論文の書き方, 澤田昭夫, 講談社学術文庫 153, 1977年
・論文が一段落した後で、こんな本を読んでみる。書名そのままの論文の書き方指南。「書く」だけではなく、資料の探し方や「読む」、「話す」ことにまで言及。「低俗な実用中心の内容」と謳ってはいますが、当時とは状況が違うのか、今の感覚でいくと、かなりレベルの高い学生や研究者を想定した内容に思えます。「"論文の書き方" を題材とした論文」の雰囲気あり。読後、「早速実行してみよう」という内容は見あたりませんでした。
・類書として、有名どころでは清水幾太郎『論文の書き方』、木下是雄『理科系の作文技術』など何冊か読みましたが、一番影響を受けているのは、野口悠紀雄『「超」整理法』シリーズだと思います。
・「工学・技術関係の論文翻訳をしておられる電気通信協会の平野氏によると、同氏のもとに提出される和文論文のなかでそのまま英訳できるのは五パーセントにも及ばず、その理由はそもそも和文の原文がまともに書かれていないことにあるそうです。つまり、日本人の外国語学習問題は、外国語以前の問題だともいえます。」p.4
・「この本を書き始めた主な動機は、学生、研究者の論文書き、研究の手引が必要だと考えたことですが、そのほかに、今あげた三、四の例からも見られるように、もうひとつの副次的な動機もありました。それは、説明、議論、説得を必要とする分野で日本人が国際的に競争できるためには、それなりの基礎訓練が必要ではないかと考えたことです。」p.6
・「『論文の書き方』という同名の本には、有名な清水幾太郎氏のもの(IA13)がありますが、これはどちらかというと高尚な理論書です。それに対し本書は、もっと低俗な実用中心のハウ・トゥーものです。」p.15
・「要するに、この本の存在理由があるとすれば、類書は多いがアメリカで無数にでているたぐいの「論文・リポートの書き方の手引」は、わが国ではまだ皆無だということです。」p.16
・「書かねばならない論文の長短、与えられた時間の多少などによって時間配分の絶対量はさまざまにかわらざるを得ませんが、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)にもち時間の約三分の二を、論文書き(下書き、書き直し、総点検、清書)に残りの三分の一を使うのが原則だといえます。資料集め期間の八割強は資料研究にあてるのがふつうですから、これが論文を書くしごとの中核だといえます。」p.22
・「論文を書くには、早く「問題の場」を制限し、せばめて適当なトピックを発見することが大切です。「問題の場」を問題、トピックだと勘違いして、そこに長らくうろつくのは時間浪費になります。」p.23
・「資料として何があるか、どこにあるかを調べる資料探しの出発点は、本格的研究の場合カード目録ではなくレフェレンス室の書誌だと見るのが正道です。しかし書誌にもいろいろあり、どういう書誌を見たらよいか。幸いにも、この問に答えてくれる「書誌の書誌」 "bibliography of bibliographies" という種類の本があります。」p.39
・「一般に、あまりに巧妙な情報整理用具は研究、論文書きのしごとを不必要に複雑にする危険があります。」p.64
・「ここでまず初心者のみなさんによく銘記しておいて頂きたいことがあります。それは、研究資料からえた情報をつぎつぎにノートに書きこんでいくのは絶対禁物だということです。(中略)ですから研究資料からの情報は必ず「研究カード」(research card, note card, Sachkartei<独>)あるいは、機能的にそれと同様なルーズリーフ・ノートに書きいれてください。」p.65
・「研究カードをこのように流動的に整理、維持していくうちに、箱の中で論文が自然に発酵してきます。」p.76
・「資料批判というのは、簡単にいえば、手にいれた情報資料がほんものか、信頼できるものかというテストです。」p.83
・「ちなみに、まともな研究者は主に一次資料を用いて論文を書きます。他人が作った二次資料ばかりに頼って、いわば孫引きの論文ばかり書くのは二流・三流の研究者です。」p.86
