PLANET LULU GALAXY!

ルルの日記

お花を保つ事💐

2022-05-31 13:36:00 | 家庭
金曜日に買ってきたお花(Friday I'm in Love🌼🎸🎵)




今日のお花(ガーベラ脱落(´・ω・`))
 
切り花💐は買ってから、すぐ水の中🔵でハサミで切ると、持ちが良くなるみたいだから、今度から真面目にその作業しよう。。。(決心)
 
駅近のお店で買って、お花持ちながら駅から歩いてきたので、温まっちゃったのもあるかなー💭🐈🐾
 
特にガーベラ🌼は、持ちが良くないので、注意が必要みたいです💭(まだまだ修行中🧘‍♀️)
 
梅雨時だし、色々工夫🌈
 
お花を保つ事💐
 

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kiokuとongaku

2021-03-20 10:39:54 | 心象風景

perspective

 

2016年の春、るらちゃん⁽⁽ଘ( ˊᵕˋ )ଓ⁾⁾に教えていただいたongaku

 

(ひたすら日常のシーン🎞(日々の動作)を羅列、繰り返してる歌詞なのだけど、)何気ない日常の中に在ることの、それを繰り返すことの奇跡と尊さを強く感じる曲🎼(そして、深く癒される曲)って、Side るらちゃん(意訳かもしれませんが。。🙏)

 

九州大きな地震が起こった時(その後、長らくチャットで往復書簡してて…)、お話ししてたこと(kioku

 

切なくのぼりくだりする不協和音と不穏さ不均衡さ(綱渡りのような危うさ、スリル)を醸しながらギリギリのバランスを保つ(安心感と平穏を感じる音に戻る、そのループを繰り返す)…美しきmusicircus🪐


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セラピー 右脳解放タイム

2018-07-15 00:54:00 | 心象風景

因みに、只今右脳解放タイム🧠🌓

 

脳内の健全さを保つ試み(今日もたくさん作業をしたので、お疲れセラピー✨)


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Francis Picabia

2018-06-25 15:15:01 | アート

Francis Picabia

 

フランシス・ピカビア関連の動画を探してみてます🔭

 

(この一連の動作は、わたし自身が、こころの健全さバランスを保つために、不可欠なのだとおもいます。。。 イメージ脳解放


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温かい石の温度を保つこと

2017-03-19 14:18:11 | 事象への想い







うさぎのモフィ🐰🐇🌼のクリアファイルに入れて持ち歩いてる🐣、駒沢敏器さん「詩は温かい石のように」・・・❤️


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6月のヘアサロンと鳥かごのパウダールーム...

2015-06-26 14:48:03 | おしゃれ&美容

昨日は、去年の6月から通い始めたヘアサロンに今年の2月ぶりに行ってまいりました

 

これは、サロンに入る10分前、東急の鏡にて〜〜

すぐに髪を解けるように、横でひと束三つ編みです

ワンピ、美容師さんに、水族館っぽいですね〜〜って気づいていただいて嬉しかった(プリーツの中に人魚姫柄が隠れてます〜〜〜 おしゃれになかなかお金をかけられなくても、工夫しだいでなんとかときめく気持ちになりたい〜〜 プリティインピンク的に・・・)  暑いのでタイツはしばしお別れで、ゴールドラメのシースルー靴下(横にローズ色と青色の花模様・・・)を・・・  靴下使いを学びたい今夏です 生足に自信がないので(だからついついタイツを履いてた...)、ボディショップのはちみつの香りのボディバターで最近毎夜マッサージしてます

 

今回は、ヘアカットと内部から浸透させるトリートメントをお願いしました トリートメント、カモミールとゼラニウムの香りが癒される感じ・・・

 

前髪は、今回も前回と同じくラウンド型にしていただきました

 

ヘアサロン後、キラリナにて・・・  髪に天使の輪が戻りました ホームトリートメントを三袋いただいて帰ってきたので、一週間ごとにトリートメントしてツヤを保つのがんばります

 

 しかし、キラリナのパウダールーム鳥かごデザイン)で写真を撮ると、ソフトフォーカスっぽくなって、アラが隠れて良いです(でも、角度が... 短足に見えるetc...からヤダー もっと写真マジックのテクニックを身に付けたい。。。 〈私なりの..〉自分磨きも限界灘までがんばるけどーー

 

