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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ

2009年07月28日 22時02分49秒 | 読書記録2009
サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ, 下條信輔, 中公新書 1324, 1996年
・「人間の無意識世界」をテーマにした東大教養学部ほかでの講義録をまとめたもの。他の文献の単なる焼き直しではなく、オリジナリティの高い内容で、知的好奇心をツンツン刺激され、更には一部戦慄してしまうような事実まで。心理学に興味はあるが、どの入門書を読んでもありきたりで物足りない、という方にはぴったりではないでしょうか。ただし入門書として読んでしまうと少々レベルが高く、もて余してしまうかもしれません。入門書と専門書の橋渡し的な位置にある本だと思います。
・本書を読んで、"人間" に対する見方がちょっと変化した気がします。それを読む人間の価値観を変えてしまう、"力" のある本。人間の無意識世界に触れてみたい方はどうぞ。
・ここまでしっかりした内容の本であれば、索引まで欲しかった。
・「それでもあれこれと探し歩き、考えあぐねたあげくにたどり着けたのが、先のドグマ――「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」――だったわけです。」p.6
・「さて、私がこの本でこれから述べようとすることは、たいへん認めにくい、やっかいな主張なのです。それは、こんなことです。まず揺るがしがたい事実として、最前線の人間科学は、進めば進むほど、心の潜在的過程の存在をあらわにする。ところがこの潜在的認知過程の考え方は、現代生物学のほかの決定論的潮流ともあいまって、先の機械論的考えに加担し、人間の自由意志の尊厳と、それにのっとった社会の諸々の約束ごとを、根底からくつがえしかねない。とりわけそれは倫理的に困難な問題を、私たちにつきつけている……。」p.7
・「私のイメージする「潜在的な認知過程」にもっとも近いのは「暗黙知」という概念です。伝統的な技能・芸能や武道などの鍛錬でしばしばいわれるように、熟達者がある種の技能を実際におこなって見せることはできても、その技能をことばで客観的に表現しがたいということがよくあります。また、ある事柄を知っているという自覚なしに知っているという場合もあります。このような潜在的で無意識的で無自覚的な技能や知識(知恵)をまとめて「暗黙知」といいます。」p.10
・「そしてもっと大切なのは、暗黙知と明証的な知とは互いに密接に作用しあっていて、それが人間の心のはたらきを人間独自のものにしているということです。この認識が、崩壊する二十世紀の人間観の後に、かろうじて私たちを救う新しい人間像を準備することを願いたいと思います。」p.15
・「認知的不協和理論については、それだけで一冊の本となるようなテーマなので深入りを避けますが、その骨子だけを要約しておきましょうか。――個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつの「認知」があるとき、認知的不協和と呼ばれる不快な緊張状態が起こる。そこで当然、それを解消または低減しようとする動機づけが生じる。しかし多くの場合、外的な要因による「認知」のほうは変えようがないので、結果として内的な「認知」のほうが変わる。つまり態度の変容が起こる(具体的には、たとえばものや作業に対する好嫌の感情が変化する)。以上がその要点です。」p.24
・「わずかな報酬のほうがかえって仕事そのものの魅力を増すというこの効果は、「不十分な正当化の効果」とも呼ばれています。一ドルがつまらない作業を正当化するには十分ではなかったので、そのぶんを補おうとするかのように態度の変化が生じたという意味でしょう。」p.24
・「特に自己知覚理論では、自分についての無意識的な推論を他人についての推論とほぼ同じ過程だとみなしてしまう点に、最大の洞察があります。極言すれば、自分はもうひとりの他人であるかもしれないのです。」p.31
・「つまり、自己知覚と他者知覚との間には、手がかりの与えられ方に関する程度の差こそあれ、本質的な違いはない、という結論に帰り着きます。やはり、自分はもうひとりの他人である。その内的過程は隠されていて、推論されるほかはない。しかもこの推論過程は無自覚的である……。」p.33
・「それは認知的不協和や自己知覚に関する研究に基づくものでした。  その新しい考え方というのをもう一度復習しておくと、だいたい次のようにまとめられるでしょう。「自己に対する内的な知識はきわめて不完全である。それは無意識的な推論によって補われているものであり、極言すれば自分とはもうひとりの他人であるにすぎない」」p.37
・「このあたりの事情を、ジェームズは次のような文章で簡潔に要約しています。「興奮するようなできごとを知覚すると、ただちに身体に変化が生じる。そしてこの変化に対するわれわれの感じ方(feeling)が情動(emotion)である」(ジェームズ、1884年)」p.40
・「少しごたごたしたので、まとめておきましょう。まず常識的に考えられている通り、情動経験は感覚刺激に依存します。しかしまた顔筋の変化=表情と情動経験の間には連合-相関関係があり、この関係は表情の変化が教示や演技による場合にも変わりません。つまり感覚刺激なしに教示や演技によって表情を作った場合ですら、このような強い連合関係のために、情動の経験が想い起こされてしまいます。というよりむしろ、実際に経験されてしまうというわけです。」p.44
・「時間的生起順序・因果関係を承認しにくいのはなぜかというと、これらの理論が、本人も自覚的にアクセスできない意識下の過程の存在を示唆しているからでしょう。単純化して図式的にいってしまうなら、「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」という関係が重要なのです。  今回の講義全体を通じて私が提案しようとする「人間科学のセントラル・ドグマ」は、ある一側面からいうと次のようなことです。つまり、知覚から行動に至る無自覚的な経路がより基本的で、意識的な経験はこうした無自覚的プロセスに対する、いわば後づけの「解釈」にすぎません。」p.46
・「この実験から、人は自分の主観的な情動の経験を「決定する」ために、(一)自分の内的状態と、(二)その状態が生じている環境とを評価することがわかります。」p.50
・「つまり、興奮を外的要因に帰属できない場合には、その分だけ情動経験も高められるというわけです。」p.53
・「このような厖大な情報処理のすべてをいちいち意識していたら、私たちの心はパンクしてしまうでしょう。だから脳の情報処理が潜在的であり、無意識的なのは当然です。そのおかでで私たちの心はパンクせずにすんでいるのです。」p.67
・「人の心とは、完全には統合されていない多次元的なシステムなのです。つまり、心とはひとつの心理学的実体ではなくて、いくつかのサブシステムからなる社会学的な実体なのです。」p.80
・「おおげさなようですが、これは私にいわせれば、今日という時代の人間観にほとんど反しています。たとえば選挙で、なぜひとり一票と決まっていて、誰も異論を唱えないのでしょうか。判断や評価の主体=基本単位として「個人」を考え、「統合された単一の自己」を基本ユニットとして民主主義の理念を構成することに、誰も疑念を持っていないからでしょう。」p.81
・「最後に、前項までで述べた自己知覚・帰属・情動などの社会心理学の分野での諸知見とつきあわせてみると、共通に浮かび上がるわれわれ自身の人間像は次のようなものになりましょう――「人は、自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」と。」p.
・「記憶とはうらはらの「忘却」、これがまたミステリアスなのです。私たちはよく、いったん忘れたことを「思い出し」ます。しかしそもそもいったん失った記憶を取り戻すなどということが、どうして可能なのでしょうか。」p.116
・「霊能研究を実証的証拠などというと、驚かれますか。霊的力の存在する証拠とされた実験のうちで、後から考えると実は潜在記憶のはたらきを示唆すると思われるものが、案外多いのです。「前生の記憶」などと称しているものなどは、その典型でしょう。」p.118
・「以上のような無意識的知覚に関する情報処理的説明で、重要なポイントは次の点です。つまり私たちはとかく見えたか見えなかったか、知覚できてかできなかったかというふうに、オール・オア・ナッシングに捉えがちですが、実際にはそうではありません。知覚とは、複数のレベルから成り立っている現象だと考えるべきなのです(クラッキー)。「見えた」あるいは「あった」という反応は、知覚の測定可能な出力が複数あるうちの、特別なひとつであるにすぎないというわけです。」p.167
・「もっとはっきり言いましょうか。世の中の「超能力」現象の一部は、人間のこの無知さ、特に自分の心の底で起こっている潜在的過程についての無自覚と誤帰属によって、相当程度まで説明できるのではないでしょうか。相当程度、と今言いましたが、私たちが通常予測するよりももっとずっと大きい程度まで、と私はにらんでいるのです。人間は、自分が無知で無力な領域ほど神秘的な気分になり、超常的な現象を信じたくなります。この原則はここでも当てはまります。そして無知で無力な領域の最たるものは、自分自身の精神なのです。」p.177
・「私たちは同じテレビ・コマーシャルを、多いときには何回ぐらい反復して見せられていると思いますか。その際に、繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまうという結果自体恐るべき事実です。その上、「これはコマーシャルで見た」というはっきりした再認記憶がある場合よりも、ない場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されているわけです。」p.207
・「とっさの反応はできますが、あらためて問われたり、自問すると混乱してしまう。このことは、何を意味しているのでしょうか。意図・自覚・予期・抽象的な概念・言語的なラベルづけ。こうした高次の機能の前提となる方向の認知過程と、とっさの反射的な防御反応に直結している視覚情報処理とは、レベルが違うのではないでしょうか。そしてさかさめがねへの順応のような、極端な適応的変化の過程では、その適応の速さに差があって、そのためにこのような食い違いが起こるのではないでしょうか。」p.230
・「ここで連想するのは、心理学者渡辺茂によるハトの弁別実験です。彼はモネとピカソの何枚かの作品を使って、ハトがこのふたりの作家の絵を正しく見分けることができるようになるまで訓練しました。その後、今まで一度も見せたことのないモネやピカソの作品を見せても、ハトはそれぞれの作品の作者について正しい判断ができたというのです。私たちが通常考えている美術の鑑賞眼などというものも、意外に単純な視覚的特徴の弁別に基づいているのかもしれないと思わせる例です。」p.240
・「「私が手を上げる」から「私の手が上がる」を差し引くと何が残るか。――この有名な問いを発したのは、哲学者ヴィトゲンシュタインでした。「手を上げよう」という自発的な意志が残る、というのが大方の考えでしょう。しかし、「自発的意思」とはいったい何なのか。」p.242
・「随意運動、あるいは意図と目的による行動の組織化といった高次機能は、従来は大脳皮質のはたらきと考えられてきましたが、実は小脳などの低次脳と脊髄レベルでも可能であることが、こうした研究から証明されました。極言すれば、脊髄にはある限定された「意識」が存在するとさえいえそうです。」p.252
・「そもそも今日の現代人たる私たちは、自分たちを何者だと思って暮らしているのでしょうか。中世とも近世とも異なる、現代人としての私たちの固有の「人間」像とは、どのようなものでしょうか。つまり現代人の人間観を特徴づけ、それに基づいて私たちが行動しているところの、規範的な前提とはなんでしょうか。(中略)心理学や人間科学が、同時代の人間観を突き崩し、対決するような場面も、ときにもあるかもしれないと私は思っています。」p.270
・「そんな中で奇怪な現象が起きつつあります。人を普通に拳銃で殺せば間違いなく重い罪に問われますが、十人以上連続的に殺して、その死体とセックスするか、食べるか、それとも皮を剥いで飾るか、とにかくできるだけ残虐で常軌を逸した行動をとればとるほど、無罪を勝ち取るチャンスも広がるのです。」p.287
・「世界的に男性の精子の減少が報告され、大都市を中心に、性犯罪や性の逸脱行動が増加しているといわれています。これについてすぐに連想する興味深い動物実験があるのです。  密閉したビルディングの中でネズミを飼います。食料と水を無限に与え、かつ伝染病など起きないように、衛生管理をきちんとすれば、個体数は理論的には無限に近いところまで増大すると予想できますね。ところが実際にはそうはなりません。(中略)何が起こっているのかと、内部のネズミの生態を調べたところ、面白い発見がありました。まず、妊娠一回あたりのこどもの数が激減していたこと。それから不妊、不能、子殺し、同性愛など、個体密度を結果において下げるあらゆる現象が多発していました。自然界で低い密度で生活している群れでは、いずれもほとんど見られない徴候である点に注意してください。極度の社会的ストレスが、性ホルモンの調節などに重大な支障をきたしたのです。」p.290

