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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】古事記の暗号

2009年03月27日 08時00分49秒 | 読書記録2009
古事記の暗号 神話が語る科学の夜明け, 藤村由加, 新潮文庫 ふ-22-3(6425), 2002年
・トラカレ(トランスナショナルカレッジ・オブ・レックス)生のグループによる『暗号』シリーズ第三弾。"易" の思想をベースにして『古事記』を読み解く。『いなばのしろうさぎ』から始まり、『やまたのおろち』、大国主神の冒険から国譲りの場面まで。
・「その言葉のこじつけはいくらなんでも強引では!?」とツッコミたくなるような場所が無いでもないですが、古事記の世界が楽しく生き生きと紹介されています。その著作を『トンデモ本』と見なすむきもあるようですが、内容の真偽はともかく、原文ではとても読む気になれない古事記のエキスを平明な言葉で語ってくれて、興味を持たせてくれるという点では良い入門書だと思います。
・易の用語が頻出し、ついていけずに少々げんなりする個所あり。
・『人麻呂の暗号』は既読。"ヒッポ" や "トラカレ" などは『フーリエの冒険』でその存在を知る(冒険シリーズ三部作も既読)。
・「『古事記』は、『万葉集』『日本書紀』とともに日本で文字として残っている最古の文献である。神代に始まり、日本の国生みが書かれ、神から天皇に至る物語が綴られ、さらに連綿と続く天皇の時代へと入っていく。日本の正史とされているものである。」p.11
・「ここで驚いたのは古事記の前にもいくつかの記録があったという記述である。それぞれの家に伝わっている系譜、伝承などが沢山あったということだ。考えてみればそれ以前に何もなかったということの方がはるかに不自然だ。  私たちも記紀万葉に出合う前は古事記からすべてが始まったかのように錯覚してしまっていたが、当然それ以前に集積していた文献が山ほどあったのだ。」p.12
・「それにしても天皇が登場してからはまだしも、神代の話がほんとうの話だと思っている人は誰もいないだろう。日本の国土が生まれ、神々が生まれ、国作りをしたという日本国創世の物語である。建国の義を正しく記そうとした話の中に、なぜ子ども向けのような説話が書かれているのだろうか。私たちはたちまちその不思議にとりつかれていったのだった。」p.15
・「を構築している哲理はシンプルなものである。初めに、分割することのできない混沌とした状態があると考え、それを太極と呼び、そこからすべてのものが生まれていくと考えたのだ。(中略)太極から生じるのは、陰と陽の二気で、すべてのものをこの陰と陽の二気に還元できるものと考える。(中略)太極から生まれた二気は、さらに陰と陽に分かれ四象となり、その四象がまた陰と陽に分かれ、八卦(はっけ)となる。」p.25
・「それが古事記の中枢思想だと宣言しているようなものだ。古事記の中には易の思想が脈々と流れているということになる。私たちは、大きな航海に出るための羅針盤を手に入れたように感じていた。」p.42
・「天武らが実現しようとした伊勢神宮の遷宮に象徴される恒久の象形は、日本の正史としての古事記の編纂の意図と、くっきりと重なっているような気がしたのである。」p.47
・「「いなばのしろうさぎ」などの説話をはじめとする古事記の編纂は、当代きっての秀才や天才が打ち込むに足る知的大事業だったはずである。正史を編むという目的にそぐわない文を一行たりとも載せるはずはない。」p.66
・「ところが古事記の神々の世界では、名と実体とが寸分違わず結びついている。表面的に付けられた名前ではなく、名前そのものが物語を組み立てる要素として、あらかじめ役割を担っているからだ。だから神々の名前には、必ずその神が何の神かということの由来が明記されている。」p.69
・「易の宇宙観は天と地とが両極を為している。卦(か)の形を見れば一目瞭然だ。卦を形作る陽を表わす●印と陰を表わす●印を爻(こう)という。爻がすべて陽の「乾為天」(●)とすべて陰の「坤為地」(●)、純陽と純陰の卦が始まりにくる。」p.71
・「もしこの説話の大意を、枝葉を取り除いた一文で表わすならば、  「大国主神は、傷ついた兎を元通りに治してあげた」  ということになるだろう。」p.78
・「「子」を出て「子」に帰る時の折り返し地点、それは十二支の円上でいえば、対極に位置する「午(うま)」の位置をおいては外にない。(中略)普段何気なく使っている午前、正午、午後といったことばにも、その痕跡が残されている。」p.94
・「八俣大蛇とは、自然の中で荒れ狂う川の氾濫を象徴する姿だった。」p.135
・「なぜそこまで権力者は陶器に固執し、また陶器が王者のシンボルたりえたのか。それは土と水や火などの絶妙なバランスの上に結晶する陶器を、陰陽と五行の理が凝縮したものとして見ていたからではなかったか。」p.174
・「トラカレではここ数年、"DNAの冒険" に取り組んでいる。"ことばと人間を自然科学する" という大きな命題のもと、ことばとそのことばを話す人間を自然の営みとしてさまざまな角度から捕らえ直すことにチャレンジしている私たちの小さなカレッジで、今、進行中の冒険である。」p.220
・「井戸の周りには人が集まり、周囲に住居ができ、位置が立つので、「市井」と言った。」p.246
・「天気は申し分なく、すばらしい夕焼けが期待できそうだ。  「私たちの行いがいいからね」  誰かのこんな都合のいいことばにも、易を感じてしまう。人のふるまいが、自然界の動きと相関しているという捉え方が易にあるからだ。異常気象や天災が起こる時は、天命を受ける君主の政治にも問題があるということになる。」p.260
・「それにしても、かかしが古事記に登場するのには本当に驚いた。そんな時代からかかしは存在し、今に至っているのである。千数百年もの長きにわたって、雨にも負けず、風にも負けず立ちつくし、私たちの暮しを裏から支えてくれていた。(中略)あらためて考えてみると、かかしというのは不思議な存在である。確かに稲田に人間に似せた人形を立てれば、天敵の雀が怖がって、多少は追い払う効果があるのかもしれない。だがそれなら、なぜ決まって一本足なのだろう。二本足にしたほうが、よほどリアルに思える。」p.289
・「古事記神代は天の国である高天原と、地の国、葦原中国、そして死者の住む黄泉国という三つの国で構成されている。」p.313
・「ところで、出雲の地を語る時、忘れてならないのが「神在月」の存在だ。ふつうは「神無月」である十月を、ここ出雲だけは神在月という。十月になると、日本全国の神々たちが出雲に集まってきて、会議をする。留守番をしている神もいたらしいが、ほとんどの国ではその神が出かけてしまうので神無月というのに対して、その神々が一堂に会する出雲の方は、神在月となるわけである。」p.339
・「古代中国の哲人・老子は、人間のあり方の理想として、「嬰児のごとく柔弱であれ」と説いている。  柔弱の「弱」の字には今でこそ誰にも「弱い」のイメージしかないが、その源義はその作字に弓が二つ入っていることからも解る通り、弓のようにしなやかであれということである。」p.354
・「古事記神代は、イザナキとイザナミの結婚に始まり、国生みが成され、沢山の神が生まれた。天上においてのスサノオは乱暴者だったが出雲では英雄だった。大国主神の国譲りの後に天孫が降臨するが、またまた奇妙な猿田毘古なる神が登場する。そして、海幸、山幸の話で神代は終わる。その先にも、三輪山の神である大物主神にまつわる不思議な話がいくつも続き、さらに先では、倭健命が活躍する。」p.356
●以下、解説(赤瀬川隼)より
・「藤村由加は『人麻呂の暗号』によって突然名を現わした。いずれも若い四人の女性の姓名を組み合わせて作ったペンネームである。いったいどんなグループなのか。」p.357
・「こう考えると、処女作『人麻呂の暗号』は生まれるべくして生まれたといえる。そしてこの本には、韓国語を従来の外国語学習法で学んだだけでは到底発見できないような、すなわち母語の自然習得と同じ方法で身につけなければ発見できないような、目から鱗の落ちる発見と洞察が随所に出てくる。果たせるかなこの本は発刊とともに大きな反響を呼び、次々に版を重ねて五十万部の大ベストセラーになった。しかし、一般読者層の熱い関心をよそに、歴史や古代文学の学界はほとんど黙殺の態度を粧おった。」p.361