・「われわれは書くというと、すぐ文章を書くことだと考えます。(中略)しかし、書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なことです。 日本に数年間滞在して日本の物理学者が書く英語論文を直していたイギリスの物理学者レゲット氏は、日本人の論文がわかりにくいのは、ことばの問題というよりも、論旨のたて方の問題で、横道(サイドトラック)がたくさんあってなにが幹線(メイントラック)なのかわからないようになっているからだと述べています。これはまさに構造的思考の欠如を指摘した批評です。」p.103
・「「起承転結」というのは「書き出し→その続き→別のテーマ→もとのテーマ」という漢詩の構成法で、それを使って論文を書けば、レゲット氏のいう、何が幹線なのかよくわからないものが出来上ります。(中略)起承転結は、詩文の法則としては立派に役を果す原則でしょうが、これを論文に応用してもらっては困ります。」p.104
・「細かいデータはいくつかの小さい枠でまとめられ、それがさらに大きい枠で包括的にまとめられる、それが解釈、説明です。」p.123
・「データの整理、説明のひとつの手がかりになるのは、現代のジャーナリズムでいわれる5Wです。5Wというのは、who,what,where,when,how,why,つまり実は5Wと1Hのことです。」p.126
・「もし下書きの段階で根本的な手直しが必要になるなら、それはアウトラインが十分に練り上がっていないうちに書き出したしるしです。」p.143
・「文献表にいれるべき文献は、注にでてくるすべての文献です。注と文献表とは「アウン」の呼吸のように常に対応していなければなりません。それ以外のもの、論文の作成過程で間接に利用したに過ぎないものは文献表にいれない方がよい。やたらに膨大な文献表は自分の学を衒うように見えます。」p.148
・「広く深く「読む」ことは、よく「書く」ことの大前提で、優れた論文や著作は、「読む」ことによって豊かにされた精神からのみ生れてきます。」p.167
・「速読法とか心理的読書法も結構だし大切ですが、そういうものが意味あるものであるためには、分析と総合による、文法・論理的、あるいは結局存在論的読書法に根ざしていなければならないでしょう。」p.176
・「「分析」「総合」「批判」の三つの「読み」で、構造的に「読む」つまり、深く理解する習慣を身につけたら、それでもっとも堅実な「速読」の技術を体得したことにもなります。結局、ほんとうの「技術」、ハウ・トゥーは「やり方」 how to do ではなく「思考法」 how to think, 「理解法」 how to know だからです。これは、「読み」についてだけでなく、「書く」「話す」「聞く」のすべてについていえる真理だと思います。」p.182
・「ところで、よく「話す」技術は、このごろ全国ではやりの「話し方教室」で教えているような心理的技術の問題ではありません。「人前で恐怖心をもたないように」、「相手の気持を察して話せ」というような心理学的勧告も間違いではないが、「話す」ことはやはり、第一に文法、論理、レトリックの問題です。」p.183
・「与えられた時間にうまくおさめるためのめどとして、一言一句を書き出したテキストなら、日本語で約三百字~三百五十字、英文で百~百五十語が一分間の話の分量だといってよかろうと思います。」p.189
・「論争とけんかをとり違えてはいけません。けんかは非生産的ですが、論争は生産的、けんかはみにくいが、論争は美しいものです。」p.199
・「最近日本でも、コミュニケーション理論の一環として流行し始めているレトリック論は、ちょうど変形文法論が語学の学習には直接関係がないように、学問的には興味があるが「話す」「書く」というしごとの実際には直接役立たない、応用的な抽象論です。それに対し、ここで説明申し上げるのは、もっと実用的な、そしてすべての応用論に先立つ基本的理論である、そういうことです。」p.208
・「今日先進国の教育界では暗記を無視する傾向が強いようです。これはかつての「理解なしの丸暗記」に対する当然の反動かもしれませんが、「理解を伴った暗記」は教育においても学問研究においても大切です。」p.222