鳥かごのパウダールーム、居心地良いからか、そこそこ混んでた(3人ほどが長居してる感じ... 以前女子高生がそこで勉強してるのを目撃したーー 昔、Kちゃんと新橋のホテルのパウダールームで長居していた思い出を懐かしく想い出す・・・)ので、恥ずかしくて(←自意識過剰 長年そうだけど...)ササッと撮ってすました顔で出て行きましたー(なんとか、その都度を記録したいので撮る。。。)

 

その後、ダンナさんと待ち合わせして、サンマルクでアプリの案件とって稼いだり、 靴下屋でタイツ二種(色はアンティークローズとチャコールグレー)を買ったり(タイツしばしお別れだったのでは。。 でもあると安心 セキュリティタイツ〜〜)、週末のお食事会のためのお土産を買ったり、美味しいサムギョプサルを食べてマッコリ飲んで、歩いてお家に帰りました(そして、お風呂に入って歯の手入れをしてから爆睡

 


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それぞれのキャラクター

2014-09-29 15:34:28 | 心象風景

・・・それは“お互い”でしょうが・・・(←他者にファンタジーを持ちやすいところ... エンターテイメントとかはファンタジー商売なので、ファンタジーを保つのがプロ意識かなー?とは思う。 素顔が素敵だったらなお惚れるけど。。。←勿論私にとっては見てくれ、というより“優しさ”や“持ち味”や“フェチ要素”重視。。。←個人的な趣味=“好み”)

 

それぞれのキャラクター、人間性をみれば良いのだと思う...

 

そして、それを尊重する... 

 

なかなか難しいことだけど...(特に、私、トンチンカンですし。。。)

 

仙人魔法使いになれるぐらいまで努力しないと...


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翼はいらない

2014-08-26 15:21:01 | 映画

"In The Clouds" Clip - Maleficent

 

私自身は「羽なんかいらない」って境地に行けるのが目標...  姿が変わっても何かをなくしても私は私、って思えるようになりたい。 

”を保つことが幸せだとは思わない... 今は・・・ 多分“愛”を知った(気付いた そして、思い出すことができた)から・・・


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草枕 一章 夏目漱石

2012-05-10 03:56:58 | 心象風景

青空文庫から・・・ ルビの部分はあとで(次の日)直します

 

 

山路を登りながら、こう考えた。
 

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
 

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自ずから心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
 

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖れば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

 

余の考えがここまで漂流して来た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石の端を踏み損くなった。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足が、仕損じの埋め合わせをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上に卸おりた。肩にかけた絵の具箱が腋の下から躍り出しただけで、幸いと何なんの事もなかった。

 

立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。杉か檜か分からないが根元から頂きまでことごとく蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続ぎ目めが確と見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼る。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋うずめている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然している。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路はすこぶる難義だ。
 

土をならすだけならさほど手間も入いるまいが、土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩した土の上に悠然と峙って、吾らのために道を譲る景色はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所でさえ歩きよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿くって、その頂点が真中を貫いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉わたると云う方が適当だ。固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。
 

たちまち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入いって、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
 

巌角を鋭どく廻って、按摩なら真逆様に落つるところを、際どく右へ切れて、横に見下ろすと、菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。

 

春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
 たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。

  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想い、籠るとぞ知れ」
 

なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲しみも多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
 

しばらくは路が平らで、右は雑木山、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英を踏みつける。鋸のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座している。呑気なものだ。また考えをつづける。
 

詩人に憂いはつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。
 

しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。ただこの景色が――腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。

 

恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 

これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
 

それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。
 

苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

 

うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 

二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛うかべてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人ひとり絵の具箱と三脚几を担かついで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間までも非人情の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。
 

もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募ってはおらん。こんな所でも人間に逢う。じんじん端折の頬冠や、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。

 

ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第みようしだいでいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情三分芸七分で見せるわざだ。我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞いをするからである。

 

しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組みと能役者の所作に見立てたらどうだろう。まるで人情を棄すてる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、また雲雀や菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似まねをするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支えない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気げなしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。
 

ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂もたれ懸かかっていたと思ったが、いつのまにか、崩れ出だして、四方はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾とくに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃こまやかでほとんど霧を欺あざむくくらいだから、隔へだたりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の裾と見える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
 

路は存外広くなって、かつ平らだから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらわれた。

 

