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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】新書百冊

2009年02月06日 08時00分57秒 | 読書記録2009
新書百冊, 坪内祐三, 新潮新書 010, 2003年
・新書の読書案内。一般的に評価の高い本ではなく、著者の個人的趣向に基づいて選んだ百冊なので、かなり偏りのあるシブイ内容です。聞いた事も無い本ばかり登場します。私が新書を読み始めたのはいつ頃なのか記憶が定かではありませんが、おそらく本格的に読み始めたのは大学に入ってから。それからこれまでに読んだ量は、岩波新書100冊、講談社現代新書100冊、ブルーバックス100冊、その他100冊で大雑把にいって300~400冊くらいだと思います。それでも、本書の百冊とかぶったのは、渡部昇一『知的生活の方法』講談社現代新書、小泉信三『読書論』岩波新書とN.マルコム『ウィトゲンシュタイン』講談社現代新書の3冊だけ。残る97冊はまさに宝の山♪ おそらく、ひと昔前よりも現在の新書の出版数は増えているのでしょうが、内容の密度としては80年代以前は凄まじい濃度だったようです。現在入手困難な本も多そうですが、地道に見つけ出して "濃い" 時代の新書を味わっていきたいと思います。
・「『雍正帝』、『新唐詩選』、『中国の隠者』と岩波新書の中国物がここまで続いているが、それはあくまで偶然である。ただし、、かつての岩波新書の一つの伝統として京都大学文学部的教養主義があるから、中国物に力作が多かったのは事実である。」p.20
・「中公新書は岩波新書と比べてジャーナリステックな感じがした。レベルが低いというわけではないのだが、月刊雑誌(この場合でいえば『中央公論』?)の延長線上にあるような一種の「現場性」が感じられた。もちろん中公新書も当時、岩波新書同様、例えば京大系の学者が多くその執筆陣に加わっていたけれど、岩波新書の碩学に対して、中公新書は俊英という感じがした」p.25
・「その意味で『東京裁判』は私の、史実への興味を開いてくれた大事な一点かもしれない。  もっとも私は、この本の内容のあらかたを忘れてしまった。」p.27 「内容は忘れてしまったけれど、大きく影響は受けた」 これが "本の効用" の真髄のように思います。
・「これは誰しも経験があることだと思うけれど、試験前になると、試験勉強以外のことを猛烈に行ないたくなる。一種の自己逃避的気分から。  私の場合、それが読書だった。」p.37
・「面白くなかったといえば、岩波新書の井上清『日本の歴史』全三巻が予備校近くのお茶の水丸善や「代ゼミ・ライブラリー」に平積みされていて、とりあえず購入したけれど、全然面白くなかった。こんな本を通読したらまた歴史が嫌いになっちまいそうだと思った。」p.59
・「ところで、先の桑原武夫の書き出しは、こう続いていた。  竹越与三郎の『二千五百年史』は、すぐれた「歴史の本」である。いまから六十数年前、三一歳の青年によって書かれたこの若々しい日本国民の歴史にまさる通史は、まだ書かれていないといっても過言ではない。文語体でむつかしい漢字が多いが、もし表記法を少し改めるとすれば、A5判763ページの大冊がいまの読者にもじゅうぶん面白く読めるにちがいない。」p.68
・「著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである。その意味で、読書は、蕎麦を食うのに少し似ている。蕎麦というものは、クチャクチャ噛んでいたのでは、味は判らない。一気に食べなければ駄目である。すべての書物がそうだとは言い切れないが、多くの書物は、蕎麦を食べる要領で、一気に読んだ方がよいようである。」p.78
・「読書に目覚めた若者の常として、私も、その頃、量読を目指していた。速読のような「下らない」ことにはまったく関心がなかったが、とにかく量読を目指した。」p.78
・「『私の読書法』には他にも、中村光夫の「『悪の華』以後」や鶴見俊輔の「戦中・戦後の読書から」や開高健の「心はさびしき狩人」をはじめとして興味深い読書論が満載だった(この手の読書物のアンソロジーでこの本がベストだと思う)。」p.81
・「1980年代前半の講談社現代新書のアメリカ文化物は、今振り返ってもかなり充実していた。」p.101
・「私はいっぱしの読者家のつもりだった。かなりの本に、実際に目は通していなくてもそのタイトルぐらいには、つうじていると自負していた。しかし、『本の神話学』を読みはじめて、わずか数頁で、私のその自負心は打ち砕かれた。次から次へと知らない名前の著者や本が登場するから。」p.126 この本により、私も似たような感じを受けました。因みに大学生の頃に、当時大学図書館の司書だった山下敏明氏と話す機会がありましたが、その時もケチョンケチョンでした。
・「人はそれぞれ集中力を発揮する場所と対象があるが、私の場合に、それはむしろ本屋、古本屋めぐり、あるいは博覧会や音楽会のスケジュールを調整する方に発揮されたといえる。教科書型の勉強と、カタログ型の勉強の二つのスタイルがあるとすると、私の場合は、文句なしに後者に属する。教科書型は与えられたものをそのまま消化する能力であり、後者は選択型であるといえよう。」p.131
・「もっとも、最近は、そういうお得感を与えてくれる作家(作家性を持った作家)がめっきり減ってしまったのだが……。だから私は、以前ほど新書本読みに夢中になれないのかもしれない。」p.167
・「ウィトゲンシュタインという哲学者はとてもかっこ良い。その主著『論理哲学論考』(翻訳は大修館書店ほか)もかっこ良い。しかし私には『論理哲学論考』が殆ど理解出来なかった。いちおう哲学的読書も続けていたというのに。例えば、「語りえるものについてはすべて明確に語ることが出来る」だとか、「謎は存在しない」だとかといったアフォリズムめいた言葉は、たしかに深遠な響きがあったが、一方で、そんなのは当たり前じゃないかという気もした。」p.193
・「新書についてのこの書き下しを、本格的な計画や見取り図をもたず、一種の出たとこ勝負で執筆し終えた今、私は、一つの文化(活字文化あるいは書籍文化)の大きなサイクルが閉じようとしていることを実感している。」p.232
・「「新書」というメディアをテーマに、まさに「新書」という器で、私は、読書という時代を超えた文化や文化行為の力強さを、特に若い人たちに伝えるべく、この本を書いた。「時代を超えた」ということは、すなわち、どのような時代にあっても通用するという意味である。つまり、読書は死なない。」p.233