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【本】潰れる大学、潰れない大学

2009年03月20日 08時13分37秒 | 読書記録2009
潰れる大学、潰れない大学, (編)読売新聞大阪本社, 中公新書ラクレ 51, 2002年
・自身の置かれた状況に非常に強く関連した内容を取り扱った書。大学の抱える、学力低下・経営危機などの問題点を明らかにし、少子化に端を発した大学の定員割れが頻発しだした状況に際し、日本の大学がとる生き残り策の数々を紹介する。
・紹介されるのは先進的な取り組みを行う有名大学が主で、例えば室蘭工業大学などは書中どこにも登場しません。タイトルを借りて言えば "潰れない大学" の紹介のみで "潰れる大学" の実例は無く、内容的に片手落ちの印象あり。「まっ先に潰れるダメ大学ワースト30」と題して具体的校名を挙げ、どこがダメなのかツッコミを入れていくなんて企画はいかが。
・「学生数が半分に減るなら、大学も半分に減らすべきだ」というような単純な主張があってもよさそうですが、そのような主張は見あたらず、「大学数は今のままでどうにか対応できないか」という無茶な前提の下、「潰す」という言葉には極力触れず、腫れ物にさわるような議論に終始し、「いかに大学を減らすか【「遠山プラン」(1)】」という議論が出てこないのが不思議な気がします。大学の内輪でのみの議論による弊害でしょうか。
・「国内のトップクラスの大学に合格する力がありながら、アメリカの大学を選んだ井上君らのような「若い頭脳流出」が増えている。海外留学のイメージは確実に変化している。一流大学のブランドさえも優秀な学生を引きつける力を失ってきている。学び、研究する場として日本の大学が見捨てられつつある。」p.9
・「「学ぼうとしない学生はいらない」  これが大学は教育・研究の場である、という根源的な位置付けに対する当たり前の大学側の宣言だ。普通に勉強すればクリアできるレベルなのに、それさえ怠っている粗悪品は国立大として社会に出せない、という思いがある。」p.29
・「直接的な教科の学力低下に加えて、六割以上の大学が学生の「日本語能力」の低さに戸惑っている。大学の運営でもコミュニケーション能力の低下が障害の一つになっている。読む・書く・話す。友達同士、家庭などでの日常生活を送るうえで不足はないが、高等教育を受け、高度なことを表現するのに必要な技術が欠けている。論文を読んで「君、意味が通じないよ」と指導しても、学生からは「どこがおかしいんですか。友だちは分かると言っています」という言葉が返ってくる状態だ。」p.38
・「大学や企業からは学生の学力低下を憂い、嘆く声が聞こえてくるが、教員への批判も強い。教員は自分の研究には熱心だが、教育には関心が低いという声は依然としてある。学生からプロ意識がない、使命感がない、休講が多い、授業は退屈なのに出席で学生を縛りつける、十年一日の教科書を棒読みする、論文・研究発表しないなどと、無気力、不まじめ、意地悪、マンネリ、楽勝、不勉強教授のレッテルを貼られる教授もいる。教授の中からさえ「大学教授は三日やったら辞められない」というつぶやきがもれてくるのだ。」p.66
・「「遠山プラン」と呼ばれる方針の主な内容は、次の三項目だ。
(1)国立大学の再編・統合を大胆に進める→スクラップ・アンド・ビルドで活性化
(2)国立大学に民間的発想の経営手法を導入する→新しい「国立大学法人」に早期移行
(3)大学に第三者評価による競争原理を導入する→国公私「トップ30」を世界最高水準に育成
」p.84
・「文科省は2002年1月、トップ30施策を「世界的教育研究拠点の形成のための重点的支援――21世紀COEプログラム」と変更することを決めた。「トップ30」が「大学の序列化などの誤解を招いた」という判断からだった。」p.94
・「日本の企業、大学の双方にとって産学連携のメリットは大きい。出口の見えない不況の中でリストラを余儀なくされている企業はR&Dや基礎研究に投資する余裕はなく、新製品のヒントとなる大学の成果は貴重だ。少子化で生き残りをかける大学は、成果の見返りとして競争的外部資金を受け取れる。」p.149
・「研究室の成果がビジネスに育つまでには、相当距離がある。そこで、大学と企業の間のギャップを埋めるのが役割で、実用化や量産化のための仕掛けづくり、マーケティング調査などを手掛けている。」p.151
・「しかし、これだけ大衆化が進んだときに、大学すべてが知の殿堂だと言っていられるでしょうか。大学はもはや高等大衆教育の場であることを強く認識しなければならない。」p.188
・「十年ぐらいまでの短い将来を目指すなら、大学だけじゃなくて、国立あるいは私立の研究所で十分できると思います。企業でできます。  でも、二十年先、三十年先、五十年先の学問はどうあるべきかということを考えられるというところは、私は大学しかないと思う。」p.192
・「学生と格闘する気持ちで責任を持って教えているのかと、疑問を感じる先生が私学も含めて多くの大学で70%くらいいると思う。いったん助教授とか教授になると、セクハラ事件でもない限り辞めさせられない。教え方が悪い、内容がない、研究のレベルも上がらない、という先生方をずっと教授に置く必要があるのかどうか。」p.206
・「結局のところ、私立のほうが焦りの色が強く、やれることはやろうという姿勢が見える。これに対し国立の回答には、これからもなんとか存続するだろうから、内部で比較的やりやすい改革を行なえばよいだろうという方向性が表れている。」p.244
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【本】我が父たち

2009年03月12日 08時01分20秒 | 読書記録2009
我が父たち, 津島佑子, 講談社文庫 166-1(A585), 1980年
・古本屋の書棚をぼんやりと眺めていて「津島」の苗字に反応してしまい、手に取った本。同著者の作品は初見。
・初期の中編を三編(『壜のなかの子ども』、『火屋(ほや)』、『我が父たち』)収録。いずれも "夢の中" のような不条理世界の風景。一度読むだけでは話がよく分からず、本当なら読み返すべきですが、そこまでする価値も感じられずに割愛。どれか一冊選ぶとすれば、もっと最近の作品を読むべきだったかもしれません。
●『壜のなかの子ども』
・「彼女の唇は微かに震えながら、男の太い指を待ち構えている。それを強く握っている柔かい指。ささくれで血の滲んでいる爪、彼女の唇に指がくわえられる一瞬、男は身震いして眼をつむった。思ったより渇いた唇に上下を挟みこまれると、指の先端はすぐに温もった湿気に包みこまれた。熱い舌の先が喉の奥から辷り降りてくる。一旦、唇のところまで試し試し嘗め通してしまうと、それでもう砂糖の甘味は伝わったのか、硬くなっていた舌が急に柔かくなり、その濡れた肉に指を溶かせこもうとでもするように、せわしなく幾度も下から上に往復しはじめた。早くも、指はふやけていくようだった。」p.29
・「危険がなく、しかも珍しい動物はいじめられなければならない。子どもたちの間にこんな無線通信が通い合っているようだった。」p.63
●『我が父たち』
・「母親の反対語は自由なのだ、ということを最近発見した。」p.173
●解説(利沢行夫)
・「彼女は、はじめからきらきらとした才能の断片をふんだんにちりばめた作品を書いてはいたが、うまい作家という印象を与えはしなかった。少なくともわたくしには、そう思える。」p.208
・「津島佑子は、多くの場合、このようにあるものの存在の意味を、その不在を通して効果的に描き出そうとする傾向がある。」p.217
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【本】解剖学個人授業

2009年03月09日 08時01分51秒 | 読書記録2009
解剖学個人授業, 養老孟司 南伸坊, 新潮文庫 み-29-3(6646), 2001年
・南伸坊の『個人授業』シリーズ第三弾、養老孟司を先生に迎えての解剖学講義。
・『解剖学』と聞くと、生物の体をメスで切り開いて、中がどういう仕組みになっているかを調べる学問というイメージでしたが、本を読んでみると話はそう単純ではないらしい。文中に「どこを探しても、「解剖学」などという「実体」が、現実にころがっているわけではない」の言葉があるとおりハッキリした答えは得られませんが、これは飽くまでも養老氏独自の解釈であり、教師が違えばまた全く別な答えが得られるのではと思います。養老氏の懐く解剖学を通した思想を語る部分が主な内容なので、解剖学についての系統だった解説書と思って手に取ると拍子抜けしてしまうでしょう。
