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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】七つの黒い夢

2008年01月29日 22時13分07秒 | 読書記録2008
七つの黒い夢, 乙一 恩田陸 北村薫 誉田哲也 西澤保彦 桜坂洋 岩井志麻子, 新潮文庫 お-69-51(7899), 2005年
・カバー紹介文より「新感覚小説の旗手七人によるアンソロジー。ささやかな違和感と奇妙な感触が積み重なり、遂に現実が崩壊する瞬間を描いたダーク・ファンタジー七篇。
・執筆陣では「乙一」が名前を知っているくらいで、他の六名は名前を聞いたことがあるような無いような。その作品は全員未見です。皆さん、私が手を出さないジャンルの方々なのでしょう。本を読んでいるようでいて、全然読んでいないものです。
・手軽にいろいろな作家の作品をツマミ食い、味見することができます。残念ながら「別の作品も読んでみたい!」と思わせる作家は見あたりませんでした。
●1 『この子の絵は未完成』乙一:幼稚園児の息子が描く「匂いを発する画」が巻き起こす騒動。
●2 『赤い毬』恩田陸:謎の少女と毬つきをして遊んだ幼い頃の不思議な記憶。
●3 『百物語』北村薫:一組の若い男女が、酔って暇つぶしに始めた百物語。その結末とは?
・「いろいろと話が出ましたけれど、本当に恐いのは、わけの分からないもの。見えるものよりは見えないもの。そうですよね。とすれば、自分て恐くありません?  額や顎、うなじや頭の上なんて、自分では絶対に見えませんよね。それって、凄く、恐くありませんか。一番近いのに、決して見ることができない。  それどころじゃない。眠ると自分が消えますね。何をしているのかどころか、どうなっているのかも分からない。」p.61
●4 『天使のレシート』誉田哲也:コンビニ店員「天使さん」にほのかな想いを懐く男子中学生。
・「分かりやすく言ったら、神なんてゲームのプログラマーみたいなもんよ。人間は設定されたキャラクター。それも、うじゃうじゃいっぱい出てくるザコキャラだよ。そんなの死んでなんぼでしょ。そんなの、一々プログラマーがどうにかする? 助けたりする? それって、死んで初めてゲームの展開に貢献できる、そんな程度の存在なんじゃないの?」p.87
・「プログラマーが作った所までしかゲームのフィールドがないように、宇宙っていうのは、神が作った場所までしか存在しないの。ないったらないの。その先は絶対にないの。」p.87
・「黒いダウンジャケットの背中、その裾からすらりと伸びたジーンズの足。伸照は今まで、自分がほとんど恭子の顔しか見ていなかったことに気づいた。何を着ているのか、いま初めて知ったような気がする。」p.90
●5 『桟敷がたり』西澤保彦:女の子を狙った悪戯電話と航空機爆破予告。犯人は誰? 主人公の推理が冴え渡る。
●6 『10月はSPAMで満ちている』桜坂洋:派遣先はSPAM業者。コンビニで魚肉ソーセージを買うのは誰なのか?
・「ヒルズにあるたったひとつのトイレの面積よりも、このビルのワンフロアの面積のほうがぜったいに狭い。今日の昼飯を賭けてもいい。ぼくは思った。」p.158
・「たぶん、ぼくという人間は、ぼくという人間の価値が、普通かそれ以下しかないのだということを認めたくないのだと思う。人並みにしか努力していないくせに、心の奥底では人並以上の結果を手に入れることを欲しているのだ。それも、買ってもいない宝くじにあたるとか、ファストフード店で突然美女に愛の告白をされるとか、そんな受け身の結果では満足できないのだ。人並程度の努力で人並以上の結果を手にいれる。そんな希望を持っていたのだと思う。」p.160
・「「そ。毎日。欲しい人間が絶対に欲しいものがあったら苦労して入荷を維持しなきゃならないのがコンビニ資本主義。POSシステムとはそういうもの」  「維持してなんの意味が?」  「ないと、いざってときに困るかも」」p.165
・「抽出した嘘を繋ぎ合わせて逆さにすると、真実が見えてくる」p.187
・「新しい技術をまっさきに活用するのはピンク産業と戦争と決まってる。現場の最先端に触れたければそこに行くしかない。」p.190
●7 『哭く姉と嘲う弟』岩井志麻子:嫁いで行ってしまった姉に恋焦がれる弟の、甘く、妖しい回想。
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【本】ヒトはなぜ夢を見るのか 脳の不思議がわかる本

2008年01月25日 22時02分14秒 | 読書記録2008
ヒトはなぜ夢を見るのか 脳の不思議がわかる本, 千葉康則, PHP文庫 ち-3-3, 1998年
・脳についての素朴な疑問に、脳生理学の専門家が回答する一問一答集。一問につき、3~4ページずつの読みきり形式。一般人でも気軽に読める内容です。それぞれの質問に真正面から答えるのではなく、一般に広まっている脳についての誤ったイメージを正し、正確な学問的解釈を示す回答が目立ちます。本当ならズバズバ回答できればいいのでしょうが、脳の研究は、そこまではまだまだ至らない状況です。
・「要するに、この本は脳生理学の知識や見解を使って、応用問題を解くという形のものです。」p.4
