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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】論文の書き方

2009年05月26日 08時00分05秒 | 読書記録2009
論文の書き方, 澤田昭夫, 講談社学術文庫 153, 1977年
・論文が一段落した後で、こんな本を読んでみる。書名そのままの論文の書き方指南。「書く」だけではなく、資料の探し方や「読む」、「話す」ことにまで言及。「低俗な実用中心の内容」と謳ってはいますが、当時とは状況が違うのか、今の感覚でいくと、かなりレベルの高い学生や研究者を想定した内容に思えます。「"論文の書き方" を題材とした論文」の雰囲気あり。読後、「早速実行してみよう」という内容は見あたりませんでした。
・類書として、有名どころでは清水幾太郎『論文の書き方』、木下是雄『理科系の作文技術』など何冊か読みましたが、一番影響を受けているのは、野口悠紀雄『「超」整理法』シリーズだと思います。
・「工学・技術関係の論文翻訳をしておられる電気通信協会の平野氏によると、同氏のもとに提出される和文論文のなかでそのまま英訳できるのは五パーセントにも及ばず、その理由はそもそも和文の原文がまともに書かれていないことにあるそうです。つまり、日本人の外国語学習問題は、外国語以前の問題だともいえます。」p.4
・「この本を書き始めた主な動機は、学生、研究者の論文書き、研究の手引が必要だと考えたことですが、そのほかに、今あげた三、四の例からも見られるように、もうひとつの副次的な動機もありました。それは、説明、議論、説得を必要とする分野で日本人が国際的に競争できるためには、それなりの基礎訓練が必要ではないかと考えたことです。」p.6
・「『論文の書き方』という同名の本には、有名な清水幾太郎氏のもの(IA13)がありますが、これはどちらかというと高尚な理論書です。それに対し本書は、もっと低俗な実用中心のハウ・トゥーものです。」p.15
・「要するに、この本の存在理由があるとすれば、類書は多いがアメリカで無数にでているたぐいの「論文・リポートの書き方の手引」は、わが国ではまだ皆無だということです。」p.16
・「書かねばならない論文の長短、与えられた時間の多少などによって時間配分の絶対量はさまざまにかわらざるを得ませんが、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)にもち時間の約三分の二を、論文書き(下書き、書き直し、総点検、清書)に残りの三分の一を使うのが原則だといえます。資料集め期間の八割強は資料研究にあてるのがふつうですから、これが論文を書くしごとの中核だといえます。」p.22
・「論文を書くには、早く「問題の場」を制限し、せばめて適当なトピックを発見することが大切です。「問題の場」を問題、トピックだと勘違いして、そこに長らくうろつくのは時間浪費になります。」p.23
・「資料として何があるか、どこにあるかを調べる資料探しの出発点は、本格的研究の場合カード目録ではなくレフェレンス室の書誌だと見るのが正道です。しかし書誌にもいろいろあり、どういう書誌を見たらよいか。幸いにも、この問に答えてくれる「書誌の書誌」 "bibliography of bibliographies" という種類の本があります。」p.39
・「一般に、あまりに巧妙な情報整理用具は研究、論文書きのしごとを不必要に複雑にする危険があります。」p.64
・「ここでまず初心者のみなさんによく銘記しておいて頂きたいことがあります。それは、研究資料からえた情報をつぎつぎにノートに書きこんでいくのは絶対禁物だということです。(中略)ですから研究資料からの情報は必ず「研究カード」(research card, note card, Sachkartei<独>)あるいは、機能的にそれと同様なルーズリーフ・ノートに書きいれてください。」p.65
・「研究カードをこのように流動的に整理、維持していくうちに、箱の中で論文が自然に発酵してきます。」p.76
・「資料批判というのは、簡単にいえば、手にいれた情報資料がほんものか、信頼できるものかというテストです。」p.83
・「ちなみに、まともな研究者は主に一次資料を用いて論文を書きます。他人が作った二次資料ばかりに頼って、いわば孫引きの論文ばかり書くのは二流・三流の研究者です。」p.86
・「われわれは書くというと、すぐ文章を書くことだと考えます。(中略)しかし、書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なことです。  日本に数年間滞在して日本の物理学者が書く英語論文を直していたイギリスの物理学者レゲット氏は、日本人の論文がわかりにくいのは、ことばの問題というよりも、論旨のたて方の問題で、横道(サイドトラック)がたくさんあってなにが幹線(メイントラック)なのかわからないようになっているからだと述べています。これはまさに構造的思考の欠如を指摘した批評です。」p.103
・「「起承転結」というのは「書き出し→その続き→別のテーマ→もとのテーマ」という漢詩の構成法で、それを使って論文を書けば、レゲット氏のいう、何が幹線なのかよくわからないものが出来上ります。(中略)起承転結は、詩文の法則としては立派に役を果す原則でしょうが、これを論文に応用してもらっては困ります。」p.104
・「細かいデータはいくつかの小さい枠でまとめられ、それがさらに大きい枠で包括的にまとめられる、それが解釈、説明です。」p.123
・「データの整理、説明のひとつの手がかりになるのは、現代のジャーナリズムでいわれる5Wです。5Wというのは、who,what,where,when,how,why,つまり実は5Wと1Hのことです。」p.126
・「もし下書きの段階で根本的な手直しが必要になるなら、それはアウトラインが十分に練り上がっていないうちに書き出したしるしです。」p.143
・「文献表にいれるべき文献は、注にでてくるすべての文献です。注と文献表とは「アウン」の呼吸のように常に対応していなければなりません。それ以外のもの、論文の作成過程で間接に利用したに過ぎないものは文献表にいれない方がよい。やたらに膨大な文献表は自分の学を衒うように見えます。」p.148
・「広く深く「読む」ことは、よく「書く」ことの大前提で、優れた論文や著作は、「読む」ことによって豊かにされた精神からのみ生れてきます。」p.167
・「速読法とか心理的読書法も結構だし大切ですが、そういうものが意味あるものであるためには、分析と総合による、文法・論理的、あるいは結局存在論的読書法に根ざしていなければならないでしょう。」p.176
・「「分析」「総合」「批判」の三つの「読み」で、構造的に「読む」つまり、深く理解する習慣を身につけたら、それでもっとも堅実な「速読」の技術を体得したことにもなります。結局、ほんとうの「技術」、ハウ・トゥーは「やり方」 how to do ではなく「思考法」 how to think, 「理解法」 how to know だからです。これは、「読み」についてだけでなく、「書く」「話す」「聞く」のすべてについていえる真理だと思います。」p.182
・「ところで、よく「話す」技術は、このごろ全国ではやりの「話し方教室」で教えているような心理的技術の問題ではありません。「人前で恐怖心をもたないように」、「相手の気持を察して話せ」というような心理学的勧告も間違いではないが、「話す」ことはやはり、第一に文法、論理、レトリックの問題です。」p.183
・「与えられた時間にうまくおさめるためのめどとして、一言一句を書き出したテキストなら、日本語で約三百字~三百五十字、英文で百~百五十語が一分間の話の分量だといってよかろうと思います。」p.189
・「論争とけんかをとり違えてはいけません。けんかは非生産的ですが、論争は生産的、けんかはみにくいが、論争は美しいものです。」p.199
・「最近日本でも、コミュニケーション理論の一環として流行し始めているレトリック論は、ちょうど変形文法論が語学の学習には直接関係がないように、学問的には興味があるが「話す」「書く」というしごとの実際には直接役立たない、応用的な抽象論です。それに対し、ここで説明申し上げるのは、もっと実用的な、そしてすべての応用論に先立つ基本的理論である、そういうことです。」p.208
・「今日先進国の教育界では暗記を無視する傾向が強いようです。これはかつての「理解なしの丸暗記」に対する当然の反動かもしれませんが、「理解を伴った暗記」は教育においても学問研究においても大切です。」p.222
・「そこで、「日本にレトリックがあったか」という最初の問いにたちかえりますと、こういう風に答えられると思います。日本には昔からレトリックがあったが、それは仏教の説法談義や説話文学中心のレトリックであった。西洋の古典的レトリックもほぼ四百年前に輸入されたが、それは伝統的な日本の伝統的レトリックを媒介として輸入され、理解された。日本の伝統的レトリックは「倫理的アピール」、「感情的アピール」要するに情意中心のレトリックであったから、結局早くから輸入された西洋のレトリックも「知的アピール」を捨象したレトリックになった。」p.226
・「少年よ(ボーイズ)、(キリストのために)野心をもて(ビ・アンビシアス)」p.240 この(キリストのために)の一句に衝撃を受ける。このような意味を含んだ言葉だったとは露知らず。これが有ると無いとでは受ける印象がかなり異なります。
・「論文も作文も広い意味での作文、コンポジションに違いないが、論文は議論し、主張し、分析し、判断することを主眼にしているのに対し、作文は情景、印象、体験などの描写を中心にしているからです。議論は問いと答で成立しますから、その題は根本的に(形は問いでなくとも)問いになるわけです。」p.247
・「「論文について」といわれて、日本で、またアメリカやドイツで学位論文を書いたころの思い出を書くのは作文ですが論文ではありません。「夏休み」といわれ、村の盆踊りの風情を描くのは作文ですが、「夏休みの長さ――長すぎるか否か」という問いに対して「短過ぎる」と答え、延長を主張し、その理由を説明するのが論文です。」p.248
・「だいたい日本人は感情的、情緒的な作文や随筆を書くのが得意な文学的民族ですが、理知的、論争的な説得のまずい民族です。作文的民族、非論文的民族とでもいえましょう。」p.249

?しゃしょう【捨象】 事物全体の表象から、一つまたはいくつかの特色を分けて取り出す抽象を行う場合に、それ以外の特色を捨て去ること。また、概念について抽象する場合、抽象すべき特性以外の特性を捨て去ること。抽象作用の否定的側面。

《チェック本》
