パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年3月17日

2019-03-17 22:44:23 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ4章14節~30節
説教題:ナザレでの宣教

導入)
 イエス・キリストはバプテスマの時に神の御子として確認され、荒野の試みでメシアとして
証明されました。そして、宣教を始められました。ルカによる福音書における、イエス・キリ
ストの宣教の最初の記録を見てみましょう。

本論)
 14節~15節は16節から始まるナザレでのエピソードの導入になっています。イエスは先ずガ
リラヤのカペナウムで人々に受け入れられました。ここで三つのことが示されています。
1)イエスは聖霊の力に満たされていた。2)イエスのうわさはガリラヤ地方一帯に広がった。
これは奇跡のわざを含んでいることでしょう。3)ガリラヤの人々はイエスを預言者として受
け入れ、複数のユダヤ人の会堂で話をするように要請した。
 16節~22節は、イエスの説教と人々の反応が記されています。ナザレに行ったのは、ガリラ
ヤでの宣教から1年程後のことだと考えられます。ガリラヤ宣教の実績が無ければ、故郷のナ
ザレで教師として受け入れられることは有り得なかったでしょう。安息日にイエスがユダヤ人
の会堂に入り、聖書を読むために立ち上がりました。朗読や説教をする人は会堂管理者が決め
ていましたから、依頼が有ったということになります。朗読が終わるとイエスが座られたこと
が20節に記されています。当時は、説教者は座り、会衆は立っているのが慣習でした。
 人々はイエスに目を留めました。初めてイエスの話を聞くからでした。朗読されたイザヤ書
の内容が成就したとイエスは言われました。そこに述べられている人物こそイエスのことであ
ったからです。どのように成就していたのでしょうか。1)イエスは聖霊に満たされていまし
た。2)イエスは貧しい者に良い知らせを告げました。貧しいというのは、神の助けを必要と
しているという意味が有ります。3)イエスは罪に捕らわれている人類に自由を与えました。
4)イエスは霊肉両方の盲目を癒されました。5)イエスは主の恵みの年を告げ知らせました。
主の恵みの年というのは、律法の規定で、50年に一度、奴隷は解放され、借金は帳消しにされ
ました。イエスは霊的に罪の奴隷の状態に有る人類が解放される、罪の負債を帳消しにする救
いの御業を成し遂げられました。
 この聖書の言葉が成就したと宣言することで、イエスは、ご自身がイザヤ書に記されている
メシアであるとを宣言したのです。幼少の時からイエスを知っている故郷の人々は、驚愕した
ことでしょう。イエスの教えの内容は記されていませんが、イエスの教えに驚嘆し、ほめまし
た。しかし、疑問が生じてきました。「ヨセフの子ではないか。」という言葉は、大工の息子
がどうして聖書を解き明かす知識とメシアであると宣言する権限を持っているのかという疑問
を示すものでした。
 23節~24節は、そういう人々への一般的な事実の応答でした。イエスを拒絶しないようにと
いう警告をしたのです。「医者よ、自分を癒せ」ということわざは、人は自称する通りの人間
であることを証明しなければならないという意味です。そして、具体的に、ガリラヤのカペナ
ウムで行われた奇跡の業を行え思っているでしょうという指摘をしたのです。24節は、イエス
が自分が旧約の預言者と同様に神から遣わされたのであり、拒絶するべきではないという警告
をしたのです。
 25節~27節は、具体例を挙げた警告の続きです。旧約の実例を示す目的は、もし、イエスを
神の預言者として受け入れなければ、その恵みを受けることはできないばかりか、その恵みは
他の人々が受けることになるということです。
 エリヤもエリシャも奇跡を行った預言者でした。しかし、当時の人々は彼らの言うことを聞
きませんでしたし、悔い改めることもありませんでした。逆に、異邦人が彼らを受け入れて、
神の恵みを受けることになりました。同じ原則が、ナザレの人々にも当てはまるのです。
 28節~30節にはナザレの人々の反応が記されています。ユダヤ人の会堂にいた人々は「みな」
憤ったのです。彼らはエリヤやエリシャの時代の不信仰な民と比べられたことに腹を立てました。
また、神の恵みが異邦人に行くということに腹を立てたのです。彼らは礼拝が終わる前に一斉に
立ち上がりました。自尊心、プライドは純粋な信仰の大きな妨げなのです。彼らはイエスを殺す
ことに決めて、がけまで連れて行きました。ナザレは丘の上に建てられた町でした。彼らは自分
達が神の民だと思っていましたが、公正にことに対処することができませんでした。彼らは法廷
での裁判という手順を踏みませんでした。安息日に死刑を執行することは律法に適っていません
でした。また、がけから落として殺すことは律法に定められた方法ではありませんでした。ここ
で、イエスは奇跡的に彼らの間をすり抜けて行ってしまわれました。まだ、イエスが死ぬ時では
なかったからです。

まとめ)この箇所で示していることは何でしょうか
1)イエスの宣教は聖霊の力によってなされた
  4章1節、14節にそのことが示されています。満ちているという語は、「全ての部分に渡っ
 て覆われている」という意味が有ります。イエ スは私たちの従うべき模範です。勿論イエス
 の様に聖霊に満たされることはできませんが、私たちも聖霊に満たされた歩みを目指すのです。
使徒行伝では、ステパノという人物が聖霊に満たされていたことが記されています。ヨハネ16
 章7節 13節に記されたイエスの言葉によれば、聖霊は私たちを真理に導く助け主なのです。
 この助け主と近い関係を持つ方法は何でしょうか。1)聖霊が私たちを真理に導いてくださる
 ように祈ることです。2)聖霊の霊感によって書かれた聖書を日々読むことです。聖書の意味
 を読み取ろうとする時、私たちは聖霊の親しい交わりを持っていることになるのです。3)神
 がイエス・キリストにあって私たちに望んでおられることをすることです。いつも喜び、絶え
 ず祈り、全てのことを感謝する。神の国と神の義を先ず求めること。神を愛し、隣人を愛する
 ことです。

2)イエスの宣教は明確に示された
  イエスは18節、19節に示された業をするメシアであることを示すものです。私たちの霊的な
 必要を満たし、罪の重荷と咎めから解放し、霊的な目を開かれる方です。イエスを受け入れる
 ことです。そうすることによって、神の恵みが私たちに臨むのです。

3)イエスの宣教は自尊心のせいで拒絶された
  自尊心、プライドは、悪魔が荒野でイエスを試みた時に揺さぶった部分です。悪魔は自尊心
 によって神に逆らった存在です。ですから、自尊心によって神を拒絶するという愚かなことを
 するべきではありません。聖書の教えがおかしい、自分のやり方に合わない等の思いが出てく
 る時、注意する必要が有ります。神の前に遜り、従順しなければなりません。聖霊に導いてい
 ただき、ナザレの人々の様にプライドや怒りによって応答することがないようにしましょう。


説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。
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