・「ところで、脳についていえば、それは10分の1しか使っていないとか、その記憶容量は一京(兆の一万倍)ビット以上である、というような計算もあります。それなりに興味ある計算ですが、後に説明するように、脳の働きは神経網の中の一種の信号活動ですから、神経細胞の数とかその接続点であるシナップスの数とか、その組み合わせの様式数という具合に、数で表せるものではないのです。しいて数でいえば無限大といえます。」p.16
・「「使えば使うほどよくなる」という現象を専門的には「用不用の法則」といい、生物の特性とされています。つまり、機械や無生物は使うほど磨耗しますが、生体は使うほど発達する、ということです。」p.18
・「一日一〇万個ずつ神経細胞が死んでゆく、というような話もありますが、その分だけ無駄がなくなり、身軽になると考えた方がいいでしょう。(中略)一〇万個といっても、百数十億個といわれる神経細胞の十数万分の一である、という計算もしてみて下さい。」p.24
・「脳はもともと集中的にはたらくものだけれども、それは決して機械のように定常的なものでないことがわかります。集中の対象が次々と変わったり、集中の程度の強弱が波動的に変化します。」p.39
・「視野の中になにかが飛び込んできたりすると、無意識に手が動いて、それを振り払ったりします。これでわかるように、情報が送り込まれて、脳がそれに反応するということと、その情報が本人に感じられるということは、必ずしも同じ現象ではないのです。」p.48
・「すぐれたひらめきが生まれるのは、散歩中とか就眠前とか入浴中のような、どちらかというとあまりものを考えていないときであることも、経験的にわかっています。」p.52
・「脳が創造的にはたらくのは、外に向かって行動するときです。環境の変化を探り、それに対応し、効果的に行動するためには常に工夫が必要です。従って、空腹で食物を求めなければならないときや、敵と戦うときには、脳は創造的にはたらきます。」p.58
・「アイディアというのはものごとや問題を視点を変えてみつめて、新しいとらえ方をするところから生まれます。そのためには、ものごとや問題の全体をとらえなければなりません。」p.60
・「アイディアを次々と生みだす人間になりたいと願うのであれば、かりに先にいる人がいても、その模倣をするという安易な道を選ばないという心掛けが必要でしょう。」p.62
・「記憶力の弱い人というのは、むしろものごとを理解しない人、ものごとに強い関心を持てない人である場合が多いのです。ものごとを大きな全体としてとらえている人は、忘れたことでもたぐりよせることができるし、仮に間違えてもでたらめな間違いはしません。」p.66
・「要するに、脳のはたらきの最大の特性はその変動の柔軟性であり、バランスです。それを自在性ということもできます。脳機能を固定的にとらえるのは無意味です。」p.72
・「人間が言語を駆使できるようになったのは、(中略)口のまわりの筋肉を器用に素速く動かせるようになったからです。そのために、短い音を素速く組み合わせることによって無数の言葉をつくることができるようになりました。」p.78
・「赤とダイダイは近い色ですが、赤と青が違うように別の色なのです。このように、連続しているものでも区切ってしまう言語機能の性質を分節性といいます。このために、事象を細分化して分類整理することができるわけですが、言語機能が事象の全体を見失ってしまうのも分節性のためです。」p.79
・「一般に、ことばの学問というと文学などを指すことが多いのですが、算数とか数学こそことばの学問ということができます。」p.80
・「脳に言語機能がつけ加わって、人間は人間になり得た、という説はかなり根拠のあるものです。この本で動物と共通した非言語機能と人間独自の言語機能に分けて脳機能を論じているところが多いのも、そのためです。」p.101
・「脳のはたらきはリズムを持っており、人間の行動はそのリズムに乗り、また行動のリズムが脳のリズムもつくる、という関係があるので、そこに音楽が参加する意味が生まれるのです。」p.122
・「戦いとか逃走とか、行動しているときには感情という心の変化はみられず、行動を抑えているときには感情が高まるという関係に気づきます。」p.126
・「このように考えると、「男はみんなオオカミ」とか「イヌ畜生にも劣る」というようないい方は動物にたいする侮辱罪にあたるかもしれません。性善説と性悪説にしても、どちらといい切れるものではありませんが、どちらかというと性善説の方が正しいといえます。」p.160
・「理科系に進学する女性はたしかに少数派です。これは、むしろ女性は言語機能が苦手ということなのでしょうが、相対的に非言語機能に頼るところが大きいともいえます。」p.165
・「人間にも非言語的な伝達能力はありますが、言語機能があるので、動物ほどには敏感に機能しにくいという事情があるわけです。」p.169
・「失敗しても、脳のはたらきが発達するためには失敗が必要なのだ、とたかをくくっていればいいのです。」p.193
・「要するに、脳は使ってみなければそのよしあしはわからない、というのが正解でしょう。ただし、むきになればいいというのではなく、使い方が問題です。」p.203
・「睡眠は脳が完全に休息してしまう現象ではなく、それも脳のひとつの働きです。目ざめているときに活動している部分を抑制する力がはたらいているという状態です。」p.208
・「いわゆる「ひらめき」で、われながら名案と感動するような思いつきも、夢と同じように忘れやすいものです。思いつきもそのままでは行動と結びつきませんから、しばらくして消えてしまうのです。従って、創造的な仕事をしている人はいつも筆記道具を持ち歩いて、思いついたところで書き残しておく心掛けが必要です。」p.220