・M.J.アドラー, C.V.ドーレン『本を読む本』講談社学術文庫
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【本】自殺の心理学

2009年05月20日 08時24分47秒 | 読書記録2009
自殺の心理学, 高橋祥友, 講談社現代新書 1348, 1997年
・書名からは、「自殺を考える異常な状態に陥ったヒトの生々しくドロドロとした心理を詳細に解明する」内容を想像しましたが、「なぜ自殺をするのか → 病気だから」という話の流れで、実際は「うつ病対応マニュアル」といった心理学とは少々かけ離れた内容です。また「なぜ自殺はいけないのか」などといった問いについても触れられていません(こちらの問いの答えも『病気だから』と読めないこともありませんが)。
・『自殺の前には迷いがある』 これを如何に察知し、"生" に引き戻すか。
・本書からの資料ではありませんが、自殺率というのは昔から意外と横ばい状態であることをはじめて知る。年が下るほど右肩あがりのグラフだと思っていました。
【参考リンク】図録▽主要国の自殺率長期推移(1901~)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2774.html
・「日本では毎年二万一千人から二万二千人の人々が自ら生命を絶っているのです。毎日全国で平均約六十人が自殺している計算になります。この数は交通事故の犠牲者の数のおよそ二倍にあたります。  さらに、自殺を図ったものの幸い命を助けられた人(自殺未遂者)の数は少なく見積もっても、実際に自殺してしまった人の数の十倍に上るとされています。」p.3
・「しかし、実際に自殺の危険の高い人で百パーセント覚悟が固まっていて、まったく平静な人などはほとんどいません。むしろ、自殺の危険の高い人は生と死の間で心が激しく動揺しているのが普通です。絶望しきっていて死んでしまいたいという気持ちばかりでなく、生きていたいという気持も同時に強いということです。まさに、この点に自殺予防の余地があります。」p.6
・「一見、最近の事件が唯一の原因のように見えても、それは引金になっただけに過ぎず、問題はその人の一生に関わる根の深いものかもしれません。自殺の動機は深刻で長期にわたる場合が多いのです。」p.7
・「以上は、自殺について一般に広く信じられている誤解のほんのいくつかの例です。日本では、自殺とは突然起きる運命的な出来事であり、それに対して何もなす術がないと広く信じられています。しかし、かならずしもこの考えは正しくありません。私はこの本を通して、自殺の実態について説明していきます。」p.8
・「追補  なお、今回重版にあたり、1997年に本書を書いた時に比べて、わが国の自殺者総数が激増したことを指摘しておかなければなりません。」p.8
・「社会学者のエミール・デュルケームは、「当の受難者自身によってなされた積極的・消極的行為から直接、間接に生じる一切の死を、自殺と名づける」と定義しています。(中略)本書ではこの定義にそった現象を自殺ととらえておくことにしましょう。」p.14
・「ある社会学者が興味深い報告をしています。一般の人に自分の国の自殺率がどれほど高いと考えているか調査したところ、ほとんどの人々が自分の国こそが世界の中でもかなり深刻な自殺の問題を抱えていると回答したというのです。」p.23
・「一般的に、北欧や東欧の自殺率が高いことや、同じキリスト教国でもカトリックよりもプロテスタントが優勢な地域では自殺率が高いと指摘されています。」p.24
・「患者さんが抱く自殺の意図は、時に医療者の全能感に対する大きな挑戦となります。その結果、自殺未遂が事故や単なる偶然であると無意識のうちに解釈されかねません。」p.35
・「心理学的剖検による調査をみると、精神科診断が認められない例は一割に満たず、残りの九割は何らかの精神科診断に当てはまるというのです。」p.36
・「自殺を「孤独の病」であると述べた精神科医がいるほどです。未婚の人、離婚した人、何らかの理由で配偶者と離別した人、近親者の死亡を最近経験した人の自殺率は、結婚して配偶者のいる人の自殺率よりも約三倍の高さを示します。」p.44
・「ごく一般的には、既遂自殺者は女性よりも男性に多いことが知られています。(中略)日本でも既遂自殺者は男性に多いのですが、他の国々に比べて、女性の自殺率が高く、男女差が比較的少ないことも日本人の自殺のひとつの特徴として指摘されています。」p.45
・「自殺する前に事故を起こしやすくなる傾向もしばしば見られます。これを専門的な言葉では事故傾性(accident proneness)と呼びます。」p.48
・「残念ながら、学校での自殺予防教育も日本では実施されていません。そこで、アメリカ合衆国のカリフォルニア州で実施されている自殺予防教育について説明します。」p.95
・「自殺の予防には、第一にうつ病にかかっていないかどうかという点に注意を払う必要があります。」p.126
・「他の年代でも同じことを繰り返しましたが、説明のつかない身体症状が長く続いている場合には、その訴えの背後にうつ病を始めとして何らかの精神疾患が隠れていないか検討しておくべきです。」p.137
・「しかし、ここで覚えておいてほしいことがあります。自殺を打ち明けた人は多くの場合、誰でも良いから「自殺したい」と話しかけたのではなく、意識的・無意識的に特定の「誰か」を選び出して、絶望的な気持を打ち明けているのです。(中略)ですから、何ともいえない強い不安が頭をもたげるのはよくわかりますが、ぜひ、その悩みを正面から受けとめてください。深刻な告白を前にして、思わずその場から逃げ出してしまいたいと思うのは当然の反応です。しかし、ここで、批判がましいことを言ったり、当たりさわりのない励ましを言ったり、世間一般の常識を押しつけたり、話をはぐらかそうとしてしまっては、その人は二度と胸の内を明かしてくれず、自殺が決行されることになってしまうかもしれません。  まず、徹底的に聞き役に回ってください。」p.140
・「主な認知の誤りには次のようなものがあります。二分割思考(二者択一的思考)――全てに対して全く正反対の両極端の解釈を下す傾向を指します。(中略)自己関連づけ――ある状況と自分との間に適切な距離を置くことができず、全てを自己に関連づけしてしまう傾向です。(中略)過度の一般化――情報の本質的な意味をはるかに越えた妥当性のない過度の一般化を行います。」p.158
・「「自分の能力は低い」→「何をやっても失敗するに決まっている」→「それならば何もしないほうがよい」という思考パターンにとらわれて身動きがとれなくなっていたのです。」p.168
・「「私はほくろさえ取れれば、それで人生の問題はすべて解決すると思っていました。でもそれは言い訳にすぎなかったんだとこの頃ようやくわかってきました。他の人の中に自然に溶けこんでいくことができない理由を探していたんですね」とAさんは自ら気づいていったのです。」p.171
・「期待した効果が出ないからといって、別の病院に替わってしまったり、複数の病院に同時にかかる患者さんが時々います。しかし、これは絶対に避けて下さい。」p.174
・「このように病状の変化がないことを確かめながら徐々に薬を減らしていって、完全に零にするのではなく、ごく少量の維持投与量にしてさらにしばらく様子を見ることが一般的です。素人判断で症状が改善するとすぐに服薬を中止してしまう患者さんが少なくありませんが、これは危険です。」p.176
・「現実には、さまざまな問題を抱えながらも、救いを求めることもできず、あるいは救いを求める叫びを発していても周囲がそれに気付かず、適切な手立てを取らないうちに、本来予防可能な自殺が残念ながら生じてしまっていることのほうが圧倒的に多いのです。この意味でも、一般の方々に、自殺の危険とその予防についての正しい知識を持っていただきたいというのが、本書を企画した目的でした。」p.181
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【本】日本人は思想したか

2009年05月14日 08時04分21秒 | 読書記録2009
日本人は思想したか, 吉本隆明 梅原猛 中沢新一, 新潮文庫 よ-20-1(6228), 1999年
・1994年に行われた現代日本を代表する思想家達による鼎談の記録。テーマは「日本の思想」について。話し言葉なので文章としては読みやすいのですが、その内容を理解するとなると、それなりの勉強が必要です。私ではほとんどついていけず。しかし、分からないなりにも興味深く読むことができました。「なんだかよく分からないけど、スゴイ事を話しているみたい」という知の巨人たちの会話を、そのすぐ傍で聞いているような気分になります。ページ下には細かく脚注が付属。
・吉本氏は『よしもとばなな』の親であることを後で知る。
・「この十年間に世界的に見ても、思想ばかりではなくいろんな局面でいろんなサイクルが終わっていくという現象が起こってきました。近代をつくってきたさまざまなもののなかの幾つかの重要なサイクルが自分を完結しはじめたのです。そういう現象が日本思想と呼ばれるものにも果たして起こっているのでしょうか。それがこの話し合いの主題となっていくでしょう。いままで日本の思想とか日本の文学とか呼ばれたものも、いまやサイクルを終えつつあるのではないか、という問いかけです。」p.12
・「そこで問題は、いま吉本さんがおっしゃったように、西洋の哲学のようなものを求めても日本にはないんですよ。わずかにあるとしたら仏教か儒教なんです。仏教でも、プラトンやアリストテレスのような体系的思弁があるかと言えば、かろうじて空海とか道元とか親鸞の中にそのような思弁がありますが、それはどう見ても、プラトンやアリストテレスのような精密な体系とは言えない。儒教をとれば伊藤仁斎や荻生徂徠などがあるが、それもカントやヘーゲルに及ばない。そういうことから、中江兆民の、日本に哲学なし、という発言はうべなるかなと思うんですが、私はいま吉本さんの発言にあったように、文学や宗教の中に、大変精密な思想が含まれるんじゃないかと思いました。  私が一番着目したのは歌論です。歌論をずっと読んでいると、非常に精密な感情分析をやっている。」p.19
・「日本の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわりで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。」p.30
・「聖徳太子とか柿本人麿の怨霊というような、国家形成の陰に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだったんですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつったのかはよく分からない。」p.32