《チェック本》
大岡信『詩への架橋』岩波新書(黄)
丸山真男『日本の思想』岩波新書(青)
竹越与三郎『二千五百年史』講談社学術文庫
清水幾太郎『本はどう読むか』講談社現代新書297
現代新書編集部『書斎―創造空間の設計』講談社現代新書
N.ウェスト (訳)丸谷才一『孤独な娘』
中村雄二郎『術語集―気になることば 』岩波新書(黄)
中村雄二郎・山口昌男『知の旅への誘い』岩波新書(黄153)
生松敬三・木田元『理性の運命』中公新書
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【本】ナインティーズ

2009年02月01日 08時02分32秒 | 読書記録2009
ナインティーズ, 橋本治, 河出文庫 は-1-16, 1994年
・筆者の徒然なる独り言。雑誌連載のコラムをまとめたもの。話題はイマドキの世評から始まり、政治、歴史、それを通して見た日本人論など多岐にわたる。独特の語り口調が読みづらく辟易しますが、途中から慣れるせいか、または多少口調を改めているせいか気にならなくなります。後半に入り湾岸戦争などを題材とした歴史の "流れ" の話になると、俄然面白さが増します。大学のゼミに使えるのでは思えるほどの内容の濃さ。単なる日付と出来事のペアの羅列ではなく、それらをうまく組み立て "流れ" を作ることでここまで面白くなるものかと意外な思いです。これまで未知だった "歴史の面白さ" の一端に触れることができました。
・著者紹介写真のあまりの "とっちゃん坊や" ぶりに思わず目がくぎ付けに。
・「なんにも情報のないまっさらな状態で、自分の目で見て「あ、これおもしろいよな」って発見できるノリの人間はかなり自由な人間だよね。直感ていうのはそういうもんなんだけど、"感性" っていう言葉がはやり言葉になって以来、そういう人間が逆に少なくなったと思う。」p.13
・「松田聖子ってさ、「男を知った処女の娼婦」だと思う。松本隆の作ったコンセプトは、そうだと思う。男はそういうものを必要として、その「完璧なる矛盾」を松田聖子は演じてスターになったんだ。」p.17
・「で、松任谷由実は、"女の立場で作られた松田聖子" でしょうね。「存在しなかった青春」という処女性を守るために、心ならずも女は "現実" という娼婦性を獲得しなきゃならないという。」p.18
・「人間には覚醒剤を必要とするタイプと麻酔薬を必要とするタイプと二種類あると思うんだけど、私は前者ですね。だからタバコ吸ってるんだと思う。無理して理性的なことやってるから、タバコでバランスを取るしかないとか。」p.22
・「ハリウッドの全盛期に、日本の若きマンガ家達はその映画を観て、「これをマンガでやろう」ってことになったから、日本のストーリー・マンガは進化したんだ。日本の映画界は貧乏で、ああいう豪華なものが取り込めなかった。それを日本じゃマンガがやってしまった。日本映画の貧乏がストーリー・マンガの発展をうながしたっていっても過言じゃないね。」p.31
・「だから、男の文化がつまんないっていうのは、男は洗濯しないからだと思うね。自分でしないで女に任せて、生活のアカまみれになった女は、「めんどくさくてうっとうしくてしようがない」って、平気で乾燥機にブチ込んで「トレンディー」にしちゃう。」p.59
・「「日本人には哲学がない」ということがよく言われますが、でも、実際はそんなことはありません。日本人は抽象思考が苦手ですが、でも実用となると強い生き物です。だから、日本人の哲学は、みんな "実用" がバックにあります。」p.79
・「『90's』という本の存在理由はそうですが、その言っておかなければならない一言とは、これです。  「僕達って、まだ "じゃどうするかな" の発想に全然慣れてないね」――これだけ。」p.82
・「自民党の演説がわかりやすいことには、ちゃんと理由があるんだ。中身なんか分かんなくても、要所要所で聞き手がきちんとうなずけなきゃいけないから、分かんなくてもうなずけるように出来てんのね。だって自民党の支持者には、「自分達でなんとかしよう」って発想はないもの。「自分達でなんとかしよう」と思ったら、その瞬間自民党以外のところに票を入れるっていうのが、自民党支持者の発想だもん。」p.91
・「都市は「ふるさと」という母屋の管理下にある離れで、労働者というものはその離れの中で更に管理される、二重の離れの住人です。母屋の利益を守るようにしてその母屋を搾取するのが、自民党的都市生活者なら、大家に権利の要求をする離れの借家人が、社会党的革新です。」p.104
・「日本ですごいのは、最大の支持者を持つ政党が「支持政党なし」で表されるものだからですね。」p.105
・「日本人の圧倒的多数は「何者でもない」んですね。だからこそ、なんの主張もなくなんの代表も持たず、「なんとかなるんじゃないの」と言って、一切を浪費に委ねてる。自分達がなんだか分からないまんま、「自分達の代表を立てよう、政党を作ろう」という発想を持てないまんまでいるのは、情けないと思うな。」p.110
・「うっかりみんなファシズムってことを錯覚してるんだけど、ファシズムって、基本的には全員平等ですよ。全員平等の中に、例外として "リーダーとしての独裁者=絶対者" がいるんだから、その一人を除けば、他の人間は全員平等なんだもの。」p.111
・「自民党の親たちは、自分の息子に後継がせたいんだったら、「別の政党作ってやれな」ってことを言うべきだね。」p.116
・「日本がなぜ「うちは派兵出来ません、軍隊ありません」と言えないのかというと、自分たちもやっぱり「交戦権を放棄した自衛隊を持つ」っていうことが分からないからでしょ。自分達がすごく抽象的な前提に乗っているのを理解できてないんだね。アメリカとソビエトの冷戦が終わって、軍備が意味をなさなくなって、本当は世界の方向は日本に近づいて来ている、遂にこの前提が意味を持とうとしているのにさ。憲法に明示されてる自分達の前提が理解出来ないでいるからさ、国連平和協力法案なんて、珍妙なものを出すんだ。」p.124
・「個人のつき合いだって、はっきりしないやつは一番嫌われる。日本て、自分のことは一言も言わずに、ああだこうだと流されてるだけだよ。自分じゃみんなに合わせてるつもりで、他人からは「自主性のないヘンなやつ」に見られてんのね。」p.126
・「"アイデンティティー" というのは、「自分の前提を他人に説明出来ていること」で、「いつでも "自分" なるものの前提を他人に説明出来るようになっていること」ですね。  「自分が分からない……」になると、すぐに「アイデンティティー不明」という不精に逃げ込むけど、そんなもん、単にまだ未熟で説明能力がないだけなのかもしれない。」p.133