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【本】沈黙の春

2008年01月20日 22時01分40秒 | 読書記録2008
沈黙の春, レイチェル・カーソン (訳)青木簗一, 新潮文庫 カ-4-1(2121), 1974年
(SILENT SPRING, Rachel Carson, 1962)

・近年盛んに論じられている『環境問題』を指摘する先駆けとなった古典的名著。主に農薬の害についてのレポート。この本をきっかけに環境問題に興味を持ち、その道へ進んだ人も多いのではないでしょうか。
・著者は、わりと近い将来に科学の発展によって解決の方向に向かうのではないかと楽観していた様子ですが、それから40年以上たった現代でもほとんどその状況は変わっていないところが、問題の根の深さをうかがわせます。自然を破壊せずには生きていけない人間。果たして自然との共存共栄は可能なのか。
・私自身、食物に含まれる薬品の害については無頓着です。せいぜいコンビニ弁当はなるべく口にしない、という程度。本書でも指摘されている事ですが、その害が目に見える形になって現れるまでは、なかなか意識しにくいものです。
・「シュヴァイツァーの言葉――  未来を見る目を失い、現実に先んずるすべを忘れた人間。そのゆきつく先は、自然の破壊だ。」p.6
・「アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いったいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。」p.13
・「合衆国だけでも、毎年五百もの新薬が巷に溢れ出る。実にたいへんな数であって、その組合せの結果がどうなるか、何とも予測しがたい。人間や動物のからだは、毎年五百もの新しい化学薬品に何とか適合してゆかなければならない! そして、私たちのからだに、動物たちのからだにどういう作用を及ばすのか、少しもわからない化学物質ばかり……。」p.16
・「《殺虫剤》と人は言うが、《殺生剤》と言ったほうがふさわしい。」p.17
・「農作物の生産高を維持するためには、大量の殺虫剤をひろく使用しなければならない、と言われている。だが、本当は、農作物の生産過剰に困っている。」p.18
・「殺虫剤の使用は厳禁だ、などと言うつもりはない。毒のある、生物学的に悪影響を及ぼす化学薬品を、だれそれかまわずやたらと使わせているのはよくない、と言いたいのだ。」p.23
・「DDTや、それに近い化学物質のおそろしさは、食物や餌の連鎖によって、有機体から有機体へと移動してゆく事実にうかがわれる。」p.33
・「触媒する空気と日光がありさえすれば、《無害》と銘うたれている化学薬品から、どんなにおそろしい物質が出てくるものやら、だれにもわからない。」p.59
・「《瀬戸物屋に闖入した象のようにまたも自然をふみにじる私たち人間》――聡明なオランダの科学者C.J.ブリーイエによれば、除草剤をふりまく私たちの姿はこんなところだという。《私の考えによれば、当然のことと考えてあやしまないことが多すぎる。畑の雑草すべてが有害なのか、そのうち有用な草もいくらかあるのか、少しもわかっていない》。」p.97
・「健全な植物、動物社会が成立つ鍵は、《多様性の維持》ということなのだ(イギリスの生態学者チャールズ・エルトンが言いだした概念)。」p.143
・「殺虫剤の害は、それにふれた世代のつぎの世代になってあらわれる――こうした事実が、この貴重な研究で明らかになった。」p.148
・「化学薬品スプレーが森林害虫防除の唯一の方法でもなければ、また最上の方法でもないことを、はっきり認識しなければならない。」p.167
・「私たちの世界が汚染してゆくのは、殺虫剤の大量スプレーのためだけではない。私たち自身のからだが、明けても暮れても数かぎりない化学薬品にさらされていることを思えば、殺虫剤による汚染など色あせて感じられる。」p.207
・「いまや、毒薬の時代。人を殺せる薬品を店で買っても、だれひとりあやしむ者はいない。」p.207
・「残留物などたいしたことはない、と見くびったり、また頭から否定するのは工業会社関係の人たちだ。また、殺虫剤がついた食物はいっさいいけないなどというのは、ゆきすぎの狂信家だ、とみなす傾向がある。」p.212
・「この仮定をたしかめるために、合衆国公衆衛生局の調査班がレストランや会社、官庁などの食堂の食品検査をした。そのとき、どの食物からもDDTが検出された。調査団は結論として言う――《DDTが全然ついていないと称する食物がたとえあったにしても、ごくまれだ》と。」p.213
・「はじめは無害と思われていた化学薬品でも、ほかとの組合せしだいで、急におそろしい毒をもつようになる。」p.230
・「生物学者ジョージ・ウォールドは、目の視覚色素というきわめて特殊な研究をしたが、自分のやっていることは、「狭い窓」のようなものだと言っている――窓といっても《ちょっと離れると、ただ光のもれる裂け目にすぎない。だが、近くへ寄れば寄るほど視野がひらけ、ぴたりと目をつければ、ほかならぬこの狭い窓から全世界が看取できる》。」p.235
・「遊離状態にある燐酸基とADPが結合してATPに可逆的に変化する反応(バッテリーの充電)は、酸化プロセスと結びついている。酸化プロセスとの関連が強い場合は、共軛燐酸化と呼ばれる。この連合反応がなければ、必要なエネルギーを供給できなくなってしまう。」p.239
