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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】市民科学者として生きる

2007年10月13日 18時08分47秒 | 読書記録2007
市民科学者として生きる, 高木仁三郎, 岩波新書(新赤版)631, 1999年
・"高木仁三郎" 自伝。休む間もなくひたすら "核" の問題に命を捧げた男が、病床から過去を振り返る。その内容にズッシリと重みを感じる。著者は本書が出版された約一年後に死去。
・内容を想像しづらい点で、書題がイマイチしっくりこない感じ。
・「ライト・ライブリフッド賞(RLA)については、後からも触れるが、環境、平和、人権の分野では「もうひとつのノーベル賞」と呼ばれる賞で、日本ではあまり知られていないが、私たちの世界では大変重みのある世界的な賞である。」p.5
・「アメリカの「ニュージアム」(メディアの博物館)の行った全米ジャーナリストらの選考によると、「二〇世紀の百大ニュース」の第一位は、やはり「広島・長崎への原爆投下」だという」p.12
・「私はちょうどその1938年に生まれ、1945年には小学校一年で敗戦を経験した。その後原子核化学を専攻し、約40年間「核」と付き合ってきた。その初めの三分の一は、原子力利用を進める体制内の研究者として、残りの三分の二は、大きな研究・開発体制からとび出した、独立の批判者、市民活動家として。」p.13
・「夏休み前までは、日本は神国で天皇は神、英米は鬼畜の類である、と言っていたその同じ教師たちが、あれは軍人が仕組んだ野蛮な戦争で、天皇が神なんてことはありえない、これからは民主主義の社会で米軍(駐留軍)は解放軍だと言う。  七歳の少年には、むずかしいことは何も分からない。しかし、大人たちの言っていることや態度が嘘っぽく、卑屈に見えたのは強く印象に残った。(中略)戦争体験に根ざして次第に私の中に強まっていた考え方の傾向は、国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人たちの言うこともいつ変わるかも分らない、安易に信用しないことにしよう、なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう、というようなことだった。」p.27
・「この友人関係が互いの知的・精神的成長を促したことは疑いをいれない。皆それぞれに得意分野をもちこみ、とたえば丸山は三木清などの哲学書を、美濃部は多分に兄姉の受け売り的な芸術論やマルクス主義理論を、私は雑多な文学論や恋愛論、さらには数学書なども持ち出すというふうに、大いに背のびをしながら、相手を論破しようと努めた。こういう競り合いの中で、さらに広く独特の交友関係が形成されていったと思う。中学三年生の頃には、この同級の友人関係の知的レベルを向上させることに、私自身は興味をもち意識的になっていたと思う。」p.34
・「兄の指導で今でも感謝していることは、徹底的に自分で考えることを教えてくれたことだ。数学の勉強は、岩切晴二の『解析精義I』から始めろ、というのが兄の指導で、それも一つの問題を解くのに、何時間かけてもよいから考えて、自分で答えに到達しろ、というのだった。」p.47
・「後年、ある人に「あなたの人生は失望と挫折と失敗の積み重ねによって初めて成立しえた」という趣旨のことを言われたのも確かである。」p.57
・「いずれにしても、右の道を選ぶか左の道を選ぶかはさして重要ではなく、その道を歩むかが枢要の問題だろう。」p.63
・「私としては教授たちから「化学とはこういうものだ」と教えこまれる前に、自分なりの化学観をまずもちたかったのである。ここでも子どものとき以来の流儀が保たれていた。  そして、そのやり方は、それなりに化学という学問の価値に――あくまで自分流ではあったが――目覚めさせる効果をもったと思う。」p.65
・「物理学は古い言葉で究理学とも言われるが、多くの物理学者たちの気分には、物理学こそ物事の究極の理を明かす学問だという思いがあるのではないだろうか。」p.69
・「原子力産業は、政治的意図や金融資本の思惑が先行して始められた産業であり、技術的進歩を基盤として自ら成長していった産業とはかなり性格を異にしていた。(中略)結局、この政治性と技術的脆弱性が後に「もんじゅ」の事故をはじめとして広く国民の不信と不安を買う日本の原子力開発の問題点につながったのである。」p.73
・「では、いったいお前は何がやりたいのか。これがその時私がいつも自問していたことで、けっこう厳しい問いであった。これにきちんと答えなければ、科学者としてのアイデンティティーの確立はあり得ない。」p.75
・「その研究にのめりこめばこむ程、他方で自分の身のまわりの放射能の安全には鈍感になっていた。  二、三年もした頃には、研究を手伝ってもらった若い助手の人に、「少しぐらいの放射能を恐れていては一人前になれないぞ」などというようになっていた。」p.80
・「考えてみると、私が興味をもってやった仕事は、放射性物質の放出や汚染に関するものが多く、しかもその結果は、「放射性物質の挙動は複雑で分っていないことが多い。もっともっと基礎の研究を固めなくては」というものだった。しかし、会社で期待されていた放射能の専門家としての役割は、一口に言えば、「放射能は安全に閉じこめられる」とか、「こうすれば放射能はうまく利用できる」ということを、外に向かって保障するというものだった。(中略)それからは、ことあるごとに私は会社で居心地の悪さを経験することになった。」p.85
・「無言が胸の中を唸つてゐる
 行為で語れないならばその胸が張り裂けても黙つてゐろ
 腐った勝利に鼻はまがる (萩原恭次郎)
」p.90
・「それでも、我々のまわりの材質がほとんどすべて、人工の放射性物質で汚染されている問題は、私たちの研究をずい分妨げ、悩ませたので、研究室内で議論にはなった。」p.101
・「要するに、今までまだ誰もやっていない反応とか核種を探し出して、なんとか自分たちの測定器で "史上初" の測定ができないか、とあたりをつけるのである。そうすれば論文が書ける。  これは典型的な研究(者)の論理で、何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか、という方向にどんどん流されていく。研究者はすなわち論文生産者となる。私もいったん、完全にこの研究の論理にはまりこんだ。(中略)多くの場合、この中毒症状によって、研究者は、研究が研究を呼ぶ世界にはまりこみ、何のための科学か、とか、今ほんとうに人々に求められているのは何か、ということへの省察からどんどん離れてしまうのである。」p.102
・「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか  宮澤賢治」p.114
・「まあこれは私の一生を貫いたことで、無智と無思慮ゆえの無謀が、かえって自分に色々な試練や冒険の機会を与えてくれ、自己変革への推進力になっていたといえよう。そう感じているから、今でも私は、「見る前に跳べ」あるいは最低限「歩きながら考える」派で、若い人たちにも事あるごとにそう勧めている。」p.115
・「職業芸術家は一度亡びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方面に於いて各々止むなき表現をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である
 (宮澤賢治)」p.123
・「実験科学者でもある私は、私もまた象牙の塔の実験室の中ではなく、自らの社会的生活そのものを実験室とし、放射能の前にオロオロする漁民や、ブルドーザーの前にナミダヲナガす農民の不安を共有する所から出発するしかないだろう。大学を出よう、そう私は心に決めた。」p.124
・「すべての面でそうなのだが、われわれ日本人は、事柄を個人的努力や倫理の問題に還元してしまう傾向が強いが、彼ら(MPIの同僚たち)は常にシステムの問題として考えていく。この点で、大いに教えられた。」p.131
・「しかし根源的な批判は、まず人間の関心のあり方を問題にし、その関心のもとに認識が方向づけられるプロセスを省察する。その省察抜きに、客観性の名のもとに測定データなどを絶対的真理として押しつけるのは、自然科学に典型的なイデオロギーだ。関心のあり方と認識のプロセスに徹底的な批判のメスを入れることによってこそ、社会をよりよいものへと方向づける創造的力が生れてくる、というのが、ハーバーマスからとくに私が学んだことだ。」p.131
・「大学や企業のシステムの引きずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だったからである。話がそこに及ぶと、友人たちは、「そんなのできっこない。幻想だ、誰も成功していない」と言い、私は「だから挑戦するんだ」と開き直って物別れとなった。」p.134
・「最初の数日間は、家で料理をつくったり、もっぱらモーツァルトを聴いて過ごした。実際、モーツァルトによって救われた部分は大きいだろう。」p.174
・「プルトニウムに未来はなく、未来を託することもできない。それは冷戦時代の負の遺産にすぎない。いま、世界中の心ある人々、そして国々がこの遺産――超猛毒で核兵器材料である物質の脅威をどう断ち、子供たちにプルトニウムの恐怖のない未来をどう残せるか、苦闘を開始している。その時に、ひとり日本のみが大量のプルトニウムの増殖・分離・取得・使用を企図している。それは、地上の安全と平和にとって大きな挑戦であり、世界を新たな核開発競争へとかりたてるものだ。(『脱プルトニウム宣言』(1993.1.3)より)」p.185
・「数式を使えば簡単に済んでしまう話だが、数式をいっさい使わずに、しかも論理をゴマかさずにちゃんと説明しようとすると、本質的に何が最も重要なことか、そして人々のふつうの日常的な思考回路にのせるような論理的説明はどうすれば可能か、相当考え、訓練し、試行錯誤を繰り返さなければならない。」p.206
・「私が病に倒れた時、友人のKさん夫妻が、長野県の別所温泉まで行って、安楽寺の住職さんの書の額を買い求めて来てプレゼントしてくれた。次のような書だった。