・「そこで、「日本にレトリックがあったか」という最初の問いにたちかえりますと、こういう風に答えられると思います。日本には昔からレトリックがあったが、それは仏教の説法談義や説話文学中心のレトリックであった。西洋の古典的レトリックもほぼ四百年前に輸入されたが、それは伝統的な日本の伝統的レトリックを媒介として輸入され、理解された。日本の伝統的レトリックは「倫理的アピール」、「感情的アピール」要するに情意中心のレトリックであったから、結局早くから輸入された西洋のレトリックも「知的アピール」を捨象したレトリックになった。」p.226
・「少年よ(ボーイズ)、(キリストのために)野心をもて(ビ・アンビシアス)」p.240 この(キリストのために)の一句に衝撃を受ける。このような意味を含んだ言葉だったとは露知らず。これが有ると無いとでは受ける印象がかなり異なります。
・「論文も作文も広い意味での作文、コンポジションに違いないが、論文は議論し、主張し、分析し、判断することを主眼にしているのに対し、作文は情景、印象、体験などの描写を中心にしているからです。議論は問いと答で成立しますから、その題は根本的に(形は問いでなくとも)問いになるわけです。」p.247
・「「論文について」といわれて、日本で、またアメリカやドイツで学位論文を書いたころの思い出を書くのは作文ですが論文ではありません。「夏休み」といわれ、村の盆踊りの風情を描くのは作文ですが、「夏休みの長さ――長すぎるか否か」という問いに対して「短過ぎる」と答え、延長を主張し、その理由を説明するのが論文です。」p.248
・「だいたい日本人は感情的、情緒的な作文や随筆を書くのが得意な文学的民族ですが、理知的、論争的な説得のまずい民族です。作文的民族、非論文的民族とでもいえましょう。」p.249
?しゃしょう【捨象】 事物全体の表象から、一つまたはいくつかの特色を分けて取り出す抽象を行う場合に、それ以外の特色を捨て去ること。また、概念について抽象する場合、抽象すべき特性以外の特性を捨て去ること。抽象作用の否定的側面。
《チェック本》
・M.J.アドラー, C.V.ドーレン『本を読む本』講談社学術文庫
・論文が一段落した後で、こんな本を読んでみる。書名そのままの論文の書き方指南。「書く」だけではなく、資料の探し方や「読む」、「話す」ことにまで言及。「低俗な実用中心の内容」と謳ってはいますが、当時とは状況が違うのか、今の感覚でいくと、かなりレベルの高い学生や研究者を想定した内容に思えます。「"論文の書き方" を題材とした論文」の雰囲気あり。読後、「早速実行してみよう」という内容は見あたりませんでした。
・類書として、有名どころでは清水幾太郎『論文の書き方』、木下是雄『理科系の作文技術』など何冊か読みましたが、一番影響を受けているのは、野口悠紀雄『「超」整理法』シリーズだと思います。
・「工学・技術関係の論文翻訳をしておられる電気通信協会の平野氏によると、同氏のもとに提出される和文論文のなかでそのまま英訳できるのは五パーセントにも及ばず、その理由はそもそも和文の原文がまともに書かれていないことにあるそうです。つまり、日本人の外国語学習問題は、外国語以前の問題だともいえます。」p.4
・「この本を書き始めた主な動機は、学生、研究者の論文書き、研究の手引が必要だと考えたことですが、そのほかに、今あげた三、四の例からも見られるように、もうひとつの副次的な動機もありました。それは、説明、議論、説得を必要とする分野で日本人が国際的に競争できるためには、それなりの基礎訓練が必要ではないかと考えたことです。」p.6
・「『論文の書き方』という同名の本には、有名な清水幾太郎氏のもの(IA13)がありますが、これはどちらかというと高尚な理論書です。それに対し本書は、もっと低俗な実用中心のハウ・トゥーものです。」p.15
・「要するに、この本の存在理由があるとすれば、類書は多いがアメリカで無数にでているたぐいの「論文・リポートの書き方の手引」は、わが国ではまだ皆無だということです。」p.16
