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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】人間にとって科学とはなにか

2007年11月18日 20時55分26秒 | 読書記録2007
人間にとって科学とはなにか, 湯川秀樹 梅棹忠夫, 中公新書 132, 1967年
・日本の誇る『知』の巨人、二人が、これまた巨大なテーマに挑んだ対談録。あとがきの梅棹氏の言葉に「先生は大物理学者であり、私は未完成の人類学者である。」とあるように、今でこそ『巨人』ですが、対談当時梅棹氏は47歳で『知的生産の技術』を出す前なので、今ほどの知名度は無く、世間的にはブレーク前の頃かもしれません。
・日本の文化遺産と言ってもいいのではないかというほどの内容ですが、そんな本でも現在絶版。日本の出版制度に問題があると思わずにはいられません。私が知らないだけで同様の本がたくさんあるのでしょうね。近年の新しいタイプの古本屋の出現は、そんな読者の不満をカバーするという点で意義のあることではないでしょうか。
・中国古典からの引用多数。
・「もともと私の厭世思想は老子や荘子に結びついていた。ところが老子や荘子の思想は、一方において、すぐれた自然哲学でありながら、同時に最も根源的な意味における科学否定論でも会った。好奇心などあるから、まずいことになるのだ。それを捨てなさい。情報量・交通量がふえるから、うるさいことになるのだ。隣の村との通信・交通もしない方が賢明なのだ。二千何百年か前の、こういう主張が、二十世紀後半の科学文明の中に生きる私たちにとって、他のあらゆる主張にもまして、痛烈なものになってきたのである。」p.iii
・「量子論をつくりだした物理学者マックス・プランクが、繰り返し使った言葉に、「人間からの離脱」というのがあります。」p.5
・「老子の最初に「道の道とすべきは常の道にあらず」とありますが、これを曲解すれば、――あるいは正解かも知れんが――二十世紀の物理によくあてはまる。」p.8
・「十七世紀のデカルトは、まず自明なものから出発せよといっている。だれが考えても、どうしても否定できない自明なものをまず正確に把握して、それを原理として、そこから演繹論理・形式論理を発展させ、だんだんとほかのことを理解してゆくのがよろしいのだというわけです。」p.9
・「湯川 物質とかエネルギーとかいう概念に入っていないものとして、重要なものがいろいろある。中でも、従来の物理学の領域に比較的近接しているもの、一番つながりがありそうなものは「情報」です。」p.17
・「一般的にいえば、ある一定の「知識」――この知識という概念は大変くせもので、再検討を必要とすると思いますが――とにかくある知識を所有しているものが、それを所有していないものに与える。それが情報でしょう。  もっとも一般的な形で情報に定義を与えるとすれば、これはたいへんむつかしいことになるでしょうが、私は、可能性の選択的指定作用のことだ、というようないい方も考えてみています。たとえば、われわれが日常使うような意味の情報も、実は「ああ考えられる」「こうも考えられる」というふうにさまざまな可能性があるときに、そのさまざまな可能性の中で、「実は、これがそうなんですよ」と、一つの答えを選択して与えてくれるもの、それが情報ということの、もっとも一般的な性質ではないかと、私は考えているのですが……。」p.18
・「湯川 このエントロピーというのは「だんだんと増えてゆくことはあるけれども減ることはない」という特徴をもった一種の物理量です。「際立った状態からだんだんとありふれた状態に移ってゆく傾向」を「エントロピーが増える」というふうに物理学では表現している。」p.20
・「生物というものは、存在すること自体が情報であるというところがある。「もの」であると同時に情報であるという存在です。」p.25
・「情報というものの持っている性質はいくつかあると思うのですが、一つ大事なことは、ジェネレーティブ generative だということです。生みだす力です。なにか「型」のようなものがあって、そこにものを詰めこんだら、同じものがいくらでも出てくる。そういう、ジェネレーティブな性質を持っている。」p.30
・「私の知っている限りでは、いままでの物理学は死んでいる世界の話なのですね。少なくとも生命というものを問題にする必要のない世界の話なのですね。それに対して、生物学の世界は、生命のある世界の話です。この二つがどう結びつくのか。それが長い間の問題だったわけです。」p.32
・「いまの科学は、実際のところ、人間を問題にできるようなものじゃない。」p.37
・「実は、私は、大切なのは「納得」ということだと思うのです。」p.42
・「梅棹 意味を伝えるということは、自分とは異なる情報体系をもっている他人から発せられたものを、受け手の方が、みずからの体系の中に、いかに組みこむかということでしょう。組み込み方が大事なのであって、うまく組み込めないというのは納得がゆかんということですよ。」p.47
・「梅棹 科学というものは、いろいろな人間の持っているいろいろな体系の中に、強引に新しい情報を組みこませるためにできた、かなりうまいシステムだ。科学は、一定のトレーニングを経さえすれば、だれにでもかなり大量の情報を組みこませることができるシステムです。」p.48
・「しかし文章が相当に効いてきますね。効いてくるというのは、よそに対して効くだけでなく、その人自身にとって重要なことじゃないかと思うのです。」p.49
・「梅棹 私は数の起源は動物の個体性にあると思うんです。数は物理的には出てこないのではないですか。」p.53