《チェック本》
・バラード「識閾下の人間像」(『終着の浜辺』創元SF文庫 収録)
・立花隆『文明の逆説』講談社文庫
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【本】オーケストラの読みかた

2009年07月21日 22時03分22秒 | 読書記録2009
オーケストラの読みかた スコア・リーディング入門, 池辺晋一郎, Gakken, 2005年
・『N響アワー』の前司会者によるクラシック音楽へのいざない。平易な言葉でフルスコア(総譜)の読み方を解き明かす。初心者向けの内容で、「初めてフルスコアを見る」という人でも容易に理解できる難易度です。従って、ある程度の音楽の経験者にとっては物足りなく感じてしまうでしょう。私の場合でも、だいたい見知った話がほとんどでしたが、中には「ヘェェ~」という話も混じっていました。
・クラリネットやホルンなどの移調楽器がどうも苦手、というか全然読めません。生理的に受け付けない感じ。
・いつもは古本の文庫本・新書ですが、今回は珍しく新刊の単行本。
・「しかし、世の中には専門書しかない――それでは困る。スコア・リーディングの専門書とは、オーケストラのスコアを一台のピアノでいかに弾くか、という目的のものなのだが、そんなことにはおかまいなしで、ひたすらスコアを読む楽しさを語った本もあっていいではないか!」p.2
・「かくして、オーケストラ・メンバーには、演奏技術に加えて、いかに休みをなんなく数えるか、という技術も要求されるのである。」p.17
・「また、スコアには書かれていないが、ティンパニの並べ方にはアメリカ式とドイツ式の2種類がある。アメリカ式は、奏者から見て左側に低音、右側に高音のティンパニが置かれている。ドイツ式はその逆だ。」p.35
・「楽譜が読めなければ、スコア・リーディングはできない?  ウーン……。  もちろん読めるにこしたことはないが、すべての音符を完璧に読みこなす必要はない。」p.70
・「クラリネットという楽器は、いろいろ試みられたが、結局「ド」を吹けば「ド」が鳴る「C(ツェー)管の楽器」は良い音がしない。(中略)歴史の中でいろいろと試行錯誤した結果、わずかに長さを変えただけで、絶妙な音色になった。こうしてやむを得ず「B(ベー)管」の楽器を作ったのだ。要するに、この楽器の「ド」を吹くと、実際は「シ♭」が鳴る。」p.76
・「スコアに登場する記号は、主にイタリア語で表記されているが、ウェーバーあたりからドイツ人作曲家はドイツ語の表記をするようになった。それは、この頃からイタリアが音楽文化の中心ではなくなったからだろう。」p.93
・「まず、メロディ・パートを見つけることから始めてみよう。  スコアをタテではなくヨコに眺めて、ひとつのラインがヨコに伸びていたら、たいていそれがメロディ・ラインといえるので、さほど難しいことではない。」p.99
・「つまりハイドンやモーツァルトの時代の強弱記号は「フォルテに聞こえてほしい!」という意味。「聞こえる音」の単位=「フォン」で書かれていると言えるだろう。  ところが、ある時代から(チャイコフスキーはすでにそう)、「どう聞こえるか」というより、「その通りに演奏すればいい」というようになった。「フォン」ではなく、「デシベル」で書かれるようになったといえば、わかりやすいだろうか?  たとえばホルンに mp と書いてあり、同じ時にハープに f と書いてあったとする。「あ、これは作曲家がハープを聞かせたいんだ!」と指揮者が勘違いして、「ハープはもっと強くしてください! ホルンの人はもっと弱くして」と言ったら、これは間違いなのだ。本来の意味は、ハープは音の弱い楽器だからフォルテで、ホルンは音の強い楽器だから mp ぐらいで弾けばいい、ということ。ハープが f で、ホルンが mp なら、ちょうど良いバランスになる、と作曲家が書いていることを、指揮者は見抜かなくてはいけない。」p.118
・「シューベルトの《弦楽四重奏曲「死と乙女」》の弦楽合奏版をお聴きになったことはあるだろうか? これを弦楽合奏に編曲したのはマーラー。スコアを見るとほとんど原曲と同じに見えるのだが、よく観察していくと違いが見えてくる。(中略)マーラーは指揮者でもあったから、合奏におけるコントラバスの重要性も十分わかっていた。そこで、コントラバスをどこでどう加えればよいかを厳密に計算し、本当に重要なところで、チェロとコントラバスを独立させたパートを作ったのだ。それによって、コントラバスの入らない弦楽四重奏からは、感じとることのできない、厚みと深さがこの曲に増したわけである。さすがはマーラー!」p.130 「聴く」どころか「弾いて」地獄を見ました。
・「「オーケストレーションの魔術師」の筆頭にあげられるのが、ベルリオーズ。  彼の代表作《幻想交響曲》は、ベートーヴェンの没後わずか3年で書かれたにも関わらず、編成だけを見ても、ずいぶん楽器の種類が増えていることがわかる。」p.147
・「「近くて遠きは演奏家」というエッセイを書いたことがある。同じ音楽家でありながら、作曲家と演奏家は、体質も性格も、もちろん資質も全く違う、というのが僕の持論。作曲家である僕は、むしろ小説家や画家あるいは建築家の友人達と、ああ同種の仕事だな、と実感するのである。」p.155
・「《春の祭典》のスコアは、どのページにも「発見」がある。その新鮮さは、作曲から100年近くたつ現在も色あせていない。きちんと読めなくてもいい。この曲のスコアは、眺めるだけでも大きな価値がある、と声高に叫びたいのである。」p.162
・「言うまでもないことだが、音楽は「時間芸術」ということになっている。でも、それだけでは言い足りない。「記憶の芸術」とつけ加えておきたい。昔から音楽は、いかに、そしてどこまで「記憶」というものに頼れるか、ということを考えつづけてきた。これこそ、音楽のカタチ(フォルム)についての思考のモトである。(中略)あ、音楽の「フォルム」がスコアを読むことと関係あるのか?っていう質問が聞こえてきたぞ。では、晩年のブラームスが自作を指揮した時のエピソードを。自分がスコアに書き込んだ「提示部の繰り返し」を、カットして演奏した。「自分の曲なのに省略なんて……」といった人に、ブラームス答えていわく。「私のこの曲は、もう十分に覚えてもらえた。だから、繰り返しは必要ない」  つまり繰り返しは、聴く人に記憶してもらうための手立てなのである。ということは、当然「再現」も記憶と関わる。そしてこれら「提示」とか「再現」という概念は、つまるところ「フォルム」の問題だ。」p.164
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【本】卍