・「アイヌや沖縄の神道を通じて日本神道を考え直すことにより、いっそう仏教の発展の姿が見えてきた。やっとそこで私も神道と仏教を見渡すことのできる視点に達し、同時に世界もそこで見渡すことができるという視点に達した。七十くらいになってやっと日本の思想が全体として見えてきた。」p.42
・「吉本さんがアフリカ的というヘーゲル的な概念を使って語られたことと、梅原さんがアイヌ文化を通して、神道のおおもとの形というものを通して語られようとしていることが、僕にはとても接近したものだと見えるのです。お二人はそれを通して、現代というものについて語られているわけですが、そこへいたる思想の道程では、神道というものに対する異和や否定があり、そこから仏教に引き寄せられていく動きがひとつながりになっている。個々には日本人の思想というものを構造としてとらえるとき、きわめて日本的な特性のようなものがあらわれているんじゃないかという気がするのですけれども。」p.46
・「遺伝子科学が一番人間に教えていることは、DNAによって人間は支配されていて、人間ばかりかすべての生きものは全部それによって支配されている。人間だけ何も特徴的なことはないんじゃないかということ。もうひとつは遺伝子はやっぱり遺伝するんで、永遠に伝わるわけ。生物体の一番大事なことは、生物がずっと己の子孫を残していって、子孫がずっと永久に続いていくということなんだというふうに思うんですね。」p.71
・「哲学とは何かという問いに、ジル・ドゥルーズは、異質な領域の異質な力を調停することだという明快な定義を与えています。それでいきますと、枕詞というのも日本語がなし得た最初の調停であり哲学であり、魂鎮めとして発生した和歌もまた、ひとつの調停の哲学の表現なのではないのでしょうか。調停が哲学の本質のひとつであるとしたら、歌論や和歌そのものは、日本人の哲学の最初の形態と見なしてもいいんじゃないかという気がしてきます。」p.81
・「いまの枕詞論と魂鎮め論を見てみますと、日本の和歌というのがやっぱり調停とか間のところで発生してて、和歌を通していくと日本人の思想というのができるんだ、しかもそれは体系なんか持ってないからこそ日本思想なんだと、本居宣長が言った問題と深くつながっているような気がします。」p.85
・「われわれは大体だめな人間だから、本を書いて自己弁明してるようなもんで、ほんとに偉いキリストやソクラテスのような人は自己弁明する必要ないんでね、本を書かないんじゃないかと思うんだけど。行基という人は全く本を書いてないんですよね。だけど行基は聖徳太子以上に、日本の仏教において無視することができない人なんです。」p.100
・「僕は『古事記』というものは、歴史を題材にとった歌物語じゃないか、そこが『日本書紀』とはまったく違うところだと考えますけどね。」p.166
・「浄土宗が日本のプロテスタントだという意味はもっと深いんじゃないかしら。なぜドイツ音楽が発達したかといったら、それはプロテスタントが視覚美術を否定したからですね。ドイツ人は視覚芸術を封殺されてしまったので、全エネルギーを音楽に向けていった。そしてその中から、バッハが生まれベートーヴェンが生まれた。」p.258
・「最初の話し合いで、日本人の思想とは何かという問いに対して、吉本さんが、日本人に体系的な思想というものはないんで、お茶の思想とか、お花の思想とか、見たり触ったり肌で感じたりするものを言語化していくという作業がそのままひとつの思想になっていく。そういうところに、特徴がある、とおっしゃっていたことを、思い出しました。」p.285
・「だから現実が見えて、しかも人間の才能に対する強い好奇心と愛を持ってる。これが京都学派のひとつの特徴なんですよ。  西田幾太郎を中心とするのが第一次京都学派だとすれば、桑原武夫という人は、第二次京都学派の親分ですな。」p.296
・「東洋と西洋を並べて、西洋はあかんから東洋だという考え方に対して私は全面的に賛成じゃないんです。むしろ東洋といっても、それじゃ仏教・儒教で行こうじゃなくて、もうちょっと文明の根底を考える、狩猟採集時代の文明が色濃く残っているアメリカ・インディアンやアイヌやアボリジニーの思想のほうに、より重要な未来の文明へのヒントが隠れているんじゃないかというのが私の考え方です。」p.314
・「僕は若い時、小林秀雄の講演を聞いて忘れられない言葉があるけど、「小説は小人の説だ(笑)。だからできるだけつまらない人間を書くんだ」と。そういうつまらない人間の中でも自分が一番つまらない。で、まあ自分を書く。そういう形で私小説が主人公になったと思うんです。」p.331
・「それから、また自分の思想ができてきて日本文学を見直すと、人間中心主義を免れている若干の作家に大変興味を持つ。その一人は間違いなく宮沢賢治。宮沢賢治がなぜ童話と詩しか書かなかったか。これは大変な問題なんですけど、やっぱり小説は人間中心主義を免れることができない。彼は人間も動物も植物も同じ権利を持っていると。そういう思想でものを書くとすれば童話と詩にならざるを得ない。」p.332
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【本】郵便配達は二度ベルを鳴らす

2009年05月08日 08時00分08秒 | 読書記録2009
郵便配達は二度ベルを鳴らす, ジェームス・ケイン (訳)田中西二郎, 新潮文庫 ケ-3-1(1963), 1963年
(THE POSTMAN ALWAYS RINGS TWICE, James M. Cain, 1934)

・カリフォルニアの街道沿いの食堂に転がり込んだ、流れ者のフランクが食堂の女房(コーラ)と "いい仲" になり、いったい物語はどう進むのかと思いきや、その後意外な展開に。
・独特の空気感・緊張感がある作品。読みながら『ジョジョの奇妙な冒険』を思い出しました。漫画化するなら荒木飛呂彦氏がぴったり。
・作中に "郵便配達" は特に出てこず、題意が謎。Wikipadiaにはそれらしい説明はありますが……その真意は?
・「それにあんたは汚ならしくないわ。脂っこくないわ。フランク、あたしの言ってること、見当がつく? あんたが脂っこくないってこと」  「まあ、いくらか想像がつくよ」  「あたしにはそう思えないわ。女にとって、それがどういう気持だか、男にはとてもわかんないわよ。いつも脂っこい、べとべとした人間がそばにいて、ちょっと触られるだけで胸がむかつくってこと。ねえ、あたし、そんなひどい性悪女じゃなくってよ、フランク。ただ、もうこれ以上、がまんができないだけなのよ」」p.23
・「いっしょに出て来たときは、かわいらしい青いスーツに青い帽子で、なかなかいい女だったが、いまはよれよれにくたびれて、靴は埃まみれ、泣きながら、たどたどしく足をはこんでいく。とたんに気がついたら、おれも泣いていた。」p.47
・「あたしたちって、ふたりとも、そろいもそろったヤクザものどうしなのね、フランク。神さまはあの晩、あたしたちの額にキスしてくだすったわ。男と女が持てる幸福のすべてを、神さまはあたしたちにくだすったのよ。ところがあたしたちはそんな幸福の持てる人間じゃなかったの。あれだけの愛をもてたのに、その愛の重みで、あたしたち粉ごなに砕けちゃったの。あの山のてっぺんまで、一気に空をとびあがるには、よっぽど大きな飛行機のエンジンが要るわ。だけどそのエンジンをフォードに置いてごらんなさい、車は粉ごなにふっとんじゃうわ。あたしたちがそれよ、フランク、二台のフォードみたいなもんよ。神さまは空の上であたしたちをお笑いになってるわ」p.133
・「おれはおめえを愛しているよ、コーラ。だが愛は、そのなかに恐怖がはいりこむと、もう愛じゃなくなるんだ。それは憎しみなんだ」p.169
・訳者あとがきより「その傾向とは、ほかでもなく、ポケット・ブック版の本書の表紙に "The all-time best seller that is America's most famous hard-boiled novel" とうたってある通り、ヘミングウェイの諸作とともに日本の読者にも親しい "ハード・ボイルド" 的傾向のことで、ケインはヘミングウェイの影響から独立に、この傾向に属する作品を書いた小数の作家の一人と認められているのである。苛烈な文体、ダイナミックな行動描写、良識やセンチメンタリズムからの絶縁。――こうした鮮明な特色は、いまでは数え上げるだけで、またか、と思わせるほど、日本にもその末流がたくさん生まれているので、ここでは単にハード・ボイルド文学の本場もの、生一本の味がどんなものか、本文によって味わっていただきたいと言うにとどめよう。」p.182
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【本】辞書を語る

2009年05月01日 22時01分04秒 | 読書記録2009
辞書を語る, 岩波新書編集部(編), 岩波新書(新赤版)211, 1992年
・『辞書』をテーマにした小文、26編収録。半分以上、見たこともない名が並んでいますが、いずれも各分野を代表する名うての執筆陣のようです。
・自身の辞書使用は専らパソコンにインストールされた辞書。意識して数えたことがありませんが、ほぼ毎日少なくとも一度は引いているのではないでしょうか。辞書に関する思い出も、思い入れも特にありませんが、子供の頃に初めて辞書の引き方を知ったときの「あっ!?」っという驚きは、おぼろげながら記憶にあります。
・出版当時はまだインターネットの普及しはじめで、当時からは想像もつかない状況に現在なっています。「Wikipedia」をはじめとして "素人" が辞書を造る時代が来ようとは。
●『辞書――自由のための道具』田中克彦
・「辞書学の本質的部分は意味学(セマシオロジー)であるから、書き手はふつうの利用者が、自明のこととして通りすぎてしまうようなところにこそ熱中するのである。」p.5
・「私たちは、現代中国の辞典によって、逆にこういうことを教えられるのであるが、フランス語の辞書にはこういう点では実にいいものがある。それは、近代フランスが、いつも新しいことばと概念を作って世界の先頭にたってきただけに、自らのことばに責任をもたなければならないたちばにあったからだろう。日本語もまた、外国人によっても学ばれ、とりわけ、アジアの近代の研究のために学ばれる言語になるようであれば、辞書に対するこうした能動的な書きかたにむかって進む必要があると思う。」p.9
●『ある辞書編集者』大野晋
・「辞書の原稿作りは、熱心にすればするほど進行は遅くなる。」p.26
●『新しい日本語辞典を』城田俊
