかなかモダンな造りになっていました。
今回の特別展、マティス、ピカソなどを含めたものすごい数のモダンアートの作品がきていました。ロシアにあるエルミタージュ美術館がどれほどの収蔵品をもっているのかを垣間見た気がしました。サンクトペテルブルグという街、行ってみたいものです。


それにしても8月末だというのにアムステルダムはすでに秋の気配。滞在中雨が降ったりやんだりで、街は皮のジャケットやブーツの装いの人が多く、ヒューストンから行った私にとってはかなり寒く感じました。それでも花市はどうしても見に行きたかったので、雨の中、行ってきました。

前回来た時は11月だったのですが、そのときでもこの花市は花であふれていました。夏はどんな花があるのかとても楽しみだったのですが、やはり本当に色とりどり、美しい花たちがならんでいました。もって帰りたい衝動にかられるほど、美しいブーケや見たことのないような花たち。この花市はきっと年中、こんなふうに花がならんでいるんだろうなぁ。いいなぁ、うちの近くにもこんな花市があるといいのに...

最後の日はようやく学会から解放された夫と「アンネ・フランクの家」を訪れました。子供の頃に読んだ「アンネの日記」。15歳でユダヤ人として強制収容所に入れられ、その中で死んでいった少女。彼女の家族ら8人が2年間、密告によってつかまるまで隠れ住んでいたという家は、にぎやかな通りからちょっと入った運河に面したビルのような建物の中でした。本当にせまい限られた空間の中のアンネの部屋には、今でも彼女が壁にはった、当時のスターや、スティっカーがそのまま残されていました。ヒトラーが権力を握るまでは幸せだった少女。にっこりと笑っている、かわいらしい少女の写真がいつまでも心の中に残りました。
この日の午後は、前日にようやくアムステルダムに到着したもう一人の娘を含めて5人でゴッホ美術館に行きました。
4日間のアムステルダム、アートの世界にしっかりと浸ることができました。でもそれでもまだまだ時間が足りないカンジ...

あ、そうそう、アムステルダムで気がついたこと。タクシーの値段が非常にいいかげんです。街の問題にもなっているらしいのですが、「乗るときはタクシーの上にTCAというマークがついているタクシーに乗りましょう」、と街でもらったチラシにものっていました。皆さん、アムステルダムに行ったら気をつけましょう。

 


サンタフェ - ニューメキシコ

2010-07-30 | 旅行


先週末、サンタフェに行って来ました。残念ながら、滞在中ず~っと降ったりやんだりの雨模様。時には落雷を伴ったものすごい勢いの雨で、サンタフェ周辺の、もとネイティブ・アメリカンの住居跡のあたりは地盤がゆるんでいるので危険、ということで行けませんでした。もともと雨が少ないサンタフェではこんなに降るのは珍しいことらしく、地元の人たちは「恵みの雨」と喜んでいるようでしたけど...
それにしても、ヒューストンから飛行機で2時間弱でニューメキシコ州、アルバカーキーに到着し、そこから車で(サンタフェには空港がありません)1時間くらいでサンタフェに到着するのですが、同じアメリカとは思えないくらい景色が違います。気候と土のせいのようですが、まるで外国です。


こんな景色の中をアルバカーキーからサンタフェまで1時間ほど走ります。

サンタフェの街は赤土の色と自然の緑と花々がとてもよくマッチしていました。それにしても建物が不思議。

普通の民家もほとんどがこういう造りでした。赤土で囲まれています。そして窓枠の青が鮮やか。






根の生えた木を利用した彫刻。

そして、この街にはジョージア・オキーフの美術館があります。

彼女の絵は見たことがありましたが、ここで彼女の人生、彼女の目指したものを知り、もっともっと彼女が好きになりました。

オキーフの美術館だけではなく、ここには他に、ものすごい数のアートギャラリーがあるのです。とくにキャニオン・ロードという道沿いには70軒以上のギャラリーが並び、それぞれのギャラリーが個性的に入り口を飾っていて、この通りを歩くだけでも楽しい。そこはもう現代アートの美術館のようでした。

 

 
我が家のために、一点くらい素敵な絵を見つけたいと思ったのですが、これだけ多種多様のアートを続けて見ると、飽和状態になってしまって、自分が欲しいものがわからなくなってしまいました。あ~残念!!今思えば、よかったなぁ、と思う絵があったのよねぇ。「そのうちに、おこずかいをためて、彼女の絵を買いに行くためにサンタフェに行こう」、サンタフェはそんな気持ちにさせてくれる、不思議な魅力のある街でした。

ドイツ・ベルリン2

2010-06-05 | 旅行


ベルリンの壁が崩壊されたのは1989年、21年まえです。ちょうど我が家がはじめてアメリカに来たのもこの年で、ベルリンフィルのカラヤンが亡くなり、代わってアバドが就任した年でもあり、我が家にとっても、歴史的にもとても印象的な年でした。
戦後ドイツが東西に分割され、ベルリンも東西に分割され、東から西へと亡命する人を防ぐための壁ができました。自由を求めてその壁を越えようと命を落とした人がどれだけいたことか... 21年前まで、ベルリンはしっかりとあの戦争をひきずって、ずーっと傷ついたままだったのねぇ。日本では戦後、自由を謳歌し、戦争、敗戦自体を忘れよう、忘れようとして、戦争という話題そのものさえできるだけさけられてきたというのに、同じ敗戦国のこの街の人たちは40年以上もずーっと向き合って来ていたんだ...。もしかしたら、もしかしたら、日本にだってこの壁は存在したのかもしれないのヨね... 


西側の壁に描かれたアートたち


爆撃によって破壊された教会がそのまま街の中に残っていました。塔の上の時計の一つだけが今でも正確な時間を告げています。

ベルリン・ドイツ

2010-06-02 | 旅行


カイロ滞在の後、フランクフルト経由で帰る途中、フランクフルトからベルリンに向かいました。そして夫の長年の夢であった、ベルリンフィルハーモニーをベルリンのコンサートホールで聴いてきました。
上の写真の黄色の建物がシンフォニーフォールです。1969年に建ったというカラヤン・サーカスと呼ばれたこの建物はかなりモダンな建物で、街の景観にはあまり溶け込んでいないように見えます。今でもそうなのですから、建った当時はきっと際立って目立ったことでしょう。でもその外見とは異なって、音響効果はすばらしかったです。


 
シンフォニーホールの前の通りの名前はHebert von Karajan 通り。そして私たちが泊まったホテルの前の通りはHans von Bulow通り。これらの通りに立っただけで夫はもう大感激。
コンサートはバルトーク、グリエール、スクリャービンと私にとってはあまりなじみのない曲ばかりでしたが、さすがにベルリン・フィル、昼間の観光で疲れて朦朧としそうな私をしっかり覚醒させてくれるような演奏でした。とくにグリエールのホルン・コンチエルトはとてもメロディアスで美しく、ホルンってこんなにソフトで軽やかな音だったかしら、と驚くばかりでした。天才的なホルン奏者Radek Baborakのなせる技だったのでしょうけれど、本当にすばらしい演奏でした。あの音は今でも耳に残ってはなれません。翌日も同じ曲目のコンサートがあったのですが、なぜもう一度行かなかったのか、今ものすごく後悔しているところです。