 本気
本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる
」p.221
・「先天的な楽天主義者と評されたが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生れてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。」p.222
・「持続した理想主義は、必ずやある結実をもたらすと確信している。(中略)自分がその実現をもたらすと信じていないようなことを口先だけの理念で叫んでみても、人の心に響くはずはないと、私の経験から思うからである。」p.238
・「結局、私たちの世代も、それ以前の世代の過ちを、何も教訓化し得なかったのか。そして「オマエハケッキョク、ナニヲヤッテキタノカ」。」p.252
・「このように状況を認識するなら、「市民の科学」がやるべきことは、未来への希望に基づいて科学を方向づけていくことである。未来が見えなくなった地球の将来に対して、未来への道筋をつけて、人々に希望を与えることである。」p.256
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【本】モーツァルトと量子力学

2007年10月06日 22時21分23秒 | 読書記録2007
モーツァルトと量子力学, 糸川英夫, PHP文庫 イ-5-2, 1990年
・なんとも心ひかれるタイトルに思わず手に取ってしまった一冊。糸川英夫のエッセイ集。『ロケット博士』として有名だったようですが、私が氏の存在を知ったのは『トンデモ本の世界』での紹介によります。読んだ印象では、『ものすごく元気なおじいちゃん』。好奇心旺盛です。チェロを弾くとは知りませんでした。読み進むと、話があちこちに飛んで一体何をテーマにした文章なのか分からなくなったり、それってホンマかいな? と疑いたくなるようなところもありますが、自分と同じ弦楽器を趣味に持つという事で、音楽の話題も多くそこそこ楽しめました。
・「ロケット研究をやった「糸川先生」は今の私にとって「他人」なのである。  だから「過去は他人である」。」p.3
・「だけど私はヴァイオリンは弾けない。チェロを弾く。  弾き始めて50年以上もたっているのに、一向上達しない。退歩しないのがせめてものなぐさめである。  去年は、永い間の懸案だったマックス・ブルッフの「コール・ニドライ」を何とか弾いた。」p.7
・「スミヤカでなかったのは「演奏」の内容である。  (アイネクの)テンポが、最大の論争点になった。  メトロノーム記号で、132にするか、128にするか、126にするかを議論した時間が、実際の「音合わせ」より長かったような具合である。  さすがに「工学博士」カルテットだけのことはある、と私は、ただただ感心するばかりであるが、何しろカルテットの胴元役を背負っているので、これで本番までに「まとまる」のかどうか、まことに心痛の限りであった。」p.32
・「日本のクラシックコンサートが「音楽会」ではなくて「音学会」だという批判は、前から随分ある。ピアニストの宮澤明子さんになると、もっと手きびしくて、日本の「音楽」は「怨餓苦」と書いたほうがよい、と言われる。」p.35
・「とにかく音の配列に「きまり」があるので、次の「フレーズ」(楽句)はこうくるだろう、と思うと、そう来るから、何となくいい気持になれるようになった。」p.38
・「批評家とか、審査員は、プレーガイドに足を運んで、S券かA券かB券を、自前のオカネで買うべきである。  そこがコンサートの原点なのだから。」p.41
・「プロというものは、そういう存在だと思う。つまり、プロは「みてくれる人」「聴いてくれる人」のために存在しているから、プロなのである。  アマチュアは、自己満足でよい。ナルシシズムでも構わない。プロは「相手」の信任の上に成り立つ。」p.44
・「敗れたときの反省は誰でもする。  勝った時の反省を、人が落とすなら、それを拾い上げることで差がつくだろう。」p.53
・「ヨー・ヨー・マという風変わりな名前のチェリストが、1982年の年頭の日本のあちこちで話題になった。(中略)何が気になったのだろうか。  第一に、「風格」である。  もっと、そのものズバリで言えば「顔」なのである。  つまり「顔が悪い」のである。(中略)彼のマイナスは、演奏中に、天井を向いて目をつぶるのはいいが、口を半分あけて、今にもよだれがたれそうな感じを与えるところである」p.77
・「冬になってカゼを引いたり、相変わらず空調のおかしい新幹線のグリーン車に乗ったり、たばこの煙もうもうという空気の悪いところに行くと、急性アレルギーは時々おきる。  しかし、直ちに、洗面所にかけこんで、この鼻孔ウガイを二回やれば、立ちどころに正常な状態に戻る。」p.119
・「地球は消耗性の物質のかたまりで、元に戻らない。  リサイクルという言葉は、物理的には成り立たない。石油でなくても、ウランでも、重水素でも、銅でも、チタンでも同じことで、一度使ったら、あとは必ず有用性が減少する。  有用性の減少の法則を、エントロピー増大の法則、というのである。」p.134
・「名古屋駅のホームに「ホームでのクラッカー、コメットの使用、及び胴上げを、固くおことわりします」という掲示板があった。」p.144
・「「道交法」では常識的になっているこの「前方不注意」も、対人関係になると、そう気にされていない。」p.151
・「すべて「ごうまん」という行為は、受けた人だけわかって、与えた人には存在しない感情なのであるから。」p.153
・「ところが今度「発明されつつある」素子はシリコンでもガリウムでも砒素でもない、生物を構成している細胞の素子である「タンパク質」なのだそうである。  つまり生きている細胞の一部の中で、電子とプロトン(水素原子または陽子)がついたり離れたりというより、二つのタンパク室の間の電子のくっつき方が変わる、という現象を利用して、ON、OFF、のサイクル、つまり二進法を展開させようという新発想である。」p.157
・「ワトソンに強大な影響を与えたのは、この両教授の学説でも学識でもなく、この二人のもっていた「ライフ・スタイル」であった。  一言で言えば「他人に遠慮しない率直さ」といっても、無遠慮とか、迷惑をかける言動、ということではない。  前項のテーマにのべた言葉を、再び使わせて頂ければ「君子は鬼を語る」のである。  多くの教授たちは(アメリカの大学でも)「あまりに紳士的」であった。  つまり「君子は鬼を語らず」で、正統派と世の中から「認知されている」仮説、法則、理論しか口の端にのぼらせないのに反して、この二人は「どんなつまらないと思われることでも」異説、異論、珍話の類に熱狂していたのである。」p.160
・「この一冊の本(シュレーディンガー『生命とは何か』)との出会いは、クリックに強烈な衝撃を与えた。  まだ30歳の若さで、クリックは、彼にとって理想的といってもよいぐらい、よい環境であった海軍省に、アッサリ辞表を出す。新しい人生を目指して、成功する確率は一万分の一ぐらいしかない新しい人生を目指して。  彼の興味は「脳の中の細胞を構成する分子」に向かった。  脳は、遺伝子よりはるかに、複雑な対象である。」p.166
・「ワトソンは後日語っている。  「栄光は、X線結晶撮影でDNAの写真を撮った、ロザリンド・フランクリンの頭上に下ってもよかったのに。ただ、ロザリンドは、ワトソンとクリックよりあたまがよく、同時に、柔軟性を欠いていただけだ」」p.171
・「サイエンスもクラシック音楽も、人生を美しく感動させるのが本質ではないだろうか。」p.178
・「(アメリカの物理学者ワイスコフ)「私が学生に、口癖のようにいう文句がある。  自分の人生を価値あるものにしてくれるもの、つまり自分の生きがいを支えてくれているものが二つある。  モーツァルトと量子力学である」  この報告を読んで、私は涙が出るほどうれしかった。  この世に同じことを考えていてくれる人がもう一人いるのだ、といううれしさである。」p.180
・「規則どおりに動かない、時によると、後ろ向きに戻ったりする。この星の一群は、はなはだ、ケプラーの心を惑わすものであったので、これに惑星という名がつけられた。」p.185
・「こういうところ(ヨーロッパの教会や古城)を頭において作曲されたクラシック音楽を、残響時間を極力抑えた現代のテレビスタジオやラジオスタジオで演奏したら、音楽の中身が全くちがったものになるだろう。」p.200
・「糸川英夫氏、つまり、この連載の筆者は、  「人間は(A+BX)という式で表現できる。(中略)」  という学説(?)を十五年くらい前から言い続けている人間である。」p.214
・「クリエーティビティというのは、ある日突然、世間の目にさらされると、不連続的な、飛躍的なしろものに見えるが、実は世に出る間は、連続的に少しずつ階段を上ったのであって、突如、一階から二階へジャンプしたものではない。  B.F.スキナーの説によれば、天才とは、階段を登るところを、人目から隠すことがうまかったのだ、という。」p.217
・「で、私共は、目だけギラギラさせて、指先だけを動かす「宇宙人」と化しつつある。そこで、これではならじ、とばかりに「目的なき」体の運動を生活の中に取り入れることになり、「体操ブーム」が起きた。」p.232
・「「日本人に独創性がない」とキメツケるより、「日本人が、日本という国土のなかにいると、独創性が発揮しにくい」といったほうが現実に沿っている。」p.238
・「日本人の海外ツアーが「団体さん」にたよることが多いのは、つとに有名である。(中略)団体さんのほうが「安くて」「気楽だから」というのがその背景であろう。  しかし、私自身の経験によれば、一人旅のほうが安上がりで気楽で、みのり豊かなものになると断言できる。(中略)だいいち、言葉の分からない日本人が一人で、心細そうにウロウロしていると、どこの国でも親切な人がいて、面倒みてくれるばかりでなく、ホテルなんかに泊まるより、「ウチ」へ来ないか、と誘われて、宿泊代がタダになることが多い。  食事もタダになることが多い。  それに、現地に「友人」が出来る。  不慣れな土地を、アッチにブツカり、コッチで失敗するうちに「土地カン」が出来上がる。」p.243
・「左右の脳理論と、古い皮質、新しい皮質に私がこだわるのは、「音楽」は「理性より情動的」であり、理性や言語系のロジックより「本能」に根を下ろしている、と思うからである。  音楽を演奏する前に、聴き手に何か話しかけるのを、割と平然とやる人と、演奏してからではないと、口をきかない人がいる。」p.247
・「それに、現代のように、テクノロジーが氾濫して、コンピューター一色の社会生活になると、どうしても「古い皮質」<の働きが鈍くなって、生命力のレベルの低下をきたすから、テクノロジー氾濫社会になればなるほど、「音楽」や「美術」を盛んにして「古い皮質」に栄養をやったほうがよいと思うのである。(中略)かくいう私も、本職の組織工学や種族工学の時間をさいても、チェロ音楽に「ウツツをぬかして、狂う」ことになり、バランスをとっているのではないだろうか。」p.249
・「故湯川秀樹氏は、この日本人独特の脳の構造が、将来、西洋人がつくれない「独創的」なものを生みだすはずだ、とおっしゃっておられる。  私も同感である。」p.254
・「「テクノロジーはハートを減少させる」  という法則を立てて、この落とし穴に陥らぬ用心が必要なのであろう。」p.279
・「ところが、こういう舞台芸術から人間が得た「感動」は、半永久的に残るのだ、という大発見を、最近私はしたのである。」p.281
・「1960年代、70年代の、イノベーションはLSI(大型集積回路)とDNA(遺伝子)であった。  この二つからいくつかのノーベル賞が生まれ、ノーベル賞から、生産、市場への出現は極めて速かった。(中略)80年代、90年代の、イノベーション、ブレーキスルー(壁を破る新発見)は「脳」であろう、という予測がある。  私もそう思う。」p.281