・「国語辞典は、毎年、装新たに出版され、書店の奥の棚はいつも辞書に溢れていますが、どれもこれも似たり寄ったり。書くためにはパッシブな援助しかしてくれません。  では、日本語で文章を書くのに積極的に手助けしてくれる辞書というものがあり得るでしょうか。書く力は才能、それも習練によってのみ磨かれる……と思っている方が多いかもしれませんが、究極的にはそうだとしても、文章を創るのにアクティブな援助を行う辞書が構想できないわけではないと思われます。」p.30
・「このように、論理的観点からすれば一つですませていいものに、日本語を含めて自然言語は多様な表現を用意し、語と語を贅沢な慣用によって結びつけます。これは世界のすべての言語が病む事態です。「病む」といったのは論理とか効率の観点から言ったに過ぎず、この病弊があるからこそ、言語は豊かで美しく、人を飽かせないのです。しかし、それがまた、書くのは面倒だという感じをおこさせる原因の一つともなります。」p.32
●『ある辞書づくりの体験から』日高敏隆
・「辞書の本体を大項目にして、調べたい単語を索引でひくというブリタニカ方式は、どうも日本には定着しないらしい。日本では小項目辞典が好まれるようである。」p.40
・「文部省による「学術用語」制定も、「世直し」の一つである。常用漢字も同じことだ。そのどちらも、世間に完全に受けいれられたことはない。  昔からいわれるとおり、ことばは生きものである。どこかの権威によって統一されたり、整理されたりするものではないし、正しいとか正しくないとか裁定されるものではない。いろいろなものがいり混って、ごちゃごちゃと動いてゆくうちに、おのずから落ち着いてくるものなのだ。  だからこそ辞書が必要なのだ。辞書は道案内であって、法律ではないのである。」p.44
●『外国語学習と辞書』渡辺吉鎔
・「このように会話文を少しシステマティックに分析すると、辞書に頼りすぎるのは禁物ということがよく分かってくる。結局、外国人としては、何回も何回も実際の使用場面に出会わない限り、辞書の限界を乗り越えることはなかなか難しいと思う。」p.75
・「辞書というものは、一つの言葉を別の言葉で定義している。ところが、一つ一つの言葉はそもそも違う意味領域をもっている。まさにそのために独立した語として存在しているのだ。したがって、説明される語の意味領域と説明する語の意味領域は本質的に完全には一致しない。この点は、辞書の宿命であり、最大の欠点でもあるといえよう。」p.76
●『アクティブな辞書』渕一博
・「さまざまな辞書が電子化されてくれば、それを集積した一大辞書データバンクの構想も出てくるだろう。(コンピュータ)ネットワークを介してそれにアクセスする。人によっては自分用のパーソナル辞書をカスタマイズして作る。近未来の夢として、そういうことも技術的には可能になろうとしている。」p.105
・「能動的な辞書というのが、辞書にとって自然でかつ必然的な進化の方向だろう。その段階になれば、長い伝統のある辞書の構成法をさらに発展させた新しい方法論も確立されるだろう。」p.106
●『言葉の保険について』赤瀬川原平
・「辞書は保険だ。  辞書を持っていると、言葉の保険に入っているような安心感がある。やることはやってあるんだというような。辞書がないと、そういう安心感がないというか、一寸先は闇、わからない言葉に出合ったらどうしよう、という不安感がある。」p.117
・「辞書の世話にばかりなる文章は、たぶんB級かC級の出来だろう。保険の世話にばかりなる人生も、たぶんB級かC級の人生である。といってそれがないと不安が発生するのが辞書の変なところだ。」p.118
・「ホテルの机の抽斗には必ず聖書が入っている。あれはキリスト教の信者であってもそう開くものではないだろう。でもやっぱりないと落着かない、さまにならないというのであるわけで、あれも一種の保険だ。日本は仏教国だから、あの聖書はますます開かれない。手にする人がいない。そこで提案だが、どうせならあの聖書を辞書にしたらどうだろうか。」p.118
●『日常的に楽しむ辞書』群ようこ
・「編者の個性が出る独断に満ちた辞書がもっと出てきて欲しい。一般的には本棚のなかで鎮座することが多い辞書ではあるが、用例を読んで笑ったり、感心したり、日常的に楽しむものになればもっといいと、私は思っている。」p.133
●『無口なパートナー』杉本苑子
・「文章を書く者が、辞書を読む視力を奪われたらどうなるか。考えてもゾッっとする。広大な砂漠に、地図も磁石もなく抛り出されたような心細さに陥るのではなかろうか。」p.208
●『「敗荷」を知る』増田れい子
・「辞書は、転ばぬ先の杖である。まったく。丈夫なザイルのようなものである。ペンにすがって生きる身には、辞書は地所にまさる生産手段である。」p.217
●『辞書との出会い』中村真一郎
・「ところで広く読むということは、あるひとつの真理を追求するというのとは異なって、多様性を喜ぶという方向におのずから向かうので、そうすると個々の作品そのものを、そこからある目的意識をもって、何かを引き出すというのではなく、あるがままに、作者の意図にそって、その効果を味わうということになり、つまりはテキストの文体や、構成や形式を愉しむという方向に行きがちである。」p.226
・「私は本を読むということは、行間から私の勝手な幻想を拡げるということではなく、テキストの意味を、可能なかぎり作者の意図に近付けて理解することだという、基本的な事実を骨身にしみて教えこまれ、」p.228
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【本】柔らかい時計

2009年04月24日 22時03分28秒 | 読書記録2009
柔らかい時計, 荒巻義雄, 徳間文庫 207-2, 1981年
・人間の精神世界を主題にした妄想系SF短編集。六編収録。「SFなんて皆、妄想じゃないか」と思われるかもしれませんが、作中の登場人物が妄想するという意味での "妄想系" です。あまり一般受けはしなさそうですが、私的にはひさびさド真ん中ストライクの作品でした。まだこんな未知の凄い作家がいたとは。どうしてこれまで私のアンテナに引っかからなかったのか不思議に思い、著作リストを見てみると、どうも私があまり手を出さない娯楽小説(?)の作品を主に書いているためのようです。
・巻末には何故か丁寧な、『自筆個人年譜』と『書誌総目録』付き。
2009年【読書記録】印象に残った本暫定第1位! ……なのに現在絶版中。
●『白壁の文字は夕日に映える』
・「「そうね。わたしたちの患者よりも、あなた方の馬やアメリカ人の飼っているイルカの方が、はるかに優れているといいたいのでしょう。でもね、……」突然マルグリットは今にも泣き出しそうなくらい真剣な表情をわたしにむけた。「彼らは人間なのよ。わたしたちの同胞なのよ」  「単に、人間の型をしたけものといえませんか」  マルグリットが本気で怒ったのはその瞬間だった。マルグリットが蒼ざめた。  確かにわたしのいい方は悪かった。だが、わたしの言い方の方が現実的なのだ。わたしは、自分のいい分を訂正しなかった。残酷だったが、正しいのだ。」p.15
・「遺伝工学の研究がわたしたちの研究と協力しあえば、IQ50程度のコンパクトな象さえが、街を歩きまわる日も不可能ではないのだ。」p.16
・「<魔女の槌>という妖術裁判の手引書の存在を教えられたのもこの本だった。<魔女の槌>は十五世紀末に書かれたおそるべき魔女研究の書だった。わたしも思うが、この著書ほど、合理的で論理的な外見をとった独断が、ある邪悪な目的のために駆使された例は数えるほどしかない。」p.23
・「わたしは静かにマルコフにいった。「彼だって、課題を解決したぜ、見事に。将しく身体的能力によって……。知的な能力によらずしてね」(中略)もし人類が、進化の過程で、翼を手に入れたとしたら、飛行機は発明されなかっただろう。人類は空をとぶために、知的能力の助けを必要としないのだ。もし、わたしの仮説が正しいとすれば、バラードにとって、知的能力は不要だった。  バラードに知能はいらないのだ。」p.35
・「――『ナンシー・メイヤーソンのような超能力者は、これまで我々精神医学界が看過してきた空白の領域、精神薄弱者といわれる不幸な人々の中に、発見されぬまま、幾多となく存在していたのかもしれない。それは人類の全てが進化の過程の中で圧殺してしまった能力、潜在しながら、知能という人類特有の能力の発達によって陰のものとなった能力であり、我々が総称して本能と呼ぶ広大な領域、即ち動物たちの多くが、その能力によって生存している領域のうちにあって、……もし我々がこの能力を解放する手段を発見したとき、そしてこの本質的に原始の野性と密接に結合している能力を、人類の理性によって管理せしめることが可能となったとき、我々の文明は、その様相が一変してしまうにちがいない。古来、我々にとって進化の概念とは……』」p.42
・「「バラードは、超人的能力を持った幼児なのね」とマルグリットは眉をひそめながらいった。「わがままな子供。衝動のままに行動する。現実という壁を勘定にいれて、決して回り道をしない。我慢や忍耐、延期や断念を拒絶する赤ん坊……。この彼の幼児的(アンファンティール)な<退行>をどうやって防いだらいいのかしら」  「<退行>じゃないと思います」とわたしはいった。「バラードの場合は……」  「では、どう説明するの、あなたは」と彼女は尋ねた。  「系統発生的に我々とはちがう進化の道をたどりつつある新人類の一つの変異型ではないかと考えるのです」  マルグリットは沈黙した。」p.48
・「悪魔や魔女伝説にまつわる様々な記録は、その時代の人々にとって単なる妄想や空想の産物だけだったか。口伝えに伝えられているうちに、多くの歪曲と脚色がなされたとしても、その原形は事実的な何かから発生したのではなかっただろうか。たとえば空とぶ魔女の原型は……」p.50
・「「ぼくのいいたいのは、そういった魔女裁判批判のことじゃないんだ。あの裁判は、中世、近世史を通じて、人間の狂気の産物だったと思う。たしかに、妖術にしろ魔女にしろ、99%までは、病める者たちの想像上の産物であり、幻覚であり、錯覚であったはずだ。だが仮りにだが、1%でも事実が含まれていなかっただろうか。夜空をとぶ魔女が本当にいたのではなかったのか。また姿なき悪魔によって、実際に女が妊娠させられたことがあったのではないか……」」p.52
●『緑の太陽』
・「競りは、決して活気のあるものではなかった。それでも、最低値30カノンからはじまった競りは、徐々にあがっていった。この溝の中の強姦殺人屍体は、現場の保存状況からいって、かなり価値あるものにちがいなかった。」p.73
・「きっと、彼女は、採取作業をはじめる前に、<現場>の状況を点検し、場合によっては修正を加える必要があるかだうかを、考えているのだ。が、女はやがて<現場>の保存が完璧であることに満足した様子だった。わたしが調べてきた屍体芸術の知識によると、現実感(リアリティ)が必須の条件となるらしいのだ。ほんの少しでも局外者に荒されると、値打ちが、キズ物としてさがってしまう……。」p.75