・「湯川 人間はイメージを非常によく利用する。とくにそれを図式化することがありますね。たとえば仏教でいうと曼陀羅。」p.62
・「いわば科学が次々と出てくるのは、人間存在の根本原理としての一種の生殖作用の延長ではないか。」p.74
・「人間はだいたい人生に目的を持っている生物です。サルはサルの生涯において、目的を持っているであろうか。これは大問題だと思うんです。」p.76
・「科学の中にも目的がある。さっきは子供を産むことに目的はないというたけれども、科学を生むことに目的はないというたけれども、やはり固有の目的、子供は生むために生むのだという固有の目的みたいなものがあって、子供はやはり上手にしっかりと生まんならん。なにかそういうことがあるように思うんです。」p.86
・「梅棹 「人間にとって科学とはなにか」を問題にするならば、対比的に「人間にとって宗教とはなにか」ということももう一つ考えてみなければならないでしょう。これを対比して考えると、科学の特徴がはっきり出てくるかもしれないと思います。」p.93
・「一つは小説を書くというのは、結局九十パーセントまで勇気の問題やね。自分の中の障害を突破して書く。これをしなきゃいかんでしょう。一種の捨身ですわね。」p.94
・「科学というのは、一種の自己拡散の原理である。自分自身をどこかへ拡散させてしまう。自分自身をなにか臼のようなものの中に入れて、杵でこなごなに砕いて粒子にしてしまう。それを天空に向って宇宙にばらまくような、そういう作業だということです。自分という統一体をなくしてしまう。」p.95
・「科学がそういう迂遠な理論に走って日常性を欠いていることに対して、非常に強い批判が一方では出てくるけれども、その批判に対して科学は必ずしも直接的な答えを出せないと思うんです。どっか離れたところがある。」p.97
・「梅棹 もし「人間にとって科学とはなにか」という問いかけが、科学の直接の応用とか、どういう効果をもたらすのかということを問題にしているのだとすれば、科学というものは本質的に無意味なものだという答を出さざるを得ないことになりかねないと思うんです。」p.98
・「湯川 科学者をつき動かしているのは、これは、やはり執念ですね。」p.103
・「梅棹 自分自身を客観化する、あるいは関係それ自体を客観化してゆくことが事実起こりつつある。「関係」を対象とする科学が出てくるかも知れません。」p.125
・「湯川 最近、科学の客観化、相対化という傾向がいちじるしくなっているように思えるのです。科学が絶対的なものでないという意識が強くなった。」p.126
・「科学はつねにわからんことを前提にして成り立っている。わからんことがいつでもたくさんある。ところが宗教は、原則としてわからんことがないんです。宗教には、初めにまず説明があると思うのです。科学は、なんでも説明するものだというふうに一般に考えられているけれども、逆なんですね。宗教こそ、なんでも説明する。その説明が宗教への確信を支えている。科学は、なにか確信的でない。科学というのはつねに疑惑にみちた思想の体系なんですね。」p.128
・「当為性というのは、一種の変圧作用です。変圧器が作用するんです。そこでボルテージが上がりよる、生命のボルテージが。生命の流れという全体を全体にした上で、自分のところで変圧器を使うて、そのすべてのエネルギーをこの一点に凝縮して、ボルテージを高めるということです。それが「生きている」ということの一つの内容です。  科学はこれとは違います。「当為」に対する「認識」、これは科学の本質でしょう。(中略)「当為」は自己凝縮の原理、「認識」は自己拡散の原理です。」p.135
・「科学というものは、社会的にいえばある特殊な階層の人、個人でいえば特殊なアドベンチャラーズ、精神的アドベンチャラーズの独占物ではなくなってきた。大衆科学時代にきている。それと同時に、科学がもともと持っていた野性味みたいなものも、また失われつつある。科学の創造力が弱ってくるということかもしれない。」p.141
・「アヘンは非常に不完全なくすりで弊害の方が大きくてだめですが、将来、もっと手のこんだ楽しいくすりがいろいろ出てくるでしょうね。いまはビタミンとかホルモンとか飲むけれども、そんなのよりも、人間の心理状態に非常にうまい影響を及ぼすようなものの方が盛んになるかもしれない。」p.152
・「そういうところまでゆきますと、人間に生き方の問題というのは主観の問題か、客観の問題か、むつかしいことになる。人間は社会的な存在ですから、主観だけですむかどうか知りませんよ。しかし、私は最後は主観が勝つのじゃないかと思う。心理的なものの方が強いのじゃないかと思う。そこに一種の「絶対」が出てくる。自分が思いこんでしまったら万事解決、おしまいじゃないか。」p.152
・「梅棹 科学は目的があってはじまったものではない。できてしもうたもので、だからそういう意味では非常に根元的、生命的なものです。人工物と考えては間違うと思うな。」p.154
・「これは、科学の本質についてつねから考えをめぐらせている二人の科学者の、いわば内省の記録であるといってよいであろうか。」p.172
・「その点、この対談は、きれいごとの科学論ではおわっていない。できあがったものとしての科学の紹介や解説ではなくて、科学を生みだす原動力になっているもの、科学者の心の中にあるドロドロしたものに、いくらかはふれることができたかと思う。」p.173
・「科学者はしばしば自覚しない科学至上主義者である。科学者の書く科学論は、だから、多くの場合、科学の栄光をたたえ、科学の教えをとくことに終始してしまうのである。」p.174