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ロケット博士も花粉症に四苦八苦
http://news.livedoor.com/article/detail/1798158/
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【本】1を調べて10を知る科学 標本調査入門

2007年10月03日 22時03分36秒 | 読書記録2007
1を調べて10を知る科学 標本調査入門, 鈴木義一郎, 講談社 ブルーバックス B-902, 1992年
・統計学の入門書。"クイック・リファレンス" を意図して記述したとのことで、一項目につき1ページ読み切りの形。最初から順番に通して読むには少々疲れる構成です。もっとくだけた内容を想像していたが、読んでみるとわりと真っ当な内容。
・結局、1を調べて10を知るためには、それに必要な質の良いデータを得るための100の努力が必要らしい。
・「「統計」は 情報をうまく (まと)めあげ 正しい判断を る術なり」p.28
・「統計という語に対する英語は statistics ですが、この中に含まれている "state" は州とか国を意味しています。つまり歴史的には、イギリスの「政治算術」とかドイツの「国勢学」といったものの流れをくんでいます。」p.30
・「データ解析の場合も、分析するデータが粗悪品だったとしたら、もはやお手上げである。初歩的な方法でうまく解けないから、何か高級な理論を使うともう少し調子のいい結論が出るのではないか、といった相談を受けることがよくある。(中略)錬金術まがいのことでもやらない限り、結果らしきものは出てくるはずがない。つまりデータ解析の場合も、データの品質とかセンスが問題なのであって、どういう手法で分析を行うかは、さほど問題にはならない。」p.33
・「ともあれ パーセント とは、100につき(per cent)という意味に過ぎません。ところが一度パーセントをとるや、報告書は威厳を帯び、同時に親しみやすくなるから不思議なものです。「○○企業で25%の労働者が解雇!」といったセンセーショナルな表現の中身が、たった4人の従業員を抱える会社が不始末をした1人をクビにした、というのが真相だったということもあり得るのです。」p.36
・「ところで分散の値は、偏差を平方しているためデータの単位とは異なる。そこで、分散の "平方根" をとれば単位がそろう。分散の平方根のことを標準偏差といい、"s" で表す。」p.43
・「日本人はまた、風景より景色を愛でると指摘されている。風景とはある地域全体の景観を意味するが、景色とはある枠組みで限られた一部分の景観をさす。庭園や盆栽のようなミニチュア芸術を得意とし、外国へ出かけてもどんな景色を背景に写真を撮るかに気を使う。」p.66
・「一般に統計調査では、調査票・調査法・調査員の3つを十分に吟味することが大切になります。これら3つの中でも、特に調査票、とりわけ質問の内容が肝心です。」p.68
・「回答者は神様です!」p.73
・「たとえば、チョコレートを買ったかどうかを聞くのに、「今日買ったか」と聞けばはっきりします。これを「1週間以内に買ったか」と聞くと、記憶をたどることになります。「ふだんチョコレートを買うか」と聞くと、さらに答えにくくなります。」p.76
・「一般に日本人の回答パターンは、両極化しにくく、まん中に集まる傾向(セントラル・テンデンシー)が強いのです。(中略)さらに国際比較をする調査では、英語圏の「イエス・ノー」と日本語の「はい・いいえ」とは微妙に違うことがあり、注意が必要です。」p.78
・「必ず当たる情報をもってたら、誰が皆に知らせたりするものか。こう競馬新聞発行元に開き直られると、反論の余地がない。」p.102
・「また一部の回答に、真理を語りたがらない回答者が含まれることも、避けられない事実なのです。国勢調査のいずれの調査でも、"妻ある夫の数よりも夫のある妻のほうが多い" という結果になるのです。同様に学歴についても、高いほうに偏った答えの出る傾向があります。」p.112
・「以上みてきましたように、調査員の犯す誤差から調査対象者に起因する誤差、その他、調査環境の影響などによって生じる誤差まで考えていきますと、正に誤差の洪水です。」p.116
・「この確率のことをEが起こったときのFの条件つき確率といい、記号で P(F|E) と表します。」p.126
・「実力が互角の2人で8回勝負をし、結果が4勝4敗となる確率は27.3パーセントと算出され、結果が5分5分とならない可能性のほうが、むしろヨクアルコトである。」p.147
・「つまり、ある集団の平均的な意見をとりまとめるときに、単純なくじ引きがよいのは、その集団の特性がよくわからないことが前提になる。この裏を返せば、対象集団についての何らかの予備知識がある場合には、単純な無作為抽出よりも、もっとうまい方法を工夫する余地が残されているということになる。」p.163
・「統計的仮説検定の問題とは、母集団のあるパラメータに関する帰無仮説とよばれる仮説を立て、これを棄却することによって、ある種の仮説を検証することである。」p.197
・「1936年の大統領選挙では、ザ・リテラリィ・ダイジェストという雑誌が200万人の模擬投票をもとに、ランドン候補の当選を予想した。これに対し、ギャラップという社会心理学者は、たった3000人を調査しただけで、ルーズベルトの当選を予想し、みごと的中した。ダイジェスト誌の失敗は、調査対象を電話帳と自動車所有者名簿に限ったため、対象者が上流の高年齢男性の層に偏ったためである。」p.222
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【本】高円寺純情商店街