・「笑うと、頭がはたらいてる気がする。笑った時に、人は何かを考えているというのが私の持論です。」p.9
・「解剖学というのは、そもそも、わかりたくてはじまったのである。自分のからだの中がどうなってるか解かりたい。字の意味を調べると、解も剖も分ける、分かつという意味だ。そうして、そもそもわかるというのは、分かるのだし、解かるのだ。」p.21
・「先生が、ここで何をおっしゃっているのかというと、人間は「なぜ解剖をはじめたか」ということなのだった。それは人間がことばを使うからである。ことばには、ものを切る性質がある、そして、人間は頭の中で考えたことを、外に実現する癖がある。しかるが故に、解剖ははじまったのだった。」p.27
・「人間の死体を解剖して、中身を見てみる。というのは、日本ではなんとなく禁じられていて、江戸時代のなかばまで、一人としてやってみようと思う人もなかったらしい。」p.46
・「私たち解剖と歴史のシロートは、日本の解剖学の始まりは、杉田玄白だと勘違いします。(中略)日本で初めて解剖をしてみたのは、山脇東洋という漢方医でした。」p.48
・「ともあれ歴史が面白くなるためには、自分自身に歴史ができてくる必要がある。以前は俺もそう考えていたんだけど、あの頃から考えが変わったなあ。それがないと、歴史は面白くならない。自分の考えが変わるということは、いわばそれ以前の自分が死んで、別な自分が生まれることである。それを何度かくり返すと面白くなる。ゲーテはそれを「死んで、生まれ変われ」といったらしい。」p.55
・「耳の進化っていうのは、よく理解されていない面が多いんですよ」p.62
・「やるべきこと、知るべきことが、解剖学というできあがった形で自分の外側に存在している。そう思っていたのがいけない。どこを探しても、「解剖学」などという「実体」が、現実にころがっているわけではない」p.69
・「形というのは、いろんなことを教えてくれる。解剖学というのは、形を考え、形に教えられる学問だということもできそうです。」p.78
・「真面目でなければ学者にはなれないが、真面目一方では、おそらく真の学問はできない。だから学者に学問ができないのかもしれない。」p.80
・「「キンタマはどうしてブラ下がってんだろ?」  と思っても、すぐにそれは「温度調節」のためだと、答えが用意してあって、そこで落着いてしまいます。  「それは解剖学的難問なんですよ」と、養老先生はおっしゃいます。それって?  「睾丸ですね、男の精巣。何で外にブラ下がっていなければならないか。(中略)温度調節説つまり温度が低くないと精子形成がうまくいかないというのは、多分、話が逆ですね。外に出て来てブラブラしてる結果として、低い温度が適温になったんだと」  そういえば、女の人のオッパイも、あれ膨らんでる必要ないっていいますね。」p.82
・「ポルトマンは形を二つに分けるんですね。フォルムゲシュタルトという風に呼んだ。フォルムというのは、機能的な形態。モグラの手とオケラの手が似てくるというのは、フォルムに近い。ところが、外の姿かたちを変えるゲシュタルトというのは、これはいろいろ違う。例えばバクの模様、あるいはクジャクの羽に出てくる目玉の模様とか、あんなものはゲシュタルトです。あれは見る相手を想定しないと全く意味のないものなんですね。バクの模様なんか、何であんな黒白の二色なのか、パンダもそう、わからないでしょう。」p.88
・「生物の信号の問題は、よくわからない。私の先輩は大学で解剖学を教えていたが、「こういうことは、よくわかっておりません」というのが口癖だった。(中略)余生があれば、私は信号の問題をもっと突き詰めてみたい。信号を受け取るのは、最終的には脳で、だからこれは脳の問題なのだが、信号にはいったいどういう必然性があるのだろうか。」p.92
・「「なんでかって、そりゃ、そういうふうになってるからさ」とすましてしまえない。なんで我々は美人を美しいと思い、赤ン坊をカワイイと思うのか?」p.95
・「形は信号機能を持っている。いままでの科学はこれを上手に取り扱っていない。(中略)信号機能の研究は、広義の情報科学に属する。この科学が自然科学か、人文科学か、社会科学か、よくわからない。私はこれを脳科学だと思っている。ただし、厳密な意味での情報科学は、まだできていないらしい。いまのところ情報科学は工学がほとんどで、生物などあまり扱われないのである。」p.104
・「たとえば僕は無限という概念を考えるんですよ。数学には無限という概念が絶えず出てくる。それじゃ、脳の中に無限があるのかって話になるでしょ。そうすると、どうもないような、無限を脳の中に持ち込むと、なかなか難しいような気がする。  脳は少なくとも『有限個』ですからね。」p.112
・「自然科学は実証そのもので、それ以外のものではない。頭のなかの規則と、外の世界の規則の対応を確認するのが、自然科学の役目なのである。それだけのことだが、それを知るのに、何十年かかかった。」p.114
・「ともかく、養老先生のアングルから見る、つまり解剖学のほうから、身体のほうからモノを見るっていう視点が、もっとも私たちに欠けていて、だからそれが「思いあたるフシ」がありながら、とても奇抜な見方に見えてしまう、ということなのだった。」p.46
・「ウィーン出身の哲学者カール・ポパーは、世界を三つに分けた。世界1とは、事物の世界、われわれがふつうに外界とよんでいる世界のことである。さらにポパーは意識というはたらきの世界を世界2、表現の世界を世界3と呼んだ。ポパーはこの世界3を、われわれの精神が生み出すものとした。」p.154
・「脳にはあるが、コンピュータにはないと、しばしばわれわれが考える「感情」、これはじつは脳という入出力系にかかっている重みづけなのである」p.163
・「現実とは、ある特定の重みづけをされた世界像である。  <入力系に基づいて、われわれの脳は世界像を形成するが、そのある一つに対して、究極の重みづけをする。それを私は現実と呼んだ。」p.164
・「私の考えでは、哲学というのは、自分が「死ぬ」ということの、わからなさをなんとかわかりたいという気持がさせるのであると思います。」p.173
・「結局私は、私にとって最良の先生に、最高の授業を受けたのにも拘わらず、何ひとつ、具体的には「うけうり」するほどの知識も身につけずに、こんなことになってしまったわけですが、なにかをわかることは、ものすごくたのしい、なにかをわかることは、ものすごくおもしろい、学問というのは「面白主義」だ! という、かわりばえのしない一つの歌を、さらに大声でがなりたてる自信を、植えつけていただいたような気がします。」p.177
・「この講義録を読んだら、脳はどこまでわかりましたか、などという馬鹿な質問はもうしないでください。学問に終わりはないのです。」p.180
・「養老 解剖で苦手なのは、脳と免疫です。形がないですから。」p.187
・「南 そういえばセミが病気になったっていうのも聞きませんね(笑)。出てきたと思ったらすぐ死んでしまう。そう考えると、ヒトの免疫は病気を防ぐというより治すという役割が強いみたいですね。
養老 病気になると、わけのわからない症状が出て困るから取り立てて病気と言ってますが、自分で治る場合がかなりあります。ぼくはかなりの割合が本当は「平気」なんじゃないかと思います。
南 医者に行かずに病気が治ったっていうのを特別なことのように思っちゃいますが、実は病気は自然になおるっていうのが常態で、そこをもっと早く治そうとか、痛かったりするのが嫌だからいろいろしてるんですよね。
」p.188
・「南 医者に診てもらえばそれだけで治っちゃう人もいるんじゃないですか。そうなるとほとんどフィリピンの心霊治療と同じレベルですね。
養老 だからぼくは癌の告知にあんまり賛成じゃないんです。医者にあと三ヶ月で死ぬっていわれたら、三ヶ月で死にますよ。特に日本人は律儀ですから(笑)。
」p.190
・「解剖学の方法論とは、形の解析である。」p.194
・「なぜ定年前に東大を辞めたのかと聞かれることがある。その理由は一つ、死体が自分に見えてきたからである。(中略)解剖をしているとき、なんとなく人間と思ってしまう。自分の手を握って自分を解剖している感じは、ある意味では自慰的な行為で、そこには、客観的な行為はなくなる。解剖の看板を下げているのに、その学問に対して客観性がなくなれば、それは嘘ではないかという気持ちになった。それが本音である。」p.201