・「表現のテクニックは見事だった。死の決定的な瞬間が、再現されていた。そして、<固定>されていた。  屍体芸術の最高の秘技が、そこにあった。ナンシーは、氏の瞬間以来、永遠化されているのだ。時間はそこで停止する。時間と共に化石化したのだ……。」p.78
●『大いなる正午』
・「《お前たちの種族は、時間を空間化して考える癖があるようだな。たとえば、時計という面白い道具があるらしい。それは、お前たち種族には、時間を直接知覚する感覚器官が発達していないためなのだろう。だが、空間は知覚できるらしい。それ故、お前たちは時計という道具を造りだした。時間を空間的なものに翻訳し、空間化して知覚するという方法を思いついた」p.147
・「その男の空間と時間の理論、生命と物質、純粋持続の概念など、またそれに続く後代の思想家たち、たとえばフッサールなど現象学派に属する連中なども、所詮はお前たち種族の生物学的能力の限界が、その存在論の大前提としてあったことを疑いもしなかったようだな。といっても、お前たち種族の宇宙的地位から言って同情すべき点はあったが……、としても、精緻を極めたそうした思想体系も、結局は知覚能力の限界とともに、限定された真理に過ぎなかった」p.148
・「しかし、われら<ハ>族にとっては、時間は有限なのだ。有限であるばかりか、時は加工し得るもの、裁断し、分割しそして集結させ得るもの、それより巨大なエネルギーをも掘り出し得るものなのだ。つまり、君たちの文明が物質を基礎に置いて成り立っているように、われわれに在っては、時こそが基本単位であるのだ」p.149
・「秘渓の峡で、こうして行なわれた異なる世界の種族の邂逅は、ヒトに大いなる智慧をさずけたようであった。彼には、<ニ>の<ウ>と、ヒトの<亜>世界とは、共に同一の法(ダルマ)によって律せられているようにも思えた。」p.153
・「それは<ニ>の上にいるもの、その越者の深遠にして計り知ることのできぬ設計意図より為されているようにも思われた。  というのも、ヒトはその過去において拾い読みした啓蒙哲学書の記憶をたどりながら、ライプニッツを思い浮かべていたからである。そのほとんど同時代人であるスピノザが、神を唯一原因として演繹して壮大無比の大ピラミッドを体系化したのに対し、この男は窓のないモナドより出発して、神の帰納的照明を試みた。その幾つかの教説の、最後の予定調和説――、そこで彼は神の設計意図を想定している!」p.155
・「《それは何だ。いや、ちょっと待て。大いなる正午! そうだ、<ニ>よ、おれも思い出したぞ。それは、おれたちの近代に在って超人を夢みた一人の夢想家の念頭に啓示された想念であった。『神は死んだ』と街頭で叫んで狂人扱いにされた男だ。権力の意志を志向して宇宙的巨人たらんとした男……! その名は<ニ>ーチェ……。ディオニソス的生成流転する宇宙の真相を直視できた哲人だ。ピラミッド状にそそり立つひとつの巨岩、その名を橄欖(かんらん)山と言った。ある日突然に、彼はこの山に対峙してその啓示を受けたといわれる。そうか、<亜>の硬さはかの橄欖山の硬さだったのか。それは偶然の暗号だのか、それとも何者かが彼に啓示を与えたのであろうか……。そして、あの "ツァラトゥストラ" の中に唱われる永劫回帰の歌……夜半の鐘が遠く十二度響きわたるとき、その回帰を主題とする "ツァラトゥストラ" の第三部は閉じられる――。『苦痛は言う、滅び行け、と。さあれ、すべての快楽は永劫を冀(ねが)う――!――深き深永劫を冀う――!』と》」p.164
●『柔らかい時計』
・「火星症研究家として著名な<火星のウエルズ>の報告書によると、火星の住民三万人の全数つまり百%が、地球の尺度でいう発狂状態にあるという。いわば、この惑星全体が、一種の気狂い病院というわけで、<ウエルズ>にいわせると、地球側の精神医学研究者にとって火星は、研究対象の宝庫なのだそうだ。殊に、最新の学問的傾向、比較社会学的生態学、社会的異常生態学(ソーシャル・アブノーマル)の分野からは、火星こそ絶好の惑星社会だと主張されている。」p.175
・「その時はじめて<ワタシ>はあの<柔らかい時計>というやつを見たのだった。  イシャウッド教授が、何気なく机の縁に置いた時計だった。  「珍しい時計ですね」と私は目を丸くして叫んだ。  「これですか、私の発明した新蛋白質で造ったものです」と教授はいった。「ちゃんと動いて時を刻みますよ。温度をうんと上げれば、チョコレートのように溶けてしまいますが、常温ではほらこの通り」  なるほど、柔らかい。それは、サルバドール・ダリの有名なあの絵のように、机の縁で、重力の法則通り折れまがって、だらり、下へ垂れ下がっていた。」p.183
・「サルバドール・ダリと松葉杖の特別な心理学的関係のことを、<ワタシ>は知っていた。屋根裏部屋の物置の中で、使い古したそれを見たとき、彼は衝動的に、一緒にいた女を足腰のたたぬほどぶちのめしたという逸話がある。そして、この松葉杖はダリの絵の中にしばしば現われる。これこそサルバドール・ダリの目指す柔らかい世界を支えるつっかい棒として必要な象徴的な小道具でもあった。」p.190
・「「私は、朝から鱈腹食べるたちでしてね」といいながら、<ダリ>氏は召使いから鉄皿の上でまだジュウジュウ音をたてて焼けている目覚し時計を受けとった。  時計は変形して、だらりと皿の縁までひろがっていたが、まだ動いていた。  <ダリ>氏は、それめがけて、息の根をとめるようにフォークをつき刺し、ナイフで刻みはじめた。喜悦のために顔はくしゃくしゃに変形していた。」p.195
・「つまりこういうことなのだ。柔らかい時計を摂取したために誘発された彼の嗜食症的傾向が顕在的な力を得、火星の時間を食い、その旺盛な主観的消化液が客観的時間を胃袋の中で消化改変し<排泄>しているのだ。きっとそうにちがいなかった。この火星の時空構造は脆弱だ。<ダリ>氏の強力な消化液なら容易に影響されうる性質のものだった。」p.198
●『トロピカル』
・「人間は自分をとりまく "世界" の絶対性を信じて安定している動物だ。価値観とか法則性とか信念体系とかいうものによりかかって安住しているのだ。」p.261
・「いまぼくが信じている仮設が正しければ、ぼく自身を含めてこの "世界" は、心霊子(プシコン)的世界であるのだろう。この "世界" の構成物質は、心霊子という非物質的粒子によってできあがっているのかもしれない。時間旅行者の肉体がタキオン化つまり心霊子的存在になっているのではないかという学説をどこかできいたような気もする……。」p.271
●『大いなる失墜』
・「Kはぼんやりと赤外線を放つこの地球軌道上に建造された中空の巨大な新しい天体を夢想していた……。もし、このような大天球ができたとき、人類は真の楽園をうるのであると。そのときまでに人類は変革され、この新しい天地に適応し、飢えることもなくこの空間を遊歩するのであると……。」p.333
・「巨大という意味が、何であったかということをKは悟っていた。まさしく、それとしかいいようのないそれは、そこに存在していたのだ。Kは、存在ということの重さを、重みとしてずっしりと悟った。あるのだ。まさに在るのだった。あるというのは、こういう存在のあり方を指していうのだ。Kは、あるということが、これほどまでに、おそろしいものだとは、今まで知らなかった。いまや木星は、空をおおいつくしていた。限りない広がりの大部分をおおいつくしているのであった。」p.336
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【本】生命を探る 第二版

2009年04月17日 22時12分18秒 | 読書記録2009
生命を探る 第二版, 江上不二夫, 岩波新書(黄版)112, 1980年
・日本における生化学の第一人者による、『化学の立場から見た生命』。細胞を構成する分子のミクロの視点から地球外の生命というマクロの視点まで、専門外の人間でも十分読みこなせる平易な言葉で語られている。1967年に出版された第一版の改訂版。
・それとは知らずに手にとった本だったが、筆者は、この分野での有名な本、ワトソン著『二重らせん』の訳者でもありました。
・残念ながら筆者は故人ですが、この改訂版からも既に29年が経ち、第三版を書き直しても良いほどのめざましい進歩が生化学分野では現在も続いています。しかし「生命とは何か?」の答えが見えない状況は相変わらず。
・「生命を探る ――化学の立場から――  化学の立場から生命を探る、とは、生命現象を分子間の相互作用として理解することである。  それは前世紀以来「生化学」とよばれている。」p.i
・「化学者はまず、生命は何か無機界とは本質的にちがった物質を含んでいるのではないか、生物には無機界とちがった化学変化が行なわれているだろう、それを見出そう、と考えた。」p.1
・「19世紀初期の化学者は、有機物を合成する能力を生命の特性と考え、それを生命力に帰していた。ただ、生命力そのものについての意見は一様ではなく、ある者は神秘的な力として理解し、ある者は特殊な物理化学的条件として理解していたようである。」p.2
・「代謝が分子間の相互作用として理解されたとき、分子生物学の成立があってもよかったであろう。しかしそうはならなかった。分子生物学が成立するには、生物の最も基本的な性格である遺伝の本質が分子間の相互作用として理解されるのを待たねばならなかった。」p.10
・「10年余り前から生命科学という言葉が盛んにつかわれるようになった。しかし実はその意味は必ずしも一様な理解に至っていない。(中略)その社会的要請に即して、筆者は生命科学を「人間生活のための生物学」と理解する。」p.11
・「ここでは化学の立場から、生命科学の社会的要請にこたえて、生命を探ろうと思う。」p.13
・「20年以上も前に生命の問題を議論する会議がモスクワであったときに、ポーリング(米、1954年ノーベル化学賞)が、生命を定義することよりも、生命を研究することの方がやさしい。定義はしなくても研究はできる。化学者は定義しないで研究すればよい。そういうことをいったことがあるが、研究することによって本質がだんだんとわかってくるともいえる。」p.16
・「生命の存続を可能ならしめている最も基本的な行為は自己増殖である。そしてそれを含めてより一般的にいえば、英国の有名な生理学者ホルデーンの古い言葉をかりれば「正常な特異的な構造の積極的(能動)維持」といえる。」p.18
・「個々の生物をつくっている形態・物質は本来この地球上では不安定なものであり、いずれは無機物へ返されてしまう運命にあるのであるが、生きている限りは、それに抵抗して、維持されているのである。  われわれは、この維持のために、空気をすい、水を飲み、食物をとる。」p.25