2007年09月29日 22時00分46秒 | 読書記録2007
高円寺純情商店街, ねじめ正一, 新潮文庫 ね-1-1(4845), 1992年
・昭和30年代後半(?)の、とある商店街の日常。江州屋乾物店の一人息子である正一の眼を通した風景。六編収録。直木賞受賞作。この小説のおかげで高円寺の商店街が名前を『純情商店街』に変えたとのこと。
・ホッと肩の力が抜けるような、気楽に読める小説。『少年H』とかぶる印象。
・著者はテレビで見知った顔の人物でしたが、小説を書く人だとは知りませんでした。考えてみると職業不詳の人物でした。
・「かつを節にカビはつきものだ。かつを節でもいいものにはピンク色のきれいなカビが生え、あまりよくないものには黒っぽいカビが生えている。カビがきれいなほど、かつを節も上質なのである。見てきれいなだけでなく、いいかつを節のカビは店に出す前に布巾でこするとスムーズに取れるが、悪いかつを節のカビはこすってもこすってもこびりついたようになっていて取れにくい。カビと長い時間つき合っていると、カビがかつを節のカラダを守っている皮膚のように感じられてくるのが不思議だった。こうなると面倒くさいはずのカビがいとおしくなってきて、カビがかつを節の健康のバロメーターのように思えてくる。カビが生えないかつを節は信用できない気がしてくる。ひと箱五十本のかつを節を全部調べ終えるころには、この世で好きのものは何ですかと質問されたら「カビです」と答えたくなる気分に正一はなっていた。」p.24
・「乾物屋の蝿取紙はなんだか拭き忘れたお尻のウンコみたいだし、わざわざ自分のところでバイキンを飼っているのを宣伝しているみたいだ。色からして茶色くて汚らしい。そう考えるといつも気持ちがどんどん暗くみじめになってくる。」p.51
・「ばあさんが正一に言ったとおり、六月は乾物屋の地獄だ。  氷砂糖がガチガチにくっついてガラス瓶の口から取り出せなくなり、するめの反りが激しくなり、卵は腐りやすくなり、煮干しは湿気を含んで鱗が光って見え、かんぴょうの漂白のにおいがきつくなる。かつを節機で花かつをを削ってもふわりと落ちず、粉かつをは嵩が減る。椎茸は傘の裏のヒダヒダが立って柔らかい毛がそよぐような感じになり、海苔の赤みが増し、反対に青海苔は黒ずんでくる。」p.64
・「それだけではない。父親がいちばん我慢できないのは、客が落とす金額の小ささだった。「百円のものを売っても、一万円のものを売る店と同じに "いらっしゃいませ" "ありがとうございます" だ。冗談じゃない。百円の麩ひと袋でウチに入るのは十五円、店の電気代やら乾燥剤やらの経費を差っ引いたら十円しか残らない。え、正一、十円だぞ。今時乞食だってたった十円じゃあいい顔はしないだろうよ」」p.127
・「「消防車がきたらまずいことでもあるの」  「そりゃ、まずいさ」  父親が即座に言った。  「消防車に放水でもされてみろ。ウチの雨戸なんかひとたまりもなくぶっ飛ばされて、店の品物が全部ダメになるじゃないか」  「火事で恐いのは火だけじゃないのよ。ウチみたいな商売じゃ、水だって恐いんだから」  「乾物屋とか呉服屋とか布団屋とかは、水がかかったら一巻の終わりっていう商売だからな」」p.212
・あとがきより「小説は、全身のコトバの筋肉を目いっぱい総動員しないと書けない。コトバの全身運動に、小説ほどいいものはないと思った。」p.220
・以下、解説(秋山駿)より「こういう描写の細部が光る。花かつをから粉かつをを作る手順(中学生の主人公の少年がそれをする)を述べたものだが、こんなことにはぜんぜん無智な私にも、その指先の感覚が、自分の身にも痛いように移ってくる。これが描写である。物語の情況説明や、ノンフィクションの記述とは違う。つまり、細部がそれ自身で生きているのだ。  近来の文芸誌小説=いわゆる純文学が見失ってしまったのが、この描写である。」p.235
・「日本の近代文学は、二葉亭四迷以来、なぜ「普通・平凡」を描く必要があるのかと問い、いかなる描写の手法を発揮すれば現実の真形に達するのかと懐疑し、夥しい苦労を重ねてきた。これが日本近代文学の正統の流れである。この小説の最初の二編における描写は、その正統な流れの末端に立っている。」p.237

?ルバシカ(ルパシカ)(ロシアrubaska)〈ルパーシカ〉ロシア民族衣装で男子が着用するブラウス風の上着、身頃は全体にゆったりとした型で、詰襟、前明きは左脇寄りで途中までボタン留めになり、襟や袖口などに刺繍(ししゅう)が施してある。
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【本】怒らぬ若者たち

2007年09月23日 23時27分40秒 | 読書記録2007
怒らぬ若者たち, 森清, 講談社現代新書 566, 1980年
・生産現場(工場)で働く著者から見た、"イマドキの若者" 論。自ら勤務する工場、キック・ボクシングのジム、ポプコン(ポピュラーソングコンテスト)の会場、街の盛り場、禅道場などに若者をたずねて、そこで語り合った内容を基に構成されている。
・現在と置き換えて考えてみても、そう違和感の無い内容。
・「働いている日本青年の国際比較によるきわ立った不満が「労働時間や休暇」にあるという現実は、日本の若者たちが企業(職場)に囚われ過ぎていると感じていることのあらわれであると同時に、もうひとつのことが言える。日本の労働倫理は「働きすぎること」をよしとする。この既成の倫理と順応して働きながら、そのことに強い不満を抱いているために若者たちは内心焦ら立ち、その反動で無気力になってしまうのである。」p.11
・「「自分の時間をもっと持ちたい」という叫びが、この怒らぬ若者たちの内奥の声として私には聞こえてくる。あらためてことわっておくけれども、ここでいう<怒らぬ若者たち>は、<怒れぬ若者たち>ではない。怒りを押し殺しての<怒らぬ>若者なのである。」p.12
・「社会人になるためのモラトリアム、それが大学の四年間である。」p.24
・「青年たちが結婚を延期しようと考えるのは、相手を尊重しようとするからではなく、重い人生を生きようとせず、人生をできるだけ軽く生きたいと思うからなのではないか、と私は疑う。重荷を負うことで<経験>は深まるのに彼らは、と私ははがゆく思う。(中略)<自分らしさ>をつかんでから、あるいは35歳になってからでも結婚などはいいのだ。ただ、そうすれば君のそれからの苦労は倍加するし、もし子供をもうけるとすれば子供にとっても苦労が重なる。それだけは承知しておかないといけない。それがわかっての話なら、ゆっくりしたまえと、私は言いたい。」p.27
・「早婚願望の青年は、母と妻のふたつの役割を満たしてくれる女性を自分のものとして所有し、そのことによって仮象の<自分らしさ>を得られたと思いこむ。」p.29
・「結婚しようと思わないのも、結婚したいと願うのも、そのどちらもがそうすることで<自分らしく>なれるのではないかと考えてのことである。」p.30
・「これからこの本でも青年と若者の二語をおりまぜて使う。<若者>と呼んだ時は、若い人びとを<青年>と呼ぶ不幸から私が脱せられたか、あるいは脱出の希望をこめて書いていると察して頂きたい。」p.36
・「現代人は子供が生まれ、徐々に自分の子供を介して社会と関係を保つようになる。被保護者から保護者への意識変化がはじまる。」p.39
・「心理学でいうアンビバレンス(ambivalence)、両面価値のなかで生きているのが<怒らぬ若者たち>=現代青年のきわ立った特徴だといえる。」p.42
・「青年たちが、自らのアンビバレンスに気付き、その上で<自分らしさ>を築く努力をしながら、また、時には<ひき裂かれ>もするという、強いやさしさを生きる時、彼は若者となるのだ。」p.43
・「もっともY君にかぎらず、学生・社会人・家庭人としてのペルソナ以外の裸の顔は、なかなか見せないのが現代青年の特徴である。」p.60
・「人間社会の日常は、さまざまな雑事や目立たない仕事で構成されている。(中略)ところで雑用といっても、そのひとつひとつは意味を持ち、重要な仕事を積み重ねていく上での接ぎの役目を果たすものだ。仕事らしく見える仕事は、雑用としか見えない仕事に支援されていなければ、まとめあげることができない。職人社会での修行は雑用をこなすことを第一歩としていた。  仕事のベテランとは、雑用に埋もれてしまわず、雑用を負担と思わずにうまく処理して本来の仕事を成功させる人である。(中略)それでも、仕事のできるベテランは雑用の処理が上手で、すべてを部下に任せきりにはしない。それは、雑用と思われるような仕事にも大事なことがしばしばひそんでいるのを知っているからである。」p.69
・「語学力だけではない。営業マンが市場分析力を持つとか、経理マンが金融の専門家、あるいは国際経済に通暁しているというように、個別技術の他にひとつ別の技術を持たないと現代の組織では死せる専門家となってしまう。」p.84
・「八ヶ月という、日本の企業人としては大型のモラトリアムを体験したQ君は、休職していた会社に戻った。会社へそのまま戻っていいのだろうか、他にすることがあるのではないかと考えもしたが、ともあれ復帰した。「今までは逃げることばかりで、自分のやっていることを考えてみることは少なかった。これからは、そのあたりをきちっとしたいと思っています」」p.94
・「仕事は人間をおとなにする。しかし現代の仕事は、人間が成熟しておとなになるのを助けるのではなく、組織に従属させるために人間を老化させる働きをしてしまうのである。」p.108
・「人間にとって大事なものは何かと問われてフロイトは、「愛することと働くこと」と答えたといわれる。その「愛することと働くこと」の大事さを知り、その充実について悩むのが青春の大きな課業(task)である。」p.132
・「私は、たとえ自分の本心を偽ってでも、その時々の愛を生きるのが人間らしいと考える。人間は、もともと偽りの世界を生きているのだから。」p.137
・「しかし、自分と対峙することの少ない人間は、自己への厳しさも他人への思いやりも薄くしか持てない。人間の内側への旅が人間の洞察力と寛容を養ってくれるのだ。坐禅とは、普通の人たちには人間の内なるものへのトリップ(小旅行)なのだといえよう。」p.196
・「「からだを根源的にとり返す」とは、人間が人間らしくなるということである。  禅もまた同じ試みである。本当のラディカリズムは、身体を自分で取り戻すことからはじまるのだ。  若者たちよ、背をのばせ。」p.204
・「「問題は『男ざかりを一日八時間くだらないことについやす』そういうことのためにおとなになるとは、どういうことなのか?」(ポール・グッドマン」p.207
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【本】アシモフの雑学コレクション

