パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年4月14日

2019-04-14 22:22:43 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ4章31節~44節
説教題:イエスの権威

導入)
イエスは故郷のナザレでは拒絶されましたが、引き続きガリラヤで宣教を続け、神のみ子としての力を証明し続けました。

本論)
31節)イエスは人々に受け入れられるガリラヤに戻ってきました。それで、継続的に安息日に会堂で教えていました。会堂で教えるということは、会堂管理者が受け入れないとできないことでした。イエスを受け入れるならば、継続的に福音に触れることができるのです。32節)イエスは神の言葉とも呼ばれます。イエスには神の言葉を語る権威が有りました。ユダヤ人の宗教指導者たちは、著名なラビの解釈を引用して教えることが多かったのですが、イエスはそういうことをせず、直接的に聖書の言葉を解き明かしていたのです。33節)会堂にさえ悪霊の影響を受けた人がいたということになります。ルカは異邦人に向けて書いていますので、ただの霊と受け止められないように、「汚れた」という言葉を添えています。34節)汚れた霊はの言葉は、イエスと関わりたくないということを示したものでした。「私たち」と言っていますから、二つ以上の霊が入っていたことになります。悪霊たちはイエスに彼らを追い出す権威があることを知っていました。悪霊はイエスを「神の聖者」と呼んでいます。それは、神の使者・預言者や大祭司を表す肩書です。イエスはそれに相応しい存在でした。35節)しかし、イエスがメシアであることは、バプテスマのヨハネの証言や、バプテスマの時の天からの父なる神の声等で証明済みですから、悪霊の証言などは必要有りませんでした。イエスは彼らを黙らせます。「黙れ」という語は、くつわを掛けるという語で、完全に制御される印象になっています。イエスの権威により、彼らは出ていく時にその人を投げ倒しましたが、害を加えることはありませんでした。36節)イエスの単純な命令によって悪霊が出て行ったので、人々は驚きました。ユダヤ人の霊的指導者も悪霊の追い出しをしたりしたのですが、自分の権威ではなく、過去の偉大な預言者の名前をあげたり、何らかの儀式を用いて追い出そうとしていました。時には、暗いの高い悪魔の名を用いたりしたそうです。しかし、イエスにはそういうものは何も必要がありませんでした。イエスのみ名の権威は、今日でも力を持っています。もし悪霊の働きや影響が有るのではないかと思えるようなことを感じる時には、ためらわずにイエスのみ名の権威によって去るように命じてよいのです。37節)こうしてイエスのうわさは広まっていきました。「うわさ」という語は咆哮という意味の有る言葉だということです。動物によっては、その咆哮は3、4キロ先まで聞こえるそうです。そのようにイエスのうわさは力強いものでした。「広まった」という語は継続的動作を表す形が用いられているということです。38節)イエスはシモンの家に戻りました。弟子のペテロの家ということです。ペテロのしゅうとめが高熱を出して苦しんでいたので、人々はイエスに癒してくださるようにお願いしました。それなりに高齢でしたでしょうから、高熱は場合によっては命取りであったかもしれません。39節)イエスは熱病に対して権威を行使されました。癒しは即座で完全でした。彼女はイエスと弟子たちをもてなしたことからもそれははっきりしています。40節)日が暮れてから人々が来るというのはどういうことでしょうか。昼間はイエスが会堂で教えられたのですから、安息日であったことがわかります。安息日には仕事をしてはいけなかったので、イエスに癒しを求めることは医者の仕事をさせることだと人たちは考えました。ユダヤ人は日が暮れると次の日になると考えていましたから、安息日でなくなった時間を見計らって来たということになります。イエスは一人一人の必要に合わせて手を置いて癒されました。41節)会堂の時もそうですが、悪霊はイエスに対して反抗的な態度を取りました。「あなたこそ神の子です」という言葉も敬意の言葉ではありませんでした。ですから、イエスはそれ以上の発言をお許しになりませんでした。私たちの心の中にもイエスや神に対する反抗的な思いが沸くことがあると思います。それを放置しておくことは好ましくありません、イエスのみ名の権威によりそれを退け、正しい聖書の教えを宣言することが必要です。42節)翌朝早く、イエスは寂しい所に出て行かれました。当時は皆が早起きでしたから、それよりも早く起きたのでしょう。また、家は密集して建てられていたということですから、朝の忙しさや騒がしさに気が散らないように寂しい所が必要だったと思われます。ルカはここではその理由を書きませんでしたが、イエスが父なる神との交流を求め、祈っていたことは確かです。さて、人々はイエスを見つけるまで諦めずに探し続ける熱意が有りました。そして、一緒にとどまってくれるように願いました。43節)しかし、イエスの優先順位は、神の御心を行うことに有りました。「そのために遣わされた」という表現にそれが表れています。イエスは自分を遣わした父なる神の御計画を理解していました。44節)そして、実際に伝道旅行を続けていかれたのです。ユダヤと書いてありますが、実際にはもっと広い範囲で移動した様子ですので、この表現は異邦人向けのものと思われます。

まとめ)
1)イエスは神の言葉としての権威を持っている
  ヨハネが記したように、イエスは神の言葉です。彼には神の言葉を語る権威が有りました。その権威が有るからこそ、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5章24節)というような驚くべき内容のことを言うことができたのです。そして、聖書の言葉は今日でも私たち信じる者を力強く導くことができるのです。(2テモテ3章16節参照)
2)イエスは病と悪霊を制する権威を持っている
  旧約聖書においても、神は「癒す神」と表現されている箇所が有ります。私たちの癒しの願いを神に申し上げるのです。どのように癒されるか、もしくは癒されないかは神のお決めになることですが、私たちは信頼と信仰の表現として、癒しを求めるのです。また、悪霊の影響と思えるようなことが有る時に、あるいは神の御心に反する思いが沸く時に、私たちはイエスの名によってその思いを諫め、神の言葉である聖書の言葉に置き換えていくのです。
3)イエスの権威は神との交わりと従順によってもたらされる
  イエスは当然神のみ子としての権威をお持ちでしたが、地上で過ごされる時には、祈りのうちに父なる神のみ心を求めながら歩まれた部分が有りました。神のみ子イエスでさえもそのような祈りが必要だったわけですから、ましてや人間である私たちは尚更その必要が有るのです。イエスの権威の元に生きるクリスチャンとして、私たちも日々聖書を読み、祈って生活するのです。




説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日曜礼拝 2019年4月7日 | トップ | 日曜礼拝 2019年4月21日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日曜礼拝」カテゴリの最新記事