・「いまや、私たちの世界は、発癌因子でいっぱいだ。(癌を押える《奇跡の治療法》がそのうち見つかると思って)治療の面ばかりに力を入れ、発癌物質の海がひろがるのにまかせておけば、癌征服も夢に終わるだろう、とヒューパー博士は言う。たとえ、《夢の治療法》が見つかって癌を押えられたにしても、それをうわまわる速さで、発癌物質の波は、つぎからつぎへと犠牲者をのみこんでゆくだろう。」p.279
・「四人にひとりがいずれ癌になるという脅威も、少なくとも大幅に弱まるだろう。不退転の決意をもってなすべきことは、何よりも、発癌物質をとりのぞくことだ。私たちの食物、私たちの水道、私たちのまわりの空気――すべてが発癌物質で汚染している。」p.281
・「種類の数のうえから見れば、地球上の被造物のうち、70パーセントから80パーセントが昆虫なのだ。人間が何一つ手を下さなくても、このたくさんの昆虫たちは、自然のコントロールをうけている。」p.287
・「またどうして著名な昆虫学者が化学薬品を熱心に擁護するのだろう――この不思議な事実も、こうしたことを考えてみれば、むしろあたりまえなのだ。みんな化学工業関係の会社から援助をうけている。」p.300
・「《昆虫が化学薬品に抵抗力をもつようになれるなら、人間だって、それと同じにはならないのか?》――と尋ねる人がときどきいる。理屈の上では、たしかにそのとおりだ。だが、人間の場合には、何百年、何千年とかかるから、いまの人間にはほとんどなんのなぐさめにもならない。」p.319
・「不妊化した人工飼育のアブが35億匹、フロリダ州とジョージア州さらにアラバマ州の一部に放たれた。」p.327
・「驚異の電子工学の力をかりて、いままで考えもつかなかった新しい防除学がそのうちうちたてられるだろう。」p.335
・「クモの寿命はふつう18ヶ月だが、そのあいだに一匹のクモが殺す虫の数は平均二千匹と考えられている。」p.343
・「《自然の征服》――これは、人間が得意になって考え出した勝手な文句にすぎない。生物学、哲学のいわゆるネアンデルタール時代にできた言葉だ。自然は、人間の生活に役立つために存在する、などと思いあがっていたのだ。」p.346
・以下、解説(筑波常治)より「初版(単行本)の題名は『生と死の妙薬』となっていた、化学薬品は一面で人間の生活にはかりしれぬ便宜をもたらしたが、一面では自然均衡のおそるべき破壊因子として作用する。初版の題名はその意味でなかなか含蓄にとんでいたのだが、一般読者には科学書でなくてミステリー物のような印象をあたえてしまい、不評であった。そこでこんどの文庫版では、原題をそのまま日本語になおして、『沈黙の春』と題された。」p.348
・「最近のいわゆる公害問題を、もっとも早い時期に先取りして論じたものであり、極言すると二十世紀後半の科学技術史上、とくに注目されてしかるべき業績のひとつであろう。」p.349
・「日本の米作りは、世界のあらゆる農業のうちで、もっとも多くの人手間を要し、もっとも多く土地あたりの生産高をあげてきた。つまりほんらいの自然からいえば、もっともはなはだしいバランスの破壊を前提にしている。それゆえ右のような問題が、もっとも早い時期に露呈する危険も大きい。」p.357
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【本】技術官僚 ―その権力と病理―

2008年01月13日 22時31分00秒 | 読書記録2008
技術官僚 ―その権力と病理―, 新藤宗幸, 岩波新書(新赤版)774, 2002年
・自分の職業に多少なりとも関連した内容を想像していたのですが、全く別世界の中央省庁の話がほとんどでした。一般に広く開かれた内容ではなく、ほとんど "閉じた" 本です。論文調で漢字が多く、「面白く書こう」などとは微塵も考えられていない文章なので、読むのにちょっと疲れます。概要はあとがきの4ページを読めば十分。さらに詳細を知りたい方は本文へどうぞ。
・「この本は、これまでどちらかといえば、ジャーナリストや研究者がみすごしてきた技術官僚集団に焦点をあてることによって、日本の官僚制の深層に迫るとともに、その改革の道筋を提起しようとするものである。」p.v
・「こうして、これまでに述べてきた首相と内閣による統治の弱体さにはじまる行政機構の特性とあいまって、官庁間の割拠制が強まるだけでなく、行政のイノベーションなき権限の増殖がうみだされる。これが日本の官僚制の最大の構造的特質なのである。」p.18
・「以下、本書ではまず日本の官僚制において、技術官僚集団がどのような地位を占めてきたのかを歴史的に振り返ってみる。そのうえで、行政責任が最もきびしく問われる二つの行政分野――公共事業と薬事行政――を対象として、技術官僚集団の活動を中心に行政組織の動態を論じることにする。(中略)そして最後に、「技官の王国」の解体、それはとりもなおさず日本の官僚制の改革なのだが、その道筋を提起することにしよう。」p.38
・「先進国といわれる国々のなかで、日本ほど大規模な薬害事件をくりかえしてきた国もない。」p.124
・「技官を多数かかえる官庁において、事務官=法制官僚と技官のどちらが優位しているかといった「伝統的」論点は、現代日本の官僚制組織の考察にとって、的外れといえる。問われているのは行政組織のあり方であり、もっといえば、そこにおける意思決定の責任の所在が不明であることなのだ。」p.169