2009年07月14日 22時00分08秒 | 読書記録2009
卍(まんじ), 谷崎潤一郎, 岩波文庫 緑55-4, 1950年
・今の言葉で言うところの、心理カウンセラー的人物のもとを訪れたある婦人の告白。この婦人、柿内園子と徳光光子の同性愛を軸に物語は進み、単なるぐちゃぐちゃドロドロの愛憎劇と思いきや、途中からサスペンスの要素も混じり込んでくる。「嘘をついているのは誰なのか」そして、「狂っているのは誰なのか」 他人が覗き込んではいけない秘密の世界を描いた絢爛な絵巻物。
・現在読んでも強烈な内容なのに、発表された1928年(昭和3年)当時の世間に与えた衝撃はいかばかりだったでしょうか。そんな『谷崎文学』を存分に堪能できる作品です。
・「(作者註、柿内未亡人はその尋常なる経験の後にも割にやつれた痕がなく、服装も態度も一年前と同様に派手できらびやかに、未亡人というよりは令嬢の如くに見える典型的な関西式の若奥様である。彼女は決して美女ではないが、「徳光光子」の名をいう時、その顔は不思議に照り輝やいた。)」p.14
・「(作者註、写真を見ると、お揃いの着物というのは如何にも上方好みのケバケバしい色彩のものらしい。柿内未亡人は束髪、光子は島田に結っているが、大阪風の町娘の姿のうちにも、その目が異常に情熱的で、潤おいに富んでいる。一と口にいえば、恋愛の天才家といったような気魄に充ちた、魅力のある眼つきである。たしかに美貌の持主には違いなく、自分は引き立て役だという未亡人の言は必ずしも謙遜ではないが、この顔が果たして楊柳観音の尊容に適するかどうかは疑問である。)」p.19
・「ああ憎たらしい、こんな綺麗な体してて、――うちあんた殺してやりたい。」わたしはそういうて光子さんのふるてる手頸しっかり握りしめたまま、一方の手エで顔引き寄せて、唇持って行きました。すると突然光子さんの方からも、「殺して、殺して、――うちあんたに殺されたい、――」と、物狂おしい声聞こえて、それが暑い息と一緒に私の顔いかかりました。見ると光子さんの頬にも涙流れてるのんです。二人は腕と腕とを互の背中で組み合うて、どっちの涙やら分らん涙飲み込みました。」p.37
・「わたしと夫とはどうも性質が合いませんし、それに何処か生理的にも違うてると見えまして、結婚してからほんとに楽しい夫婦生活を味おうたことはありませなんだ。夫にいわすとそれはお前が気儘なからだ。何も性質が合わんことはない、合わさんようにするよってだ。(中略)夫の方では私の性質に合わすように努めてるのんですやろけど、それがほんまに気持がびちっと合うのんでのうて、こっちを子供扱いにして、ええ加減にあやしてるように思われますのんで、そういう態度が癪に触って仕方あれしません。」p.46
・「「あての姉ちゃんかって夫あるねんもん、あてもあんたと結婚することはするけど、夫婦の愛は夫婦の愛、同性の愛は同性の愛やよって、姉ちゃんのことは一生よう思い切らんさかいそのつもりでいて頂戴。それがイヤやったら結婚せえへん」」p.69
・「「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でやいうたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当り前や、女で女を迷わすこと出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあいう気イして、嬉してたまらん」」p.100
・「つまり私たちは光子さん一人が太陽みたいに輝いて見えて、どんなに頭疲れてる時でも光子さんの顔さい見たら生き返ったようになりますのんで、ただそれ一つ楽しみに命つないでいる。(中略)まあいうてみたら、普通のパッション捧げられても面白ない、薬の力で情慾鎮静さされてしもてても燃えるような愛感じるのでなかったら満足出来へん。――結局二人藻抜けの殻みたいにさして、この世の中に何の望みも興味も持たんと、ただ光子さんいう太陽の光だけで生きてるように、それ以外に何の幸福も求めんようにさしたいいうことになるのんで、薬のむのん厭がったりしたら泣いて怒んなさるのんです。」p.190

?まんじ【卍・卍字・万字】(もと、インドでの吉祥の印で、吉祥万徳の集まる意から、中国で「万」の字に当てて用いたもの)1 もとインドでビシュヌ神の胸毛より起こった吉祥のしるし。仏菩薩の胸・手・足などに現れた吉祥・万徳の相を示すもの。日本では寺院の標識、記号などに用いる。 2 卍のような形。 3 紋所の一つ。卍にかたどったもの。左卍、右卍、丸卍など種類が多い。

《チェック本》
谷崎潤一郎『蓼喰う虫』
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【本】権威と権力