・「社会的概念としての死が先行し、それを修正するものとして、生物学があとから生じたのだから、死の議論は社会的な側面が中心となって当然である。すでに述べたように、生物学は生死を完全には規定できていない。その意味でも、生死という話題は、社会的となるほかはない。医学・生物学の問題と、社会の問題が錯綜するところに、死に関する議論の困難がある。」p.207
・「死体にはじつは三つの種類がある。その第一は、自分の死体である。(中略)第二はきわめて親しい人、親子兄弟のような関係にある人の死体である。(中略)第三は、通常考えられている意味での「ふつう」の死体である。」p.210
・「幼い自分にとって、父親の死を完結させるべき行為として、「父にサヨナラを言う」ことがあったはずなのに、それを中断した。もちらん意識的に行ったことではない。しかし、結果として自分のなかに封印してしまったことになる。」p.213

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【本】アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

2009年03月05日 08時04分40秒 | 読書記録2009
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?, フィリップ・K・ディック (訳)浅倉久志, ハヤカワ文庫 SF テ-1-1(SF229), 1977年
(DO ANDROIDS DREAMS OF ELECTRIC SHEEP?, Philip K. Dick, 1968)

・SFの古典的名作。その謎めいたタイトルは、いろいろな作品で模倣されている。舞台は1992年、最終世界大戦後の死の灰の降り積もるサンフランシスコ。警察に雇われた賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)であるリック・デッカードが、火星から地球へ逃亡してきた8体のアンドロイドを追う。単なるSFに留まらない、「人間とは何か?」という哲学的問いを含んだ内容。
・「(録音)テープ」、「"重い" テレビ」、「ソ連」、「"交換手" 付きの映話(テレビ電話)」、などなど近未来にしては多少時代錯誤とも思える言葉がチラホラ出てきますが、60年代から想像した90年代の世界はなかなか興味深い。
・本作が原作の、SF映画の金字塔と評される映画「ブレードランナー」は是非見てみたい映画です。
・「[オークランド発]  探検家クック船長が、1777年、トンガ王に贈ったというわれるカメが、昨日死亡した。二百歳ちかい高齢であった。  テュイマリラと名づけられたこのカメは、トンガ諸島の首府ヌクアロファの王宮内で飼われていた。  トンガ島民はこの動物を首長として敬い、その世話のために特別飼育係が任命されていた。カメは数年前の失火いらい盲目であった。  トンガ放送の伝えるところによると、テュイマリラの遺骸は、ニュージーランドのオークランド博物館に寄贈されるとのこと。  ロイター通信、1966年」p.4
・「「ちくしょう」リックはからの両手をふりながら、よわよわしくいった。「おれは生きた動物を飼いたい。いつも手に入れようと努力してきた。だが、おれのサラリー、市の公務員の給料じゃ、しょせん――」」p.20
・「この問題に関連して、戦争兵器のひとつであった<自由の合成戦士>に改造がほどこされた。異星環境下でも作業できる人間型(ヒューマノイド)ロボット――厳密には有機的アンドロイド――は、かくして植民計画の補助エンジンとなった。国連法によって、すべての移民は各自の選択する形式のアンドロイド一体を、自動的に無料貸与されることが定められ、1990年までには、アンドロイドの種類が、あたかも60年代のアメリカ製自動車のように、理解を絶するほどの細分化をとげていた。」p.24
・「イジドアは一年あまり前から特殊者(スペシャル)の仲間入りをしており、しかもそれはゆがめられた遺伝子のせいだけではなかった。もっと悪いことに、精神機能テストの最低基準にも合格できず、俗にいうピンボケの部類に入れられてしまったのだ。」p.27
・「アンドロイドが、感情移入度測定検査にかぎって、なぜ無残にも馬脚をあらわすのか――たいていの人間が一度はいだくその疑問を、リックも考えてみたことがある。ある程度の知能が、クモ類を含めたあらゆる門と目の生物種に見いだされるのに対して、感情移入はどうやら人間社会だけに存在するものらしい。ひとつには、感情移入能力が完全な集団本能を必要とするからだろうか。たとえば、クモのような独居性生物はそんなものに用がない。それどころか、あればかえって生存能力の障害になる。クモが餌食の身になって考え、相手の生きたい気持をおもいやったりしたらたいへんだ。これはクモだけでなく、あらゆる捕食者にいえることで、猫のように高度な発達をとげた哺乳類でも餓死せざるをえなくなるだろう。  感情移入(エンパシー)という現象は、草食動物か、でなければ肉食を断っても生きていける雑食動物にかぎられているのではないか――いちおうそんなふうにリックは考えている。」p.41
・「キップルってのは、ダイレクト・メールとか、からっぽのマッチ箱とか、ガムの包み紙とかきのうの新聞とか、そういう役に立たないもののことさ。だれも見てないと、キップルはどんどん子供を産みはじめる。たとえば、きみの部屋になにかキップルをおきっぱなしで寝てごらん、つぎの朝に目がさめると、そいつが倍にもふえているよ。ほっとくと、ぐんぐん大きくなっていく」」p.84
・「内助どころか、とリックは思った。おれがいままでに見てきたアンドロイドの大半は、女房よりよっぽど意欲と生活力を持っていた。女房ときたら、おれになにも与えてくれない。」p.122
・「フィル・レッシュは一枚の油絵の前で立ちどまり、異常な興味でそれを見つめた。梨をさかさまにしたような頭で、一本も髪の毛のない、うちひしがれた生き物が描かれている。その手はおそろしげに耳を押さえ、その口は大きくひらいて、声のない絶叫をもらしている。その生き物のひきゆがんだ苦悩の波紋、絶叫のこだま、そんなものがあたりの空気にまであふれだしているようだった。男か女か、それさえもよくわからない生き物は、おのれの絶叫の中に封じこめられている。おのれの声に耳をふさいでいる。生き物は橋の上に立ち、ほかにはだれの姿もない。生き物は孤独の中でさけんでいる。おのれの絶叫によって――あるいは、絶叫にもかかわらず――隔絶されて。」p.167
・「アンドロイドも夢を見るのだろうか、とリックは自問した。見るらしい。だからこそ、彼らはときどき雇い主を殺して、地球へ逃亡してくるのだ。奴隷労役のない、よりよい生活。たとえばルーバ・ラフトのように<ドン・ジョバンニ>や<フィガロの結婚>を歌うほうをえらぶのだ。不毛な岩だらけの荒原、もともと居住不可能な植民惑星で汗水たらして働くよりも。」p.236
・「「クモって、一度も見たことがないんだもの」プリスがいった。彼女はくぼめた手のひらにくすりびんをのせて、中の生き物をのぞきこんだ。「まあ、たくさんの脚。どうしてこんなにたくさんの脚がいるのかしら、J・R?」  「クモってそんなふうにできているんだ」イジドアはいった。胸がどきどきして息がつけなかった。「もともと八本脚なんだよ」  プリスは立ちあがりながらいった。「わたしの考えを教えてあげましょうか、J・R? この虫に、こんなにたくさんの脚はいらないと思うわ」  「八本?」とアームガードがくちばしをいれた。「どうして四本じゃたりないの? ためしに四本切ってみたらどう?」思いついたようにハンドバッグをあけると、いかにもよく切れそうな爪切り鋏をプリスに手渡した。  異様な恐怖がJ・R・イジドアをうちのめした。」p.264
・「「なにもかも真実さ。これまでにあらゆる人間の考えたなにもかもが真実なんだ」」p.290
・「電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」p.309
●以下、訳者あとがきより
・「つまり、ディックは、感情移入を人間の最も大切な能力と考えているのです。本書の中での共感(エンパシー)ボックスの役割も、また、人間とアンドロイドとの鑑別に感情移入度検査(テスト)が使われている理由も、これでなっとくできます。」p.315