・「小泉純一郎政権は、163の特殊法人と認可法人を所轄する各省に廃止・民営化を基本前提として、2001年8月末までに改革案をまとめるように指示した。  しかし、わずかに四法人の廃止・民営化にむけた改革案が政権に提出されただけで、残りはすべてゼロ回答であった。」p.171
・「独立行政法人(2001年1月の行政改革で新たに設けられた法人。独自の法人格を持つが所轄大臣の監督のもとで、中期計画を作成し事業を実施する。企業経営原則をとりいれ貸借対照表や財務諸表の公表を義務づけられる)」p.172
・「特殊法人や許可法人改革の顛末は、2001年1月の鳴り物入りの行政改革見落としてきた問題点を、浮き彫りにしたといえよう。」p.173
・「「技官の王国」の解体にかぎられたことではないのだが、行政組織全体にわたって、事業の継続ではなく事業計画を時代に適合させる弾力的イノベーションを可能とするシステムがつくられねばならない。そのためには、まずなによりも、各省における政治的任命職の範囲を広げることである。」p.175
・「そもそも、「奇妙な免疫不全症」(当時)とはいえ、それが血液を媒介としていることが疑われていたのであり、血液凝固製剤の使用の是非に問題を限定することなく、HIVウイルスによる血液感染症の原因究明にとりくむことが、行政の責任であろう。いかにキャリア組事務官の局長が、血液感染症の学問的研究水準に素人であったとしても、その程度の支持は本来だせるはずである。」p.176
・「「技官の王国」の解体とは、官庁から科学・技術系職員を排除することではない。これまでみてきたような技官と事務官の相互依存関係を打破することである。この意味で、まずは以上に述べたような行政組織法制をあらため、政治的任用の拡大を基本として、ポジションごとの権限と責任を明確にした組織の編制がもとめられるのだ。」p.177
・「しかし、採用試験における細分された職分類(一章二節参照)は、はたして妥当なのだろうか。」p.178
・「伝統的意味での技官は、まさに「技術官僚」として位置づけられてきたゆえに、専門技術分野の職務に従事している。しかし、かれらは個々の専門領域におけるスペシャリストなのではなく、それぞれの領域で技術の衣をまとった行政官にすぎない。」p.182
・「こうしていま、生涯職公務員からなる官僚機構に、大胆な改革のメスが入れられなければならないのである。内閣統治のもとで行政官としての責任が絶えず自覚される行政システムの構築は、依然として未完である。これこそが改革の焦点とされねばなるまい。」p.200
・「私がここで試みたのは、国土交通省や農水省、厚生労働省などに勤務する技術官僚という集団に焦点をおきつつ、日本の官僚制の内部的メカニズムを明らかすることだった。」p.202
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【本】ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後

2008年01月09日 22時05分36秒 | 読書記録2008
ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(上)(中)(下), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-61・62・63(7506・7507・7508), 2004年
・ローマ人の物語第V巻。登場する "役者" はカエサルをはじめとし、ポンペイウス、キケロ、アントニウス、クレオパトラ、オクタヴィアヌス、などなど。時代は紀元前49年~30年。カエサルがルビコン川を越えるところから、その後のポンペイウスとの内戦、ローマの最高権力者としての活躍、暗殺、そして後継者のオクタヴィアヌスが、アントニウスとクレオパトラを倒し、ローマの覇権を握るまで。
・カエサルの暗殺やクレオパトラの演じた役割についてなど、今までよくわかっていなかった部分がおかげで鮮明になりました。クレオパトラは単なる "美女" というわけではなかったのですね。
・カエサルが没してしまったことで、このシリーズを読む楽しみが半減してしまったような気がします。没して後、約2000年後の一読者をもひきつけるその魅力・カリスマ性はやはり強烈。
・「このことを知ったキケロは、親友への手紙に書いている。  <なんというちがいだ、敵を許すカエサルと、味方を見捨てるポンペイウスと!>」上巻p.36
・「ローマ人は、風のように襲ってきては殺戮し略奪し、風のように去っていくタイプの征服者ではなかった。ローマ人は、征服した地を自分たちの世界に組み入れたのである。」上巻p.43
・「私が、「保護者」「被保護者」と翻訳できず、「パトローネス」「クリエンテス」と原語のままで書かざるをえなかった理由もここにある。「クリエンテス」関係とは、一方的な関係ではなく、相互扶助関係であったからだ。」上巻p.45
・「しかし、政治も軍事も、いや人間がかかわるすべてのことは、一プラス一は常に二になるとはかぎらない。三になることもあるし、反対に〇・五で終わることもある。ルビコン川からメッシーナ海峡までの本国ローマは、本国であるだけに、プラス・アルファがあった。この点を、ポンペイウスは見逃した。いや、後には、カエサル暗殺後のブルータスも、ブルータスを破って以後のアントニウスも、数字にも形にも表れないこのプラス・アルファを見逃すことになる。しかしカエサルは、もしもコンピューターが存在していたとしてもそれによって計ること不可能な、このプラス・アルファの重要性を知っていた。そして、カエサルの後を継ぐことになるオクタヴィアヌスも、これを認識していた点において、カエサルの後継者の名に恥じない器であることを示すのである。」上巻p.48