・「「日本は軍事支出によって自衛力は持つが、しかし軍隊に必須の交戦権は持たない」――この日本の前提が、日本以外の軍隊を持つ国の常識とは長い間食い違って矛盾していたことが、この不毛な論争を不毛のまま終わらせていた最大の原因ですが、どうやら世界の情勢はこの食い違いをなくすような方向に動き出してしまった。」p.137
・「"自分探し" っていうのは、正確には "失われた自分探し" ですけど、じゃそんなこと言うんだったら、まるでかつては探すに値する "確固とした自分" があったみたいじゃないですか。「ホントかよ?」って思いますね。単なる "現実逃避" や安易な "退行現象" に "自分探し" なんていう高級なレッテル貼らない方がいいと思う。」p.142
・「天皇のことを英語で "エンペラー=皇帝" って呼びますけど、これは明治になって出来た大日本帝国の天皇に限ってふさわしいことで、日本の天皇というのは "ローマ教皇" と同じものです。」p.149
・「日本人が欧米人と論争したらだいたい負けますね。なぜかっていうと、日本人よりも欧米人の方が数倍も "自分" というものがしっかりしていて、ちっとやそっとのところじゃ引かないからですね。なんでそうなるのかっていうと、簡単ですよね。「"親" があまりにもしっかりとしすぎていて、子供がその "親" から離れて独り立ちをするのがとても大変だったから――だから子供は十分な力を蓄えてしっかりせざるをえなかった」と。」p.156
・「「"日本の宗教改革" はいつあったのか?」というのは、存外簡単な問題です。カルヴァン・ルターの宗教改革に対応するのは鎌倉仏教、ヘンリー八世の宗教改革に対応するのが織田信長から徳川家康へと続く宗教改革である、というようなもんでしょう。」p.164
・「他人に対して最大級の罵倒を浴びせる時に「我々の守護者たる神に対立するもの!」という表現を使わないでいるのは、宗教を前提とする文化から見たらとってもへんなことで、そういうことをするのは、多分、世界で日本人だけなんじゃないかと思います。」p.168
・「アメリカ人は「Son of a bitch!」というのをよく使いますけど、これは「牝犬の息子!」ですね。なんでこれが「牝犬(bitch)」なのかというとよく分かんないみたいだけど、私はこの牝犬(めすいぬ)が魔女(ウイッチ)なんじゃないかと思う。「魔女の息子」というのがあまりにも恐ろしい表現だから「牝犬の息子」になった。ひょっとしたらそもそも「bitch」は「witch」の化身なんじゃないかとか、そんな風に思うんですね。」p.168
・「日本人にとって "人間" とは "社会的な関係の中にあるもの" で、「Fuck you!」「Son of a bitch!」のアメリカ人にとっては、"人間" とはあくまでも "個なる肉体に宿るもの" なんですね。」p.170
・「大雑把な言い方で怒られるかもしれないけど、その方が分かりやすいので言います。イスラム=アラブというのは、ユダヤ・キリスト教に対してコンプレックスを持って生れて来る後発の一神教――ヘタをすれば "異端のキリスト教" と見られかねなかった、当時の新興宗教なんですね。」p.190
・「ユダヤは部族社会で、だからしたがって戒律を重んじる家父長社会で、その "戒律" に象徴されるものから自由になりたがった青年は、一つの宗教を作ってしまった。キリスト教は、そういう出自を持つ宗教ですね。」p.209
・「現在の日本はやっぱりまだファシズムの中で、この日本的ファシズムの最大特徴は「どこにも指導的独裁者がいない」ということ。」p.213
・「第一次世界大戦・第二次世界大戦というものが一体なんだったのかと言うと、あれは "ヨーロッパの国境線確定に関する争い" です。」p.221
・「近代化というのは、その優等生であるイギリスを見れば分かることですが、まず "宗教の征服"、次に "統一国家としての国力の充実"、そして最後に "産業革命の達成" と、この三つのハードルを越えなければ達成できないものです。」p.226
・「というわけで、「近代化の立ち遅れがファシズムを生む」というのがどういうことかを分かりやすく言うと、「悪徳商人に騙される田舎のオッサンはたやすく逆上する」になるんだということが、よくお分かりいただけたと思います。」p.229
・「その結果日本には、"自由な発想をする人間" はゴマンと生れたけれども、"個としての自覚を持った人間" は生れずにすんだ。宗教を征服して、しかしそのくせ民主主義や個人主義にはピンと来ない人間というのは、きっと日本人だけですよ。」p.242
・「「教会に代表される宗教勢力が現実の生活に介入するのをストップさせる」というのが、普通に言われる "宗教改革" です。」p.245
・「"宗教の征服=社会主義国家の建設→統一国家としての国力の充実→産業革命の達成" でやって来たはずの "近代化" がうまく行かなくなって、硬直した官僚主義は "問答無用の我々主義=ファシズム" の壁にぶち当たることになってしまった。」p.250
・「たとえば、今や日本人は結構金持ちになってしまったので、貧乏な人を見ると、平気で無関心です。(中略)浮浪者の増減には、絶対に「その存在を気にかける人」というものがからんでいます。だって、頭の毛をベトベトにして地下街に寝転んでいる人が「俺、働きたいんだけど」と言って、いきなりどっかから拾った求人雑誌を手にしてやって来たとして、「ああ、そうですか」と言って雇う人間はそうそういません。「人手不足」と言われるご時勢であっても、それはいません。(中略)つまり、「なんとかして減らさないと……、あの人達は気の毒だ」と思う人間がいない限り、浮浪者の数は減らないんですね。」p.251
・「世界には、二種類の人間がいる。「"個" としての自覚を持った近代人」と「"自分" がなくて、ただ "自分達" という集団の中に留まっている前近代人」と。この二種類は簡単に対立しうる。」p.255
・「多分、「アラブだって、"なんにもない砂漠の地" が "黒い黄金の湧く場所" に変わって、立派にアメリカと戦争が出来るようになったんだ」は不穏当な発言でしょう。でもそれでいいんです。今度の湾岸戦争なんて、「不当にバカにされた工業高校と、東大出の文部官僚の全面戦争」みたいなもんなんですから。文部官僚が叩きのめされないと、日本の教育は変わりません。」p.267
・「俺の唯一最大のテーゼは、「アホは自滅しろ!」ってことだけだから。」p.270