・「火星から脱走してきた八人のお尋ね者のアンドロイドとそれを追う警官――という、一見アクション・スリラー風なプロットを土台に、「人間とは何か?」という大きなテーマに取り組んだのがこの長篇なのですが、ディックのトレード・マークである目まぐるしい展開とアイデアの氾濫をいくぶん抑えて、ユーモアの衣をかぶせてあるために、違和感の少ない、親しみやすい小説になっています。」p.316

?ぞろっぺえ いい加減なこと。疎略なこと。また、そのさま。あるいは、しまりのない人。
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【本】哲学入門

2009年02月27日 08時01分03秒 | 読書記録2009
哲学入門, 三木清, 岩波新書(赤版)23(R8), 1940年
・日本哲学界におけるビッグネームによる『哲学入門』。これまで同タイトルの書籍はたくさん出ているでしょうが、その中にあって本書は一番のロングセラーではないでしょうか。内容については全く歯が立たず、その一割も理解できていないのではないかというところですが、さらっと通読するのではなく、一頁一頁じっくり考えながら読むタイプの本です。また、『哲学 "知識" 入門』でもなく『哲学 "経験"・"思考"・"雰囲気" 入門』、 本を開くと『哲学の薫り』が顔面を直撃する、そんな本。
・あまりにシンプルな巻末の著者略歴が異様。
・「哲学入門は哲学概論ではない。従ってこれは世に行なわれる概論書の如く哲学史上に現れた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、或いはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少なくとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。」p.i
・「すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基づく勇気を喚び起こすものでなければならない。」p.ii
・「或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生まれる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。」p.1
・「哲学は現実に就いて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。」p.2
・「ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。」p.3
・「哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。」p.3
・「即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。」p.7
・「「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。」p.8
・「人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。」p.12
・「カントに依ると、アルヒテクトニックとは「体系の技術」であり、知識は一つの理念のもとに、全体と部分の必然的な関係において、建築的な統一にもたらされることによって科学的となるのである。」p.23
・「常識は探究でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。」p.34
・「科学は理由或いは原因の知識である。」p.41
・「科学性は合理性と実証性という相反するものの統一である。」p.47
・「弁証法という語はもと対話を意味するギリシア語の「ディアレゲスタイ」に由来している。対話においては互いに他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。」p.49
・「科学の根拠を明らかにすることが哲学の仕事であるとすれば、それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって肝心なのである。」p.53
・「科学は分科的であり、専門的である。それが特殊科学とか個別科学とかといわれるのもそのためである。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。」p.53
・「かようにして哲学が主体的立場にたつというのは、要するに、現実の立場に立つということである。真に現実といわるべきものは歴史的現実である。人間は歴史的世界における歴史的物にほかならない。我々の一切の行為は、経済的行為の如きものであろうと、芸術的行為の如きものであろうと、或いはまた科学的研究の行為の如きものであろうと、すべて歴史的世界においてあるのである。」p.66
・「哲学は学の要求において科学と同じであり、科学の媒介が必要である。科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するが、かように自己に対立するものを自己の否定の契機として自己に媒介し、これを自己のうちに生かすことによって、哲学は真に具体的な知識になり得るのである。哲学の仕事は、新カント派が考えたような意味での科学批判、即ち単に科学の論理的基礎を明らかにするという形式的な仕事に尽きるのでなく、科学的世界像に媒介された世界観を樹てることを究極の目標としている。」p.69
・「知識は如何にして成立し、如何なる性質のものかということは、哲学における一つの重要な問題である。この問題を研究する哲学の部分は認識論と呼ばれている。認識というのは知識というのと同じである。」p.71
・「真理とは普遍妥当的な知識にほかならない。普遍妥当性とは、時と処に拘らない普遍性、またすべての人が必ず承認しなければならぬ必然性を意味している。」p.72
・「近代科学の最も重要な方法は実験である。学問の方法として古代においてソクラテスが概念を発見したのに対して、近世においてレオナルド・ダ・ヴィンチは実験を発見した。実験はたんなる経験と異なっている。」p.95
・「しかるにまさに歴史が絶対的真理のないことを我々に教えるようである。知識はそれぞれの時代に相対的である。哲学にしても時代の子である。懐疑論も、絶対論でさえも、その時代の産物であるといわれるであろう。かように、すべてのものは歴史的に制約されていると考えるのが歴史主義の立場である。」p.142
・「一切のものは世界から作られ、世界を表現し、世界においてある。それらは多であって同時に一なるものとして表現的である。一切のものはそれぞれ独立でありながら互いに他を指示している。表現的なものは多様の統一であり、一即他、多即一ということを原理としている。表現的なものは超越的意味をもっている。」p.148
・「かようにして我々の認識は絶対性をもつことができるのである。もとより我々の知識に相対的なところがあることは争われない、しかし相対と抽象的に対立して考えられる絶対は真の絶対でなく、真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、恰も機械が我々の発明に属する如く、発明的なものである。」p.148
・「行為に関する哲学的考察は、実践哲学、或いは道徳哲学、或いはまた倫理学と呼ばれている。」p.167
・「すべての道徳は、ひとが徳のある人間になるべきことを要求している。徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳はなによりも働きに属している。」p.185
・「我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意思である。」p.198
・「そして一般に知識の目的が真理であるように、道徳的行為の目的は善と呼ばれるのである。そこで善とは何かということが道徳の根本問題になってくる。」p.199
・「人間は与えられたものでなく形成されるものである。自己形成こそ人間の幸福でなければならぬ。「地の子らの最大の幸福は人格である」、とゲーテはいった。我々の人格は我々の行為によって形成されてゆくのであるが、それは単なる自己実現というが如きことではない。(中略)人間には超越的なところがあり、人格というものも人間存在の超越性において成立するのである。」p.208
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【本】漢語の知識