・「このような状態になった場合、人は二種に分れる。第一は、失敗に帰した事態の改善に努めることで不利を挽回しようとする人であり、第二は、それはそのままでひとまずは置いておき、別のことを成功させることによって、情勢の一挙挽回を図る人である。カエサルは、後者の代表格といってもよかった。」上巻p.123
・「カエサル側の兵250は、百倍の敵の攻撃に四時間耐えた。四時間後、スッラ率いる二個軍団五千が到着し、それでようやく撃退に成功した。」上巻p.178
・「ファルサルスの会戦は、イッソスやカンネやザマの会戦と比較すれば、敗者側の戦死者の数が異常に少ない。絶対数が少ないだけでなく、捕虜の数のほうが戦死者数を大幅に上まわった唯一の会戦である。」上巻p.252
・「「方式(メソッド)」とは、誰が踏襲してもそれなりの成果が得られるものでなくてはならない。駆使するものの才能に左右されたり、その場でしか適用可能でないとなっては、教材にはならないからである。  アレクサンダー大王もハンニバルもスキピオ・アフリカヌスも、ウェストポイントの教壇に立てるだろう。だが、カエサルならば言うだろう。  「まず敵と戦場を見せてくれ。その後で勝つ戦法を考える」と。」上巻p.254
・「二千年後のイギリスの研究者になると、次のように書く。  「ポンペイウスは、戦場でならば、カエサルが敵にまわすに値したただ一人の武将であった。だが、ドゥラキウムでのカエサルが、敗北を喫した軍では最後に戦場を捨てた戦士であったのに対し、ファルサルスでのポンペイウスは、最初に戦場を捨てた戦士だったのである。  そして、天才と単に才能のある者を分けるのは知性と情熱の合一だが、ポンペイウスにはそれが欠けていた」」上巻p.271
・「カエサルは、『内乱記』の中で、「人間は、自分が見たいと欲する現実しか見ない」と書いている。」上巻p.285
・「この戦闘後にカエサルは、ローマの元老院に送った戦果の報告を、次の三語ではじめたという。  「来た、見た、勝った」  まったく、「賽は投げられた」とか、後日の「ブルータス、お前もか」とか、カエサルにはコピー・ライターの才能もあったと思うしかないが、」中巻p.19
・「憤怒とか復讐とかは、相手を自分と同等視するがゆえに生ずる想いであり成しうる行為なのである。カエサルが生涯これに無縁であったのは、倫理道徳に反するからという理由ではまったくなく、自らの優越性に確信をもっていたからである。優れている自分が、なぜ、そうでない他者のところにまで降りてきて、彼らと同じように怒りに駆られたり、彼らと同じように復讐の念を燃やしたりしなければならないのか。」中巻p.34
・「兵士とは、休養を与える必要はあるが、与えすぎてもいけない存在なのである。」中巻p.37
・「カエサルという男は、失敗に無縁なのではない。失敗はする。ただし、同じ失敗は二度とくり返さない。」中巻p.55
・「軍事にはシロウトの私でも、こうも戦闘ばかり書いてくるとわかったような気分になるが、戦術とは要するに、まわりこんで敵を包囲することを、どのやり方で実現するか、につきるのではないか。」中巻p.72
・「包囲壊滅作戦とは、アレクサンダー大王が創案し、ハンニバルが完成し、スキピオ・アフリカヌスがその有効性を、ハンニバルに対してさえも勝つことで実証した戦法であった。(中略)だが、タプソスでのカエサルは、騎兵を中央に配することで、敵軍包囲の輪が、従来のような一つではなく、二つになる作戦を立てたのである。」中巻p.74
・「カエサルは、冷徹ではあったが、冷酷ではなかった。」中巻p.91
・「ちなみにムッソリーニは、ローマの警士の捧げもつ権標(フアツシ)から彼主唱の主義をファシズムと名づけ、師団と言わずに軍団と呼び、ローマ式敬礼を導入し、最精鋭軍団を第十軍団と名づけたりしてイタリア軍の強化に努めたが、結果は第二次世界大戦に見るとおりで終わった。形式も大切だが、中身がともなわなくてはどうにもならないという一例でもある。」中巻p.93
・「ローマ独自の共和政とは、毎年選出される執政官二人を頂点とする行政機構を、選挙を経ないエリートたちで構成される元老院が補佐し、最終決定は、市民権所有者全員が投票券をもつ市民集会で決まるというシステムである。行政を担当する人の多くが元老院に議席を持つ人々なので、寡頭政体(オリガルキア)と呼ばれている。」中巻p.107
・「54歳を迎えていたカエサルは、まず、彼が樹立しようとしていた新秩序のモットーとして、「寛容(クレメンテイア)」をかかげた。」中巻p.112
・「しかし、孤独は、創造を業とする者には、神が創造の才能を与えた代償とでも考えたのかと思うほどに、一生ついてまわる宿命である。」中巻p.115
・「この「ユリウス暦」は、紀元後1582年に法王グレゴリウス13世によって最改良されるまでの1627年間、地中海世界とヨーロッパと中近東の暦でありつづける。」中巻p.117
・「カエサルは、ローマのこれ以上の領土拡大を望んでいなかった。望まないというより、現実的ではないと考えていた。」中巻p.131
・「カエサルには、防衛上の境界の概念ならばあった。しかし、後世のわれわれの考える、国境の概念はなかったのである。」中巻p.136
・「治安と清掃は、そこに住む人々の民度を計る最も簡単な計器である。(中略)確信をもって言えるが、古代のローマは、現代のローマよりは格段に清潔であったのだ。」中巻p.172