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【本】絵のない絵本

2009年01月26日 08時05分34秒 | 読書記録2009
絵のない絵本, アンデルセン (訳)大畑末吉, 岩波文庫 赤741-3, 1953年
(BILLEDBOG UDEN BILLEDER, H. C. Andersen, 1839)

・毎夜、窓辺に訪れる月が語って聞かせるショートストーリー、全三十三夜。一話につき2~3ページの短編集です。いわゆる、「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが……」的な昔話を想像しながら読み始めたのですが、それとは全く趣の異なる作品でした。月が見下ろす人間たちの営みについて。どちらかというと、"詩" と呼んだ方がいいかもしれません。
・矛盾を含む奇妙な題名ですが、その意は、「絵を描くのは、この本を手にしたあなたです!」
・まえがきより「「わたしの話すことを絵におかきなさい」と、月ははじめてきた晩に言いました。「そうしたら、とてもきれいな絵本ができますよ。」そこでぼくは言われたとおり、いく晩もつづけました。(中略)えらい天才的な画家か、詩人か、または音楽家ならば、もしその気さえあれば、もっとりっぱなものをつくるにちがいありません。ぼくのお見せするのは、ただ紙の上にかいた簡単なりんかくにすぎません。そして、その間には、ぼく自身の考えもはさまっているのです。なぜなら、月はまい晩かならずきてくれたわけではありませんし、時には一つ二つの雲が、ぼくたちの間をじゃますることもあったからです。」p.5
●部分的に書き抜くのが難しいので、以下に二夜分をまるごと書き抜き。
・第八夜「重い雲が空一面にたれこめて、月はまったく、すがたをあらわしませんでした。ぼくは二ばいもさびしい思いにかられて、ぼくの小さな部屋のなかに立って、いつも月が出てくるあたりの空をながめていました。ぼくの思いはひろくかけめぐりました。そして、毎晩あんなに美しい物語を話してくれたり、すばらしい絵を見せてくれたりした、ぼくの偉大な友人のところまでのぼってゆきました。そうですとも、いままでにこの友人の体験しなかったことが、何かあるでしょうか。ノアの大洪水の時にも、月はその水の上をすべっていったのです。そして、ぼくにほほえみかけたように、ノアの箱舟の上にほほえみかけ、やがて咲きいずる新しい世界のなぐさめをもたらしたのです。イスラエルの民が泣きぬれてバビロンの川のほとりに立ったとき、月は竪琴のかかっているやなぎの木のあいだから悲しげにそれを見おろしていたこともあります。ロメオが露台によじのぼって、愛の清らかな口づけが愛くるしい天使の思いのように天へのぼっていったとき、まどかな月は、黒い糸杉のあいだになかばかくれて、すみきった空のなかにうかんでいたのです。月は、セント・へレナ島の英雄が、さびしい岩頭に立って大海原を見わたしているのをみたこともあるのです。その胸のなかには、大きな志が、わきあがっていたのです。そうです、月にとって、話のできないようなことが、何かあるでしょうか。この世界の生活は、月にとっては、一つのおとぎ話にすぎません。昔ながらの友よ、こよいは、もはやあなたのすがたを見ることはできません。また、あなたの訪問の思い出に一枚の絵もかくことができません。――こうして、ぼくが夢みごこちに雲のなかを見あげますと、そこが明るくなりました。それはひとすじの月の光でした。しかし、その光はすぐまた消えてしまいました。黒い雲が通りすぎたのです。けれども、それは、あいさつでした。月がぼくに送ってくれた、やさしい夜のあいさつだったのです。」p.26
・第二十六夜「『昨日の夜あけのことでした。』これが月じしんの言葉です。『大きな都会では、どの煙突もまだ煙をはいていませんでした。それでも、わたしが見ていたのは、ほかならぬその煙突だったのです。ちょうどその時、それらの煙突の一つから、小さい頭が出てきました。ついで、上半身があらわれて、両腕が煙突のふちの上におかれました。「ばんざい!」それは、煙突そうじの小さい小僧でした。生れてはじめて煙突のなかを、てっぺんまでのぼってきて、頭をそとに突き出したのでした。「ばんざい!」そうですとも。たしかにそれは、せまくるしい管や、小さいだんろのなかをはいずりまわるのとは、わけがちがっていました。そよ風がすがすがしく吹いていました。町じゅうが、緑の森のほうまでも見わたすことができました。おりしも、太陽がのぼりました。そして、まるまると大きく小僧の顔を照らしました。その顔は大きなよろこびにかがやいていました。もっとも、たいそうみごとに、すすだらけになってはいましたけれど。「さあ、まちじゅうが、おいらを見ることができるんだ!」と、小僧は言いました「それから、お月様もおいらを見ることができるんだ! それから、お日様も! ばんざい!」こう言いながら小僧は、ほうきをふりまわしました。』」p.78
●以下、訳者あとがきより
・「彼は生涯旅を愛した。「旅することは生きることである」とも言っている。」p.109
・「そして、それら一切の上にアンデルセン独特の抒情詩的な詩美がただよっていて、全体を一篇の散文詩たらしめている。ただ、その美しさを充分に生かして訳出することは容易ではない。」p.110
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【本】聖書の名句・名言

2009年01月22日 08時03分15秒 | 読書記録2009
聖書の名句・名言, 千代崎秀雄, 講談社現代新書 880, 1987年
・聖書といえばその昔、通読を試みて全く歯が立たなかった覚えがあります。そんな私にとっても易しく読める入門書。「こんなにハジけてるのも珍しい」というくらいユーモアたっぷりです。他の入門書を読み比べたことはありませんが、聖書の "ことば" を易しく噛み砕いて説明している点ではかなり優れた書ではないかと思います(しかし現在絶版)。「聖書のつまみ食い」に好適。裏を返せば、「聖書の全体を俯瞰したい」という用途には不向きかもしれません。
・「聖句の引用は、特記したもの以外はすべて『新改訳聖書』によった。」p.4
・「人間は「ことば」によって、生かされもするし、ダメにもなる。人間にとって「ことば」とは、このうえもなく重要なものだ。」p.7
・「常識的には、人間が地上に出現してはじめて言語が発生した、と考えられている。だが聖書では、「ことば」の起源を "人間ではなく"、神におく。  人類誕生以前に「ことば」があった。ということは、この「ことば」の背後に存在する「理性・意思」が、つまり「人格」があった。その神秘的な人格は《神とともにあった》のみか、神そのものでさえあった――というのが、ヨハネ福音書の書き出し。つまり、「ことば」の神的起源!」p.8