・「そもそもいままで科学者が、「人間にとって科学とはなにか」と問うことはなかったのではないだろうか。科学は、むしろ人間をこえた存在であり、超越的な、神にも似た存在ではなかっただろうか。そういう意味では、ここに「人間にとって」の科学の意味を、あらためて問うているというのは、「科学の人間化」のこころみといえるのかもしれない。」p.175

?とうい【当為】(ドイツSollenの訳語)哲学で、現に存在すること、必然的であること、またはありうることに対して、かくあるべし、かくすべしとしてその実現が要求されること。カントでは、至上命令としてかくすべしと命ずる定言命法を意味するが、目的論的倫理学では、望ましい目的や価値を実現するための手段としてなすべき行為をさす。
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【本】人にはどれだけの物が必要か ミニマム生活のすすめ

2007年11月14日 22時14分04秒 | 読書記録2007
人にはどれだけの物が必要か ミニマム生活のすすめ, 鈴木孝夫, 中公文庫 す-20-1, 1999年
・著明な言語学者である著者の節約生活について。前半は書き下ろし、後半は講演録(三編)。書名は、トルストイによる寓話『人にはどれだけの土地が必要か』にヒントを得たもの。
・単なる『節約術の紹介・薦め』にとどまらず、含蓄のある言葉も多い。しかし、『トンデモ』の匂いが無きにしもあらず。一歩手前。
・近年、リサイクルショップが目立つようになってきましたが、これは喜ぶべき傾向か。
・『ミニマム』と聞くと『極小』、『ミニマム生活』と聞くと『生命を維持できる、死の一歩手前の生活』を思い浮かべてしまいます。これは理系的解釈ですね。文意としては『不自由なく暮らせる必要最小限の生活』なのですが。ちょっと言葉の使い方にひっかかりを感じました。
・「私は極めて平凡な事実を自分の目で観察し、算術的な単純さで自分の体験を積み重ねながら、物を考える一人の常識人にすぎない。だから物が良く見えるのである。」p.26
・「考えてみれば、木が板や柱として使えるようになるまでには、一般に五十年以上の長い年月が必要なのだから、木材を使った製品は少なくとも同じ年月だけ使わなければ、自然の帳尻が合なくなるわけだ。」p.29
・「さてこの二つの条件、つまり僅かな人手で多数を管理出来るタイプの動物であること、そしてそれが人間の食べる物を食べないこと、これら二つを満たすものとして、世界のどこでも食用としての家畜には、草食の群棲動物が選ばれる結果になったのである。(中略)ところが既に触れたように、豚はここに述べた食用家畜の二つの条件を満たさないにもかかわらず、家畜としての歴史は結構古いのである。」p.59
・「ところが大づかみに言って、動物の食べる餌と、その生産する肉(乳、卵)との比は十対一である。(中略)だからイワシやアジをそのまま人が食べれば十人の腹を満たせるのに、高級魚のハマチなら一人しか養えない。」p.63
・「ところがいまは違う。人類の長い文明の歴史を通して、これまで誰一人その正しさを疑うことがなく、それこそ万人の支持と賛同を得てきたいくつもの人間活動の分野で、人類はこのまま先に進んで良いのだろうかという、文明の基本的な方向や前提についての、根本的な不安と疑念が頭をもたげ始めているのだ。」p.67
・「私が外で食事をする際、食べ切れない物は可能な限り持ち帰ってクロにやる。勿論これだけで毎日の餌をまかなうことは出来ない。そこで一日二回の散歩の時、クロと一緒に食べ物探しをする。」p.74 [写真]
・「仮にすべての食品にいまの倍のお金を払うことになっても、あらゆる無駄を省いて消費を半分に抑えれば出費は同じことである。」p.80
・「さきに私が食物を無駄にするな、紙の浪費を止めるべきだといったことを詳しく述べたのも、それは全く金銭上の損得とは違う次元の、人間の生き方の問題なのだということを言いたかったからである。」p.81
・「この新しい考え方を私は「地球(救)原理」と呼ぶことにした。人間は自分たちのことだけでなく地球の全生態系に与える影響を、すべての活動に際して考慮すべきだということである。」p.84
・「だからこそ私たちは、ここで改めて自分たちの生き方を見直す必要があるのだ。私たちは果たしてこんなにもエネルギーを多用し、物や他の生物の命を、かくも無駄に浪費しなければ、本当に幸福になれないものかをである。」p.85
・「というわけで私はいまでも、大学の廊下や庭を歩いていて、無人照明教室を見つけると、よほどの事情がない限り、廻り道をしてでも電気を消しに行くことを心掛けている。  こんなことを長い間やっている内に、電気料や水道料といった公共料金は、もっと価格を上げるべきだという、人が聞いたら驚く「非常識」な結論に到達したのである。」p.93
・「だがこのまま進めば人間にとってもカタストロフィは確実に来る。しかしいつどのような形でそれが訪れるかはいまのところ誰にも分らないのである。」p.95
・「人がもし口だけでなく心から世界の人々の平等を望み、しかもこの美しい地球を損なわず子孫に伝えたいと思うなら、なすべきことは次の二つに絞られる。第一は先進国経済のレベルを下げ、人々がもっと少ないもので幸福に生きる道を真剣に、しかも大至急模索すること。第二は持てる国と持たざる国、富める国と貧しい国との間での、地球規模の資源エネルギー消費の再配分をどうやったら少ない摩擦と混乱で達成できるかを本気で考えることである。」p.98
・「だからビアフラで内戦のために何百万という人が死に、パレスチナやユーゴスラビアでは悲惨なテロや殺戮が、いつ終るとも知れずに続いていることを、私たちは知識として知ってはいても、一般の人がそのことと自分たちの恵まれた安全で快適な生活との関連など、深く考えもしないのは、別に冷酷でも何でもない。そうでなければ「身がもたない」のだ。」p.100