・「壁は、安全の確保には役立っても、交流の妨げになりやすい。カエサルにとっては、壁を壊すという行為は、ローマの都市部の拡張のためであると同時に、壁なしでも維持できる平和への意思の表明でもあったのだ。」中巻p.188
・「古代の書物は、パピルス紙に筆写した巻物だった。第○章でなく第○巻とするのも、その名残りである。  それをカエサルは、長い巻物を切断して髪の束にし、それらをとじて一冊の書物にすることを考えた。必要な箇所だけを即座に読めるようにと考えてである。」中巻p.193
・「帝政は、事実上、成ったのであった。」中巻p.196
・「ローマ人にとって、カエサルの暗殺は、雲一つなかった晴天に突然に襲ってきた、雷をともなった嵐のようなものであった。殺した側も殺された側も、つまり反カエサル側もカエサル側も、動転して方向を見失ってしまったことでは同じだった。」下巻p.14
・「「三月十五日」と書けば、西欧人ならばそれがカエサル暗殺の日であることは、説明の要もないくらいの常識になっている。西洋史でも屈指の劇的な一日、ということだ。」下巻p.19
・「一人に対し狂乱状態の十四人が刺しまくった結果、カエサルが受けた傷は全部で二十三箇所。そのうち、胸に受けた二刃目だけが致命傷であったという。」下巻p.24
・「カエサル暗殺も、はじめから彼が首謀者であったのではない。妹の夫であったカシウスが、真の首謀者である。ブルータスは、かつがれたのだ。」下巻p.29
・「「ブルータス、お前もか」のブルータスは、デキムスには従兄弟にあたったマルクス・ブルータスではなく、このデキムスであったとする人が多い。」下巻p.35
・「古代のローマ人と現代の日本人は、奇妙なところで似ている。温泉好きであり、室内の内装は簡素を好み、そして、火葬が一般的である点も似ているし、遺骨が故国に葬られるのを強く望む点でも似ている。」下巻p.195
・「猫は可愛がってくれる人間を鋭くも見抜くが、女も猫と同じである。なびきそうな男は、視線を交わした瞬間に見抜く。  クレオパトラも、整った美貌のオクタヴィアヌスの冷たく醒めた視線を受けたとたんに、この種の戦術の無駄を悟ったのではないか。不可能とわかっていても試みるのは、一流と自負する勝負師のやることではない。」下巻p.227
・「もはや誰一人、「オクタヴィアヌス、WHO?」とは言わなかった。あの当時の「少年(プエル)」は、十四年をかけて、カエサルが彼に与えた後継者の地位を確実にしたのである。アントニウスでなく、他の誰でもなく、いまだ未知数の十八歳を後継者に選んだ、カエサルの炯眼の勝利でもあった。」下巻p.232
・「紀元前46年、北アフリカのタプソスでポンペイウス派を破って帰国した当時のカエサルが、以後の施策の基本方針としたのは、「クレメンティア」(寛容)である。前30年、アントニウスを破って帰国し、あの当時のカエサル同様にローマ世界の最高権力者となったオクタヴィアヌスは、以後の施策の基本方針に、「パクス」(平和)をかかげる。ローマによる平和、即ち「パスク・ロマーナ」のはじまりであった。」下巻p.232
・「もしも、第IVと第Vの二巻が他の既刊の巻に比べてより生き生きと叙述されているとすれば、それは叙述した私の功績ではない。生き生きとした情報を与えてくれた、キケロとカエサルのおかげなのである。彼ら二人が生きた紀元前一世紀のローマほどに豊富で正確な資料を遺してくれた時代は、世界史全体を見まわしても他に類を見ないのではないかとさえ思う。」下巻p.i
・「生前の福田恆存から、私は次のことを教えられた。言語を使って成される表現は、意味を伝えるだけではなく音声も伝えるものであり、言い換えれば、意味は精神を、語呂もふくめた音声は肉体生理を伝えることである、と。福田先生は、翻訳もこの概念で成されねばならない、と言われた。」下巻p.ii

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【本】「場」とはなにか 自然界の「力」の統一像を求めて

2008年01月02日 10時53分47秒 | 読書記録2008
「場」とはなにか 自然界の「力」の統一像を求めて, 都筑卓司, 講談社ブルーバックス B-363, 1978年
・物理学で扱う「場」についてのあれこれ。
・読んではみても、後に残るものが少なくほとんど素通りしてしまいました。内容があちこちに散ってしまっていて、つかみ所がないという印象です。
・「「もの」の全く存在しない空間に、「力」という感覚(?)だけが、まるでおばけのように伝わっていくということは、考えてみればまことに奇妙な事柄であり、電気力などは承諾できないとする人の方が、あるいはノーマルなのかもしれない。」p.6
・「物理学では、空間に物質があるかないか、だけを問題にしているのではない。空間が場になっているかどうか、もし「場」ならばそこにはどんなからくりがあるかが大きな関心事なのである。物質だけを対象とする他の諸学問と違って、空間の性質(つまり「場」)を重要視するところに物理学の特徴があるといってもいいのではなかろうか。」p.7
・「なお「場」とは英語の field を翻訳したものであり、日本に電磁気学をとり入れたとき、工学者は電界、磁界と称したのに対して、理学者は電場、磁場と言った。(中略)第二次大戦後まで、日本では同じ内容ものに二通りの字を当てていたが、現在ではほぼ電界、磁界に統一されている。」p.44