「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡れたね」
 まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画のように雨につつまれて、またふうと消えた。
 糠のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋ごとに風に捲かれる様までが目に入いる。羽織はとくに濡れ尽して肌着に浸み込んだ水が、身体の温度で生暖かく感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行あるく。
 

茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏まれる。有体なる己れを忘れ尽つくして純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲煙飛動の趣も眼に入いらぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。蕭々として独り春山を行く吾の、いかに美しきかはなおさらに解せぬ。初めは帽を傾けて歩行た。後にはただ足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。非人情がちと強過ぎたようだ。


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歯科治療完了♪♪♪

2010-07-31 16:06:42 | 心象風景
おとといで12月からせっせと通った歯科治療が完了☆☆☆

見違えるように綺麗になりました(ダンナさんも同じこと言ってくれた~~

もう鳥山明のドラゴンボールの悟空のように口の中を大写しされても大丈夫なくらい歯の奥まで綺麗になりました~~~ ビックリ
!!!(と、口の中の細部まで描かれた鳥山明の描くキャラの画像を探して1時間くらい無駄にしてしまった。。。←アホ過ぎ 結局無かったヨ~~~

あとは定期検診(3ヶ月ごと)でまめに細部をチェックしていただいて、自分でも綺麗に保つよう心がけようと思います☆☆☆

ドラゴンボールが無かったから??またまたゴールディ~~



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強くて怖くて激しくて疾走するパンクNo.1

2007-01-24 09:36:39 | 音楽
sandさま、chitlinさま、コメントをありがとうございます~!(お二方ともめちゃくちゃお詳しいですね。。汗汗)
お返事もう少しお待ちください~~m(__)m


今日の朝、疲れ果てたダンナさんが、なぜかパソコンでずーっとボブ・マーリイを聴いていた・・。

そして、「ルルちゃん、レゲエバンドやりたいねぇ・・。」とシミジミとつぶやく・・。


・・私の頭の中では、起きた時からデッドケネディーズが流れてる感じなんだけど。。(^_^;)


んで、「ハードコアレゲエバンドだったらやるよ。バッドブレインズみたいな感じの・・笑」と返す・・。


癒されたいモードのダンナさんと、疾走モードのワタシ・・汗


一番激しくて怖くて強くて早いパンクは“デッドケネディーズ”だ!!
とそういえばこの前言った覚えがあるけど、(・・早い・・というよりも“重い”かな・・??)
この人たちを忘れてた・・!
メンバー全員黒人のこの人たち、“バッドブレインズ”を見たときはほんと驚いたなぁ・・。(19歳頃)

複雑なリズム、転調を繰り返しながら疾走感を保つ・・。

そこには私の“理想”があった・・。

その時点で、私の中の一番怖くて強くて激しくて疾走するパンクNO.1はバッドブレインズに決まったーーー!!!!

Omega Sessions
Bad Brains
Victory

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Bad Brains - I Against I
↑途中で何度も転調を繰り返す・・(一分過ぎまでゆっくり目だけど辛抱強く〈?〉聴いててください~~それは序章・・助走なのであった。。汗汗)途中でメロコアっぽくなったり・・、一曲でいろいろ複雑な味を楽しめる・・!!Bad Brainsは元々ジャズ・フュージョンバンドだったらしいけど、ロンドンパンクの影響を受けてこうなってしまったみたい・・



・・・ちょっと息抜きしにダンナさんと水族館に行ってきます。。

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孫びんと項羽

2006-09-22 18:13:07 | 事象への想い
〈昨日書いたものを、迷った末に出すことに決めました。これをアップすることで吹っ切れてコメントのお返事他させていただくような心境になれれば良いのですけど・・・。〉



失礼な人に悪意か善意か分からないが(いや、間違いなく善意ではないというのは解っていますが..)、明らかにこちらのサイトを茶化した文中リンクを貼られても手を出せない状態。(アクセス解析でわかりました。)
私が苦しかった時代に心の支えだった文化人のサイトは心ない人たちの言葉で埋め尽くされ炎上中。

ここにおいて救いになるものはなにか?と考えをめぐらせて脳の中を探り出す。

思い出したのは中国の歴史上の人物2人。

小学校4年生の頃、私は検査のため一週間ほど入院したことがあるのだけど、その時に(ベッドで読むようにと)父が買ってくれた歴史マンガが今に至っても私の人生の手助けになってくれているというのが不思議な話・・・。
父が買ってくれたのは、小学館の「日本の歴史」シリーズと、中央公論社の「世界の歴史」シリーズ、「世界の偉人」シリーズ、そして、「中国の歴史」シリーズ。中央公論社の歴史マンガシリーズは、漫画家の手塚治虫氏が監修を手がけていました。
手塚氏の「“歴史”とは年表ではなく、その時代に生きた人間ひとりひとりの一生のことをいうのだという想いに基づいてこの本を作った。」というあとがきを思い出しますが・・・。