・「「正常な特異的な構造の積極的維持」をするためには、われわれは食物をとらなければならないが、われわれは、まず食物のもっている、ほかの生物の特異的構造を徹底的に破壊して、特異性のない低分子化合物にしてから、吸収し、それを素材として、自己の正常な特異的な構造をつくりあげるのである。」p.28
・「以上、本来不安定なものの積極的維持には、まず素材エネルギーが必要であることをのべた。  実は、これだけでは大事なものが欠けている。一軒の家を建てるにも、材料とエネルギーのほかに、どのような家を建てるかを指定する設計図が要るだろう。(中略)ヒトの子はヒト。ヒトの子に急にサルの子が生まれたりはしない。「こういう子を作るのだぞ」という命令――それをわれわれは情報という――が、それをつくる場に伝えられているにちがいない。これを情報の伝達という。それは設計図の役割を果たす。」p.32
・「化学の立場から見ると、「地球型生物」の第一の基本的な特徴は、「水と炭素化合物を基盤的物質とした生物」といえるであろう。」p.40
・「生物が正常な生活現象を営むのに必要な元素を生元素といっている。」p.40
・「ヒトについて生元素であると一般に認められているものは、多量にある酸素、炭素、水素、窒素、ナトリウム、カルシウム、塩素、リン、イオウ、カリウム、マグネシウム、生物微量元素として、鉄、マンガン、銅、亜鉛、ヨウ素、セレン、コバルト、モリブデン、クロムである。ケイ素、フッ素、ニッケル、錫、バナジウム、臭素などもその必要性が報告されている。」p.42
・「地球上に天然にある元素は約90種であるが、生体はそのうちの10種ほどの元素でほとんど構成されているということは興味あることである。生物はどのようにして、この約10種を選んだのであろうか。」p.43
・「すべての天然の自己増殖能をもつものは、少くとも、水、タンパク質、核酸を含んでいる。(中略)ところで、水とタンパク質と核酸とをただまぜ合わせても、自己増殖能のあるものは生まれない。問題は「水とどのようなタンパク質とどのような核酸とが、どのような存在状態にあるときに自己増殖能が生まれるか」を解明することである。」p.47
・「「すべての生物は生命に最も重要なものは自分自身でつくれるようにできている。だから食う必要なんかないんだ。われわれは生まれてきた。ビタミンはつくれないから、食って命をつづけている。核酸はつくれるから食わんでよい。核酸をつくれないようなものははじめから生まれてくることさえできないんだ。」p.59
・「1800年代のはじめにベルツェリウスがいったことば「生物には合成を容易ならしめる特殊な条件がある」は、今なおそのまま通用する。この特殊な条件の一つ、あるいはむしろ、そこの主役を演じているものは生物の特殊な触媒であり、それが酵素である。」p.76
・「要するに、酵素は酵素作用(触媒作用)という機能をもったタンパク質である、ということになる。本章の最初にのべたように、「酵素は生きているか」という質問をしばしばうける。生物学者や生化学者の一般の常識からいえば、それは生きていない。しかし、赤堀四郎博士がしばしばいわれるように「タンパク質は生きている」という意見もないわけではない。実は「生きている」ということが定義されないので、これは議論にならないのである。」p.79
・「本書の最初に、「化学の立場から生命を探る、とは、生命現象を分子間の相互作用として理解することである」とのべたが、この「分子」のなかには、多くの場合に酵素が含まれているのである。」p.84
・「生物は熱機関ではない。エネルギー源としての栄養素の栄養価を熱量単位カロリーであらわすので、誤解をおこしやすいのである。(中略)いいかえれば、生物は、一般に、エネルギー源に含まれている科学的潜在エネルギーを、熱の形をへることなしに、いろいろな生物的仕事に変換しているのである。仕事をした後に、終局的には熱として外界に放出する。」p.88
・「これを言葉でいえば、エネルギー源としての栄養素の分解によって遊離されるエネルギーでまずATPがつくられる。ATPの形でエネルギーがためられる、といってもよい。次にATPが分解され、そのとき遊離されるエネルギーでいろいろな生物的仕事が行なわれる。もちろん、どの段階の反応にも、それを触媒している酵素が関係している。」p.97
・「要するに、すべての生物は、生活に必要なエネルギーをATPに依存し、そのATPは有機物中にたくわえられた化学的潜在エネルギーをうけてつくられる、ということができる。」p.102
・「細胞についてはいうまでもないが、細胞小器官といわれている細胞内の諸構造体(核、細胞膜、ミトコンドリアなど)が、それを構成している要素(いろいろなタンパク質、核酸、脂質、多糖など)から、何によって規定されて具体的な構造がつくられ、機能をもつかはほとんどわかっていない。これらは今後の生化学の大きな課題である。」p.135
・「微生物が合成しうるすべてのタンパク質の設計図はDNAの中に書き込まれている。ただ微生物は、自身のつくりうるタンパク質のすべてを実際につくってはいない。そのおかれた環境で生活に必要なタンパク質をはじめ、ごくわずかのタンパク質を合成しているにすぎない。ほかのタンパク質を合成する能力は、能力として保持しているが、通常は実際に用いていない。特殊な環境におかれ、特殊な酵素を合成することが必要な条件におかれると、誘導的にその酵素を合成するのである。これはいわば微生物細胞の自動制御である。」p.141
・「しばしばホルモンビタミンと並べて論じられる。ビタミンとはある種の生物(普通には動物)の生長または健康な生理的状態の維持に必要なもので、かつ、主要栄養素(高等動物ではタンパク質、脂質、糖類、塩類)から体内において調整することのできないものである。(中略)たとえばビタミンCはヒトにとってはビタミンであるが、ネズミにとってはホルモンである。」p.147
・「生物圏が地球上で果たしている役割を科学的に研究するのが地球生化学である。」p.151
・「生物学が地球生物学である限り、生物学は普遍的な科学とはいえない。宇宙生物学となってはじめて生物学は物理学・化学とならぶ普遍的な科学となりうるのである。」p.160
・「宇宙生物学の基本的法則というのは、天体の進化の一環としての生物の進化の法則にほかならず、天体の過去現在とそこの生物との必然的関係を明らかにすることである。  先にのべた宇宙生物学の第一の分野の目標はここにあり、従って私はむしろこれを普遍生物学とよびたいのである。実はこれこそが生物学であり、従来の生物学は地球生物学(実は地球を無視しているが)なのである。」p.163
・「生体高分子から、その複合系、原始的生命への発展がどのように行なわれたかについては、まだ一般に認められる説はない。実験的にも、原子細胞模型として、タンパク質などからなる微小球の形成などが行なわれているが、生命の起源との結びつきは疑わしい。  しかしいずれにしても漠然と、原始地球に形成した生体高分子を中核とし、さらに水、多くの低分子有機物の相互作用を経て原始細胞へと進化したと思われる。」p.186
・「もし太陽系内には地球以外に生命はない、ということが確定された暁には、太陽系外に一般の生命の存在を探求することは当分不可能なので、高度の文化をもった地球外文化の探究のみに期待をかけなければならない。」p.203
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【本】現代科学のキーワード

2009年04月14日 23時02分25秒 | 読書記録2009
現代科学のキーワード 知っておきたい256の新知識, 読売新聞東京本社科学部, 講談社ブルーバックス B-1438, 2004年
・最新科学技術の雑学集。複数のキーワードが細切れではなく、系統立って一つの章にまとめられているので読み易く、図表も豊富でちょっとしたレポートなんかにも使えそうな内容の濃さです。類似の内容の本をこれまで数冊読みましたが、その中にあって良い出来の本だと思います。
・執筆陣:三島勇、保坂直紀、増満浩志、吉田典之、三井誠。
・「最新の科学が正しく理解できる! ユビキタス、ゲノム創薬、温室効果……。著しく進歩する科学の世界には、新しい造語や難解な用語が溢れている。その中から、現代科学をする手がかりとなる256語をキーワードとして選び出し、新聞社の科学部記者たちが読み物形式で分かりやすく解き明かす。専門書のように難しくなく、辞書のように無味乾燥でなく、楽しく読み進めながら、自然に科学の知識が身につく。」表紙
・「雪が降り、それが積もって自らの重さで氷に姿を変えて大陸を厚く覆ったものを氷床というが、この氷床が地球上のどこかにある期間が氷河時代だ。現在は、南極大陸やグリーンランドに氷床があるので、氷河時代ということになる。現在の氷河時代は約3800万年前に始まったらしい。」p.17
・「太陽から来るエネルギーと地球から出て行くエネルギーの形が違うので、同じ大気を通過する場合でも、両者の事情は全く違う。赤外線は、可視光に比べて格段に二酸化炭素に吸収されやすい性質を持っている。だから、大気中に二酸化炭素が増えると、地面から放出される赤外線はこれまで以上にたくさん大気に吸収され、そのエネルギーが熱に変わる(図1-1-1)。したがって、気温も上がる。  このように、地面から放出されるエネルギーを二酸化炭素などの大気成分が途中で捕らえてしまい、その結果、地表に近い大気の温度が上がることを温室効果という。」p.20
・「気象庁が発表する震源は、この広がりを持つ震源域の中で最初に地上波を出した場所のこと。つまり、ずれ始めた場所だ。」p.25
・「地震の規模はごく小さいものから大きいものまで幅が非常に広いので、それを表すマグニチュードの数値は、見やすいように幅を圧縮して、2増えるとエネルギーは1000倍になるように決められている。」p.26
・「遺伝子レベルであれ、種のレベルであれ、生物の多様性が失われた時に、私たち人類の生活にどのような影響が出るのか、実はまだよく分かっていない。よく使われる説明に、飛行機のリベット論がある。つまり、「飛行機は、機体に打ち付けられているリベットが一本や二本抜けただけで墜落するわけではないが、抜ける数が増えるにしたがってもろくなり、ついに限度を超えて壊れる」という比喩だ。」p.60
・「単純に言えば、丈夫な設計図を持つ人は、多少の暴飲暴食に耐えられるが、そうでない人は、生活習慣に気を付けないと、糖尿病や高血圧、ガンになってしまう。病気になるのは、設計図の特徴と生活習慣との兼ね合いということだ。」p.68
・「1 はしで豆をつかむ  2 明日の予定を考える  3 童話を声に出して読む  これらの中で、どれが一番、頭を使うだろうか。東北大学・未来科学技術共同研究センターの川島隆太教授らの研究では、答えは意外にも「童話の音読」だ。脳は、単純な読み書きや計算をする時に、最も活発に働くのだという。」p.83
