ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】ファッションの技法

2008年11月20日 08時03分24秒 | 読書記録2008
ファッションの技法, 山田登世子, 講談社現代新書JUNESSE 1374, 1997年
・ファッションに興味があるかと聞かれると、自分の好みの物を身につけているという意味で最低限の興味はありますが、高価なブランド物を身につけるほどの積極的な興味も無く、とりあえずユニクロとポスフールがあれば生きていける身です。そんなファッション音痴には全く無縁の内容かと思いきや、ファッションを通して見た文化論といった内容で、「なるほど」と思わせられる個所が随所にあり、十分興味深く通読できました。
・「従来のアカデミズムではけっしてありえない、おおげさに言えば日本初の学際的な「誘惑論」を大学の講義でやりたい――そんなわたしの熱さと学生たちのレスポンスがひとつになって生まれた、新しいファッション論が本書である。」p.5
・「わたしたち女は、よくおしゃれをする。(中略)そして、こんなふうに「鏡の中の私」に関心が深いぶん、「鏡の中の他人」にも関心が深い。」p.13
・「ところで、わたしたちは、いったい何の目的でこんなふうにおしゃれをするのだろう?(中略)ファッションについて、根源的なところからこうたずねてみたら、答えるのはそれほどやさしくない。答えが単純ではないからである。」p.13
・「人はなぜおしゃれをするのか?  ――異性を誘惑するために。  とりあえず、こう答えてみよう。」p.15
・「そろそろ、ここで誘惑とは何かを定義すべきだろう。わたしがここでいう誘惑、それはまさに三島由紀夫が描いているような女の態度である。すなわち、自分の性的魅力をひきたたせるために自分を美しく飾ること。そして、その装飾によって、異性の目をひきつけること。」p.18
・「男に自分をさしだすのは女である。そして、女がそうするのは、男の欲望が先行しているからだ。「君が欲しい」――男たちが、暗黙のうちにそう言っているからこそ、女はそれにこたえようとする。「ええ、いいわ」と。」p.22
・「ジンメルは、簡潔に、こう語っている。  男性にたいする女性の関係は、承諾と拒絶につきる。」p.23
・「要するに女は、男性の求愛に二つの顔でこたえるのだ。見せたとたん、その反対に変わってしまうダブルの顔で。(中略)女のレスポンスは、「承諾のまわり道かもしれない拒絶」と「取り消しの可能性のある承諾」に満ちている。」p.32
・「コケットリーとは「決断をひきのばす技法」であり、時をかせぐ技法である。それは、《あれかこれか》をはぐらかして、《あれもこれも》にしようとする。」p.39
・「ジンメルはこう言っている。「社交性が社会性の遊戯形式であるように」「コケットリーは愛の遊戯形式である」。」p.46
・「そう、ファッションは《ぜいたく》から生まれるのである。まさに、コケットリーのように。」p.51
・「ファッションとは、着衣によって自分を隠しつつ、隠すことによって自分を見せる技法なのである。(中略)そう、ファッションは、コケットリーのように《あいだをゆれる》のだ。」p.54
・「ココ・シャネルは20世紀のスタイルの完成者である。シャネルは、19世紀の女性ファッションをラディカルに覆して、新しいモードをつくりだした。  ところが現在、シャネルというと、とうていそんなイメージではない。」p.69
・「ところが、女性モードにポケットをとりいれたのはシャネルが初めてだと知って愕然とした。ポケットだけでなく、ショルダー・バッグというのもシャネルが初めて、なのである。」p.72
・「喪服以外に女が黒を着るなんて、シャネル以前のファッション・シーンでは考えられなかったことだからだ。  そう、シャネル以前、19世紀の女たちが着ていたドレスは、みな「きれいな」色でできていた。」p.83
・「「モードは芸術ではない。それは技術だ」――シャネルはくりかえしそう語っている。」p.86