・「心の食物、それは「ことば」である。――という命題は、比較的理解しやすいであろう。  人は「ことば」を摂取して、人間として成長していく。その「ことば」の良否が、その人の人格形成を左右する。」p.10
・「聖書は教会の専有物ではない。一般にもよく読まれる。しかし、新約聖書のひろい読み程度で、旧約聖書となると最初の書、創世記あたりはマアそれなりにおもしろいが、第三の書レビ記に入ることには、"もうアカン、歯が立たない" と投げ出すかたが大部分。」p.14
・「したがって、この本でとりあげることばは、かならずしも一般に知られているものばかりではないことを、ご了承いただきたい。個々の、断片的な名句の紹介というよりは、なるべく聖書の全体像が把握されるように、その線にそって「人をいかすことば」をクローズアップすることが、この小著のねらいである。」p.15
・「創世記の創造記事をみるとき、そこにみられるいちじるしい特徴は、神による創造のみわざが、ただ神の「ことば」のみによってなされる、という点である。  《仰せられた。するとそのようになった》と、創造記事にはこの句がくりかえされる(創世記一9ほか)  神の「ことば」は必ず成る――ここには、神の全能に対するとともに、神の誠実に対する信仰、信頼が表明されている。」p.20
・「現代ふうに表現すれば、ご自身が生きた人格である神は、人格的存在として人間を創造され、「ことば」によって人間が神とまじわり、ほかの人間と交流(コミュニケーション)をもちうるものとして造られた――ということになろう。」p.22
・「人間だけは、自分の行動を選びとる自由がある存在であり、それにしたがって<責任>がともなう。この<自由>と<責任>は、とくに「ことば」によって明確になる。人間が人格的存在であるとは、このようなことをいう。」p.24
・「俗に「知恵の木の実」などとあやまり称されて、これを食べるまえの人間は "無知の幸福" の状態だった、といったふうなシタリ顔の解説もあるようだが、これも聖書への誤解の一例。命名の件は、右の怪説のあやまりをあきらかにする。  この木のただしい名は《善悪の知識の木》である。」p.27
・「とくに、重要な立場にある人の言葉についてこれをやられると、おそろしい結果を生じる。あやまったことがらが権威づけられる。そして、人を生かすはずのことばが、人を殺すことばに改悪されてしまう。  "輸血は罪だ" などということを、そのへんのオッサンがいっても、だれも相手にしないから問題はおこらないが、"輸血は罪だと、聖書がそう教えている" などと真剣に主張するのを聞くと、ホントかしら、と、まどわされる人も出てくる。」p.31
・「《主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」》 (創世記 四9)  そうとうにひねくれている。この前後の聖書の記述を読むと、非常に簡潔なかわいた文章ながら、カインの性格のねじけぶりがアリアリと出ている。」p.38
・「聖書を読むと人間理解が(自己理解もふくめて)深まり、また、人間理解が深まることで、よりいっそうよく聖書がわかってくる。」p.38
・「神がみずから名のる固有名詞、それは「わたしはある(I am)」だという。奇妙というか、軽いというか。  日本の神々だと、(中略)おもおもしい漢字がつらなり、荘重なかんじをあたえる。それにくらべて、「わたしはある」という名前は!  だがこれは、わたしたちが軽くかんじるような軽い名前ではない。」p.55
・「(旧約とは、旧(ふる)い「契約」の意味)」p.60 この何気ない注釈が本書中、一番の衝撃でした。「旧約・新約の "約" とはどういう意味か?」考えたこともありませんでした。
・「聖書における契約とは、神とイスラエルの間の、愛の関係の法的表現と理解してよい。」p.61
・「日本語でも元来、「言」は「こと」と読んだ。その下に "小さいもの、軽いもの" を意味する「は(葉、端)をつけて「言葉」となったのだそうである。」」p.81
・「神をほんとうに愛するものは人を愛する。そういう人は悪をおこなわない。いな、おこなえない。  親を愛する子は、親を苦しませない。親にふかく愛されていることを知る子は、そうなる。」p.84
・「「空の鳥を見よ」――これも、かなり知られている聖書の名句だが、やはり山上の説教のなかの一説。(中略)自然に接するとき、人は何かを心に感じ、心を生かされる(リフレッシュされる)ことをおぼえるものだ。同じ鳥でも、カゴのトリや、ヤキトリでは、そうはいかぬ。空を飛び、木の枝にさえずる鳥の姿を見ることが大切である。大都会に住む人でも、心がければこれは実行できる。まったくタダで、しかもまことにすぐれた心身の健康法である。」p.126
・「人間は生来、天動説信奉者である。自分を中心に宇宙がまわっている、と考えることを好む。この「自己中心性」こそ、罪の根源だと聖書は教える。自己中心性に生きるありかたを、聖書では「罪人」という。そして、人間はだれも、生来的に罪人なのだという。」p.146
・「イエスの「ことば」は、私たちの心の奥底にひそむドス黒いものを浮かびあがらせる。そして、それを殺す。とくに、私たちの常識に挑戦し、読むものに抵抗を感じさせるような「ことば」ほど、そのはたらきが強烈である。」p.186
・「「言」も「言葉」も「ことば」も、区別なく同じ意味で一般にはつかわれるが、聖書を読んでみると、区別してつかう必要を感じさせられる。」p.188
・「《イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」》 (ヨハネの福音書 一四6)」p.194
・「《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである》 (ヨハネの福音書 三16)  もし、旧新約聖書66巻の全内容をたった一つの文章にまとめるとしたら――。  それは、右のヨハネの福音書三章一六節であろう。これこそ、聖書のなかでも最大の「人を生かすことば」といえる。それは私がいうのではなく、ほとんど絶対多数の牧師が、神父が、大多数のクリスチャンが、一致して認めているところなのだ。」p.201
・「《天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない》 (マタイの福音書 二十四35)」p.206