中国の歴史シリーズに取り上げられた中国の歴史上の人物は、三国志の主人公達(劉備、張飛、孔明、関羽)、チンギス・ハン、三蔵法師、楊貴妃、西太后etc.
その中で今回思い出したのは、中国に生きた軍人である孫びんと項羽のこと。(中国の歴史上の人物で、私が一番好きな2人でもあります。)

中国の兵法家孫びんは、彼の才能に嫉妬した親友に裏切られ、無実の罪により足切りの刑(ひん刑)に処された過去を持つ。
両足を膝あたりから切断された孫びんは、持ち前の能力+裏切られた憎悪、復讐に向かう勢いにより、兵法家として頭角を表してゆき13年後には彼をおとしいれた相手に対して私刑という形ではなく、国を率いて復讐相手率いる国との闘いに勝つという自身の能力をフル活用&誇りを保つやり方で復讐を遂げる。(ここで孫びんに“闘いにおける倫理観”というものが宿っていることが分かる。)

子供心にこの話は私の心に深く刻み込まれ、“親友に裏切られる”という、人生の“酸い”の部分を同時に知りショックを受ける。卑怯な手により両足を失ったのにもかかわらず、人生を諦めることなく、その知恵と信念により強く生き抜いた中国の兵法家を私は本当に尊敬している。

同じく、中国の歴史上の人物、項羽のことも思い出す。
残虐な将軍として秦(しん)にその名前を轟かせ、のちに秦を滅ぼした項羽だがその死に方はすさまじい。
四面楚歌という言葉はここから生まれたのだけど、項羽を追い詰めるために、敵の宰相劉邦は項羽の軍を取り囲み、兵士等に“楚”の歌を歌わせ「すでに敵に取り囲まれている」という心理的に追い詰めるという戦略を実行。
項羽は愛妾である虞美人を涙を流しながら自らの手で殺して、数多くの敵に一人で立ちはだかり、のべ数百人(ここらへんは伝説だとは思うのだけど...)の敵を、その大男はたった一人でばさばさと斬り殺し、自身も方々から刺しつらぬかれてバラバラになり果てた。

数百年後の島国日本に生まれ、主婦である(つまり平和の元に在る)私がこの2つの物語から学ぶものは、世界は残虐な部分を持っているということを、誠実に悟ること。
そして、足を切られようと、体がバラバラになろうと、人間の想念というものは誰にも侵されるものではないのだと強く想う。

・・・もう少し柔らかい考え方はあるかもしれないけど、とりあえず今私の頭に浮かんだのはこの2つの歴史上の物語。
人の心に宿る、強靭な精神を信じたい。
強い心を持って欲しい。誰にも侵されることのない・・・。
それが今の私の希望。
起こってしまった、無秩序、暴動、集団ヒステリー、悪意の渦の中にあっても、つぶされず強く在ってくださいm(__)m
私も自分の信念の元に強く生き抜こうと思います・・・。
 
それと、悪意あるものに対しては“闘いにおける倫理観”を用いて対応したい。




〈・・・感情に任せて書いたようなところがあり、(ちょっとオヤジっぽくもあり・汗)恥ずかしい文ですが、感情の揺れを記録するために、それと今苦しみのさなかに在る方が元気付けばいいな..という祈りもこめて、出すことにしました・・m(__)m〉



〔参考文献〕

中国の歴史シリーズは、今文庫化されているみたいです。実はこの項羽の見てくれ(左側デス)に魅かれたというのもあったりして(・・・漫画なんですけどねいやぁ、この作画家さんの描く絵がものすごく個性的で魅力的でした・・)

「史記」の人物列伝

学陽書房

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↑私が持っている孫びんと項羽が載っている本です。もう一度読んでみたい・・

項羽と劉邦〈下〉

新潮社

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↑うちのダンナさんも好きな司馬遼太郎の「項羽と劉邦」。なぜか画像は下巻しかありませんでした・・
こちらも読んでみようかしら・・
コメント (2)
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