・「そう、シャネルとは性の境界線の越境者である。色といいかたちといい、「男のように」装うこと。シャネルがつくりだしたモードは、極論すればそういうことだ。」p.89
・「そう、シャネルはやはり「皆殺しの天使」と呼ばれるにもっともふさわしい女なのだ。男に依存し、男のまなざしの愛玩物となって「家」のなかに秘めおかれた19世紀の女性像を、シャネルほど大胆に、小気味よく覆した女はいない。シャネルのモードは《女》のイメージを一新したのである。」p.91
・「(ココ・シャネルの言葉)女は、愛される以外に幸福ではありえないわ。愛されるということ、必要なのはそれだけ。愛されない女は無にひとしい。女は愛されるためにだけ生きているのだもの。年齢は関係ない。(中略)愛されない女は一切駄目ね。」p.93
・「そう、コムデギャルソンにとって、「つくること」は「くずすこと」にひとしいのである。  それはいったい何をくずすのか? ――西欧で考えられてきた「服」というコンセプトそのものを。」p.95
・「西欧の衣服の技法が身体にフィットすることをめざす「造形性」にあるとすれば、着物は逆にかぎりなく一枚の布にちかい。二次元なのである。着物では、布を人体がまとって、はじめて《かたち》をつくりだす。(中略)つまり、着物という衣服はあくまで《ボディと布の協調》なのである。」p.97
・「そう、女はいまや望めば、《モードの外》に出る自由さえ手にいれている。  ところが、不思議なことに、誰もモードの外に出ようとはしないのである。誰ひとり強制されているわけではないのに――。いったいなぜだろう? ひとはなぜ流行の中にとらわれるのか?  何を着ようと自由なのに?」p.112
・「いったい、ひとはなぜおしゃれをするのだろうか?  実を言えば、この問いに「異性を誘惑するため」と答えると、決まって学生の反論にであっていたのである。「それだけじゃない、ちがう、ちがう」と。」p.116
・「わたしたちは服装をとおして「自分を社会に位置づけたい」のである。あるいは、逆に言うなら、わたしたちは、他人をその外見によって判断し、位置づけているのだ。」p.117
・「わたしたちは、論理的にはまったく矛盾するこの二つの欲望をもちながら生きたいのだ。「同じ」であるとともに、「ちがって」いたいのである。」p.121
・「嫌味な言い方になってしまうが、「教養がじゃまをして」気楽にブランドをもつ気になれないのだ。」p.133
・「ねえ、みなさん、ルイ・ヴィトンって、それもってバスや地下鉄に乗ったりするようなバッグじゃないの! というより、そもそも自分でもつようなバッグじゃないんです。そうなの、ルイ・ヴィトンって、召し使いにもたせるバッグなんですよ!  この日、たまたま教室にルイ・ヴィトンをもって来た学生はフクザツな顔をしてわたしをにらんでいる。わたしは、しらっとした顔で、講義を続ける。」p.133
・「よく言われるように、「モードはめぐる」のである。モードの新しさはたんなる新奇性であって、絶対的な新しさではないからだ。バルトはこのことを見事に語っている。  ――モードは進歩しない。ただ変化するだけだ。」p.146
・「そう、ファッションには理由がない。だからファッションは軽薄でしかありえないのである。」p.153
・「厳密な統計をとったわけではないが、「あなたはなぜおしゃれをするのですか」という問いに、「楽しいから」と答えたのは全員が女子学生だ。」p.155
・「衣服を脱いでも、現れてくるのは身体というもう一枚の衣類である――衣服は身体を覆い隠す仮面ではなく、その仮面を脱いだとしても、もうひとつの仮面が現れるだけなのだ。身体こそ「ファッションの技法」の発揮される対象なのである。」p.169
・「バルトはこう語っている。幾重にも折りたたまれて、紐やリボンで飾られた包みは、どんなに取るに足らない品物であっても、「宝石の場合と同じような豪奢な包装のされかたをしている」。」p.190
・「いずれにしても、ファッションは日ごとの小さな《狂気》。人間がけっして捨てることのできないぜいたく。そう、恋のように……。」p.197

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