パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年12月20日

2020-12-20 21:31:03 | 日曜礼拝
本日の礼拝ビデオ
説教後の聖歌までの記録となっております。ご了承ください。

聖書箇所;ルカ1章30節ー38節
説教題:おことばどおりにこの身になりますように

導入)
  今日は、第四アドベント日曜日です。アドベントという語は、「来ること、到来」という意味が有ります。イエス・キリストの降誕と同時に再臨にも思いをはせる期間と言えます。また、これらの二つが、私たちの人生の歩みにおけるキリストの働きに対する期待について考える時でもあると言えると思います。
  ルカによる福音書は、四福音書の中で一番キリストの降誕に関する記述が詳しいものです。それは、一つには、神が人となって生まれたなどという話は神への冒涜であると考えるユダヤ人を説得するためであったと思われます。また、教会には、イエスは神の子であるが、霊的存在である神が下位の肉体を持つ存在の人間として来たはずがないので、そう目に見えただけだなどという異なった教えを持ち込む者がいたので、それに対する反論の意味も有ったであろうと考えられます。
  さて、ここでは、天使ガブリエルとマリヤの対話の最後の部分に目を留めていきたいと思います。マリヤは34節で、「どうしてそのようなことになりえましょう。」という質問をしています。敬虔なユダヤ人の家庭に育ったマリヤは、神の能力を疑っていたのではなく、どのような方法でそれが可能なのかという疑問を持ったのだと考えられます。ガブリエルが説明した神の方法は、35節に有ります。神の霊である聖霊がマリヤに働きかけるのだということです。神の霊が働かれるならば、当然不可能なことはありません。ガブリエルはそのことを37節で語っています。この時のマリヤの応答の態度がアドベントの態度とも言えると思います。神の働きがマリヤに到来することを待ち望むことを承諾したのですから。私たちの生活の中に有る三つのアドベントに関わる態度を考えてみたいと思います。

本論)
1)旧約の聖徒が待ち望んだ事柄の成就を信じる
  神にできないことは無いということを心に留め、マリヤはメシアが彼女を通して人として生まれることを信じました。私たちも同じ信仰を持つのです。もしこのことを信じなければ、イエス・キリストの十字架の死は人類の罪の贖いの業とはなりません。私たちはまた旧約聖書に預言されているイエス・キリストの復活を信じています。復活が無ければ、イエスが救いの当事者であり神であることが否定されることになり、私たちの信仰は無意味になるのです。私たちは、神の救いの計画が完成したことを信じています。この信仰を持って、私たちはイエス・キリストが永遠の祭司として神の右の座について、私たちの為に執り成しをしてくださることを信じています。私たちは、イエスの最初の到来がもたらした驚くべき効果を信じています。このような信仰を保持していることが私たちのアドベントの態度ということになります。そのような認識を持って、私たちはクリスマスにイエスの最初の来臨を祝うのです。

2)イエス・キリストの再臨を信じ、待ち望む
  私たちが熱心に待ち望んでいるもう一つのアドベント、到来は、キリストの再臨です。その日が来れば、審判者として、キリストは私たちを神の民として御国に迎え入れてくださるのです。また、永遠の報酬を相続させ、キリストの栄光を楽しむことができるのです。私たちには天国での生活は想像がつきません。しかし、神の臨在と栄光の中で生きることが退屈であるはずがありません。好きな人や尊敬する人の傍にいると、時間が経つのが早く感じることはないでしょうか。あるいは、美しい風景を見て、いつまでも見ていられると思ったことはないでしょうか。天国はそれを遥かに超えたものなのです。 私たちにとっては、キリストの再臨は、そのように期待するものであり、楽しみにすることなのです。2ペテロ3章11節ー13節の記述には、「待ち望む」という表現が二回用いられていますが、英語ではlook forward to、楽しみにする、という訳が当てられる語が用いられています。12節には、その日を早めなければならないということが書かれています。使徒行伝1章7節では、その日は神がすでに決めておられるということをキリストは述べています。日が決まっているのであれば、私たちの力では早めることはできないのですが、どう理解したら良いのでしょうか。旧約聖書では、ヤコブがラケルに心を惹かれて結婚を申し込んだ時に、義父ラバンのために7年働くことが条件として出されましたが、その期待が強くて、ほんの数日のように感じたという話が有ります。そのような期待を持ち、楽しみして待たなければならないということです。そのような期待を持つ故に、私たちはまた聖く敬虔な生き方を心がけることができるのです。それが、私たちのアドベントの態度であります。そして、このような希望と期待は、キリストの最初の到来によってもたらされたのです。

3)日常生活への神の介入を信じ、待ち望む
  神にはできないことは有りません。その神は、昔話ではなく、今も生きておられる神です。そうであれば、私たちの日常生活にも神の介入を期待し、待ち望むことになるのです。私たちは、神の養いと助けを期待することができるのです。私たちは、必要な時に神の助を求めて祈ることができます。私たちは多くの祈祷課題を分かち合って、互いに祈りあっています。祈る時、私たちはどのような気持ち祈るのでしょうか。ただの気休めだと祈っているのではなく、聖書に書いてある通り、神は聞いてくださり、御心にかなった祈りには答えてくださると信じて祈っているのです。イエスは私たちに主の祈りを教えてくださいました。ヤコブは神を知る知恵を求めて祈るようにと勧めています。神は、繰り返し私たちに祈るように聖書の中で語りかけています。神の御心にかなえば、奇跡的な答えをいただくことも有るのです。私たちの祈りの課題には、膵臓ガンがかなり進んでいた兄弟のための祈りが有りました。当初は治癒の見込みはかなり薄いと思われたのですが、奇跡的に完治して、私たちの教会にも挨拶に来てくださるということが有りました。
  私たちは、神の答えが私たちに届く、到来することを待ち望んで祈るのです。それが、私たちのもう一つのアドベントの態度と言えるでしょう。もし祈らないのであれば、神に信頼を置いておらず、神の恵を経験することがないのです。

まとめ)
  クリスマスの前のアドベントの期間だけではなく、日々の生活の中でも、私たちはキリストの到来に思いを向け、また、神の恵と介入の到来を期待して歩むのです。神にはできないことは無いという信仰に固く立ち、アドベントの態度を保持して歩んで行きましょう。
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