2009年07月07日 22時00分58秒 | 読書記録2009
権威と権力 ―いうことをきかせる原理・きく原理―, なだいなだ, 岩波新書 C36(青版)888, 1974年
・「ダライ・ラマ」のような、不思議な響きの著者名、ただそれだけにひかれて手に取った本。
・書名より政治学分野の難しい内容を想像したのですが、それとはかなり趣の異なる本でした。医者の "先生" と高校生のA君との対話形式で話は進み、『権威と権力』の正体を徐々に解き明かしていきます。平易な文章で読み易く、「世の中の仕組み」について考えさせられる良書。
・「ある日のことである。一人の高校生が私をたずねて来た。そして、私に、こんな質問をした。
――あの、ぼくは、現在、学校でクラス委員をしているのですが、ぼくたちのクラスは、ぜんぜんまとまりがないのです。てんでんばらばらなのです。みんな自分勝手なことをしています。クラス委員として、みんなをひとつにまとめるには、どうしたらいいでしょう。
」p.2
・「――さて、では、このばらばらになった日本にとって、君は、今、何が一番必要だと思う。  私は、彼にそう質問した。
――英雄です
A君は、ためらいも見せずにそういった。
」p.7
・「――では、きまりが、あるいは、きまりをまもらせていたものが失ったものは何だろう。
A君は、考えていた。そして、首をひねりながら、つぶやくようにいった。
――そうですね。さまざまな点で、これまであった権威が失われたこと、そこに問題があるのではないでしょうか。
」p.15
・「先生とか父親とかの場合にも、半分は権威を失ったものに責任があるとしてもだよ、別の半分は権威を認める側の問題でもあると思うのだ。
――つまり、親が親らしくないこともあるが、子供が親の権威を認めなくなり、先生が先生らしくないとしても、生徒が先生の権威を認めなくなったことも問題だ。そういいたいわけですね。
」p.21
・「――ま、『広辞苑』をあとでひいてみるのもいいさ。しかし『広辞苑』のできない以前の人は、そこにのせられた定義など知らないで言葉を使っていたのだからね。それを忘れちゃ困るな。」p.52
・「――つまり、権威とは、命令とか服従とか、信じるとか信じないとかの、そういう人間関係を支えているなにかなのだね。」p.53
・「――これは面白いね。君の話を聞くと、権威と権力が、どんなふうにつながりあっているかがわかるよ。先生たちは、自分の権威が落ちたことを感じている。だが、自分たちの上の権威を信じている。自分のいうことを、生徒たちが、進んできいてくれることがないから、そこで、無理に君たちに、いうことをきかせようとする。しかし、その時にも自分より上のところにある権威の力をかりて、進んでいうことをきいてもらいたいと思っているわけだ。」p.60
・「――権威も権力も、いうことをきき、きかせる原理に関係している。権威は、ぼくたちに、自発的にいうことをきかせる。しかし、権力は、無理にいうことをきかせる。そして、今のぼくたちの社会は、少し、それがくずれかけてはいるけれど、この権力と権威が二重うつしの一つのイメージを作っていて、それがぼくたちにいうことをきかせ、まとまりを作らせている。こういうわけだね。」p.62
・「――それは、ぼくたちの知的欲望が、感情の上にのっかっているということだ。
――そうです。
――その感情はなんだと思う。
――なんでしょう。
――不安ではないだろうか。
――なるほど。知りたいというのは、知らないでは不安だというわけですね。
」p.79
・「――なに、そんなにむずかしいことじゃない。人間は、自分のありのままの姿を見ないように、見ないようにする傾向があるのさ。」p.94
・「自分たちが判断することをあきらめて、誰かに判断をゆだねる。そこに権威のはいりこむすきができるのさ。これからもわかるように、自分にはわからない、という自分の無知の認識が権威のはいりこむ条件のひとつだね。」p.111
・「その時、権威にたよらないで判断する方法があるのでしょうか。
――あるさ。どんな判断も絶対的なものではないという条件で、判断すればいいのだよ。だが、絶対的な判断を求めてしまうから、ぼくたちは権威主義的になる。
」p.118
・「――権威をぐらつかせることは、実は、そのまわりにある人垣と、たたかうことになるのですね。
――そうだよ。だから権威をくつがえすためには、まず、そのまわりにある人垣の、一人一人の内側にある不安を問題にしなければならない。
」p.123
・「たしかに、クラスのまとまりはなくなりました。だが、そのかわりに、もっと大きなまとまりが、できかかっているんです。それに、ぼくは気がつかなかったんですよ。」p.129
・「――なるほど。つまり、もう一つの点を見つけて、三角形を作ることだね。三角形を作れば、距離がはかれる。これならば、自分が無知のままでも、一つの権威だけに従うことはない。では、それで、なにがわかるのだろう。
――そうですね。二人の話を比較すれば、自分たちは無知であっても、相手の二人の知り方の深さを知ることはできるでしょう。
」p.146
・「――つまり、その規則が、ぼくたちをまもるためには無縁のものになり、ただ規則の権威をまもるだけ、それに無理に従わされることになった時、ぼくたちは理を感じない。強制を感じる。そこが問題なのさ。」p.178
・「ぼくは、革命が権力奪取を目標にしたものでなく、権力そのものの否定でなければいけないのじゃないかと思う。だから打ち倒そうとする対策の権力ばかりでなく、自分たちの内部にある、権力主義や権威主義の否定でなければならないと思う。」p.197
・「――そこでなんだ。人間は、はたして、ばらばらのまま、生きられないものなんだろうか。
――ばらばらのままですか。
――そうなのさ。まとめようとする外からの力なしに、ばらばらのままで生きられないのだろうか。
――なんだか、むずかしそうですね。
」p.211
・「――ごく簡単なことなのだけれど、ぼくたちは、とかく全体というものを考え、そして個々のものを、部分と考えがちなのさ。しかし、全体というものは、観念の中にしかない。現実にあるものは、個々のものだけなのだ。それが、忘れられているように思えるのだよ。」p.214
・「――ともかく、一人一人の目的、一人一人の理想が一致しているだけで、組織という全体の目的も理想もないことが、わかればいいんだよ。そうみることができれば、組織は権威も権力も持つことができなくなる。無理に組織がいうことをきかせることもできなくなる。逆に、組織は、ぼくたち一人一人の意志を調和させて、動くことになるのさ。」p.216
・「――しかし、まとまらせようとすることに、問題があるということが、話をしていてわかりました。失われたのは、失われる理由があったからだし、それを考えずに失われたまとまりをとりもどそうとすることが無理だということが。
――そうかね。それがわかればいいのさ。
――そして、ぼくたちが、まとまりのある社会ではなくて、調和のとれた社会を目ざさなければならないことも、わかったのです。そして、結局はその方向しかないことも。
」p.236
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【本】コーラスは楽しい