・「川柳は俳句より八百倍もむずかしい、と語ったのは内田百氏だが、この場合の "八百" は、なにしろ百鬼園氏のことだからウソ八百とかけことばになっている可能性が大きい。  それでも、川柳は俳句とちがって、「作者が誰だかそんなことは問題にすることもいらない」「うまいのほど作者が忘れられ、川柳だけがはっきり頭に残る」とは、百先生の名言である(『百鬼園先生よもやま話』旺文社文庫 22ページ)。」p.213
・「《あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか》 (コリント人への手紙I 一五32)  これは、まちがいなく聖書のなかにあることばだが、まちがえてはいけない。このような生活態度は、聖書が奨励するものではなく、むしろ反対で、きびしく戒めているのである。」p.214
・「人を殺すことばでなく、人を生かすことばを、日常生活の、なにげないひとこまのなかでも語れる人が、この日本の社会にひとりでも多くなることを――。」p.221
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【本】「世間」とは何か

2009年01月15日 08時09分58秒 | 読書記録2009
「世間」とは何か, 安部謹也, 講談社現代新書 1262, 1995年
・書題の問いに対する筆者の考察。テキストとして、日本の文学作品を取り上げる。万葉集の時代から吉田兼好、親鸞、井原西鶴、夏目漱石などなど。
・出だしは『「甘え」の構造』(土居健郎)のような雰囲気が漂うが、話題はすぐに独自の道を歩みだす。古典作品が多数引用されるが、普段読みつけない文章なので、一応目を通しても書いてある内容は右から左に抜けてしまう。読みこなすにはある程度の教養が必要。当初のテーマ『「世間」とは何か』がボケてしまって、単なる古典文学の解説書のように思えてしまう部分あり。結局、「世間」とは何だったのか、スッキリしないまま読了。しかし、これまで意識しない空気のような存在だった "世間" がにわかに実体化したような気になる。
・「そしてまた日本の中年男性が一般的にいって魅力的でないのは何故か。(中略)わが国の男性たちはわが国独特の人間関係の中にあって必ずしも個性的に生きることができないのである。むしろ個性的に生きることに大きな妨げがあり、その枠をなしているのがわが国の世間なのである。ところがこの「世間」という概念についてはこれまでほとんど研究がなかった。本書は以上に述べたような具体的な問題点から出発して、わが国の社会の構造を世間の歴史的分析という従来なかった新しい観点から見直そうとする試みである。」p.12
・「世間を社会と同じものだと考えている人もいるらしい。しかし世間は社会とは違う。明治以降世間という言葉は文章の中からは徐々に消えていったが、会話の中では今でもしばしば使われ、諺の形ではきわめて使用頻度が高い。他方で社会という言葉は明治以降徐々に文章の中で使われはじめ、学者やジャーナリスト、教師などはこの言葉を使うが、その意味は西欧の歴史的背景の中で生み出されたかなり抽象的なものであり、世間がもっているような具体性を欠いている。」p.13
・「世間は人によってさまざまな形を取り、普遍的な形で説明することが困難なのである。それと同時に世間というものが理屈を越えたものだということも、説明に困る点なのである。あとで詳しくみるように、世間という言葉は長い年月をかけてつくられてきたものなので、必ずしも欧米流の概念では説明ができない。しかも情理や感性とも深い関わりがあるので、合理的に説明することも難しい。」p.16
・「本書の中で世間については歴史的に説明することになるが、作業仮設としてあらかじめ次のように世間を定義しておこう。世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。  世間には、形をもつものと形をもたないものがある。(中略)本書においては、主として形をもたない世間について考えてみたい。」p.17
・「私達の人間関係には、呪術的信仰が慣習化された形で奥深く入りこんでおり、その関係を直視しなければ日本人の人間関係は理解できない。(中略)第二次世界大戦の戦死者に対する慰霊の問題が靖国問題として表面に出ているが、五来重氏が述べているように、死者の慰霊がわが国では民間レベルで十分に行われていないところに問題が残されている。」p.20
・「私達自身は気がついていないかもしれないが、皆世間に恐れを抱きながら生きているのである。」p.21
・「アメリカには、日本のこのような世間はないのである。」p.25
・「いわば世間は、学者の言葉を使えば「非言語系の知」の集積であって、これまで世間について論じた人がいないのは、「非言語系の知」を顕在化する必要がなかったからである。しかし今私達は、この「非言語系の知」を顕在化し、対象化しなければならない段階にきている。そこから世間のもつ負の側面と、正の側面の両方が見えてくるはずである。世間という「非言語系の知」を顕在化することによって新しい社会関係を生み出す可能性もある。」p.27
・「「世間」という語は本来サンスクリット語の「ローカ loka」の訳語であり、壊され、否定されていくものの意で、「路迦」とも書く。」p.50
・「個人が自分の意見をはっきりと述べずに、世間の人々の言葉として話題に乗せ、その中に自分の意見を滑り込ませる形がこの頃にすでにできあがっていたのである。私たちが使っているこうした用法の淵源が「大鏡」にあるということも、記憶しておいてよいことではないだろうか。」p.56
・「兼好はわが国の歴史の中で個人の行動に焦点をあてて「世」を観察した最初の人であったと私は思う。」p.89
・「兼好に次いで世の中や世間を対象化し得た人物が西鶴であったと私は考えているのだが、西鶴において、初めて世間は、人と人の関係の絆からやや客観的に対象化されて色と金、特に金の論理が貫かれる関係世界として描かれはじめた。」p.166
・「そもそもこの作品(吾輩は猫である)は猫の目を通して人間社会を描くというふれこみになっているが、じつはただの人間社会ではなく、長い歴史の中で日本人の生き方に特定の枠をはめてきた「世間」を描こうとしたものなのである。そのような意味では西鶴に連なるものであり、文章もその流れを継いでいる。そして「坊っちやん」と同様にこの作品が長い間わが国で読み継がれてきた最大の理由はまさに「世間」を対象化しようとしたその姿勢にあり、他の作家が今に至るまで誰一人としてなし得なかったことをこの時代にすでに行っていたからなのである。」p.189
・「日本で「個」のあり方を模索し自覚した人はいつまでも、結果として隠者的な暮らしを選ばざるをえなかったのである。」p.203