2009年02月24日 08時02分38秒 | 読書記録2009
漢語の知識, 一海知義, 岩波ジュニア新書 25, 1981年
・「勉強」、「先生」、「文化」、「流行」など、日頃何気なく使う言葉を中国の古典にまで遡りその生い立ちや意味を平易な言葉で解説する。一応、若い人向けに書かれた本ですが、大人が読んでもナルホドと思う個所がいくつもあり、読み応えは十分です。内容は単なる「漢語の雑学集」にとどまらず、「自らのルーツ(祖先)」についてまで考えさせられました。漢字文化の豊かさ、素晴らしさを感じさせられます。おもわず「日本人でよかった……」と呟く。
・多数引用される漢詩の読み方に慣れず、一苦労。もう少しすんなり読めるようになりたい。
・タイトルを『漢字』ではなく『漢語』としてあるところがミソ。
・「以上の三例、「有終の美を飾る」「春眠暁を覚えず」「手に汗を握る」は、いずれも中国の古典にもとづくことばですが、」p.vii
・「ところで中国の古典のなかには、名言やことわざがたくさん出てきます。しかしそれらはあまりとりあげまんせんでした。なぜならその類のことばについては、すでに多くの本が書かれていますし、ちょっとしらべれば、手軽に意味がわかるからです。この本では諺の類もすこしはとりあげましたが、むしろ名言集などには出てこないような、ごくふつうに使っている漢語、たとえば「勉強」とか、「先生」とか、「希望」とか、「孤独」とか、「青春」といったことばをとりあげ、古典とのつながりについてさまざまな角度から考えてみることにしました。」p.viii
・「ただし、私がこの本を書いたのは、みなさんに物識りになっていただくためではありません。物識り(博識)になるのは楽しいことですし、いいことです。しかしもっと大切なのは、できあいの知識を吸収するだけでなく、対象にむかって疑問をもち、自分自身の手でしらべ、自分自身の頭で考えることです。」p.ix
・「現代日本語の源には、日本と中国の古典という泉のほかに、仏教にもとづくことばの泉があったわけです。この泉はそんなに大きくはありませんが、日本語を豊かにしてきた大切な泉だといえるでしょう。」p.20
・「漢音は、唐代の長安付近(北中国)の発音を日本に伝えたもの、呉音は、それより古い揚子江下流地域(南中国)の発音が伝わってきて日本に定着したものだといいます。」p.34
・「ある漢字の意味がわからないとき、あるいは一応はわかっていても、もう一つはっきりしないとき、みなさんはどうしますか。漢和辞典をひいてしらべるのは手っとり早い方法ですが、ひとりであれこれ考えてみるのも楽しいものです。  そのとき手がかりになるのは、その字をふくむ二字(ときには三字、四字)の熟語です。」p.35
・「ことばは造花ではなく、活きた花です。一つの幹から多くの意味の枝をのばし花を咲かせますが、一つ一つの花は、造花のように血のかよわない花ではなく、たがいに形はちがっても一つの幹から樹液を送られている活きた花、おたがいに兄弟姉妹の花なのです。」p.38
・「「達意」ということばは、『論語』のつぎの一節にもとづいています。
 辞ハ達スルノミ。(衛霊公篇)
 「辞」についてはいくつかの解釈がありますが、ふつうは「ことば」あるいは「文章」をさすといわれています。ことば、文章は、こちらの意思が相手に伝達できればよろしい。達意ということが第一の目的だ。したがって、むやみにかざったり工夫したりすることはいらない。――『論語』の右の一節は、そのように解釈され、やがて「達意の文章」といういい方が、文章に対するほめことばとして使われるようになりました。
」p.46
・「しかしよく考えてみれば、相手への「達」し方が問題です。ただ伝令のように簡単にそっけなく伝達するのでなく、相手の心に深く達して、忘れがたい印象をのこす、そういう文章は、やはりそのための修飾・工夫が必要でしょう。」p.47
・「カッパは漢字で河童と書きますが、カドウと読まずカッパと読むのは、なぜでしょうか。(中略)河=カハ。童=ワラベ=ワラワ→ワッパ。河童=カハ・ワッパ→カッパ。なお、雨合羽のカッパは、ポルトガル語の capa に「合羽」という漢字をあてたもので、河童とは何の関係もないそうです。」p.80
・「そこで中国人は、うわさにきく巨大な象の姿についてあれこれと想像をめぐらし、そこから象ヲ想フ→想象→想像ということばが生まれたのだという話があります。」p.85
・「小学五、六年生のころ、年上の遊び仲間からつぎのような話をきいたことがあります。(中略)「件(くだん)」というのは何か知ってるか。にんべんにウシと書くだろう。顔が人間で体は牛の形をした動物のことなんだ、(中略)「へーえ」と私は目をまるくしてきき、その話を信じこみました。」p.93
・「以上見て来た音だけの漢字、訓だけの漢字、それらは、全部で五万近くあるといわれる漢字全体、ことに日常よく使う感じのなかでは、ごく一部です。したがって、大部分の漢字には音と訓があり、両方を知っていないとその漢字がよくわかっているとはいえません。中国人やヨーロッパ人から見れば、音のほかに訓をおぼえるというのは、煩雑に思えるでしょう。しかし、むかしからいわゆる漢字文化圏の中でくらして来た日本人としては、やむをえません。表意文字である漢字には、ローマ字や仮名のような表音文字にはない便利な面もあり、その便利さと音・訓をおぼえる煩雑さとが相殺されて(プラス・マイナス、ゼロになって)、私たち日本人はあまり不便を感じていないのかも知れません。」p.116
・「「城」という字は、「土」と「成」とからできていますが、「皿」の上に「成」の字を書くと「盛」となり、「土」を「盛」ってつみ上げかためたのが「城」です。城は城壁をさすのです。だから万里の長城へ行っても、そこには姫路城のような日本式の城はなく、ただ石と土をつみ上げた塀(城壁)がえんえんとつづいているにすぎません。だから「万里の長い城(城壁)」なのです。」p.124
・「父の兄を伯父、父の弟を叔父というのもそこから来ていますが、」p.159 この使い分けを初めて知った。
・「そういうやや複雑で微妙なニュアンスを、短いことばでピシッときめる、それが漢語の一つの特徴です。」p.160
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【本】モーツァルトを聴く

2009年02月19日 08時00分53秒 | 読書記録2009
モーツァルトを聴く, 海老沢敏, 岩波新書(黄版)244, 1983年
・学者の視点からのモーツァルト解説書。読むのに集中力を要する重めの文体です。
・モーツァルトに関する文章はこれまでもいくつか目にしてきましたが、今回改めて読んでみると、その昔、高校の音楽の授業(?)で見せられた映画『アマデウス』のイメージがあまりにも強烈だったおかげで、自分の中でのモーツァルト像が歪んでいた事に気づかされました。
・モーツァルトはその生涯で700曲近くを作曲したようですが、考えてみるとそのうち聴いた事があるのはせいぜい70曲、全体の1割もあるかどうかではないかと思います。その音楽に接する機会の多い趣味を持ちながら、実は「モーツァルトの曲はほとんど知らない」という状態。
・練習しようといつも楽譜を持ち歩いているお気に入りの曲を一つ。未だ楽譜の活躍の場は無し。
YouTube 『MOZART ヴァイオリン・ソナタ』
http://www.youtube.com/watch?v=XYqeG2KUYQk
・「第一楽章を聴いてみよう。この主楽章は、まさに堂々とした全管弦楽の激しい総奏で始められる(図1譜例②)。三たび決然と鳴らされる主音は、なんの衒いも、またためらいもない。それはゼウスの意思のように強固であり、絶対の力を持つゼウスの世界を象徴しているかのようだ。」p.13
・「それではこの『ジュピター』のモットーは、いったいどのような意味を音楽的に担っているのだろうか? <ド・レ・ファ・ミ>という音のつながりが、まことに単純なものであるのは説明するまでもないだろう。四つの音のつながり、それはあたかもギリシアの音楽、そして音楽理論を支えている<テトラコルド>(四音音列)そのものであるかのようだが、単純というよりも、むしろ初源的ともいえるこの音の系列は、モーツァルトが、意識的にも、またおそらくは無意識的にも、たいへん好んだものだった。」p.18
・「モーツァルトの作曲活動は、これに先立って、すでに三年近くも前、彼が五歳となったばかりのころにはじめられたことは、よく知られた事実である。モーツァルトは音楽の勉強を四歳のころ開始している。」p.41