・「乳腺の細胞がもとになっているので、豊かな胸で知られる歌手ドリー・パートンにちなみ、クローン羊は「ドリー」と名づけられた。」p.86
・「遺伝情報は「究極のプライバシー」などともいわれたりする。」p.92
・「クローン人間を作り出すには、それほど大がかりな施設がいるわけではなく、一般の産婦人科の施設があれば十分だ。」p.96
・「基本粒子の仲間には、クオークのグループのほかに電子のグループ、そしてニュートリノのグループがある。いずれの粒子も、これ以上は細分できない。」p.147
・「素粒子物理は、なぜ宇宙はこの形で存在し、人間がどうしていまこの時にいるのかという、近代科学の成立以前から繰り返されてきた問いに答えようとする営みだ。」p.151
・「プロとアマチュアの違いについて、ある研究者は「プロは、自分で解決可能な課題を見つけ、きちんと答えを出すのが仕事。一生かかっても解決できないような夢を追うのではアマチュアだ」と説明する。」p.153
・「米国は結局、ウラン型とプルトニウム型の原爆の開発に成功した。(中略)45年8月6日に広島にウラン型原爆を、三日後の9日には長崎にプルトニウム型原爆を投下した。」p.156
・「動燃(現核燃料サイクル開発機構)が国産技術だけで開発した新型転換炉「ふげん」(福井県敦賀市)は、経済性が悪く、電力業界が実用炉として導入を拒否したため、「ふげん」で培った技術が実用炉として花開かないまま、開発が打ち切られ、「ふげん」は03年3月に運転を停止し、閉鎖された。」p.159
・「高速増殖炉が頓挫をきたし、プルサーマルも暗礁に乗り上げ、プルトニウム利用は停滞してしまっている。そうこうするうちにプルトニウムは再処理でどんどん増えていく。日本政府は早急な打開策をまとめないと、海外からの疑いの目はますます厳しくなってくるだろう。」p.168
・「水は、374度、220気圧を超えると、液体でも気体でもない超臨界水となる。この超臨界水は非常に強い分解能力を持つため、PCBやダイオキシンといった有害物質の分解などに期待が集まっている。」p.188
・「生物の反応条件は常圧、常温で、原材料は私たちが食べる食物。技術的に考えると、特殊な環境、装置は一つもなく、しかも高効率で行われるという非常に優れたシステムだ。ナノテクノロジーの大きなお手本であり、目標となっている。」p.199
・「2001年3月にまとまった「科学技術基本計画」では、ナノテクは生命科学、情報通信、環境と並ぶ四本柱に位置づけられた。」p.200
・「電波のアナログ、デジタルとは、電波に乗せるデータが、音声などのアナログデータか、1か0か(二進法)のデジタル情報か、という違いにつきる(図9-1-1)。」p.217
・「CDMA(=Code Division Multiple Access)は、すべての端末が一斉に電波を出す "ごちゃまぜ" 方式だ。電波は混信してしまうが、端末ごとに与えられた目印を信号に織り込むことで、処理回路内で同じ端末からの信号が自動的に区別され、分けられるようになる(図9-1-2)。」p.224
・「トロンは多くのメーカーに採用され、携帯電話やビデオカメラ、カーナビ、自動車のエンジン制御など機器組み込み用のOSとして世界シェアの約六割をトロンが占めている。国内の携帯電話に限れば、八割がトロンを採用する。」p.228
・「近年、子供の好奇心の低下が問題になってきた。いわゆる理科離れ現象だ。文字通り、理科嫌いの子供が増えているわけだが、最近、理解以外の教科はさらに嫌われているというデータも出てきた。つまり、「勉強嫌い」の増加(図10-1-1)で、知的好奇心離れという新たな言葉も、専門家の間で広がり始めている。」p.233
・「新技術などにつながる可能性を秘めた独創的な "タネ" を、大学の基礎研究で生み出してもらい、それを企業の手で応用まで育てる――そんな大学と企業の連携が期待されている。」p.243
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【本】マノン・レスコー

2009年04月08日 08時13分13秒 | 読書記録2009
マノン・レスコー, アベ・プレヴォ (訳)川盛好蔵, 岩波文庫 赤519-1, 1929年
(Prevost HISTOIRE DE MANON LESCAUT ET DU CHEVALIER DES GRIEUX 1831)

・恋愛小説の古典。蠱惑的な女、マノン・レスコーと、それに振り回され続けるシュヴァリエ・デ・グリューとの物語。シュヴァリエの恋への盲目っぷりと無茶ぶりは、もうここまでくると天晴れです。
・『椿姫』の序盤で、マルグリット(椿姫)の遺品として登場したのが印象に残り、手にとった本。椿姫が読んだのと同じ本を、現世で自分も読むというのが不思議な感じ。
・もってまわった言い回しが多く、読むのに少々手間取る。
・「それはホラーチウスの次の掟にも明らかである。曰く、
 即ち今直ちに言うべきものを直ちに叙べ、
 しかも大部分はこれを差し控え、かつ差し当たり省略するにあり。
」p.5
・「六人ずつ並んで、胴のところを鎖で繋がれた件の一ダースの売笑婦たちのなかで、一人、姿も顔だちもこの場には甚だ不似合いな、ほかの様子をさせたなら上流の身分の者と見えたかもしれぬ女がいた。彼女の悲歎も、下着や衣服の汚さも、彼女を少しも醜くはしていなかった。そのために、彼女を眺めて敬意と憐憫の情を誘われた程であった。」p.13
・「――それは私がそのために世の中で一番不仕合せな人間になった程、それほど激しい情熱で彼女を愛しているということです。」p.15
・「未だかつて異性のことを考えたこともなければ、注意して女を眺めたこともない私が、私は言うが、その賢さと慎しみ深さをあらゆる人々に嘆賞されていた私が、一挙にしてのぼせ上がってしまうまで情熱を煽られた程、それほど彼女がうるわしく私におもわれたのである。」p.21
・「彼女は、もしも私が彼女を自由にしてやれる少しの希望でも見つけ出せるなら、いのちよりももっと大切なものを私に払わねばならぬように思う、と私に告白した。」p.22
・「まあ、なんという驚くべき出現であろうか。私はそこにマノンを見たのである。それは彼女であった。しかも今までに見たよりもいっそう愛らしくまたたけていた。彼女は十八歳の齢を重ねていた。その艶やかさは言語を絶していた。世にもたおやかに、世にも麗しく、世にも蠱惑的な、それは恋そのものの姿であった。彼女の姿態は隅々まで私には一つの蠱惑だった。」p.48
・「かくも熱烈な、かくも愛情に溢れた懺悔に感動しないような野蛮人がどこにあるだろう。私は、この瞬間には、マノンのためにならキリスト教界のどんな司教の位をも犠牲にしなければならぬと思った。」p.53
・「私たちの唯今のようなありさまでは、貞節などは馬鹿げた徳だとは思いませんか。パンに不自由しながら人は恋を語れるでしょうか。飢えのために私は抑えきれぬ軽侮の心を起こすかもしれません。」p.74
・「なんの因果から、と私はつぶやいた。――自分はこれ程までの罪を犯すのだろう。恋は浄らかな情熱であるのに、どうして私には、不幸と放埓の泉となってしまったのか。」p.78
・「――僕の結論はこれだけのことだ。つまり、人に恋を厭わせようとするときに恋のよろこびを貶したり、美徳を行えばいっそう大きな幸福が来ると約束したりするほど、下手な方法はないということだ。我々の性質から考えてみれば、人間の最大の幸福は確かに快楽のうちに在る。」p.100
・「彼女は手に持つ鏡を男に差し出して、  「ごらんなさい、あなた、と彼女は言った。――ようくお顔をごらんになって、それからご返事をなさいませ。あなたは私に愛をお求めになります。私の愛する人は、生涯愛することを誓った人は、ここにおりますが……。どうぞご自身でお較べ下さい。もしこの人と私の心を争える自信がおありでございましたら、いったいそれはどんな根拠からであるかおっしゃって下さいませ。ところであなたの最も卑しい召使いの私の目には、イタリー中の公爵がたも私のつかんでいる髪の毛の一筋の値打すらないことを、私はきっぱりと申し上げます。」」p.136
・「神が私をその最も冷酷な処罰をもって打擲するためには、私は自分の生涯を通じて、私の幸運が絶頂に達したと思われる時を常に選ぶのを知った。」p.138
・「ただ、いとしい女よ、僕の気にかかるのはお前のことだ。こんなに可愛いひとになんという運命だろう。神よ! あなたは自分の最大の傑作を、どうして、かほどまで冷酷に扱うのですか。僕たちはお互いに我々の不幸に似合いの資格で、なぜ生れては来なかったろう。僕たちは機智と、趣味と、情操とをもらって来た。ああ! 僕たちはそれをなんと悲惨に使用するのだ。一方では、私たちのような目に遭ってこそふさわしい、あれほどの卑しい人間どもが、運命のあらゆる歓待を楽しんでいるのに!」p.177
・「「恋よ、恋よ、お前は永久に智慧とは融和しないのだろうか。」私の立ち去る姿を眺めて、この謹厳な法官は叫んだ。」p.181
・「私は、意識を失った瞬間は、このまま永久に生命から解放されたのだと信じたほど、それほど苦しい心臓の鼓動を感じて卒倒した。再び我に帰った時にもなお死に直面したようなこの心持は私に残っていた。私は室内のあらゆる部分を、また自分自身を、まだ私が生きている人間の不幸な資格から解放されていないかどうかをたしかめるために、眺め廻した。苦痛からまぬがれようと求める本能的衝動に駆られながらも、この絶望の、茫然自失の瞬間においては、何物も、死ほど私には懐かしいものはなかった、ということはまさにたしかだ。私の苦しめられた残酷な痙攣よりもいっそう耐え難い何物をも、この世に生れて以来、宗教でさえ私に考えさせたことはなかった。しかしながら、恋に特有の奇蹟によって、私は意識と理性とを返してもらったことを神に感謝するだけの十分な力をまもなく取りもどした。そのとき私が死んでしまったら、その死は自分だけにしか役にたたなかったであろう。マノンを自由にし、マノンを救い、マノンの仇を報じるためには私の生命が必要だった。私はそのために私を容赦なく使役することを誓った。」p.186
・「世界中の奴らが僕を迫害したり裏切ったりするのだ、と私は近衛兵に言った。――僕はもう誰一人信用しないよ。僕は、運命にも、もはや何一つ頼まないんだ。僕はこの上もなく不運だ。もう諦めるほかはない。だから、僕はどんな望みも棄ててしまうよ。神様が君の親切を誉めて下さるといい。さようなら。僕は自分から進んで、僕の没落を仕上げるために僕の悪い運命に手をかしてやるのだ。」p.198
●巻末の訳者による『作者について』より