・「私は生来我儘で、子供の頃から何かを他人に強制されてすることが大嫌いで、自分の好きなことだけを、好きなようにやる生き方を通してきた。しかし人生にはどう足掻いても、気のむかないことをしなければならないことがある。そんな時私はいろいろ考えをめぐらして、何とか自分なりの意義づけが出来る理屈を見つけて、あたかもそこのとを私が自発的に進んでやるのだという風に、自分を納得させてから、むしろ積極的に立ち向かうことにしている。」p.103
・「もう一つ私が何十年と実行している、自主的で楽な生き方を貫く秘訣がある。それは広く世間に、私はこれこれのことは好きでないからやりませんと、機会あるごとに宣伝しておくことである。」p.105
・「要するに、嫌なこと気の進まないことは、何よりもはっきり断ること、そして自分の好き嫌い、好みと苦手をあらかじめ人々に分らせておくこと、私の場合この二つを実行しているため、人間関係の苦労が少なくて済んでいる。」p.107
・「糸川博士は、何かのテーマに十年打ち込んだら、次の十年は別のことに挑戦するという方法で、自分の可能性を次々と拡げる生き方をされている由だが、私もこれまでに何度か、今日からいままでの自分と縁を切って、別の生き方をしようと思い立ち、それを実行してきた。そのお蔭で、以前の自分なら全く考えられないような新しい物の見方、生き方を手に入れることが出来た。このような絶えざる自己破壊と自己再生、これが私の理想とする生き方である。」p.108
・「いつだったか学生たちにこの話をして、「僕は『何もしない会』の会長になれるぞ」と自慢したら、「でも会員は一人もいませんね」と返されて大笑いをした。」p.114
・「だからこそ私一人ぐらいなどと、自分の力を過小評価してはならない。自分を巨大な社会の片隅にいる無力でちっぽけな存在と思うことは、とんでもない間違いなのである。一人ひとりがすべての元なのだ。自分が変われば社会も変る、自分は社会に対して能動的に働きかける力があるのだと、自分の力に自身を持ってかまわないのだ。いや持つべきなのである。」p.126
・「人間は「三次元的な制約を持った生物である」と私は定義することにしています。第一の次元は歴史的・文化的な縦の軸、つまり時間的な制約です。(中略)第二の軸は、空間的な制約です。(中略)第三の軸が、自分の生き方が地球にとってプラスかマイナスかという座標軸です。」p.148
・「こういうことをいしていますと、「よく先生、時間がありますね」とか「大学の先生がごみ箱あさりをして、よく恥かしくないですね」と言われますが、「私の地球が喜んでいる」と思えば、人の目など全く気にならないものです。また、「乞食みたいで恰好悪いですね」と言われますが、恰好など気にしていたのでは地球は救えません。現にいましているネクタイも拾った物です。家で使用している電気器具もほとんど拾った物を私が修理して使っています。」p.153
・「私のいまの願いは、世界中のゴミを入れる大きな倉庫が欲しいということで、それはいつか必ず役に立つと真剣に考えています。」p.156
・「ところで人間には、欲望の基軸が二つあります。一つは、「昔はひどかった。いまは良くなった。来年はもっと良くしたい」という縦の時系列の発展の判断基準です。もう一つは、「隣の家よりも金を儲けた。あいつよりも着ている物がいい」という他者との水平軸の上での比較によって満足感を得るという相対比較の基準です。」p.163
・「いったいどうしてあれだけのたいして必要でもない液体を飲むために、こんなに地球を汚しながらカンを作り、そして、それをポイと捨ててしまうのか。どうしても飲まなければいけないのならば、せめて飲んだあとのカンを中に戻して、足で踏んでペタンと押すと、お金が返ってくる、という装置を開発したらどうだということで、二十年ぐらい前に提案したことがある。」p.165
・「「お蔭様で」、「勿体ない」、「すみません」という生き方。日本の現代の社会が先進国でありながら、凶悪犯罪が他の先進国に比べて二桁も少ないことにもそれが現れている。(中略)日本人の意識していない伝統的な生き方は、この公害時代にもっと自信をもって、外に輸出する必要がある。そのためには、自分たちの生き方の良さを客観的に知らなければならない。」p.168
・「誰でも、人間は欲張りです。もっと大きな家が欲しいし、もっと広い土地が欲しい。でも何でそんなちっぽけな欲なんだ。地球全部が自分のものだと思えば、もういいじゃないか。私は、その辺のきれいな人も、全部私のものだと思っている。家内一人で手が回らないから、他の変な男性に任せてあるんだと思えばいい。」p.171
・「どうせ洗ったって、雨が降れば汚れる。第一、外国で普通の人は車をこんなに洗いませんよ。」p.172
・「最後に結論を言います。科学はずいぶん進歩したようだけれども、私は社会科学から医学、動物学、植物学など、割合広くやって、この頃ハッキリ分った。人間には人間から遠いものほどよく分る。(中略)ところが、学問は人間に近づいてくるほどインチキです。人間自身に関する学問は一番発達していない。哲学、医学の大半は信頼できない。心理学、教育学もデタラメ。」p.177
・「このように日本は常に特定の外国文化を集中的に受容し、それを吸収消化するという非常に効率の高い方法で発展を続け、遂に世界の経済超大国の地位を獲得したわけである。」p.190
・「薪のストーヴの赤い火の前で本を読むなどと言うと、女子学生など「ワー素敵、ロマンチック!!」と歓声を上げるが、実際に冬の間(と言っても山の中では半年以上にもなるが)、自分で集めた薪だけで小屋を暖めるということが、こんなにも大変な重労働だということは、私も知らなかった。  手はヒビだらけ室内は灰だらけ、煙突掃除に薪の運び上げと一日中追いまくられ、しかもやっとのことでうず高く積み上げた薪の山は、あっと言う間になくなってしまう。」p.207