2009年07月02日 22時11分43秒 | 読書記録2009
コーラスは楽しい, 関屋晋, 岩波文庫(新赤版)579, 1998年
・ベルリンにて、小澤征爾指揮=ベルリン・フィルで『カルミナ・ブラーナ』を歌うという、アマチュアとして行く所まで行ってしまった感のある合唱団。それを創った本人による著作。普段、自分が関わるのは合唱団ではなくオーケストラですが、同じ音楽を楽しむ団体として参考になる記述が多数あり、とても面白く読めました。
・「晋友会」といえばかなり有名なようですが、これまでその存在を知りませんでした。
・著者の合唱指導についての記述も多少あるものの、「なぜそこまで素晴らしい合唱が創れるのか」という疑問は晴れません。その真髄は見えず。結局は指導者の『人柄』ということになってしまうのでしょうか。
・本作のような感じで、『アマオケ』をテーマにした面白い本があったらな、と思うのですが、未だ出会わず。
●序文[小澤征爾]より「日本の高校野球を観ていると、選手という素材はもちろん重要なのだけど、チームのよしあしを決めるのは、結局、指導者だと感じます。コーラスもこれと同じ。(中略)アマチュアコーラスのレベルは、その国の音楽水準を示すものだといっていいでしょう。日本では、「ママさんコーラス」など、全国津々浦々に広がっていて、「量」はものすごい。これを受けて「質」を高めたのが、関屋さんじゃないか。」p.i
・「コーラスとは、さまざまな声がまじり合い、溶け合ってつくり出す響きです。一人ひとりの声がまじり合い、溶け合うというのが大切なのです。」p.iii
・「しかも世の中には、「この世に悪い合唱団は存在せず、下手な合唱の責任はすべて指揮者にある」というような、怖い言葉があります。」p.2
・「主役は合唱団であって、指揮者ではない――まず第一に考えなえればいけないことは、それです。  その合唱団なりに、楽しくやれる活動でなければなりません。指揮者が自分のやりたいことを押しつけてはいけないのです。」p.3
・「いってみれば、歌いながら自分なりのモヤッとしたイメージをつくっていってもらうのが先です。説明して、言葉のかたちにするのは後なのです。最初からいっぱい押しつけられると、歌っているほうは苦痛になるのではないか、とわたしは思います。」p.4
・「重要なのは、まわりの声を聴き、そこに自分の声を合わせていくということです。そうしますと、これは音楽的にいえば倍音体系ということなんですが、自分たちの声だけではない、ほかの響きが鳴り出します。いいハーモニーのなかに身をおくと、しびれるような不思議な感動を味わいます。これは倍音体系を体に感じているからなので、合唱の醍醐味とは、つまりこれなのです。」p.6
・「いちばん怖いのは、飽きてしまうことです。ワンパターンにならず、いつでも新鮮な気持で歌えるような、そういう雰囲気づくり、これが必要です。」p.10
・「別に「絶対音感」がなくてもかまいません。実はわたしもありません。わたしは「大体音感」と言ったりしますが、「大体」でいいのです。大きな音の流れを覚えて、あとはだんだん正確にしていけばいい。」p.12
・「アマチュアコーラスの場合、さまざまなレベルの人たちが集まっていると言いました。これは積極的にとらえるべき、大きな意味を持ったことだと思います。」p.13
・「初めての人たちだから長い期間をかけてやるというのは、一見もっともですが、これは実は誤解です。言葉もわからないし、音もわからない、そういう人たちだけでは、なかなか進まないのです。二年目からは、経験者といっしょに秋からやりました。そのほうがずっと能率が上がるし、歌っているほうも楽しい。お互いに利用し合ってこそ、合唱は進歩するのです。」p.14
・「合唱団から指揮をしてほしいと頼まれたときには、いつも、引き受けるまえに、お互いの感じを確かめることをします。わたしは、これを、「お見合い」と称しています。」p.15
・「実は、ひそかに、ある音楽大学を受けるつもりで、願書をもらいにいったこともあるのです。そうしたら、なんと、「戦時中だから、男はとらない」という返事でした。わたしたちの年代の音楽指導者で、音楽専門教育を受けたという人は数少ないのですが、それにはこういう事情もからんでいたと思います。」p.19
・「日本では「ああやらないとダメなんじゃないか」とか、「こうやるべきじゃないか」などと、「べき」ということにこだわったりしますが、彼らは「わたしはこう思う」といった雰囲気が非常に強い。「自分たちの音楽だ」という姿勢、そんな音楽的伝統を感じました。わたしにとって、国際合唱コンクール参加の最大の成果はそれかもしれません。」p.33
・「ブルガリアやハンガリーなど東欧の合唱団は、ピアノ(p)からフォルテ(f)までの振幅が大きくて、最後の最後になると、判で押したように、フォルティシモ(ff)でウワーッと盛り上がっていく。いわば鋼鉄の声で、その力強さに圧倒されますが、だんだん飽きてきます。分厚いステーキを何枚も食べさせられたような満腹感を覚えてしまう。それに対して、「リーミングトン合唱団」などは、声も非常にやわらかい。」p.37
・「そのひとつは、様式感の強調です。「この時代のものはこうでなければならない」とはっきり言う。「何でもいいから、ともかく歌え」といったことは絶対にない。土台がしっかりしているという感じがします。」p.44
・「外国では、合唱指揮者=コーラス・マスターは別格に扱われていて、カラヤンさんほどの世界的指揮者でも、コーラス・マスターに対して、「ここをこうやりたいが、いいか」と相談するという話をきいたことがありますが、小澤さんもそうでした。いまでも小澤さんは、演奏会でごいっしょするとき、「ここをこう振りたいんだけど、いいかなあ」といった話をされます。」p.62
・「さて、ステージは、歌う側と聴く側が、ともに楽しめるものでなければなりません。このとき重要なのは、まず選曲です。選曲は演奏者の主張の第一段階で、これがすめばステージづくりの半分以上はすんでしまう、というくらい重要なことだと思います。」p.69
・「祝賀会で「レクイエム」を歌ったりしたら常識が疑われる、などということはどなたにもおわかりでしょう。しかし、内容はまったくふさわしくないのに、おそらくは曲の題名で選んでしまうということはありそうです。マルティーニ『愛のよろこび』という歌がありますが、これは不実な恋人に対する恨みを歌ったものです。ところが、これを結婚式場で気持ちよさそうに歌われたのを聴いたことがありました。何か意図があるのかと疑ってしまいますが、もしかしたら歌詞を理解していなかったのでしょうか。」p.74
・「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の練習は、まさに公演ホールでやるのです。世界で五指に入るような超一流オーケストラが最高の条件で練習するのですから、これはかなわない。日本では、本番会場で練習したいという単純な要請が通らないのです。」p.80
・「それにしても、あらためて武満さんはすごいと思います。録音中、ダメだというようなことは言われなかったし、また、ガンバレとも言われない。私たちを信頼し、信頼することでわたしたちをリラックスさせてくれた。合唱というものは、緊張しているのとリラックスしているのとでは、まるで響きが違うものです。実は、合唱指揮者の大事な役目のひとつは、合唱団の緊張をほぐすことにあります。」p.96
・「作曲家の方が、「自分が思ってみたこともないようなことを、よくやってくれた」「同じ楽譜からこんな響きが出せるとは思ってもみなかった」とおっしゃってくださり、喜んでくださるときがあります。これは指揮者として、もっとも嬉しいことです。(中略)つまり、作曲者は作品を「生む」のですが、指揮者は「育てる」役目なのです。」p.105
・「実はこういう経験は初めてではありません。亡くなる少し前のことでしたが、カラヤンさんが、生まれ故郷のザルツブルクの音楽祭に出演して、リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯』を指揮したことがあり、わたしは幸いにも、その演奏を聴くことができました。そのときはもっとすごかった。演奏が終わってもシーンとしているのです。いったい、どうしたのかと思った。見ると、隣りに座っている女性は泣いています。おそらくは、音楽の感動に加えて、カラヤンさんの故郷での出演が最後になるのではないかとか、いろいろな思いが多分、まじっていたのでしょう。他にも泣いている方がいる。そのなかで、誰かが手をたたきはじめた。そうしたら、潮がみちてくるように、拍手がわきおこり、広がっていく。最後は文字通り、万雷の拍手です。  それにしても、自分の合唱団が参加している演奏会で、こんなすばらしい拍手の仕方をしてもらえるとは考えてもいませんでした。」p.120
・「さて、ベルリン・フィルとの練習で、まず驚いたのは、彼らの出す音です。この音のなかで、これを超えてわれわれの声が聴こえるのだろうか、と疑いました。それほど響きが違う。  いまひとつは、最初は、ごくわずかではありましたけれど、音を間違えるシーンがあったことです。あとでベルリン・フィルのメンバーに聞くと、『カルミナ・ブラーナ』はひさしぶりだと言っていましたから、そういった事情があったのでしょう。(中略)実際、ベルリン・フィルの練習をみていると、「ああ、こういうものか」とわかったときからがすごい。個々人の自発性というか、音楽するという態度が違う。多少、「かたち」が乱れていても、そんなことは気にしない。どんどん音楽の本質をつかんで、巨大なものに仕上げていくのです。仕上がったときは、もう完璧です。」p.131
・「独唱者はエディタ・グルベローヴァ(ソプラノ)、ジョン・エイラー(テノール)、トーマス・ハンプソン(バス)の三人ですが、とりわけソプラノのグルベローヴァさんには驚きました。まず、声がすごい。高い声をいきなり、苦もなく出すのです。こういう人が世の中にいるのか、と思うぐらいすごかった。しかも、どんなときもまったく手抜きをしない。ほかの方は、本番近くなると全力では歌わず、声を大事にして本番に備えようとするのですが、グルベローヴァさんは絶対手抜きしないで、本番と同じように歌う。」p.132
・「そうしたら小澤さんは、「どんな曲だっけ?」と言われながら、すぐにパッと振りはじめた。このときの感じはちょっと忘れられません。振るとはいうものの、小澤さんは両手の指先を微妙に動かすだけです。腕を動かして拍子をとろうともされない。それなのに、小澤さんのさの指先の動きに合わせて、あっという間に、みんなの歌う気持ちがひとつになる。みんながいい気持ちで歌えている。わたしはいままで、いろいろな方の指揮を見せてもらってきましたが、この夜の小澤さんの指揮ほど、ショッキングなものはなかった。まさに「魔術」を見ているようでした。(中略)指揮の極意というか、棒を振る意味のようなものを見せてもらえた。「指揮というのは、どうやって振るかなどという話はあとのことで、みんなの気持ちをどうやって集めるかなのだ」、この経験はわたしの宝物です。」p.141
・「小澤さんのときからそう感じていたことですが、大マエストロは決して演奏者を萎縮させません。しかも、相手がアマチュアだろうが、プロだろうが、差別しない。そして、褒め方がうまい。(中略)しかし、気にいらないところは絶対に演奏を止める。妥協しません。相手がウィーンフィルといえども、絶対に譲らない。」p.152
・「ベルリン・フィルとよく比較されますが、ベルリン・フィルはどちらかといえば、がっちりと築きあげていくという感じがあり、ウィーン・フィルのほうは、そのときどきの音楽的雰囲気を楽しむといった違いがあるように思います。(中略)わたしの好きな落語にたとえると、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの違いは、文楽と志ん生の違いといってもいいのではないでしょうか。」p.156
・「ともかく、マエストロはいろいろなことを考えるものです。」p.159
・「ちなみに、『ダフニスとクロエ』という曲は、ずいぶんやらせてもらいました。いろいろな指揮者またオーケストラとごいっしょしたのですけど、とりわけ印象深かったケースをとりあげれば、サイモン・ラトルさん(バーミンガム市交響楽団、1991年)、ズービン・メータさん(ウィーン・フィル、1996年)、そしてケント・ナガノさん(リヨン国立歌劇場管弦楽団)ということになりましょうか。」p.162
・「合唱団は10年続くかどうかがひとつのハードルだ、と言われています。二、三年ならば勢いでいけるけれども、10年となると、団員一人ひとりの努力がないと続かない。これは同じことが合唱指揮者にも言えます。」p.173
・「合唱指揮者として考えるべき大切なことがあります。なれあってはいけない、ということです。(中略)本当の楽しさとは、必ずどこか厳しさを含んでいます。厳しさがないと、実は長続きしない。」p.175
・「「いいところをみつける」、これが大事です。ミスをしたところとか、下手なところ、悪いところをいうのは、誰でもすぐ気がつくものです。でも、いいところとか、個性的なところを見つけるのは案外むずかしい。「いいところをみつける」とは、つまり聴く力と言っていいでしょう。これを身につけるように意識していれば、何かが見えてくるはずです。聴く力は必ず歌う力につながります。」p.178
・「音楽にかぎらず、日本の文化のあり方の問題点と思うのは、ごく限られた専門家というか、エリートをつくるのに熱心で、広がりについて無関心だということです。広がりがなくては、頂点の高さも本物ではない。ですからわたしは、何よりもまず、コーラス好きを増やしたいと思っています。(中略)こんなにいい歌があったのか――そう思ってもらえること、それがすべての原点だとわたしは思っています。」p.185
・「わたしの言いたいことは、「合唱ってこんなに楽しいんですよ」ということに尽きます。合唱の楽しみ方は人それぞれ、いろいろなかたちがあるのですから。」p.189
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【本】本によって人を読む ビジネス・エリートの読書学