・「書かねばならない論文の長短、与えられた時間の多少などによって時間配分の絶対量はさまざまにかわらざるを得ませんが、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)にもち時間の約三分の二を、論文書き(下書き、書き直し、総点検、清書)に残りの三分の一を使うのが原則だといえます。資料集め期間の八割強は資料研究にあてるのがふつうですから、これが論文を書くしごとの中核だといえます。」p.22
・「論文を書くには、早く「問題の場」を制限し、せばめて適当なトピックを発見することが大切です。「問題の場」を問題、トピックだと勘違いして、そこに長らくうろつくのは時間浪費になります。」p.23
・「資料として何があるか、どこにあるかを調べる資料探しの出発点は、本格的研究の場合カード目録ではなくレフェレンス室の書誌だと見るのが正道です。しかし書誌にもいろいろあり、どういう書誌を見たらよいか。幸いにも、この問に答えてくれる「書誌の書誌」 "bibliography of bibliographies" という種類の本があります。」p.39
・「一般に、あまりに巧妙な情報整理用具は研究、論文書きのしごとを不必要に複雑にする危険があります。」p.64
・「ここでまず初心者のみなさんによく銘記しておいて頂きたいことがあります。それは、研究資料からえた情報をつぎつぎにノートに書きこんでいくのは絶対禁物だということです。(中略)ですから研究資料からの情報は必ず「研究カード」(research card, note card, Sachkartei<独>)あるいは、機能的にそれと同様なルーズリーフ・ノートに書きいれてください。」p.65
・「研究カードをこのように流動的に整理、維持していくうちに、箱の中で論文が自然に発酵してきます。」p.76
・「資料批判というのは、簡単にいえば、手にいれた情報資料がほんものか、信頼できるものかというテストです。」p.83
・「ちなみに、まともな研究者は主に一次資料を用いて論文を書きます。他人が作った二次資料ばかりに頼って、いわば孫引きの論文ばかり書くのは二流・三流の研究者です。」p.86
・「われわれは書くというと、すぐ文章を書くことだと考えます。(中略)しかし、書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なことです。 日本に数年間滞在して日本の物理学者が書く英語論文を直していたイギリスの物理学者レゲット氏は、日本人の論文がわかりにくいのは、ことばの問題というよりも、論旨のたて方の問題で、横道(サイドトラック)がたくさんあってなにが幹線(メイントラック)なのかわからないようになっているからだと述べています。これはまさに構造的思考の欠如を指摘した批評です。」p.103
・「「起承転結」というのは「書き出し→その続き→別のテーマ→もとのテーマ」という漢詩の構成法で、それを使って論文を書けば、レゲット氏のいう、何が幹線なのかよくわからないものが出来上ります。(中略)起承転結は、詩文の法則としては立派に役を果す原則でしょうが、これを論文に応用してもらっては困ります。」p.104
・「細かいデータはいくつかの小さい枠でまとめられ、それがさらに大きい枠で包括的にまとめられる、それが解釈、説明です。」p.123
・「データの整理、説明のひとつの手がかりになるのは、現代のジャーナリズムでいわれる5Wです。5Wというのは、who,what,where,when,how,why,つまり実は5Wと1Hのことです。」p.126
・「もし下書きの段階で根本的な手直しが必要になるなら、それはアウトラインが十分に練り上がっていないうちに書き出したしるしです。」p.143
・「文献表にいれるべき文献は、注にでてくるすべての文献です。注と文献表とは「アウン」の呼吸のように常に対応していなければなりません。それ以外のもの、論文の作成過程で間接に利用したに過ぎないものは文献表にいれない方がよい。やたらに膨大な文献表は自分の学を衒うように見えます。」p.148
・「広く深く「読む」ことは、よく「書く」ことの大前提で、優れた論文や著作は、「読む」ことによって豊かにされた精神からのみ生れてきます。」p.167
・「速読法とか心理的読書法も結構だし大切ですが、そういうものが意味あるものであるためには、分析と総合による、文法・論理的、あるいは結局存在論的読書法に根ざしていなければならないでしょう。」p.176