?しゅうしょう‐ろうばい【周章狼狽】 大いにうろたえ騒ぐこと。
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【本】レギュラシオン理論 経済学の再生

2007年11月11日 22時03分53秒 | 読書記録2007
レギュラシオン理論 経済学の再生, 山田鋭夫, 講談社現代新書 1146, 1993年
・普段まったく興味の無い経済学分野の本ですが、なにやら怪しげで新しそうな、そして何かをやってくれそうな『レギュラシオン理論』の語感にひかれて手にとった本です。
・私のような門外漢でも途中で投げ出すことなく最後まで読めましたが、その理解の程は?? 経済学の下地がないので、その "新しさ" や "凄さ" について、他の理論との相違点がピンときませんでした。
・この理論、現在は耳にすることがありませんが、廃れてしまったのでしょうか。
・「問題は、経済の「変化」をどう説明するかである。しかもその変化を、個々的にでなく総体的に、そして歴史的にでなく理論的に、だがしかし、いわゆる純理論的にでなく歴史に開かれた理論として――そういうものとして「歴史論理的」にとらえてみたいというのが、私の長年の願いであった。静態的な経済学でなく、いわば「可変性の経済学」を探しもとめていたのである。加えてその経済学は、理論のための理論でなく、われわれふつうの市民が使える道具として役立ってくれるものでなければ意味がないのである。  そんな私にひとつの大きな啓示をあたえてくれたのが、レギュラシオン理論であった。」p.11
・「いかめしい経済理論もその奥の奥を洗っていくと、ごく単純な進行に行きつくのである。だから、それさえ押さえておけば、経済学はむずかしくない。そしてその信仰とは、ほかでもない資本主義なり市場経済なりを大きくどう見るかという一点にかかっているのである。  そこでまず、今日よく知られている代表的な三つの経済学を例にとって、その資本主義観や市場観のちがいを深いところで見ておこう。新古典派、ケインズ派、マルクス派の三つを取りあげる。」p.20
・「スミスもマルクスも近代資本主義のうちに、ポジティヴな要素(生産力)とネガティヴな要素(搾取)という両面を見ているのである。(中略)スミスは、ネガにもかかわらずポジが発展する、それはどうしてかと問い、マルクスは、ポジがネガをともなう形でしかありえない、それはなぜかを問う。」p.38
・「システム理論や生物学では、その構成諸部分が相互に整合的でないようなシステムの動態的調節のことを「レギュラシオン」と言うそうだが、かれ(G・デスタンヌ=ド=ベルニス)はその概念を資本主義経済を読むために活用した。資本主義は矛盾をかかえているが、それを整合的に解決するためにどのような調整を必要としているかを問うたわけである。」p.52
・「だから、立てるべき根本的な問いは、これほどに矛盾している資本主義がそれでもある程度安定し、再生産が進行していくのはなぜなのかである。」p.54
・「私たちのまわりにある資本主義をよりよく見るためには、概念という道具をつくり、それを動員する以外に手はないのである。  概念を設定し組み立ててモノを見るということは、何もレギュラシオン理論にかぎらず、全ての経済学に、いやすべての学問に共通したことである。」p.74
・「図表2を見ていただきたい。これがレギュラシオン理論の全ての概念だ。大きくは「制度諸形態」「蓄積体制」「調性様式」「発展様式」「危機」という、たった五つの概念をもとにして資本主義をとらえようというわけである。」p.76
・「「レギュラシオン」を「調整」と訳してきたが、注意していただきたいのは、これは英語の「レギュレーション」とは意味を異にするということだ。レギュレーションは日本語では「規制」と訳されているように、政府による上からのコントロールをいう。法律、条例、許認可、行政指導、制裁措置、財政措置(課税や補助金)などがイメージされよう。それに対してレギュラシオンは、対立する諸力・諸過程の間の――いわば対等な――相互作用の結果として、全体の平衡や安定がえられることをいう。例えば人体が体温を一定にたもつのは、体内諸組織の相互作用によるレギュラシオンの産物なのである。」p.86
・「やがて見るようにレギュラシオン学派の戦後資本主義論は、この大量生産―大量消費という点を軸にして展開されるので、戦後をあえてフォーディズムとよぶわけである。」p.112
・「テーラー主義は構想と実行の分離(労働者からの熟練・判断力・自立性の剥奪)、実行作業の細分化と単純化(単調な反復的労働の強制)、組織のヒエラルキー的編成(命令にもとづく労働統制)によって、高い生産性を実現したのであった。フォーディズムのもとでの労働編成は「テーラー主義プラス機械化」(A・リピエッツ『勇気ある選択』)ともいわれるように、このテーラー主義を基本としていた。」p.122
・「つまり最深部に労働編成の危機(テーラー主義の危機)が宿っており、その上に労使妥協の危機(ゲームのルールの危機)が折り重なっているのである。それがレギュラシオン学派の解読するフォーディズムの構造的危機であり、今日の20世紀末不況である。」p.130
・「しかし、フォーディズムにかわる新しい蓄積体制、新しい調整様式、したがって新しい発展様式は、いまだ霧に包まれているのだろうか、くっきりとした姿を現していない。それが今日の世界である。」p.134