・「さて、『マノン・レスコー』が古今東西を通じて恋愛小説の王座に位していることはいまさら説明するまでもあるまい。いわゆる娼婦型の女性が文学に描かれたのは、この小説が始めてであるといわれている。女性の魔力に最も敏感であり、女性の肉体と心理の地図に最も詳しかったモーパッサンは、かつてマノンについて、「いかなる女もかつてマノンにおけるほど詳明に、完全に描かれたことはなかった。いかなる女もマノン以上に女であることはなかった。かくも甘美であると同時にかくも不実な、恐るべき女性的なものの精髄をマノン以上に備えているものはかつて存在しなかった」と書いたことがある。もしこの物語を読んで、シュヴァリエ・デ・グリューのあまりのだらしなさに眉をひそめる人があるとしたら、その人は真実の恋愛とは、また女に迷うとは、いかなることであるかを知らない人である。(中略)人間が人間であることをやめない限り、男は常にマノンのような女のために生命をなげうつことを厭わないのである。」p.234
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【本】まなざしの人間関係

2009年04月03日 22時35分41秒 | 読書記録2009
まなざしの人間関係 視線の作法, 井上忠司, 講談社現代新書 641, 1982年
・『まなざし(視線)』を通して見た日本人。心理学的な内容かと思って読み出したのですが、主に比較文化論的な内容でした。誰でも思いあたる身近な話題からはじまり、著者独特の興味深い論が分かり易い言葉で展開されます。「なるほど!」と思わせられる場面が随所にあり、なかなか良い本だと思うのですが只今絶版。
・「視線を合わすということは、わたしたちが人間関係を結ぶうえで、もっとも基本的なしぐさのひとつであろう。  ところが、概してわたしたちは、他者と向かい合った状況で、お互いに視線を合わせながら話をすることに、言い知れぬ苦痛をともなうもののようである。どうやら、わたしたち日本人は、日常の生活のなかで、まなざしないしは視線にたいそう敏感な国民であるらしい――」p.7
・「かりにイタリアが「視線を合わす文化」であるとすれば、わが国は「視線を避ける文化」であるということができる。他者のまなざしに敏感なわが国の文化の問題を、わたしはイタリアでの生活のなかで、逆に再発見したのであった。」p.15
・「「目は人の眼(まなこ)」といわれる。わたしたちにとって、目はもっともたいせつな器官のひとつである。だがそれは、たんなる感覚の器官としてではない。目は対象(ヒトやモノ)を見、対象のこころをよむ。と同時に、目は人のこころをもうつし出す。」p.48
・「映画の撮影の順序は、ある意味で鉄道の架線工事に似ている。始発駅から終着駅まで架線を順序よく引いていくということは、まずありえない。工事の可能な箇所から順次手がけてゆき、切れ切れの架線をどんどんつないでゆくというのがふつうである。」p.51
・「かつてわが国の女性は、もっぱら "見られる存在" であった。男から見られても、見かえしてはならないのであった。視線を避けるためには、一般に、目は大きくないほうがのぞましい。瞳が大きくて、いまにもこぼれ落ちそうな女性は、おそらく映画が大衆化するまでは、女らしい人とか美人とはいわれなかったにちがいない。女性の目は細くて切れ長で、むしろ小さいほうが好まれたのである。」p.62
・「まなざしないしは視線の問題にもっとも古くからつよい関心を示してきたのは、古今東西をとわず、文学者であった。かれらは文学作品のなかで、目の表情や視線の動きをたくみに描写することによって、登場人物の心理を読者に的確に伝えようとしてきたのである。」p.65
・「近づきすぎると「ずうずうしい」と受けとられ、離れすぎると「よそよそしい」と受けとられるというこの事実は、異なった文化の人間同士が出会うとき、相互の理解をさまたげずにはおかないであろう。」p.83
・「このように、演技者の目線の方向ひとつで、空間における場面の効果はまるで違ってくるのである。」p.105
・「もう一つ、身近な例をあげよう。いまかりに、わたしたちが道路を歩いているときに、向こうから知人がやってきたとしよう。こちらはすでに彼の存在に気がついているのだが、あまり早くから彼のほうをジロジロ見るわけにもゆかない。そこで、ある程度まで接近したところで、やっと気がついたようなふりをして、声をかけるということになる。その作法のタイミングが、なかなかむつかしい。」p.108
・「野生のサルの餌付け場に行くと、「サルの目を見ないでください。向かって行くことがあります」という立て札のあることがある。人間がサルの目を見ると、サルの側の攻撃性・闘争性を駆り立てるのである。(中略)サルは「目の動物」であるといわれる。動物界でも、視覚による認知が特別にすぐれているという点では、サルと人間は特別なのである。」p.112
・「目線が、わたしたちの人間関係にとって、いかにたいせつな問題であるか――それは、わたしたちの人間関係をはかる<ものさし>として、「目上」「目下」ということばがあることからも、うかがい知ることができる。目上、目下というのは、あきらかに、目と目を結ぶ線の位置を基準にしているのである。」p.116
・「かつて、武家の社会においては、目上と目下の関係は、目下の者が目上の者から一方的に見おろされるという関係にあった。目下の者は「オモテをあげい」とでもいわれないかぎり、見あげることができないのであった。どうしても見あげなければならないときには、「おそれながら」と願い出て、はじめて見あげることが許されたのである。  言いかえれば、他者をじーっと見すえることができたのは、かつてのわが国においては、支配者にのみ特有の表情であった。」p.118
・「いっぽう、気楽に話をきくという場合には、もう少し範囲はひろがるようである。  「額の通り・おへその通り・肩幅から一寸(約3.3センチ)の幅」  をそれぞれ四角形にむすんだ範囲内、とのことである。ちなみに、これよりはずれると、相手から目をそらせているようにうつるもののようである。」p.125
・「ヨーロッパ(とくに南ヨーロッパ)の人たちは、広場や路上などで、もっぱら立ったままの姿勢で何時間でもおしゃべりをしている。  それに対して、一般にわたしたち日本人は、ひとと長くおしゃべりをしようとする場合には、すわって話そうとする。立ったままの姿勢では、お互いになんとも落ちつかないのである。わたしたちが「お茶でも飲みながら」などといってひとを誘うのも、要するに、「すわって話しましょう」という意味にほかならない。」p.129
・「赤面恐怖がわが国にのみ特有の症状ではないことは、まえにのべたとおりである。けれども、わが国の赤面恐怖には、表情恐怖と結びついた症状がしばしばめとめられ、この恐怖については、西洋でもほとんど報告されていないようである。  とりわけ、目の表情や目つきに関する訴えは、わが国にのみ特有の症状であるといわれる。」p.149
・「結論を先取りしていえば、この視線恐怖という症状に苦悩している人たちは、視線の作法の混乱がうみ出した、文化の過渡期における犠牲者ではあるまいか――わたしは、このように解してみたいのである。」p.157
・「(5) 「間」があくのを苦手とすること。かれらの苦手とするのは、特定の話題のない、慢然たる雑談の時間である。間があくことに耐えられないかれらは、しばしば饒舌である。そして一見、人づきあいのよさを発揮する。」p.162
・「かつてわたしは、拙著『「世間体」の構造』(NHKブックス)のなかで、「世間」についての定義をこころみたことがある。  「世間」というのは、個人(つまり行為主体)の側からいえば、わが国の人びとに特有な、一種の「準拠集団(わたしたちが自分の態度や行動のよりどころとするような集団)である、とわたしは考える。「世間」は、厳密にいえば「集団」ではない。だが、準拠集団の考え方を適用することによって、「世間」の構造の特質が、たぶん、くっきりと浮き彫りにされることであろう。」p.163
・「前者の観念の総称(いちばん内側の世界)が「ミウチ」ないしは「ナカマウチ」であり、後者の観念の総称(いちばん外側の、いわば無縁の存在ともいうべき世界)は、おそらく「タニン」ないしは「ヨソのヒト」である。そして、その中間帯にあって、わたしたちの行動のよりどころとなるのが、「セケン」ではなかろうか(図5参照)。」p.165
・「視線恐怖症者のあいだに共通してみとめられる大きな特徴の一つは、「とくに親しくもなく、とくに見知らぬ人でもない、中間的な関係(高橋徹の用語では中間的人間接触)にある人びとのあいだに構成される状況」であった。これはまさに、わたしのいうところの「セケン」とぴったり重なり合っているのではあるまいか。  だとすれば、視線恐怖のことを、「世間体の病理」と名づけることも許されるであろう。」p.165
・「自分が何をしているかを他者が見ている状況では、サルのとる行動はがらっと変わって、きちっと意識した行動になるわけです。つまり、群れの中にいるときは、彼らは彼らの社会的伝達に設定された行動型をとっているんですね。人間でいえばタテマエ的な行動です。ところが二頭になると互いに許しあえるんです(河合雅雄・沢田允茂『動物と人間』思索社、1980年)。」p.169
・「戸井田道三もいうように、俳優が舞台の上で劇中の人物に扮しておこなう行為だけが、演技ではない。わたしたちは、日常生活のなかで、つねに演技していきているのである。演技を学習し、演技によって学習しながら、社会関係のなかで円滑に生活をいとなむことができるのである。つまり演技は、ことばと同じように、社会生活にとっての必要条件であるといえるのである(『演技――生活のなかの表現行為』紀伊国屋書店、1987年)。」p.172
・「わが国が「視線を避ける文化」であることはみとめるとしても、それではいったい、なぜそうなったのか。あるいはまた、「視線を合わす文化」のもっとも典型的な例が、なぜアラブの文化なのか――このように問われたら、正直いって目下のところ、わたしは完全にお手上げである。」p.177
・「わたしたち日本人のまなざしの理想は、おそらく、この武芸の達人のそれであろう。つまり、相手の目の表情からは彼のこころのなかを見抜きながらも、相手にはけっして自分のこころのなかを見透かされぬようなまなざしである。  このような日本文化の特徴をひとことにしていえば、「簾(すだれ)の文化」であるといえるのではあるまいか――わたしはかねてより、そう考えているのである。」p.180
・「要するに、わたしは目(または眼)だけでがんばってみたのである。ちなみに、前田勇『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)によれば、かつて「がんばる」は「眼張る」であった。「両眼を大きく見開く」(転じて、気をつけて見る)ことであり、「目をつける」ことの意なのであった。」p.183
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