2007年09月19日 22時33分59秒 | 読書記録2007
アシモフの雑学コレクション, I.アシモフ (編訳)星新一, 新潮文庫 ア-6-4(3659), 1986年
(ISAAC ASIMOV'S BOOK FACTS, Isaac Asimov, 1979)

・アシモフがあちこちから集めた豆知識集。単なる事実の羅列にとどまらず、星新一の意訳によってショートショート的な要素も加わっている。一行ショートショートとでも呼ぶべきか。
・暇を見つけては一トピック(数ページ)ずつ読み進み、2ヶ月ほどかけて読了。
・「地上で最も低い場所は、ヨルダン川が死海にそそぐ河口。海面下四百メートル。」p.13
・「毎年、多い時は150トンの隕石が落下する。知られている限り、その死亡者は七人。」p.17
・「銀河系のなかで、太陽より大きい恒星は、5パーセントしかない。5パーセントといっても、50億だが。」p.19
・「木星の円周は地球の10倍以上だが、その自転は9時間55分。」p.19
・「皆既日食でわかる通り、地球からのみかけの大きさは、太陽と月はぴたりと合う。たぶん偶然だろう。ほかの惑星にはない。」p.20
・「ノーベル賞を受けたウォルド教授は「地球で生化学を学んでおけば、よその星でも通用する」と言っている。他星に生命が存在しても、科学的性質は基本的に同じだろう。」p.25
・「サハラ砂漠には1979年2月18日まで、雪の降った記録もいいつたえもない。この日、アルジェリア南部での30分の吹雪、交通がとまった。」p.34
・「アメリカでの自然災害による死者は、落雷によるものが一番多い。毎年、平均四百人が死に、千人が負傷している。」p.34
・「アマゾン川は大きく、地上を流れる淡水の五分の一に当る。その流域の面積は、アメリカ合衆国に近い。」p.38
・「一つのハリケーンの十分間の活動は、1979年における世界中の核兵器と大差ないエネルギーである。」p.41
・「地球に当っているのは、太陽の放出しているエネルギーの、二十億分の一。しかし、その数日分は、地球上の石油、石炭、木をすべて燃料にしたのとほぼ同じ。」p.43
・「錬金術で鉛を金に変えることが成功していても、利益は上がらなかったろう。量がふえれば、価値も下がるのだ。」p.45
・「非常に細い金糸で織った布が、ゴールド・ティッシュ。そのあいだにはさむための紙が、ティッシュ・ペーパー。いまは意味がひろがったが。」p.45
・「宇宙で最も多い化合物は、水。」p.48
・「地球上に存在したすべての生物の、九十九パーセントが、すでに絶滅している。」p.49
・「盲導犬は、赤と青の信号を識別できない。車の流れを見て、安全と判断して渡る。」p.58
・「コウモリは、飛べる唯一の哺乳類。ムササビもフクロネズミも、滑空するだけ。」p.59
・「哺乳類では、大型のほうが長く生きる。その例外が人間。理由は不明である。医学の進歩だけではないようだ。」p.61
・「アメリカの霊長類研究所で、十七組のゴリラの母子を観察した。母と子の二匹だけを檻に入れると、母ゴリラは必ず子を虐待する。  グループで生活させると、子に母親らしい愛情を示す。」p.61
・「コアラはユーカリの木だけで生きている。ほかは、なにもいらない。水さえも。」p.63
・「史上最大の動物は、シロナガスクジラ。体重二百トンにもなる。最大の恐竜の二倍に近い。」p.65
・「魚も船酔いする。ガラス鉢を人工的に揺らせたら、金魚が船酔いになった。」p.67
・「クジラは眼球が動かせない。横を見るには、巨体を動かさなければならない。」p.67
・「多くの鳥は、地面におりている時は鳴かない。飛ぶか、なにかにとまっている時に鳴く。海辺の鳥は、いくつかの例外はあるが。」p.70
・「レタラックが1969年にした実験で、音楽と植物の発育の関係が判明した。ロックの音楽は成長をさまたげ、変形をひきおこす。クラシックだと、害を受けない。」p.72
・「地球上の植物の85パーセントは、海中で生きている。」p.73
・「足の冷えるのを防ぐには、帽子がいい。からだの熱の八割は、頭から発散している。」p.75
・「角膜は人体のなかで、血液を要しない唯一の組織。酸素は直接、空気中から摂取する。」p.76
・「肝臓は八割が切除されても、機能をつづけ、三ヶ月ほどでもとの大きさに戻る。」p.77
・「死体の動脈は、血がなく、からっぽである。古代ギリシャの医学者は、空気の流れるものと思った。」p.79
・「いかなるガンにもならない集団が、世界に一つだけある。カシミール北西部の、フンザ族。長寿でも有名である。」p.81
・「脈での診断は、何千年も前の中国で発達した。身体の十一の部分で、五十一種の脈を判断でき、健康の障害がわかるとされた。」p.85
・「世界に二百五十万人の医者がいるが、能力はべつとして、そのうち五分の一はロシア人である。」p.86
・「ミシガン大学の二人の伝染病学者の研究によると、高等教育を受けた者ほど、カゼをひきやすい。」p.88
・「アインシュタインの脳は、グラム単位に分解され、分析が進められている。」p.90
・「一分間に、100人が死に、240人が生まれている。つまり、世界の人口は、一分で140人増加する。」p.104
・「2500年ほど前、ギリシャの歴史家ヘロドトスは、カイロのそばの三大ピラミッドを訪れた。見物人は、観光客ばかり。その当時、すでに二千年以上も古いものだったのだ。」p.111
・「ローマ人をふやそうと、シーザーは子の出産に奨励金を払った。子のない女性は、カゴに乗ることも、宝石を身につけることも許されなかった。」p.116
・「エッフェル塔は、高さ三百メートル。しかし、気温によって15センチの変化がある。」p.122
・「シーザーの名は、支配者の呼称として長く使われた。オーストリア・ハンガリー皇帝たちは、カイザー。ロシアの皇帝はツアー。いずれもシーザーの変化したもの。」p.128
・「アメリカの大統領は、本人の同意がないと逮捕されない。」p.135
・「ひとりっ子で大統領になった者は、いない。」p.137
・「メキシコのアステカ族は、毎年、人口の一パーセントの25万人ちかくを、神への犠牲とした。死体は、タンパク質の不足しがちな民衆に食べられた。」p.151
・「12月25日がクリスマスとして祝われるようになったのは西暦440年以後。」p.161
・「イエス・キリストは、知られているのより四年から八年ほど前に生れた。ユダヤのヘロデ王の治世に生れたとされているが、その王は、イエス誕生とされる時より前(紀元前四年)に死んでいるのだ。だれかの計算ちがいだが、もう訂正もできない。」p.163
・「ユダヤ教、初期のキリスト教では、一日は日没からはじまった。クリスマス・イブとは、本来、クリスマスの一日の前半である。」p.165
・「世界で最も古い長編小説『源氏物語』を書いたのは紫式部(978-1026)である。その日記にも書かれているが、当時の日本にはすぐれた女流作家が多くいた。惜しくも作品が残っていない。  11世紀以後は、仏教の影響で、女性の地位が低くなってしまった。」p.168
・「ユダヤ人の大量処刑の責任者アイヒマンは、イスラエルでの法廷で、ヒトラーの『わが闘争』を読んでないと断言した。ナチの幹部たちも、同様だった。みな、退屈なものと敬遠したのだ。」p.172
・「世界一の美術館は、レニングラードのエルミタージュ。三百万ちかい美術品があり、322室、全部をまわると、25キロ。」p.176
・「描いた絵が気に入らず、それを消しながらピカソはつぶやいた。  「十万フランなのだがな」」p.179
・「明白にアメリカ産のスポーツは、バスケットボール。1891年、マサチューセッツ州の現スプリングフィールド大の体育教師ネイスミスが考案した。」p.186
・「初期の野球のルールでは、どっちのチームが先に21点をとるかだった。」p.187
・「ピョートル大帝は妻の浮気の相手を処刑し、その頭をアルコールづけにし、びんに入れた。妻はそれを寝室に置かなければならなかった。」p.204
・「伝説めいているが、ニュートンとリンゴの話は本当である。本人の説明によると、リンゴの落ちるのを見たあと、空の三日月が目に入った。月にもリンゴを落とす力があるのではと考え……。  リンゴが頭に当ってというのは、だれかの創作が加わったものだ。」p.211
・「アインシュタインの最期の言葉は、永遠のなぞ。つぶやいたのはドイツ語で、そばにいた看護婦は英語しかわからなかった。」p.212
・「普通の爆薬は原子が反応するので、原子爆弾と呼べる。いわゆる原爆は、核の反応によるものなので、核爆弾と呼ぶのが適当だ。」p.237
・「極度の恐怖でも、どんな理由でも、一晩で白髪に変ることはない。」p.237
・「最後の晩餐を描いた絵は多いが、机の上にオレンジがあってはおかしい。キリストが死んで先年ほどたって、中国から地中海沿岸に種子と栽培法が伝えられた。」p.241
・「アイスランドでは、一人あたりの読書量は世界一。」p.267
・「世界で最も多い名前は、中国風のチャンでもなく、英語風のジョンでもない。モハメッドである。」p.268
・「火星を表す記号は♂、金星は♀だが、オスとメスの区別にも使ったのは、リンネが最初である。」p.269
・「万里の長城は、北方からの侵入を防ぐ。その気になれば、はしごで簡単に越えられる。しかし、馬は越えられない。北の連中は、馬なしだと、とるにたらない相手なのだ。」p.293
・「人間の多くは、誕生日後に死亡率が高くなる。社会学者のクンツは、1975年にソルトレイク市の新聞にのった死亡広告から、無作為に選んだ747件について調べた。  その結果、46パーセントが誕生日から三ヶ月以内に死亡し、六ヶ月以内となると77パーセントとなることが判明。誕生日前の三ヶ月以内では、たったの8パーセント。  内心で、誕生日をひとつの目標にしているのかもしれない。期待の日がすぎると、緊張がゆるみ、体調に影響するのか。」p.309
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【本】認識とパタン