・「別の読みかたをすれば、日本の労働市場は、ボルボイズム型に近いエリート層とネオ・フォーディズム型に近い非エリート層に分断されており、そうした二重社会的状況の合成結果として、総体としての日本は、結局はボルボイズムとネオ・フォーディズムの中間方向に進んでいる、ともいえる。  こうしたトヨティズム的プログラムは、脱テーラー主義→生産性→利潤 と要約できようか。」p.146
・「大量生産―大量消費の体制は同時に大量廃棄の体制でもあったということが、反省されねばならない。だから、将来的妥協において労働者が受け取るべき対価は――少なくとも先進諸国の労働者にとっては――賃金と消費の拡大ではないであろう。おそらく、何をいかにつくるべきか――つくらないべきか――という経営的意思決定への参加と、自由時間の拡充とが対価となるべきであろう。」p.170
・あとがきより「むしろ、専門家相手なら説明せずに通用してしまうという「馴れあい」を排することの必要を、つくづくと感じさせられた。  そうした馴れあいを排しうるためには、じつは書き手自身の側での認識が深まっていなければならない。深く認識してこそ平明に表現しうるし、平明に表現しえてこそ認識も深まるものだということを知らされた。自らが本当に理解したことは意外とふつうのことばで書けるものだ、逆に自分の理解が行きとどかない所ほど難解になるものだ、ということである。」p.190
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【本】されど、われらが日々――

2007年11月08日 22時02分41秒 | 読書記録2007
されど、われらが日々――, 柴田翔, 文春文庫 102-1, 1974年
・第51回(1964年)芥川賞受賞作『されど、われらが日々――』、『ロクタル管の話』の二編収録。
・されど~:婚約中の大橋文夫と佐伯節子の対話と告白、そしてその周辺の人々による告白を軸にした小説。"鬱" の空気が充満している。それらの告白には時折ハッとさせられる。
・ロクタル管~:ラジオ作りにハマり、手元の小銭では手の届かぬ高級な真空管『ロクタル管』に恋焦がれる、中学生の少年の描写。こちらはさっぱり、ピンとこなかった。
・奥付[写真]を見ると30年前(1977年)に印刷された本でした。古本とはいえ、ここまで古いのも珍しい。
・「生が結局は、各種の時間潰しの堆積であるならば、その合間に、ちょっと夢中になれる、あるいは夢中になった振りのできる気晴らしのあることは悪いことではない。」p.10
・「その間、恋をしなかったと言えば、嘘になろう。そして、恋する時、私は大体真面目だった。だが、私が真面目であればある程、私の恋は、いつも、真面目な恋とはならずに、情事といったようなものになって行った。ある時期には、私は自分の情事を、これは情事ではない、本当の恋なんだ、と思い込もうとし、またある程度思い込みもした。だが、女の子たちは、私が彼女たちのことを、決して本当には愛していないこと、愛することのできないことを敏感に感じ取り、私から離れていった。」p.15
・「私がガラス窓越しに外を眺めながら、オープンシャツのボタンをとめていると、野菜をいためていた節子は、その私の肩越しに言った。
「私、こうやって、一生あなたのお食事、作って上げるのかしら」
 節子の声は、少しもの憂げにきこえた。
「奥様稼業が厭なら、一生勤めていたっていいよ」
 私はそう答えながら、少し無造作すぎたと思った。私が節子に優しくしようとすると、どうしてもそういう風になるのだった。
「ううん。やっぱり私が作って上げる。おいしいもの食べさせて上げるわよ」
 節子は、別に私の無造作を怒りもせず、節子らしい優しい口調で、そう言ってくれた。
」p.18
・「「ぼくは思うんだけど、幸福には幾種類かあるんで、人間はそこから自分の身に合った幸福を選ばなければいけない。間違った幸福を掴むと、それは手の中で忽ち不幸に変ってしまう。いや、もっと正確に言うと、不幸が幾種類かあるんだね、きっと。そして、人間はそこから自分の身に合った不幸を選ばなければいけないのだよ。本当に身に合った不幸を選べば、それはあまりよく身によりそい、なれ親しんでくるので、しまいには、幸福と見分けがつかなくなるんだよ」
「あなたの言うことは、頭がよすぎて、私には判らなくなってしまうわ」
 節子は自分の手を包んでいる私の手を暫くみていたが、やがて、それをそっと解き放すと、今度は逆に自分の手で私の手を柔かく包み込み、それをみつめながら、続きのように言った。
「さっき、御飯の前、あなたに御飯は作って上げるけど、ただね……って、言ったでしょう。私が何言いかけたか、判る? 私が言いかけたのはね、私があなたのために御飯を作る、あなたが私の作った御飯を食べる、それはいいけど、ただ、何故私があなたのために御飯を作るか、何故あなたが私の作った御飯を食べるか、その二つの何故が、同じなのか、別なのか、何かよく判らなくて不安なことがあるってことなの」
」p.21
・「ぼくの考え方など流行遅れで、人には馬鹿にされるかも知れない。だけど、やはり、正しいものは正しい。ぼくはそう思っているのです」p.39
・「ぼくは学者なのです。ぼくは見合結婚以外、考えたことはありません。サラリーマンのように、機構の中に入り、外面的束縛に身をまかせ、それで自分を支えて、毎日毎日を過ごして行けばいいのなら、恋愛もいいでしょう。でも、学者は、自分で自分を律して行かなければならないのです。そして、自分で律するとは、とりも直さず、客観的な秩序、つまりぼくらのまわりに存在している秩序を認めるということです。」p.41
・「そして、そうだとしたら、せめて一人位は、ぼくの全てを知って呉れている人がいてもいい。」p.64