・「それにしても、モーツァルトの場合、疑作や偽作の類がまことに多く、またそれがなにも幼少期に限られない点は注目すべきことである。」p.58
・「だが、音楽作品を享受するには、まことに面倒臭く、不便な手続きをへなければならない。楽譜がたとえ揃っていても、それを使って、演奏家が、鳴りひびく音響として作品を実現しなければならないからである。」p.74
・「こうして、全集版があるというのに、一世紀ものあいだ、おそらくまったく演奏されないで打ち棄てられてきた作品も、けっして少なくなかったことだろう。だが、近年のモーツァルト・フィーバーとでもいうべきものは、逆に、今まで知られていなかった、そうしたひそやかなモーツァルトにも、熱い視線を注ぐようになったのである。」p.75
・「モーツァルトのような現象は、まさに解きがたい奇跡だと漏らしたのは、たしかにゲーテであった。」p.90
・「オペラ作曲家の仕事は、この手紙に書かれているように、洋服の仕立屋の仕事さながらなのであった。直接歌手を前にして、その歌手がどんな声をしているのか、どのくらいの声域を持っているのか、どのくらいの息の長さがあるのかといった点を掴み、その歌手が舞台上で十二分に自分の持ち味を発揮できるようにアリアを作ってやるのが、作曲家の第一の義務なのだった。」p.108
・「たとえば高校生が出演する音楽会のプログラムを見てみるといい。モーツァルトは、皆無とは言わないまでも、寥々たるものだし、またよしんば弾く生徒がいたとしても、ショパンやリストのそれのように音域の幅が広く、圧倒的な音量の前に、それは悲しいくらいみじめな響きになってしまうことがしばしばなのである。」p.136
・「この一節のとりわけ前半は、十八世紀ドイツの代表的哲学者のひとりモーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)の主著のひとつ『パイドーンあるいは魂の不死性について』(1767年)の中に表明された死の捉え方と不思議なほどの一致を示している。名高い十九世紀の作曲家フェーリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ(1809-1847)の祖父であり、今日、高く再評価が叫ばれているこのメンデルスゾーンの著書は、事実、モーツァルトの蔵書の中に含まれていた。モーツァルトがこの哲学書を読んだことは疑いない」p.216 モーツァルトが『哲学書』を読むイメージは無かった。
・「十九世紀から二十世紀にかけて、この<モーツァルト=ジュースマイヤー版>『レクイエム』が、演奏されればされるほど、その響きの汚なさ、補筆部分の稚拙さに対する不満が、とりわけ演奏家、それも指揮者のあいだから噴出することになった。」p.225 お遊びで『レクイエム』全曲を弾いた(Va)ことがありますが、私の場合は正直言って、モーツァルトの絶筆前後の区別が全然つきませんでした。人によっては「明らかに違う」とのたまう方もおられるのですが。
・「だが、私たちがモーツァルトの『レクイエム』を聴く時、私たちが魂の奥底から揺り動かされるのは一体何故なのだろうか。しかも音楽的に大いに問題とされてきた<ジュースマイヤー版>による演奏によっても。」p.227
・「ジュースマイヤーの補筆完成こそ、モーツァルトの『レクイエム』をして、モーツァルトの鎮魂ミサ曲たらしめるにこの上なくふさわしい行為ではなかったろうか。ひとりの人の死が、その死の瞬間に終わるものではなく、残された人たちの心の中でくりひろげられる追悼の行為、そして生者たちの魂の中への追憶として刻み込まれ、定着することによって完結することを、それは端的に示している。」p.230
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【本】少女の器

2009年02月15日 08時01分16秒 | 読書記録2009
少女の器, 灰谷健次郎, 角川文庫 は20-16, 1999年
・多感な時期を過ごす少女・絣(かすり)とそれをとり巻く人々との心の交流を描いた作品。
・同著者の作品はいくつか読みましたが、その中にあって他とは趣の異なる雰囲気です。ハッとさせられる言葉や情景がちりばめられているものの、文章にどこか不自然さ、いびつさを感じる。原因は「ホントにこんな子いるの??」というリアリティの薄さでしょうか。
・表紙絵(宇野亜喜良)は自分の思う "絣" のイメージとはかなり違う。
・「「野生の動物の親子がいるでしょう。うんと小さい時は親からお乳をもらうけれど、後は親も子も平等に生きてるでしょう。親も子も同じ生活をしている。親が子の生活を横取りしたりなんかしないから、子どもははやく自立する。人間と野生の動物は違うからまったく同じというわけにはいかないけれど、人間の親子はそこんとこがさっぱり駄目なのね。しあわせになってもらいたからと親はすぐいうけれど、それは親の価値観を押しつけているだけじゃない。ほんとうは子どもの生活を横取りしているのよ」」p.42
・「「嫌だなァ、パパは。パパの恋人には意地悪なんかしないって約束してあげたのは、つい先日でしょう」  「約束は約束。女はいつもそれを守らない」  「ばかァ」  と絣は男の腰の辺りをぶった。  「それをいうなら、男はいつもそれを守らないでしょう。男の方がいつだっていいかげんなんだから」」p.45
・「「パパ。気を悪くしないでね。こんどのことで、わたし、いろいろなことを思ったんダ」  「例えば」  「例えばねえ」  絣はいたずらっぽく笑っていった。  「りっぱなパパでも憎むことができるし……」  ほうと男はいった。  「駄目なママでも愛することができる」  うーんと男は唸った。」p.65
・「「長い人生のうち、はじめからしまいまで思うままに生きられたという人がいたら、その人は多分不幸な人だろうね」」p.79
・「章子さんとおれとは年が十五もちがうだろ。若い人が結婚して子どもを生みたいと願うのは自然なことだからね。おれが章子さんにできることといえば別れてあげることだけだ」p.86
・「どちらかがどちらかに引きずられて生きるのだけはやめにするよ。そうすればまた、それをくり返すだけだけらね」  と男はいった。」p.86
・「「ほんとのことでも、かなしいことは人の前でいわない方がいいのとちがうの」」p.94
・「「絣はパパ型でもママ型でもないさ。絣は絣型をつくるんだ」」p.125
・「「猫って、いったい何歳くらいまで生きるの」  「普通は十歳から十一、二歳というところかしら。ポポをいただいた広美さんのように根っからの猫好きっていうか、猫に深い愛情をかける人に飼われると、その猫の寿命は長いというわ」」p.126
・「絣ちゃん、猫を飼う人には気をつけなさいよって」  「何よ、それ」  「虚栄心と欲の深い人が多いんだって」」p.129
・「そのとき、はいよゥ、ひらめ、うにィ、という声が飛んで、ふたりの前に、それぞれ注文したものが置かれた。  男がまず頬張り、わさびに鼻をつまらせながら、手の指を二度三度あおるようにして絣にすすめた。  絣は海苔に巻かれたシャリの上のうにを落とさないようにして、器用な手つきでむらさきをつけると、それをそっと口に入れた。  ふたりはしばらく口を動かし、ようやくそれを胃に落とすと、ほっとしたように顔を見合わせ柔らかく笑い合った。」p.139
・「「つくり手というものは作品の値打と世間の評価は本質的に関係ないと思っていないと堕落するってことをいいたかったんだよ」」p.140
・「「書いたことはないけどさ。小説は読んでいるうちはいいけど、書く方の身になってみると、もういっぺん人生を生きてるみたいで、たいへんと思うよ。ああいうものを書くと若者は生き方がややこしくなるよ」  「若い作家だっているぞ」  男はちょっとからかい気味にいった。  「そういうのは病的に頭がいいか、鈍いかどっちかだと思うナ」」p.143
・「人は独りぼっちで生きていけないの。誰だってよ。たくさん愛されているかどうかは知らないけど、生きている限りは誰かに愛されているのよ」  「えらい楽天的なことをいよるなあ。それはおまえの考え方やろ。誰にも愛されてないと思うから生きるエネルギーが湧いてくる質の人間もおるんやで」」p.150
・「「安っぽい同情で、あいつにつき合っとったら、つき合ったやつが、先にガタきよるさかい」」p.172
・「「人間は行きつ戻りつしながら生きるものだろうが、いったん心を決めて歩いた道を、安易にただ後ろに下がるだけという姿は、傍目につらく見えるんじゃないかな。おまえはそれを敏感に感じたのじゃないか。人間はみな弱いのだから後ろに下がってもいいけれど、そのときは骨を噛むほどの苦渋がその人に滲み出ていなければね」」p.221