2009年06月22日 22時00分22秒 | 読書記録2009
本によって人を読む ビジネス・エリートの読書学, 佐高信, 現代教養文庫 1481, 1993年
・書名より「本の紹介本」的内容を想像したが、実際は著者の知る財界の主だった人物の本に関わるエピソード集といった内容。見知らぬ名が次から次へと出てくることと、余所からの書き抜きの連続で読むのが少々疲れます。
・「私は日々、「人間を読む旅」をつづけているような気がする。手がかりは本であり、その人の読む本によってその人を読む旅である。」p.3
・「相変わらず、経営書が氾濫している。  多くの経営者たちも、さまざまなアンケートで、ビジネス書や精神訓話もの(儒教等に依拠する)を挙げているが、こうした本を推している経営者を見ると私には何となく、彼らの「知的貧困さ」が感じられてならない。経営者が経営書を読むのは、ある意味で当然であり、敢えてそれを挙げるのは、たとえて言えば、「食べものでは何が好きか」と尋ねられて「コメ」と答えるようなものではないだろうか。(中略)そうした経営者と違って、ここに登場する人たちは、みな、ビジネス以外の話のできるゆたかなふくらみをもっている。」p.4
・「「本友だち(ブック・フレンド)」というのがある。会ってもいないのに、「好きな本」をつうじて、何か親近感を抱いている人だ。」p.9
・「人はさまざまな "刺激" によって本を読む。しかし、自分の知っている人、あるいは信頼している人がどういう本を読んでいるかほど、刺激になるものはないだろう。  その人を知れば知るほど、私は、その人の書棚をのぞきこみたい誘惑に駆られる。いわば「本によって人を読む」のであり、「人によって本を読む」のである。」p.10
・「図書館を利用するのも、「読書ノート」をつけるのも、やはり、読書への刺激としてはカラメ手であり、本道は、何と言っても、「本によって人を読む」あるいは「人によって本を読む」といった、人を "触媒" にするところにある。」p.19
・「では、なぜ安岡師が「日本のパワー・エリートたち」に、こうも、もてはやされるのか。  私は、それは、日本のエリートたちが知を中心とする西欧的教養で育ち、「決断」等の東洋的処世法に飢餓感を感じているからだと思う。」」p.30
・「知性偏重の近代西洋の学問が、何か人間の悪ばかりを強調するので、違和感を持ち、一時は神経衰弱になったが、子供の時から学んだ論語や孟子、あるいは王陽明や吉田松陰のものに触れて落ち着きを取り戻したのである。」p.38
・「『忘却は黒いページで、その上に記憶はその輝く文字を記して、そして読み易くする。もし、それ悉く光明であったら、何も読めはしない』とカーライルはうまいことを言ってゐる。我々の人生を輝く文字で記すためには確かに忘却の黒いページを作るがよい。いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は、非情に好ましいものである。」p.39
・「ところで、歴戦の勇士ほど、退却を頭の中に入れておくという。坂田さんは、小隊長の時、そうした部下から、事前に懇々と注意を受けた。  「実際の戦争は、強い敵が来たら、相手にせんことですわ。そうしたら、何とはなしにすみますわ」」p.131
・「「余技は会社に役立たないものほどいいんです。人間開発がそれ自身でなされるから。ゴルフやマージャンは、接待用とかで会社の役に立つから、仕事になってしまって趣味になりません」」p.140
・「『日経ビジネス』誌の1981年9月21日号に「読者が選んだ戦後の名経営者」が載っている。(中略)戦後の最も優れた経営者は松下幸之助で断然トップ。ただし、「現役に限れば」。中内功ダイエー社長がトップである。  選ばれた者の言として、中内氏は、  「私が選ばれたのは、フレキシビリティをもっているからでしょう。世の中は変化するものです。だからこそチャンスがあり、チャレンジが生まれる。経営者とは変化適応業だと思っています」  と語っている。」p.146
・「「革命を追う人間は理想的であると同時に、基盤は現実的でなければならない。むだなことは避けようとする人間に革命はできない」という中内氏の挑戦が、 "既成の現実" という大きな壁の一角に穴をあけたのである。」p.151
・「佐橋さんの大学での勉強ぶりはまさにモーレツなものだった。  専門の法律の本以外にも岩波文庫を全巻読破しているが、この文庫の読み方は白帯を全部読んだら緑帯、それが終わったら赤帯を読むというユニークなものである。」p.184
・「技術者が宗教に興味をもつのはなぜ進歩なのか、と尋ねると、  「科学と宗教というのは同じ世界なんですよ。システム工学も仏教も同じなんです。日本の科学技術者もやっと宗教心を持つようになったな、という感じですね」  と素野さんは答えてくれた。」p.208
・「読書は読書だけで終わっては何の意味もない。それを契機に、あるいは刺激剤として、自分の頭で考えることに意義があるのであり、石井さんは、読書家におわらない読書家と言えるだろう。  「読書孝行」というコトバも示すように、読書は、考え、行為するための手段にすぎない。」p.219

《チェック本》
・メリメ『マテオ・ファルコーネ』
・トロワイヤ『女帝エカテリーナ』中公文庫
・伊藤肇『現代の帝王学』
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【本】ローズマリーの赤ちゃん

2009年06月16日 08時02分06秒 | 読書記録2009
ローズマリーの赤ちゃん, アイラ・レヴィン (訳)高橋泰邦, ハヤカワ文庫NV レ-1-1, 1988年
(ROSEMARY'S BABY by Ira Levin 1967)