・「党から離れたあと、ぼくは、できるだけひっそりと暮らそうとしました。本来、弱い性格に生れついたぼくが、柄にもなく、党員になろうとしたことが間違いだった。人と変わった、充実した生活を望んだことが誤りだった。平凡な男は自分の平凡さにふさわしく、世の片隅で、つつましい、せめてはなるべく人の迷惑にならぬ一生を送ればいいのだ。ぼくはそう考え、そう実行しようと思い定めました。間違っても出世などは望むまい。それでは、裏切りを倍加さすことになる。ただ、つつましく暮そう。そう思ったのです。」p.67
・「自分の死を想った時、あれほど暗い表情をしなければならないとしたら、人間の生きて持っている幸福とは、一体何だろうかという疑いです。」p.76
・「その炎を吹き消した時、ふとある疑問が、ある問いかけが、ぼくの心に浮かびました。俺は死ぬ間際に何を考えるだろうか――そうぼくは思ったのです。何のつもりもなく、ふと、そう思ったのです。」p.78
・「ぼくの感じるようになったものは、そういう論理よりも、もっと理屈を抜きにした、生きることへの面倒くささでした。毎日、仕事をするのも面倒くさければ、亜弥子さんを音楽会に誘うのも面倒くさい。いや、朝起きるのも、夜、寝床に入ることさえもが面倒くさいのです。それは、この自分がもう一人の自分と厚い音を通さぬガラスの壁でさえぎられ、向うの自分は一日中、別に何の意味もなく何かをしているが、こちらの自分はそれを、ただ物憂く眺めているといった感じなのです。そして、そうした毎日の中で、死という考えが、徐々にぼくの心に育ちはじめました。」p.80
・「信じることは美しいと人は言う。だけど、ぼくには、信じるということには、いつも、どこか醜さがあるとしか思えなかった。」p.93
・「「そうじゃないわ。大橋さんはずるいからよ」
 優子はいどむように言った。
「ずるい?」
「そうよ。大橋さんのお相手は、少しぼんやりした人ばかりね。あの人のこと、本当に好きなの?」
「さあ、どうだろう」
 私は手に持った茶碗をゆっくり、まるく揺さぶった。紅茶は次第に渦になってまわりはじめた。
「でも、別にぼんやりした人を選んでいるわけじゃないさ」
「そうかしら。それは、大橋さんがそうした人を好きならいいわよ。でも、大橋さんの場合は、自分のことを判ってしまう相手はこわがって避けているところがあるのよ。大橋さんのセクスや遊びの相手は、それだけの相手。大学での友だち、セクスや遊びの場でないところでの自分を知っている友だちは、こわくて、セクスの相手にできないの。セクスに対する冒涜よ」
 優子はいつも、セックスではなく、セクスとその音を発言した。その硬い響きは、少女の歯に噛み切られた青草のように鋭く匂った。
」p.114
・「「ねえ、あなたに判るかしら。女の子が、高校に入った頃から、もう何を思い、何を待っているか。ううん、もっと前から、もっとずっと前から、もとずっとちっちゃい時から、鏡の前で自分が女の子だってはじめて知った時から、もう何を思い、何を待っているか……。」p.117
・「嫉妬は不毛な感情です。私は後悔なんかしていません。私は私の望む所をしただけです。それがどんな結果になろうとも、後悔なんかしません。後悔はうしろむきの感情です。」p.121
・「「私、幸福になんか、なりはしない。人間は、幸福になるために生きているのではない。ね、そうよね。生きてることに比べたら、幸福かどうかなんか、とるにたらないことよね」」p.139
・「「どう生きても、人の生きる年月など、たかが知れてるのに」」p.139
・「「そうね。そうなると思うわ。でも、お見合をしても、それで寂しくなくなるかしら」
「お互が寂しいんだって気がつけばね」
「侘びしいわね、そういうのって。でも、仕方がないのかも知れない」
」p.152
・「それに第一、私はあまりに野瀬さんの影響下にあったので、野瀬さんを失う瞬間まで、自分が恋していることにさえ、気づかなかったのです。」p.160
・「あなたの優しさの中には、いつも、あなたが残してきた過去が感じられました。勿論、あなたにそうした日々のあったことは、判っていたことです。それを、そねんだ訳ではないのです。ですが、それでも、やはり、そうした過去の日々がなかったかのように、私はあなたに愛してもらいたかった。はじめてのようなやり方で、あなたに愛してもらいたかったのです。」p.169
・「が、人間に、人とその身体を区別する手立てがあるでしょうか。それは哀しいことでした。あなたを求めるということは、あなたの身体を求めることでした。」p.180
・「私たち人間の生活は、いつも、何の意味も持たない茫漠とした世界の淵にさらされていて、ともすればその果しのない深みと拡がりの中へ落ち込んで行きます。いえ、そうした茫漠さの中に漂うことこそが、人間の生活の常態なのかも知れません。が、私たちはそれでもなお、自分の生活が意味の無い事象の継起でしかないことに堪えられません。」p.183
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【本】科学英語に強くなる ことばの歴史重視の攻略法

2007年11月04日 22時09分42秒 | 読書記録2007
科学英語に強くなる ことばの歴史重視の攻略法, 池辺八洲彦, 講談社ブルーバックス B-861, 1991年
・英単語の成り立ちの歴史的背景を踏まえて英文を理解する方法の紹介。英語の専門家ではなく、理系研究者の視点より。
・英語の例文を挙げ、その日本語訳について丁寧な解説がされており、それを読むとナルホドとは思うのだが、実際それを「さあ、あなたもやってみて下さい」となるとお手上げ。この本を読みこなすだけでも、ある程度の英語の知識を持つ事が前提にあり、私には少々レベルが高く感じました。
・もちろん新書一冊読んだくらいで突然英語に強くなれるはずもなく、ほんのさわり、入口のみのまさに入門書です。