・「「普通の人でも自分を確かめながら歩くことはできると絣、思った。だから何もしないで、頭の中であれこれ考えるだけの、人のことを批判ばっかりしているわたしみたいな人間がいちばんダメな人間って分かった」」p.222
・「「金、儲ける奴はそんなもんや。運のええ奴は実業家、運の悪い奴は犯罪者。中味はいっしょや」」p.225
・「「パパ。世間には両親が別れたため不幸な子どもがたくさんいる、しかし、両親が別れないために不幸な子どもも同じだけいる、ということば知ってる?」  「ケストナーだったね」」p.255
・「人間の究極の自立は、死に際して、そのとき誰に看取られずとも、直接的には、誰から愛されなくとも、自分はこの人生において十二分に人を愛し、十二分に人の愛を受け、それ故に人間たり得たという充足感と諦観をわがものとしたときである。」p.298
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【本】美味しさを測る

2009年02月11日 08時01分04秒 | 読書記録2009
美味しさを測る 舌を超えた驚異の味センサ, 都甲潔 山藤馨, 講談社ブルーバックス B-884, 1991年
・工学的見地からの味覚・嗅覚の分析とそれらを測るセンサ開発の話。タイトルを単なる『味』ではなく『美味しさ』としているところがミソ。本書の内容では味や匂いを器械で識別できるところまでで、それらの感覚や外的条件を総合した『美味しさ』を測るとなるとまだまだ先の話です。これと似たような話で、最近では、「絵画の美しさ」、「音楽の心地よさ」、「文章の上手さ」、「お笑い芸の面白さ(それはない??)」などなどこれまでは数値化できなかった "人間の主観" に立ち入る領域の研究が徐々に開拓されつつあります。人間の不思議を感じる、個人的にはとても興味ある分野。
・内容は "味センサ" に至るまでの基礎的な話に紙面が多く割かれているので、手っ取り早く内容を把握したければ、後ろの章だけ先に読んだ方が良さそうです。
・「現代は、グルメの時代とも、飽食の時代ともいわれる。人々は、美味しさを追求して止むことがない。だが、味というものは、なんと主観的なことか。食物の味は、私たちが舌で感じる甘味や酸味といった基本的な味に加え、香りや舌ざわり、温度、さらには色や形状、そして、その場の雰囲気にも大きく左右される。」p.5
・「現代では、人間の五感のうち、視覚、聴覚、触覚に相当する感覚は、それぞれ長さ、音の強さ、圧力や温度といった尺度できちんと約束されている。人類の科学は、単位を定める計測の発展とともにあった、といっても過言ではない。」p.5
・「化学受容によって生じる味覚と嗅覚とが、生物の生存にかかわる本能的感覚であることがよくわかる。」p.19
・「舌面には、ざらざらとしたつぶつぶがたくさん存在する。これが乳頭であり、糸状乳頭、茸状乳頭、有郭乳頭、葉状乳頭の四種類がある。糸状乳頭以外の乳頭は、味蕾(図2.1)という器官をもつ。」p.36
・「味の受容は、味細胞の生体膜(細胞膜)でなされる。」p.36
・「まず、味物質の生体膜への吸着は、膜電位を変える。その結果、吸着部位と他の部位との間に電位差が生じて、その間を電流が流れる。これが、シナプス前膜における神経伝達物質の放出を促し、接続した神経の興奮へと導く。」p.40
・「実は、第一次ニューロンと第二次ニューロンの間にある弧束核は、舌でさわった感じや口に含んだ感じに関連している。また、第二次と第三次の境目にある視床は、食物を目で見た感じに関係しているが、このような感じは確かに味に影響する。これらの情報は、高次のニューロンになるにつれて、神経の応答につけ加えられて味覚領に送られているはずである。」p.43
・「カメレオンは透明な表皮をもっているが、その下に、赤、黄、暗褐色の色素を含む細胞がある。いろいろな条件でこの細胞がふくれたりちちんだりするので、皮膚の色が変わるのだといわれている。」p.45
・「食物の味は、ひじょうにあいまいなものである。同じ料理でも、ある人は美味しいというのに、他の人はまずいということも多い。健康状態や気分によっても、美味しかったり、まずかったりする。見た目や舌ざわり、臭いや形、量などによっても美味しさが変わってくる。  このようなあいまで複雑な味を、センサで定量的に測れるものだろうか。」p.46
・「そこで今、標準的人間の標準状態における味細胞からの一次ニューロンのインパルス列パターンに注目して、これを「化学的な味」とよぶことにしよう。  味覚センサの第一目標は、この化学的な味をセンシングすることにある。  このような味のセンサのもっとも大きな役割は、個人差や健康状態・気分に左右されない客観的な味の基準を提供することにある。」p.46
・「このように、今までに知られているうま味がすべて日本人により発見されたという事実は、日本人の味へのこだわりの強さを象徴するものだろう。」p.50
・「うま味は、最近では、五つめの基本味として定着し、英語でもUMAMIとそのままの名でよばれている。」p.51
・「なお、ガラスといえば、シンデレラがガラスの靴をはいたというのは、実は「リスの毛皮(絹と銀糸という説もある)」の誤訳だった。」p.105
・「マスクメロンの「マスク(musk)」は、じゃ(麝)香を意味している。」p.111 「"ムスク" メロン」だったのですね。知りませんでした。てっきりお面の "マスク" かと。
・「ガスの種類を識別するセンサも、前述したように発達しつつあるが、匂いということになると、ガスの識別とは事情が異なる。私たちは、通常それぞれのガスの種類などをいちいち識別していないで、多数成分のガスを吸って全体としての匂いを判定・評価しているからである。」p.114
・「嗅覚の特徴の一つは、ひじょうに数多くの臭い物質に同時に応答できる点にある。」p.120
・「麻酔がない頃の手術はスピードがすべてであり、大腿の切断に九秒という記録が残っているが、同時に助手の人差指まで切断してしまった、という話は有名である。」p.137
・「分子素子の開発は、バイオロジー(生物学)とエレクトロニクス(電子工学)を結びつけたバイオエレクトロニクスの、今もっともホットな話題の一つだ。」p.150
・「つまり、基本味センサを組み合わせて味物質の混合溶液の味を測るのは、本質的に困難なように思われる。  実用的な観点かからいっても、ひじょうに多数個のセンサをそろえるのは、現実的ではない。」p.156
・「味覚のもう一つの特徴は、その非選択性にある。つまり、味を示す化学物質を詳細に識別しているわけではない。」p.156
・「私たちも、味物質の濃度を測っているのではなく、味の相互作用も含めた味について直接認識している。誰もコーヒーを飲んで「うーん、これはうまい。カフェインの濃度が二ミリモルだね」などとはいわない。」p.170
・「一言でいうと、美味しさには、人間の五感のすべての他に、種々の外部環境と健康状態や心理状態までが関係している。  美味しさという、いわばフィーリング的な味を認識するのは、通常のセンサ一個の能力をはるかに超えており、そのためには種々のセンサやコンピュータを含む認識機器のシステムが必要である。」p.176
・「このように聴覚も色覚も、音と光のちがいこそあれ、どちらも波長という一つの量で特製を表現できるにもかかわらず、聴覚では分離可能で、色覚ではそうではない、これは、ひとえに受容細胞の数の差に起因する。」p.
・「現在は溶液しか測れないが、人工の口を用いて、人間が行なっているように噛みくだいて溶液にすれば、固形の食品の味も測ることが出来るようになる。将来は辛味と渋味のような物理的な味も含め、コクのような風味も測れるように、膜の種類と質を改良していくことも可能であろう。」p.196
・「将来は、コンピュータ制御による食品の自動生産用のセンサや、チェーン店における望みの味への均一化、伝統の味の再現、美味しい水の判定やその味質の定量化、などいろんな目的に利用されることが予想される。」p.197
・「ヒトは一般に、最大二桁の濃度範囲にわたって、味を感じることができ、その間をおよそ七段階に識別できるといわれている。ニューラルネットワークを用いると、もっと詳細に、およそ二〇段階まで識別可能である。」p.214
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