・「日本の作家の中で荷風ほど「世間」を拒否し、生涯を通じてその姿勢を崩さなかった人は他にいない。それにもかかわらず、荷風ほど世間に対して無関心のように見える姿勢の底で「世間」を深く観察し、批判し続けた人もまたいないのである。荷風の個人主義はフランスの思想を背景に持つものであったが、その現実の姿は決してヨーロッパのものではなく、荷風の個性に裏付けられた個人主義であった。」p.221
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【本】カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ

2009年01月11日 08時14分56秒 | 読書記録2009
カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ, 中島義道, 新潮文庫 な-33-5(7746), 2005年
・人生に悩む架空の青年T君へ宛てた筆者からの手紙、という形で、筆者自らがこれまで会得した "カイン(マイノリティ)として生きる術" を平易な言葉で語る。
・マイノリティとしての実体験についてはいまいちピンとこないが、普段からぼんやりと頭の中にあり、形を成していなかった事柄について見事に言語化されている部分が随所にあり。
・「ぼくはたいへん不幸な少年・青年時代を送ってきて、ほとんど死ぬ瀬戸際をさまよっていたのだが、血の出るような気持ちでそう書いても、現実のぼくに会うとほとんどの人は信じてくれない。」p.9
・「善良な読者は概して想像力が乏しくて困るが、書く物の印象と現実の作家の印象は異なってあたりまえ。(中略)何かここには浄化作用とでも言えるものが働いているらしい。日ごろ携わっているテーマが思いきり暗いことばかりだから、生き方はその反動でかえって明るくなるというメカニズムである。」p.10
・「ぼくは少年のころや青年のころと同様、いまもはなはだ不幸であるが、一つの強さはぼくがまったく幸福を求めなくなったことにあるのかもしれない。他人にも自分にもほとんど期待しなくなったことにあるのかもしれない。(中略)つまり欲しいものがほとんどなくなると、ひとは強くなるということだ。」p.12
・「ひとは、無性に欲しいものがあり、それをほとんどの他人もまた望んでおり、しかもそれを手に入れることが可能な場合、確実に不幸になる。  しかし、人間とはこういう条件のもとに、また幸福をも感ずるものだから、ぼくは幸福にも不幸にもなりえない。幸福と不幸との彼岸にいる。」p.13
・「ぼくが「弱い人」に言いたいこと、それはきみが強くなりたいのだったら、強くなる修行をしなければならない、ということだ。だが、それには多大な犠牲が伴う。」p.16
・「強くなるためには、きみは膨大な数の他人を捨てねばならず、彼らを無視しなければならず、彼らの期待にそむかねばならず、彼らから嫌われなければならず、彼らに迷惑をかけねばならず、あえて言えば彼らを(精神的に)殺さねばならない。」p.17
・「ぼくはきみになんにもしてやれないけれど、一つだけ自信をもって言えることがある。「とにかく死んではならない」ということだ。  正確な理由はわからない。しかし、とにかく死んではならないんだ。」p.23
・「これはぼくのカント解釈だけれど、「たったこのまえ生まれてきて、たちまち死んでしまうこのぼくという存在は何なのか」という問いを求めつづけること、これが最高の生きる目的なんだよ。答えが与えられなくとも、答えを求めつづけることそのことに価値がある。」p.27
・「だが、そのころぼくは思った。なぜこんなに生きるのが辛いのだろう、と。それには何か理由があるはずだ、と。それを知りたい、と。」p.29
・「「どうにかしてやりたい」と日々思いつづけ、きみの願いなら何でもかなえてやりたいと願っている。とても理解のある「いい親」だよね。  そして、いいかね。そういう「いい親」こそ、きみをしばりつけ、きみを生きにくくさせている張本人なんだよ。それを打ち捨てろと言ったって、一気にはできないだろうけれど、まずそれを自覚しよう。」p.39
・「50歳を過ぎて、ぼくは自分の人生を洗いざらい見直して、やっとその残酷な構造が見えるようになったんだよ。  ぼくは、自分が「いい親」に温かく見守られた「いい子」であり、幸せ者だと錯覚していた。」p.47
・「哲学的であること、それは病的であるということだ。この等号をぼくは信じていた。それはとても危険な信仰であった。(中略)こうして、ぼくは「哲学病」に自分を追いこむことしかないと思うようになった。」p.65
・「ぼくに向かって「何さまだと思ってるんだ!」と怒鳴りつづける人は、ある少年が期待の重みから抜け出すことのできない苦しみを知らない。」p.72
・「あまりにも苦しいときは「ぼくは死ぬ、ぼくは死ぬ……」というおまじないを唱えるのだった。ぼくは、どんなに苦しくても死のうとしなかった。なぜなら死ぬことが冷や汗が出るほど怖かったから。そんなとき、時折「離人症体験」がぼくを襲った。」p.73
・「きみは『旧約聖書』の「創世記」にあるカインとアベルの話を知っているだろう? 兄のカインと弟のアベルはともに主に供え物をしたが、主はアベルの供え物を喜び、カインの供え物を喜ばなかった。そのために、カインは憤り、嫉妬のあまりアベルを野原に連れ出して打ち殺してしまったという恐ろしい話だ。」p.80
・「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。  (「創世記」第四章13-15節)  これがカインのしるしだ。あらゆる人間は、このしるしがついているわずかの者とついていない圧倒的多数の者とに判然と区分される。」p.81
・「少年たちがすぐにキレるのは、ぼくの考えによると、正しい怒り方を学ばなかったからだと思う。正しい怒り方とはなにか? それは、なぜ自分が現在の状況に対して怒っているのかを正確に認識し表出する能力を基本にする。」p.91
・「「いい子」はある日突如として、自分が犠牲者であることを悟る。まわりの者がいかに一致協力して自分を駄目人間に仕立てあげてきたかがわかる。怒り心頭に発し、「だまされていた!」という一言がからだ全体を貫く。もはや、親がどんなに謝っても、許すことができない。(中略)ある種の「いい子」は、こうしてある日大変身を遂げて、その後の人生を親に対する復讐に費やすのだ。家庭内暴力やひきこもりはこうして起こるものだ、とぼくは思っている。」p.110