2007年09月15日 22時20分55秒 | 読書記録2007
認識とパタン, 渡辺慧, 岩波新書(黄版)36, 1978年
・平易な語り口ながら内容は骨太。「パタン認識」に関わる人間必読の書、と言ってもいいくらいの素晴らしい本だと思いますが、新書としては内容がやや高度で一般受けしないためか、残念ながら現在絶版。
・30年前も今もたいして問題は変わっていないのが驚き。
・「パタンという言葉は最近では日本語の中に完全に定着してしまいました。しかし、この言葉に定義を与えることは、欧米人にとっても、日本人にとってもさほど容易なことではありますまい。私はこの小冊子の中でこの言葉に簡潔な定義を与えることを目的とはせず、その観念が現れて来て一役を演じる科学的・哲学的な文脈を記述して見たいと思います。」p.i
・「こういう言葉の用法を見ておりますと、二つのことに気がつきます。一つにはパタンというのは、ものの在り方が、無秩序、乱多(ランダム)でなく、何か形を整えていることを指していることです。第二に、それは他の事例と共通した何かを持っていて、一つの類型と見なされることです。」p.2
・「この事例は、パタンというものは必ずしも、外界から人間にくる物理的刺激だけで決まってくるものではなくて、個々の人の見方にもよるということを示しております。」p.4
・「そういうわけで、パタンを見るということは、大体、何々を何々と見なすということに相当しているといってよいでしょう。」p.9
・「パタン認識」というのは、要するに、個物のパタンを言いあてるということで、特にこれをコンピューターにやらせるときに用いる用語です。」p.13
・「これでパタン認識をやっている技術者が、「世の中のことでパタン認識でないものはない」と豪語するのも、あながち手前味噌ともいえないことがわかっていただけたかと思います。しかし、この豪語をそのまま額面どおりいただくわけにもいきません。この本では、どういう意味で「すべてはパタン認識である」といえるかを考えていくことにします。」p.22
・「パタン認識の英語に RE cognition という字がいつも使われているのが意味深長です。もちろんレコグニションというのは「認める」という意味ですが、そこにある RE にこだわれば「再認識」と訳しても誤りではありますまい。」p.26
・「実際に役に立つパタン認識とは、分類の実例をもとにして新しい実例を分類することにほかなりません。」p.30
・「一体、不思議なことは、子供でも、大人でも、文明人でも、未開人でも、何でも物の画を画けというと必ずその物の輪郭を画きます。輪郭などはありはしないのになぜまず輪郭を画くのでしょう。」p.44
・「この五種以外に、非常に信号速度の速い一群の繊維があり、その特徴は、他の繊維では信号が目から頭に向かって伝わっていくのに反して、逆に頭から目に向かって伝わっていくことです。その役割はわからないながら、何か「カント的」な解釈を許しそうであります。」p.62
・「哲学の歴史では、そういう「類」をどう見るかという問題について、だいたい三つの種類の立場が認められております。一つには、類というものが実在するとする立場、これを「実念論」(realism)と申します。その逆の立場は、机とか犬とかいう類そのものは実在するのではなく、単に「名前」にすぎないとする唯名論(nominalism)です。その中間にある立場は、類というのは我々を離れて実在するものでもなく、また単に便宜上の言葉の使い方でもなく、類は我々の意識の中にある「観念」「概念」であるという立場で、普通、概念主義(conceptualism)とよばれております。哲学の歴史、特に古代・中世の歴史はこの三者の三つどもえの論争の歴史であるといっても過言でないということもできます。」p.73
・「醜い家鴨の仔の定理 「二つの物件の区別がつくような、しかし、有限個の述語が与えられたとき、その二つの物件の共有する述語の数は、その二つの物件の選び方によらず一定である」」p.101
・「パタン認識には二種の問題があって、その一つは、「新しく類を創造すること」すなわちクラスタリングであり、第二は「知られた類に分類すること」すなわちパタン・レコグニションであるとは前に申し上げました。」p.108
・「どんな方法でも、パタン認識の仕事をしてみるとすぐ気がつくことですが、一般に点の数が少なすぎて、次元数が多すぎるということでこまるのです。点の数のほうはできれば増やすことができますが、次元数が多すぎるのはどうもちょっと手がつきません。この問題が出発点となって私がやったことの荒筋をお知らせしましょう。」p.139
・「その方法は私が始めたもので、SELFICという名をつけて1963年にチェコスロバキアのプラハで発表したのです。今では常套手段となってしまって、それがSELFICという名前を初め持っていたことも、私が初めて導入した方法であることも忘れられ始めています。しかし、いまでも私の原論文を引用してくれる良心的な著者もいます。」p.140
・「しかし、情報過剰は現代になって始まったことでしょうか? また進化の過程で人間ができてから始まったことでしょうか? 私はある意味では生命が生まれて以来情報と闘ってきているようにさえ見えます。生物に環境から降りかかってくる情報を運んでいる物理的刺激は無限に近くあります。生物の感覚器官は、情報を感受するその能力に感心するより、それがいかに不用の情報を捨ててくれるかに感心すべきようにさえ見えます。」p.174
・「コンピュータは論理的推論はできますが、帰納的推論はできません。(中略)これに反して、人間は本質的に帰納的です。人間に帰納ができるのは、人間における観念は、パラディグマ的象徴によって成立しているからです。人間の観念は、ですから常に帰納的一般化の準備があるのです。」p.183
・「人間の言葉の人間の思想における重要性は、最近の哲学的傾向にも明らかですが、人間の言葉が抽象的な概念を代表しているという考えは大変な間違いです。言葉というものは人間のパラディグマ的象徴を代表したものであることを銘記すべきだと思います。」p.186
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【本】飛ぶ教室