・「モダンホラーの金字塔」とのことで期待して読んでみたのですが、いまいちピンと来ず。ローズマリーの妊娠中の紆余曲折をひたすら追うストーリーですが、昔観た『エンゼル・ハート』という映画を思い出すラストでした(ネタバレになってしまうかもしれませんが)。ホラーなのだけれども、"妊娠の心得" といった妙な知識が身につきます。
・誤植を三ヶ所ほど発見(p.117,158,176)。
・「たぶんトレンチ姉妹の知名度が、アドリアン・マルカトーのような人間を引きつけ、彼の知名度がケイス・ケネディのような人間を引きつけて、しまいにアパート全体が、ある種の行為をする傾向の人一倍強い人たちの、一種の――集合所みたいなものになった。ということに過ぎないんじゃないかな。それとも、磁場とか電子とか、一つの場所がそれこそ文字通り悪い影響力をもちうるようなものについて、まだわれわれに分かっていないことがいろいろあるのかも知れない。」p.26
・「歩道の上に、テリーが横たわっていた。片目で空を見つめ、顔の半面は赤くくたくたにつぶれていた。らくだ色の毛布がひらりと彼女をおおった。死体をおおった毛皮の、一ヶ所が、つづいて別のところが、赤く染まった。」p.49
・「「おどろいたわ! あのパイ! よく二切れも食べたわね。この世のものじゃなかったわ!」  「超人的な勇気と自己犠牲の行為さ。われとわが身に言い聞かせたね。『おお神よ、このおばあさんの生涯に、かつて一度でもお代わりをしてやった者はなかったろう!』ってね。だからお代わりしてやったのさ」彼は大げさに手を振った。「いまふたたび、われはこの崇高な衝動をおぼえる」」p.82
・「「本など読まないでください。妊娠は一つ一つ違うんですからね、三ヶ月目の第三週目はこんな感じがあるなんて書いた本に、心配の種を作るだけです。そんな本に書いてあるケースと完全に一致するような妊娠は一つだってありゃしませんよ。それから友だちの言うことにも耳を貸してはいけませんね。その人たちの経験とあなたの経験することとは非常に違うはずだし、その人たちの妊娠も正常なら、あなたの場合も正常だってことを、しっかりと確信していてもらいたいものですな」」p.148
・「「すさまじい顔だよ」と、ハッチが言った。「おそろしく痩せこけて、眼のまわりに、パンダ(華南やヒマラヤ山中に住む、ネコよりやや大きいあらいぐまの一種)なら羨ましがりそうな輪ができてるじゃないか。『禅の断食』をやっているわけじゃないんだろうね」」p.156
・「おそらく妊婦はみんな、二週間前になればいらいらして落着かないものなのだろう。それに仰向けにばかり寝ていることにうんざりして、それで眠れないのだ! お産がすっかり済んだら第一番にやるのは、腹ばいになって、枕を抱きしめ、顔を深々と埋めて、がっちり二十四時間眠ることだ。」p.241
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【本】未知科学の扉をひらく

2009年06月10日 08時04分31秒 | 読書記録2009
未知科学の扉をひらく 現代科学が説明できない不思議な事実の数々――, 平野勝巳(編著), KAWADE夢新書 S118, 1997年
・「なんでか分からないけれども、うまくいく」 そんな現代科学の枠からはみ出た(平たく言えば、うさんさい)『未知科学』を15編収録。ほとんどが個人の手によるものなので手軽で単純な方法が多く、全体的に地味な印象。心惹かれる研究は見当たりませんでした。これだと現代科学の方が、もっとハジけていて驚かされる事が多いような。
《参考リンク》戦略的創造研究推進事業 http://www.jst.go.jp/kisoken/
・「そもそも本書は、21世紀に向けた新しい世界像を予感させる研究や実践を取材し、「常識をひっくり返すような、こんな考え方があるんですよ」と広く紹介したいという意図から生まれた。したがって、焦点はむしろ世界像にあって、「科学」そのものではない。」p.3
・「そうはいっても、やはり、「未知科学」的な世界像とはどのようなものか。編著者として感触くらいは述べておかなくては、と思う。  それはおそらく、「科学の知」に対して、「物語の知」と呼ばれている英知によってとらえられるような世界像ではないだろうか。」p.4
・「遺伝子には、極小のスペースに想像を絶するほどの大量の情報が書き込まれている。なぜ遺伝子に情報が「書き込まれている」のか。書き込まれている以上、書き込んだものがいるのではないか。筑波大学教授の村上和雄さんは、それを「サムシング・グレート(偉大なる何か)」と呼んでいる。」p.12
・「鉱物に含まれているミネラルとは何か。どうして地球上の生命体すべてに海水と同じ成分のミネラルが含まれているのか。そんなことを考えているうちに、 "ミネラルと生命との関係" というテーマが固まっていったんです。」p.28
・「植物が「心」をもっているらしい、ということを研究している方として、このあと本書でも新井昭廣さん(50ページ)や橋本健さん(62ページ)をご紹介している。これらのことと合わせて考えると、微生物にも「心」があるといわれてもさほど抵抗感はない。」p.41
・「奇妙な言い方ですが、いまや、"信じなければ、いい実験結果が得られない" というのは微生物学者のあいだで暗黙の了解のようになっています。疑うことから科学が始まる、といったデカルトの考え方はもはや現実的ではないんです」p.42
・「また雌牛のツノのなかに雌牛の糞や水晶の粉を入れて半年ほど土のなかに埋設し、それを取り出して水に溶かして耕地にまくと、土がよみがえり、バイタリティのある作物が生育するという。これは、今世紀初めに活躍したオーストリアの思想家、ルドルフ・シュタイナーが提唱した「バイオダイナミック(生命力学)農法」と呼ばれるもので、この不思議な農法が米国やオーストラリアで実践されていることも紹介されている。」p.56 シュタイナーは他の章でも登場し、大活躍。
・「つまり、ハイレベルな知性は脳のはたらきではなくて、見えない世界にある一定のパターンの受信活動ではないかと思うんです。だとしたら、知的活動にはかならずしも脳は必要がなく、植物にも未知のパターンを受信できるしすてむがあるのかもしれない。そんな仮説も考えられるのではないでしょうか」p.71
・「「"アーッ、そうだったのか!" と目からウロコが落ちる思いでした。エイトスター・ダイヤモンドが引き起こす不思議な出来事はすべて、目に見えない世界とつながった現象なんだ、と悟りました。理屈ではなく、まさに悟ったという感じでした」」p.178
・「それぞれの方々が違った領域で、違った角度から、さまざまな事実を語り、仮説を提案されているが、そこに共通に見て取れるものは、ひと言でいって「よりよく生きるための糧となる世界像」ということだろうと思っている。ここに提案されている世界像のなかでなら、自分は本当に自分らしく生きられるのではないか、という感触をもたれる方が少なくないことを念願し、期待している。」p.208
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【本】遠野物語