・「こうした自分の体験から、きみに言っておきたい。全部自分が悪いのでもなく、全部親が悪いのでもない。きみは正しく自分を責めねばならない。責めることをやめよ、とふたたび善人たちはきみに命ずるが、それはきみにはできない相談だ。」p.117
・「善人たちは友人をもつこと、恋人をもつこと、みんなと喜怒哀楽を分かち合うことを当然のように主張する。とりわけ、ひとりは耐えがたいことを当然のように語る。だが、ぼくはひとりが好きだった。いまでも好きだ。  ぼくはひとりで食べることが好きであり、ひとりで酒を飲むことが好きだ。(中略)ひとりにまさるものはない。」p.121
・「いいかい。絶対ひとに迷惑をかけたくないと思ったら死ぬしかないのだよ。しかし、死ぬことは、きみの親やきみの友人やきみの先生や膨大な数の他人に多大な迷惑をかける。だから、それさえできない。つまり、誰も生まれてきた以上は、ひとに迷惑をかけることをやめることはできないのだ。これはわれわれの運命なのだ。」p.129
・「何と言われようともきみは自己中心主義に徹しなければならない。きみは、油断すると、前後左右のマジョリティのしかけてある罠に落ち込む。」p.142
・「時代を語ることのできる者、「昔はこうではなかった」としみじみ語ることのできる者は、自分が時代とともに歩んでいると思い込んでいる。自分の生活がその時代とぴったり一致していて違和感のない者である。」p.149
・「ぼくには、なぜみんな学校が楽しそうなのかわからなかった。なぜ、みんな偏食なく食べることができるのかわからなかった。そして、とりわけなぜみんな死ぬのが怖くないのかわからなかった。何もかもわからなかった。  そして、いまでもわからない。なぜ、みんなわかったふりをするのか。なぜ、みんな問いつづけようとしないのか。なぜ、みんな紋切り型の回答を出して無理にでも納得しようとするのか。何もかもわからない。」p.151
・「マジョリティすなわち善良な市民は、こうして自分たちの傲慢さを反省することが絶対にない。これはほんとうに罪なことである。」p.153
・「ぼくにとっては、よっぽどいまの社会のほうが居心地がいいよ。いまは、かならアブノーマルなことを言っても受け入れてくれるだけの精神のゆとりがある。集団生活が厭でたまらないことは、ひきこもる者が100万人近くいるいまでこそ大声で言えるが、当時は言えなかった。自分の子供がかわいくないなんて、当時は言えなかったが、現代はこれもすんなり受けとめてくれる。  ぼくたちにとってはなかなか生きやすい時代の到来というわけだ。乾杯しようじゃないか!」p.154
・「ぼくは論旨を明快にするために、マジョリティ(善人)とマイノリティ(カイン)をあえて暴力的に対立させているのだが、そのことを自覚したうえで言うと、マジョリティとはいつの時代でも、救いようがなく鈍感な奴らなんだ。自分たちだけがまともであると全身全霊で確信し、おのれを批判的に見ることがまったくできないんだね。そうした神経の回路がまったく発達していないんだね。」p.157
・「カントはそう教えてくれる。  それを知ったとき、ぼくは救われる気持であった。そうだ、ぼくは他人にこだわる必要はないんだ。わかってもらいたい、愛してもらいたい、気づいてもらいたい……という要求をもつ必要はないんだ。ぼくのまわりにうごめく人々は、ただぼくに「対している」だけの存在なんだ。ぼくが意味を与えればいいのであって、それ以上の意味を詮索するのは無駄なのだ。」p.174
・「森羅万象はぼくの表象にすぎない。ぼくは、このことを確信した。そして、ぼくは誰からも危害を加えられない存在になった。完全に安全になった……。  だが、ぼくは喜んでいいのだろうか? ぼくは自分の安全と引き換えに、すべてを失ったのだ!」p.175
・「ぼくは、たしかにあまり苦しまなくなった。だが、楽しいこともなくなったのだ。ぼくは他人を愛すること、憎むこと、恨むこと、知りたいと思うこと、軽蔑すること、尊敬すること……が真剣にできなくなった。他人はあまりにも「気にならない」存在に変貌してしまった。」p.176
・「こう書いていても、ぼくは自分が相当変な男になったもんだと自覚するよ。だが、カントの最大のメッセージは「幸福を第一に求めてはならない」ということだ。もう以上の分析から、当然ぼくが幸福から見放されていることはわかるだろう? 人間は「存在する」さまざまなものや他人との交流のうちで幸福であるからだ。」p.181
・「だが、カントは人間は幸福を無条件に求めてはならないことをぼくに教えてくれた。幸福を第一に求めることは、むしろ悪なのである。それこそが「根本悪」なのだ。(中略)カントは真理を第一に求めねばならないと言う。ぼくの解釈によれば、何をしても「どうせ死んでしまう」という絶対的不幸の枠組みが真理である。この枠組みをけっしてごまかさずに生きるとき、ひとは幸福にはなりえない。このことをずっと直視して生きること、それが哲学的に生きることなんだ。」p.183
・「こうして、残酷なことに、われわれが(道徳的に)正しいことをしていると自覚していればいるほど、社会的に正しいことと認定されている行為であればあるほど、その行為は正しくないのである。」p.193
・「ぼくは自分の体験から確信するのだ。ひとが悩み苦しみながら真剣に選択したこと、そこにはまちがいがない。それは、いつだって「正しい」選択なんだ。」p.201
・「こうした重要な選択において、ぼくは自分でもおかしくなるほど要領が悪いのだ。いわば、厄介なほうへ厄介なほうへ、困難なほうへ困難なほうへ、自分が苦しむほうへ苦しむほうへ、と選択しているのだ。」p.202
・「書くというのは不思議な作用で、きみが何かのために書くのではないと心の底からわかったらしめたものだ。きみはきみを救うために書くのですらない。きみは、書くことによって救われないことを知っているからかくんだ。きみが救われないことを確認するために、確認しつづけるために書くんだ。  また、ぼくの話をしよう。絶対的不幸はあらゆる些細な日常的な不幸を蹴散らしてくれるが、ぼくを究極的には救ってくれない。それを確認するために、ぼくは書きつづけている。救いが最高の生きる目標になった瞬間、ぼくは書くことをやめるだろう。」p.208
・「書くとは、自分に向かって語ることだとぼくは思っている。他人(読者)は、ただそのための手段にすぎない。」p.208
・「繰り返し言おう。「なぜ生きるのか?」という問いに対して、「それを知るために生きるのだ」という回答が、いちばん優れているようにぼくは思う。きみはなぜ書くのか?  それを知るために書くのだ。」p.210
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