2007年09月10日 23時01分52秒 | 読書記録2007
飛ぶ教室, エーリッヒ・ケストナー (訳)山口四郎, 講談社文庫 け-4-2, 2003年
(Das Fliegende Klassenzimmer, Erich Kastner, 1933)

・児童文学の名作。親元を離れ寮で生活しながら高等中学校に通う仲良し五人組の物語。季節はクリスマス。自作の芝居『飛ぶ教室』を軸にしたストーリー。
・特に強く何かを想うでもなく、「ふ~~ん、こういう話なんだ~」で読了。
・「子どもだって、ときにはずいぶん悲しく、不幸なことだってあるのだ……。20世紀初頭。孤独なジョーニー、頭の切れるマルチン、腕っぷしの強いマチアス、弱虫なウリー、風変わりなゼバスチャン……個性溢れる五人の生徒たちが、寮生活の中で心の成長を遂げる。」カバー
・「ジョーニーが書きおろし、みんながクリスマスのお祝いに体育館でやろうとしていたこのしばいは、さっきもいいましたが、『飛ぶ教室』という題のしばいでした。それは五幕もので、いわば予言的な?といってもいい作品でした。つまり、学校の教育は、将来どんなふうにおこなわれるか、ということを書いたものでした。」p.35
・「半額給費をうけて奨学金をもらっているけど、あいつはだれのいいなりにもならない。相手が最上級生だろうが、教師だろうが、東洋の王さまだろうが――自分が正しいとなれば、まるで、野生のさるの群れみたいにふるまうもんな」p.66
・「「すべてわるいことをしたばあいには、それをやった者ばかりでなく、それをとめなかった者にも責任がある」」p.146
・「どんな人間にだって、欠点と弱点のあることをぼくは知っている。問題はただ、そうした欠点や弱点を、人に気づかせないということだけなんだ」p.172
・「「人間は、恥を知っているほうがいいとぼくは思うな」」p.172
・「わたしはまた諸君に、勇気にしろ、また勇気のないことにしろ、これを表面にあらわすには、できるだけ人目にたたないようにやってもらいたいと思う。」p.183
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【本】相対論対量子論 徹底討論・根本的な世界観の違い

2007年09月05日 22時14分25秒 | 読書記録2007
相対論対量子論 徹底討論・根本的な世界観の違い, メンデル・サックス (訳)原田稔, 講談社 ブルーバックス B-1268, 1999年
(Dialogues on Modern Physics by Mendel Sachs 1998)

・まずは本書よりこちらの一節を。「君のいまの話では、別に量子力学の基本構造を変えることにはならないよ、マニー。君の話は、依然として線形空間に基づくものだけど、これは観測理論としての量子論で出てくるタイプの確率論にうまくフィットする構造をもつものだからね。いま言った非線形演算子を採り入れると、量子論の波動を表す解の中味は変わってくると思うけど、いまの話は依然として従来のヒルベルト空間に基づいている。つまり、ミクロな物質の基本法則を表す確率論の話になっているんだよ。」p.148 この会話をすんなり理解できる人間が、果たしてこの世に一体どれだけいることか。易しい内容を想像して手に取った本ですが、ブルーバックスにあってはこれまで読んだ中でも屈指の難易度でした。興味をひかれる話題がないこともないが、これはしんどかった。
・過去、プラトンやガリレオが用いた『対話』形式にならい、マニーとモーとジャッキー、三人の物理学者が論を交える。
・議論が白熱するとこんな内容でもつかみ合いの喧嘩になるのでしょうね。周りの一般人は喧嘩の内容が理解できず、( ゜д゜)ポカーン 想像するとちょっと可笑しい。
・「二〇世紀において科学史上特記すべき出来事は、量子論と相対性理論という科学思想における二つの大発見が同時になされたことである。というのも、過去において、科学的革命は一時期に一つしか起きてこなかったからである。」p.5
・「科学するということは、実験事実に基づいて合理的思考を進め、自然の背後に潜む真理を発見することだわ。これは、プラトンの洞窟の隠喩と同じ考え方よ。」p.29
・「ねえ、君たち、学生になんて話したらいいのか、教えてくれよ。  マニーとジャッキー(声を合わせて) 両論併記のかたちで、議論のすべてをありのままに教えて、どちらをとるかは、自分たちで考えるように言ったらいいよ。」p.31
・「マニー、君は本当に光の正体がわかったと思っているのかい? アインシュタインは生涯をかけて研究した後で、「光については、目に映る以上のものがある」と言ってるけど。」p.34
・「宇宙は完全な秩序に支配されているという考えも説得力をもっているし、無秩序が宇宙の真の特徴として基本的なものだという考えもまた説得力がある。」p.47
・「必然的真理というのは、述べられていること以外の主張が成立する可能性が完全にゼロであるような言明のことなんだ。つまり、最初から正しさが保証されている自明な言明だ。たとえば、2+3=5というとき、整数の定義と「足し算」という定義に基づけば、これ以外には起きようのない結論を述べていることになる。この和の結論に関しては、反駁の余地はまったくない。しかし、科学的真理は、このような約束事の上に成立するものではなく自然との照合によって成否が判定されるものだから、常に反駁の余地を残しているんだよ。」p.66
・「いま言ったような解釈をすれば、相対運動している基準系間の時間と空間の変換は、任意の基準系に準拠した物理法則がすべて一対一の対応関係を維持するために必要な目盛りの変更にすぎないということになって、相対論にはなんの論理的パラドクスも現れないことになるわ。」p.70
・「いずれにしても、私たちは信念に基づいて行動すべきよ。誰であろうとも、信念に基づかない認識を主張するのは完全に間違っているわ。」p.73
・「そのとおりだ、モー。ジャッキーと僕とでは、「科学」という言葉の定義が違っているようだね。この違いは、科学の研究が自然認識をどこまで深めることができるか、という点に関係しているように、僕には思えるな。科学は、自然現象をできるだけ簡潔に記述するのが役目であってそれがすべてである、というのが僕の主張だよ。ところが、ジャッキーの考えでは、このような自然界のデータの簡潔な表現は、このデータの背後にあるものを理解するための単なる一ステップにすぎないというわけだ。」p.77
・「『新科学対話』に出てくる「自然界のどんなにささいな現象を見ても、最高に優れた理論家でさえ完全に理解することは不可能だ」というガリレオの言葉を読んだことがあるけど、これは自然界のいかなる現象の場合でも、それに対する認識は無限の奥行きをもつものだということだろう。」p.136
・「数学の公理の設定は、完全に私たち人間の勝手に任されているものよ。数学的真理は、発見されるものではなく、私たち人間がつくるものなのよ。これに対して、科学的真理は、発見される性質のものだけど、いつまで経っても確定的に証明されることはないわ。実際、いかなる物理現象の背後に潜む真理も、決して確定的に理解しうるものじゃないと思うの。」p.144
・「結局、僕たちはまた「科学とは何か」という問題に戻ったことになる。いったい、科学とは何なのだろうか。自然に対するもっとましな記述方法を探ることなのか、それとも自然を説明することなのか、どっちだろう。」p.151
・「僕たちは科学者として、学生はもちろん社会に対しても、基礎科学の唯一の真の目的が、宇宙のあらゆる分野の現象に対する理解を認識そのもののために――応用などを意識せずに――深めることを明らかにしていく必要があるんだよ。」p.155
・「私の考えでは、重要な科学者というのは、重要な問題を提起することができ、その解答を自ら探っていくことができる人のことよ。ここで一番難しいのは、何が重要な問題であるかを見極めるということなの。つまり、その問題を解決することにより、物理現象に対する理解が深まるようなものでないとだめなのよ。」p.163
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【本】私は女性にしか期待しない