・「「分析」「総合」「批判」の三つの「読み」で、構造的に「読む」つまり、深く理解する習慣を身につけたら、それでもっとも堅実な「速読」の技術を体得したことにもなります。結局、ほんとうの「技術」、ハウ・トゥーは「やり方」 how to do ではなく「思考法」 how to think, 「理解法」 how to know だからです。これは、「読み」についてだけでなく、「書く」「話す」「聞く」のすべてについていえる真理だと思います。」p.182
・「ところで、よく「話す」技術は、このごろ全国ではやりの「話し方教室」で教えているような心理的技術の問題ではありません。「人前で恐怖心をもたないように」、「相手の気持を察して話せ」というような心理学的勧告も間違いではないが、「話す」ことはやはり、第一に文法、論理、レトリックの問題です。」p.183
・「与えられた時間にうまくおさめるためのめどとして、一言一句を書き出したテキストなら、日本語で約三百字~三百五十字、英文で百~百五十語が一分間の話の分量だといってよかろうと思います。」p.189
・「論争とけんかをとり違えてはいけません。けんかは非生産的ですが、論争は生産的、けんかはみにくいが、論争は美しいものです。」p.199
・「最近日本でも、コミュニケーション理論の一環として流行し始めているレトリック論は、ちょうど変形文法論が語学の学習には直接関係がないように、学問的には興味があるが「話す」「書く」というしごとの実際には直接役立たない、応用的な抽象論です。それに対し、ここで説明申し上げるのは、もっと実用的な、そしてすべての応用論に先立つ基本的理論である、そういうことです。」p.208
・「今日先進国の教育界では暗記を無視する傾向が強いようです。これはかつての「理解なしの丸暗記」に対する当然の反動かもしれませんが、「理解を伴った暗記」は教育においても学問研究においても大切です。」p.222
・「そこで、「日本にレトリックがあったか」という最初の問いにたちかえりますと、こういう風に答えられると思います。日本には昔からレトリックがあったが、それは仏教の説法談義や説話文学中心のレトリックであった。西洋の古典的レトリックもほぼ四百年前に輸入されたが、それは伝統的な日本の伝統的レトリックを媒介として輸入され、理解された。日本の伝統的レトリックは「倫理的アピール」、「感情的アピール」要するに情意中心のレトリックであったから、結局早くから輸入された西洋のレトリックも「知的アピール」を捨象したレトリックになった。」p.226
・「少年よ(ボーイズ)、(キリストのために)野心をもて(ビ・アンビシアス)」p.240 この(キリストのために)の一句に衝撃を受ける。このような意味を含んだ言葉だったとは露知らず。これが有ると無いとでは受ける印象がかなり異なります。
・「論文も作文も広い意味での作文、コンポジションに違いないが、論文は議論し、主張し、分析し、判断することを主眼にしているのに対し、作文は情景、印象、体験などの描写を中心にしているからです。議論は問いと答で成立しますから、その題は根本的に(形は問いでなくとも)問いになるわけです。」p.247
・「「論文について」といわれて、日本で、またアメリカやドイツで学位論文を書いたころの思い出を書くのは作文ですが論文ではありません。「夏休み」といわれ、村の盆踊りの風情を描くのは作文ですが、「夏休みの長さ――長すぎるか否か」という問いに対して「短過ぎる」と答え、延長を主張し、その理由を説明するのが論文です。」p.248
・「だいたい日本人は感情的、情緒的な作文や随筆を書くのが得意な文学的民族ですが、理知的、論争的な説得のまずい民族です。作文的民族、非論文的民族とでもいえましょう。」p.249
?しゃしょう【捨象】 事物全体の表象から、一つまたはいくつかの特色を分けて取り出す抽象を行う場合に、それ以外の特色を捨て去ること。また、概念について抽象する場合、抽象すべき特性以外の特性を捨て去ること。抽象作用の否定的側面。
《チェック本》
・M.J.アドラー, C.V.ドーレン『本を読む本』講談社学術文庫