・「本書の目的は、「場」についてとおり一遍の説明をするのではなく、指摘されるように「場」とはなにかを(説明ではなく)解明しようと試みるものである。」p.58
・「物理学の本来の姿は、いつ(t)、どこで(x、y、z)物理量(Tとかρとか)がどんな値になっているかを調べる学問だといいきっていも、決して見当はずれではない。」p.65
・「空間をへだてて、AとBだけが問題なのではなく、中間にある空間に注目し、空間自体が「従来とは違ったものになる」という思考法に変わっていくのである。」p.76
・「結局……エルステッドによって電流が磁場をつくることが提唱され、ファラデー自身が十年をおいて、互いに裏表の関係にある二つの法則(磁場と電流から力を得ること。いま一つは磁場と力から電流を得ること)を発見したといっていいだろう。」p.86
・「科学というものは学問、つまり自然を知ることである。ケプラー、ガリレオ、ニュートンのころは自然現象を整理し、法則化することだった。その後、少しずつ技術が進歩してきたが、最初に経験を基礎にして機械、器具類が発明され、その原理を説明するために科学が用いられた。ところがファラデーの出現によって、発明と発見の順序が逆転した。まず原理が解き明かされ、それにのっとって機械が製作されたのである。このような意味でも、科学史の中でのファラデーの果たした役割りは大きく評価されなければならない。」p.88
・「ということになると、磁力線とか電気力線とかはもはや便宜だけの架空の産物ではなく、立派な「存在」だといえる。たしかにこれらには「重さ」はない。しかし重さがないということが物理的な意味で「なにもない」理由にはならない。磁場や電場は、物理学の目を通して見た場合には、気体や液体と同じように、"科学の対象物" として認知してやらなければならいのである。」p.95
・「クーロン力は、光と同じ速さで空間を走るのである。」p.97
・「物質ではなくエネルギーだというところが、一般にはなじみにくい。だから「場」とはなにか、という疑問が出てくる。たしかに考えにくい対象には違いないが、簡潔に述べよというなら、電気や磁気に力をおよぼす特殊な空間、ということになろう。電気にも磁気にもあるいは質量にも、さらにはその他いかなるものに対しても何の作用もしない空間こそ、物理的意味での "本当の空間" である。このような真空こそ、物理学の(いや自然科学一般の)対象にはなり得ない。」p.98
・「電波というと、これまでの静電気や磁石と違っていささかむずかしい話のような気がするが、何のことはない。電場Eと磁場Hとが、いずれも電波の進行方向と直角の方向に揺れ動いて走っていく現象にすぎない」p.105
・「液体中の音速は毎秒千~二千メートル、固体中では二千メートル以上にもなる。」p.106
・「ファラデー自身は実験化としては他人のおよばない天稟の才を発揮したが――だから当時の人たちは「おそらくファラデーの目には、電気力線や磁力線が見えたのだろう」と語り合った――、二十歳になって初めて科学の勉強にとりくんだ彼は、数学には縁がとぼしかった。一説によると、彼は三角関数も知らなかったと伝えられている。」p.112
・「エーテルは最初光波の媒体物として考えられたものであるが、宇宙空間を論じるにおよんで、その存在の是非は大問題になってしまった。間接的な方法であるにせよ、エーテルの実在が認められれば宇宙空間は絶対的であるし(つまり、どの星が止まっていて、どの星は動いているということがはっきりわかる)、認められなければ宇宙空間は相対的である。」p.118
・「光が粒子だというなら、ラジオ波やテレビ波のような電波も光子かと質問される読者もいるかもしれない。  「そう考えても差し支えない」というのが、もっとも正直な解答だろう。」p.124
・「電波を光子にたとえることはあまりないが、とにかく一般に電磁波とは光子が秒速三十万キロで走る状態だといっていい。」p.125
・「ここで、「場」とはなにかの問いに対する一つの解答がでた。「電磁場とは仮想光子の存在する空間である」。そこに何も置かなければ、われわれには何もわからない。しかしひとたび電気をもってくれば、たちどころに相互作用(力)が働く。仮想光子が本当の光子になる。」p.132
・「粒子でもあり波動でもある……という事実は、そこに「場」という考え方を持ち込むと、かなり理解しやすくなる。  多くの解説書は「場」を抜きにして、波動でもあり粒子でもある、よろしく心得よ、とやってしまうから読者の心の中に不満が残ってしまう。「場」という概念を十分に説明して、波動と粒子との同一性を語るのが親切であろう。」p.139
・「しいていえば、場とは空間のエネルギーである。」p.141
・「泡とはなにか。水中にあって、たまたまそこに水がない、という状態のことである。元来なら水があってしかるべき空間に、水がないのである。場が変化しているのである。ひらたくいえば、そこの部分だけ空間がふうがわりな状態になっているわけである。ミクロな世界での粒子とは、結局はこのように「場の変化」と考えるのが正しい。野球のボールとは本質的に違う。」p.147
・「物質の存在しない空間に場があって、その場が特殊な状態になっているものが素粒子である。」p.153
・「ディラックはさらに、長さに最小単位があるなら、時間にも最小単位があっていいと考えた。光が素粒子をよぎる瞬間、つまり10-23秒を最も短い時間としたのである。」p.182
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