2007年08月28日 23時23分18秒 | 読書記録2007
私は女性にしか期待しない, 松田道雄, 岩波新書(新赤版)109, 1990年
・男としてはどうも引っかかる書名。「ごめんなさい」と謝ってしまいそうです。特に女性の人権問題に興味があったわけではなく、面白かった前出『私は赤ちゃん』の著者だったのが、本書を手にとった大きな理由です。内容は書名のとおり、老境に入った著者が、住み良い社会を作るためには、もう男に対してはどうにもならんと絶望し、残る希望は女性のがんばりのみ! という思いを、2ページ読み切りの短編形式で書きつづったものです。私などが読むよりも主婦の方のほうがより共感が大きいのではないでしょうか。
・独断的意見が多く、論の展開が多少乱暴な感じ。
・「(貝原)益軒はつづけています。  「音楽をたのしんだり、習ったりしてはいけない。これは女の心をとろけさせるものである。ゲームや遊びを好んではいけない。神社や寺など、すべて人のおおく遊びにいく所は、四十歳にならぬ間は、むやみにいってはならない」(『女子を教ゆる法(和俗童子訓)』)」p.2
・「生命が尊いのは、生きるか、死ぬか、をきめるのは本人だけの権利で誰にもゆずれないからです。この権利を人間であるかぎり、能力と関係なしに、平等にもっているのが、デモクラシーです。」p.9
・「日本でデモクラシーがうまくいかないのは、身内でないものは、赤の他人だといって差別するからです。」p.13
・「神仏を信じるのには、人間の弱さをとことん知らなければなりません。無力な人間は、人間をはるかにこえた、絶対の存在を信じないと、安んじて生きていけないと思うのが信仰です。」p.20
・「そういうながい年月をかけて仕込まれた男の子は、おとなになって、男女平等論をきかされても、ライフスタイルをかえることはないでしょう。」p.25
・「母性愛があると同じに、父性愛がなければなりません。  もし母性愛のほうが、父性愛より強いようにみえたら、それは生物学的にそうだというのでなく、社会がそうさせたのです。」p.29
・「イギリスやアメリカの企業と、日本の企業とは、たいへんちがいます。  企業に人をやとうとき、むこうは仕事のできる個人と契約します。(中略)日本では就職は縁組みです。企業というイエの一員にしてもらうのです。仕事をするうでは企業がつけてくれます。」p.32
・「私どもは結婚式なんかしなかったなどといっても信じてもらえません。彼女たちには、結婚式が女であることの証明なのです。」p.39
・「彼女たちに耐えられないのは、男たちの教養の低さです。働かされすぎで、本もよめず、絵画展も演劇もコンサートにも行く暇はなく、大学で習ったことを忘れたところを、スポーツ紙と週刊マンガが埋めているだけです。何よりも、自由な女が感じる権力の重みを感じません。私の学生時代、権力に違和感のない人間を俗物といいましたが、男たちは、まさに俗物です。  こういう人とカップルになっても、共通の話題はないでしょう。こんな男のために、仕事をすてて、無給の家政婦や保母に転業しようという気がおこらなくても、むりはありません。」p.43
・「人間の歴史のなかで、これほど誘惑が洗練された時代は、ありません。  コマーシャルがあるから、たくさん商品をつくって、たくさん売ることができるのです。」p.52
・「幼児のことばのおくれは、世界的な現象で、テレビのいきわたるのと比例しています。」p.57
・「企業からの献金を選挙資金にして当選した議員たちのつくる政府ですから、企業に都合の悪い制度はつくりません。」p.63
・「離婚の理由は結婚の理由より明確なものです。結婚は十分に知りあっていない2人が、惚れあって結びつきますが、離婚は十分に知り合った2人が、かんがえたうえで離れるからです。  結婚は情動によりますから、ためらいませんが、離婚は理性によるだけ、ためらいます。」p.68
・「性格の不一致といわれますが、実は教養のギャップができてしまったのです。企業が夫を働かせすぎるので、家庭の団欒の時間がなくなってしまい、あたりまえなら団欒に過ごす時間が、妻だけの教養についやされたからです。」p.69
・「自分に経験のない共ばたらきを男が約束しても、額面通りには、うけとれません。」p.73
・「70歳から80歳までをたのしく生きるためには、その年齢になるまでに、人生に空白をつくらない方法を身につけておくということです。」p.95
・「タバコの害が、これほど確実な情報として流されている時代に。タバコを吸う吸わないは、テストとして役にたちます。(中略)男のテストになるだけではありません。妻である女のテストにもなります。最愛の伴侶の肺ガンをふせごうとしないのは、これも愛情を疑われても仕方がないでしょう。」p.99
・「時代が変わってきたのに、男が変わってくれないので、外で働く女は、三重の苦しみをうけねばならなくなりました。  母として子供を育てる重荷、妻として夫の世話をする重荷、男とならんで仕事をする重荷の3つです。」p.104
・「「頭を切りかえないと結婚してあげませんよ」  といって、女が結婚ストをやっているのです。35~39歳の男の未婚率が、75年に6.1%だったのが、85年に14.2%になった(国勢調査)のは、その結果でしょう。」p.111
・「次の時代をになえる人間をそだてるのが、家庭の、いわば社会的な機能です。  家庭には、もうひとつ私的な機能があります。それは家庭をいとなんでいるものの気を休めることです。家庭は、そこに帰ってほっとする場所です。」p.114
・「人間としては欠陥があっても、耐久力があって従順な人間でさえあれば、企業や官庁は、それでいいのです。官庁や会社のしきたりと管理に、おとなしく従ってくれればいいのです。」p.117
・「育夫は育児よりも、むずかしいものです。子供は成長して、たえず新しい環境に適応して変身しますから、ほうっておいても独立してくれます。だが50歳の男は、容易に変身しません。」p.120
・「人類を救うものは、禁欲の精神しかありません。現代の禁欲は企業への個人の抵抗です。」p.135
・「憲法はアメリカが日本に押しつけたものではありません。明治から昭和にいたる政治の被害者の声なき声が日本にこもっていたのが、地球をおおうデモクラシーの波と共鳴したのです。」p.151
・「「性的いやがらせ」ということばがはやりますが、企業の中の男たちが「性的犯罪」というべきものを、ごまかすためにかんがえだしたのです。企業のそとの市民社会なら「わいせつ」とか「強迫」になるのを、企業のなかでは、単なるいやなことで、犯罪でないといいたいのです。」p.168
・「工場のような生産の場を、自分の財産としてもっている金持ちが、労働力よりほかに売るものをもっていない貧乏人をやとって、そこそこ食べていけるだけの賃金しか払わないで、賃金よりはるかに高い商品をつくらせて、金をもうける仕組みを、経済学者は資本主義といっています。」p.170
・「体育の先生は、これは半世紀も前からもそうでしたが、他の学科を教える先生たちにコンプレックスをもっているのです。」p.189
・「(赤ちゃんの)「小食」も「偏食」も医学的には、まったく無害で、それをなおそうとするときだけ害を生じます。医学的に無害なものを、なぜなおそうとうするのでしょうか。」p.190
・「日本社会で生きていくには、エリート大学をでないでもかまいません。中学から上は、社会でふつうに生きていくのに必要な、最小限の「単位」をとればいい教育にかえるべきです。」p.193
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