2009年06月05日 08時02分43秒 | 読書記録2009
遠野物語, 柳田国男, 集英社文庫 や-15-1, 1991年
・岩手の遠野地方の昔話を編纂した表題作の他、『女の咲顔(えがお)』、『涕泣史談』、『雪国の春』、『清光館哀史』、『木綿以前の事』、『酒の飲みようの変遷』の六編収録。巻頭には写真資料や遠野地方の地図、そして巻末には14ページに渡る詳細な語注、著者略伝を含む解説、年譜他が付属。
・"名作" と呼ばれる『遠野物語』ですが、文章があまりに簡潔すぎるためか、もうひとつピンと来ませんでした。収録された短い話を何度も何度も読み返し、その情景を想像することで、その面白さがじわじわと伝わる感じです。サラッと読み通すには不向きな作品。
・「女の咲顔の社会的変遷を説く」『女の咲顔(えがお)』、「意思表現としての泣くこと」をテーマにした『涕泣史談』の二編は興味深く読みました。残りはこちらもまたピンと来ず。
●遠野物語
・「この書を外国に在る人々に呈す」p.6 エピグラフより。
・「猿の経立(ふつたち)はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂をその上に付けておる故、毛皮は鎧のごとく鉄砲の弾も通らず。」p.38
・「川には河童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。」p.42
・「川の岸の砂の上には河童の足跡というものを見ること決して珍しからず。(中略)猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。」p.43
・「遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。」p.47
●女の咲顔
・「人は一生のうちに定まって三度、高盛りの飯を供せられる日があると、今でも言っている人が日本には多い。」p.90
・「男子の頸(くび)の骨の硬くなるのと同様に、親や祖父母が小娘のために望みかつ期待した、靨(えくぼ)というものは、そもそも何であるか。」p.93
・「今まで日本人が漢学によって少しばかり損をしている点は、あの国には我々のもつ二つの動詞、エムワラフとの差別がはっきりせず、双方ともに「笑」または「咲」の字を宛てて混同していることに気が付かなかったこと、エミをあたかもワラヒの未完成なもの、花なら蕾か何かのごとく思っていた人の多かったことである。」p.96
●涕泣史談
・「実際また最近の五十年は、昔の二百年にも三百年にも当たるくらいに、変化の速力が加わって来ているのである。」p.111
・「大人の泣かなくなったのは勿論、子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。」p.18
・「言語の万能を信ずる気風が、今は少しばかり強すぎるようである。「そう言ったじゃないか」。そうは言ったが実際はそう考えていなかった場合に、こういう文句でぎゅうぎゅうと詰問せられる。」p.123
・「もしも言葉をもって十分に望むところを述べ、感ずるところを言い現わし得るものならば、勿論誰だってその方法に依りたいので、それでは精確に心の裡(うち)を映し出せぬ故に、泣くという方式を採用するのである。」p.123
・「もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終わった人間が、総国民の九割以上もいて、今日謂うところの無口とはまるで程度を異にしていた。それに比べると当世は全部がおしゃべりと謂ってもよいのである。」p.131
・「カナシという国語の古代の用法、また現存多くの地方の方言の用例に、すこしく注意して見れば判ることであるが、カナシ、カナシムはもと単に感動の最も切なる場合を表わす言葉で、必ずしも「悲」や「哀」のような不幸な刺激には限らなかったので、ただ人生のカナシミには、不幸にしてそんなものがやや多かっただけである。」p.134
・「歴史は私などの見るところでは、単なる記憶の学ではなくて、必ずまた反省の学でなければならぬのである。」p.141
●酒の飲みようの変遷
・「酒は本来は女の造るものときまっていたのに、こういう銘酒の産地が、多くは婦人と縁のない寺方であったということは、ちょっと珍しい現象である。」p.196
・「証拠を挙げることはやや困難になったが、中世以前の酒は今よりもずっとまずかったものと私たちは思っている。それを飲む目的は味よりも主として酔うため、むつかしい語で言うと、酒のもたらす異常心理を経験したいためで、神々にもこれをささげ、その氏子も一同でこれを飲んだのは、つまりはこの陶然たる心境を共同にしたい望みからであった。」p.205
●解説 ――日本人の心を問い続けた旅人(長谷川政春)
・「日本民俗学の先駆者柳田国男は、一口に言って、日本人の心を問い続け、日本人の幸福な生き方を追い求め続けた人であり、その彼のまなざしは、旅人のそれであった、と思う。」p.221
・「柳田の学問(それを「柳田学」と呼んでいる)が好事家や趣味人の学でも、単なる学者のための学問でもなく、私たちがいかに生きるか、いかに幸福になるかという今を問題にしている現在の学であり、内省の学であって、まさに生きた学問であった。私自身を知る、私の心の傾きを知る、私たちの生活の在り方を知る――これは、柳田学の魅力の一つである。」p.222
・「ところで、柳田を終生の師と仰いだ折口信夫(釈迢空)は、柳田学の本質を、
 一口に言えば、先生の学問は、「神」を目的としている。(「先生の学問」昭和22)
と述べ、その日本の神を発見する学問の背後に、「経済史学」のあったことを指摘している。
」p.230
・「私たちが自身の身辺生活をふりかえってみることを、柳田民俗学は勧めている。その生活の事象には、必ず「歴史」が圧縮されている。だから、それを知り、それに基づいて現在を解読し、未来への展望を見極めることを、柳田は示唆している。まさに内省する私たちを待望しているのである。」p.239
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【本】GOTH 夜の章・僕の章

2009年05月31日 08時03分18秒 | 読書記録2009
GOTH 夜の章・僕の章, 乙一, 角川文庫 お52-1・2(13798・9), 2005年
・『死』に異常な興味を示す "僕" と高校のクラスメイトの森野夜との周りで次々と起こる猟奇事件を題材にした短編集、二巻合わせて六編収録。各話読み切りの形ですが、それぞれ微妙につながっており、物語はある程度一つのまとまりを保っています。
・作者自らあとがきで「稚拙な作品」と述べているように、素人臭さが鼻につく文章と、強引な展開で、「なんでこんな作品が話題に?」と言いたくなる部分もありますが、それだけで捨ててはおけない魅力を持った作品です。なかでも最終話「声(Voice)」の緊迫感はなかなかよい感じ。
・「彼女の体が手帳の中で破壊されていく。細かい文字で、彼女の両目の取り出されるさまや子宮の色艶が描写されている。」夜p.15
・「「煙草は大勢の人を殺すけど、煙草の自販機はあのあばあちゃんから職をうばって殺すのだわ」」夜p.18
・「両親や妹と、僕との間に、どんな会話もなかった。話した内容は直後に忘れた。おかげで、僕自身はずっと黙りこんでいたはずなのに、周囲の者たちはなぜかおかしそうにしているという、異様な夢を見ている気がするのだ。」夜p.71
・「もしも購入するとしたら、ペットとしてではなく、研究目的の実験動物としてだろう。飼われていた犬は、野良犬よりも人間に対する信頼が厚い分、扱いが楽だ。だからヤミで重宝されているという話を聞いたことがある。」夜p.83
・「「私の心は暗黒なの」  そう口にする彼女は、黒っぽい服を身につけ、病的な青白い顔をしている。外で遊ぶよりも、家で本を読むことを好むような、不健康な気配を持っている。  一部ではそういった人々のことをGOTHと呼ぶ。GOTHというのは、つまり文化であり、ファッションであり、スタイルだ。ネットで「GOTH」や「ゴス」を検索すると、いくつものページがヒットする。GOTHはGOTHICの略だが、ヨーロッパの建築様式とはあまり関係がない。この場合は、ヴィクトリア朝ロンドンで流行した『フランケンシュタイン』や『吸血鬼ドラキュラ』などの小説、つまりゴシック小説のGOTHICがもとになっている。」夜p.125
・「森野はそれらをひとつずつ手にとり、細い指先で触っていた。身につける服を選ぶような、大切なものをあつかう手つきだった。  彼女は、首吊り自殺をするときの紐について自分なりの考えを持っているらしく、やつれた頬で意見を述べた。  「まず、すぐに切れてしまいそうな細いのはいやだわ。電気コードなら丈夫でよさそうだけど、なんだか美しくない」」夜p.132
・「「最初に私の名前を呼ぶのは、あなたなんじゃないかと思っていたの……」」夜p.182
・「次から次に犯人が現れてはこっそり人の命を奪っていて、こんな現実味の薄い展開をしていて大丈夫なのだろうかと思いつつ執筆していました。そもそも、同じ町の中にこんなにたくさんの異常者がいるなんて現実世界にはあり得ません。」夜p.186
・「そういえば書き忘れてはならないことがありました。この作品が本格ミステリ大賞を受賞させていただいたことです。まさかこの稚拙な作品に賞が与えられるとは思っておらず、そもそも本格ミステリ大賞という賞が存在することさえ知りませんでした。」夜p.188
・「しかしふとした瞬間に手のことを考える。五本の指がついた、神が創造したとしか思えないデザイン。それが頭の中をめぐる。」僕p.10
・「僕が究極的に無感動で慈悲のない人間だと周囲の者たちが知ったとき、どれほど生きていくことが困難になるのだろう。そして、今の状況とそのときに置かれる立場とを比較して、どちらが孤独かというと、それはたいして変わらないにちがいない。」僕p.23
・「自分の抱えている悩みを秘密にしていると、無意識に人との接触の中で、他人を近づけさせない壁を作ってしまう。この恐ろしい悩みを打ち明けられる存在などこの世にいるわけがないのだ。」僕p.64
・「これまで、自分のことをはたしてどれだけの回数、人間ではないと悲しんだことだろう。恐ろしいことを想像し、実行し、そのたびに胸の奥の暗闇こそが自分の本性だと嘆いていた。しかし今、自分に残っている人間の部分が静かに勝ったのだ。」僕p.122
・「たとえば、普通の人と正面に向き合って接していれば、その人は僕を人間として認識し、それ相応の配慮を持って応対するだろう。  しかしこれまでに僕の見た殺人者は少し違っていた。彼らの瞳をよく見ていると、「今この人は目の前にいる僕のことを生きた人間ではなくただの物体としてとらえた」と感じられる瞬間があった。」僕p.132
・「枝葉を切り落して存在だけが純化された人間の塊……、不思議な表現だが、そのような印象を彼に対して抱いた。」僕p.173
・「「僕は、死というものを、『失われること』だととらえています……」  静かな口調だった。  「死の瞬間、その人と、その周囲にあるものすべての関係が断たれる……。好きだった人や、執着していたものとのつながりが消える……。太陽や風、暗闇や沈黙とも、もう会えなくなる……。喜び、悲しみ、幸福、絶望、それらと自分との間にあった関係性の一切は失われる……。」僕p.202
・「よしわかった。ライトノベルでミステリを書けばいいんだ。そうすればライトノベルしか読んでいない人でも、ミステリという形式を知って、そこから読書の守備範囲が広がるに違いない。僕はそう考えて『GOTH』を書きました。」僕p.248
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