・おそらくは英語ネイティブはいちいち「単語の歴史的背景」を意識して言語を習得し、日常で使っているわけもなく、また、外国語として修得する場合、通常の単語・文法知識に加えて、その履歴情報まで頭に入れるとなると、あまりに大変で、その効果のほどは疑問です。
・『科学英語』と銘打っているものの、実際は科学関連の内容の文献から例文をちょこっと引用してあるくらいで、ほとんど『科学』は関係なし。
・「履歴情報重視の科学英語攻略法は科学英語マスターを目指す学生にとって決して理解不可能でも迂遠なアプローチでもない。それどころか、唯一の正統的英語勉強法ともいっていい、と筆者は確信している。」p.6
・「大学に奉職させていただいている筆者は、多くの先輩に伍して「大学とは "物事は奥の奥まで知らなければ知ったことにならない" ことを学ぶ場所である」という信条を抱いている。」p.6
・「会話はハートでやるものである。ハートの大きい人、ハートの強い人のまわりでは会話も弾む。逆に、ハートの小さな人、ハートの弱い人はどうしても会話は苦手とならざるをえない。」p.27 会話の苦手な私としてはヘコむ記述です。
・「普通の英会話スクールで教えているのは「英会話の英語」であって、「英語による会話の仕方」ではない。(中略)日本語の会話と同様、英会話にも戦略的思考が必要であり、「英会話の英語」を学ぶだけでは現実の会話を円滑に進行させるのに十分でないことを、ぜひわかっていただきたい。」p.27
・「ところが、これまでの外国語教育論では、辞書や文法書等の学習材の質についてはほとんど触れられておらず、あたかも外国語学習者に必要な学習材に不備はないと暗黙に仮定されているかのごとき観さえある。筆者はこの点をわが国における外国語教育論の一大盲点だと考えている。」p.30
・「OEDは英国の世界に誇るべき文化遺産の最たるものである。」p.40
・「1887年ポーランド人医師ザメンホフ(L.L.Zamenhof)によって創られた人工国際語エスペラント語(Esperanto)はなぜ創始者の期待どおりに普及しないのか。理由はいくつかあろうが主なものはエスペラント語に歴史がない故ではなかろうかと筆者は考えている。」p.44
・「また、本章でのちほど述べるように、未来形の助動詞 shall と will の用法上の区別、あるいは、この区別がときにあいまいになるのはなぜか、現在完了形をつくる場合になぜ have が用いられるか、冠詞 the、a、an の用法はなぜ簡単な規則で律し切れない一面を持っているのかなど、英語を学ぶうえで起こってくる数々の疑問の答えは、歴史的事情の中に求めなければならないのである。」p.44
・「ルネサンス時代にフランス語から英語に流入した単語は1万語を少し超え、このうち75%が現在まで生き残っているという(A.C.Baugh and T.Cable,p.178)。」p.55
・「現代英語とは、名詞の文法的性別もなく、屈折(語尾変化のこと)もほとんどなく、他の印欧諸言語にくらべると格段に簡単な文法体系をもっていて、入門しやすく見える一方、語彙が豊富で同義語が多く、単語や慣用的な言いまわしの微妙なニュアンスをつかむのに骨の折れそうな奥行きの深い言語、ということになろうか。ただし、この評価はあくまで印欧諸言語と比較しての相対的な話であることに注意しよう。」p.55
・「言語を運用する問題は最後は必ずこの「文構成」の問題に帰着してくる。言語の本当のむずかしさはここにあるのだ。」p.56
・「英語は、発達過程から次の3期に大別されるのが便利とされている(Bloomfield)。
 古英語(Old English, OE) 450~1100年
 中英語(Middle English, ME) 1100~1500年
 現代英語(Modern English, ModE) 1500年~現在
」p.60
・「英語の形成に英語史全体の中できわめて深刻な影響を与えたとされるのが、すでに述べた1066年のノルマン人による英国制服 The Norman Conquest である。」p.70
・「英語が公用語としての地位を追われ、ふたたび復活するまでの450年間に英語に何が起こったのか。これを考えるうえで Smith の説明がたいへんおもしろい。簡単にいうと、言語は学問も教養もない庶民にまかされているとき、もっとも自然な進化を遂げるというのである。  この観点からみると、ヴァイキングによる侵略、ノルマン人の征服は、今日の英語にとって決定的に幸せな出来事だったことになる。屈折変化が激減し、文法上の性が廃止されるという文法の簡単化はこうして起こったというわけである。」p.76
・「さらにラテン語を例にとり、言語の完全標準化はその言語の死滅への道かもしれないという。「文法はよろしく記述的であるべきで処方的であってはならない」とするのは今や定説である。」p.76
・「こうして英語は14世紀に標準語をつくり、16~17世紀に、語彙を発展させ、18~19世紀に文法書と辞書を出現させ、1800年頃まで国際語としての資格を具えるに至ったという(Broomfield)。最初の本格的辞書として有名なジョンソン(Samuel Johnson,1709~1784)の辞書は1755年に出版された。Bloomfieldによると1750年頃の英語は国際舞台ではまだ弱小語であったが、1850年ごろには一国際語となっていたとする。」p.79
・「英文和訳をいつも直訳文で済ましているかぎり、和文英訳も直訳の壁につき当たったまま絶対に上達しない。(中略)こういった点を一向に強調しようとしないのも日本の英語教育の最大のひずみの一つ、と筆者は考えている。」p.119
・「著者が読者にすすめたいのは、Newsweek の日・英両版を買って、対応する記事を確認し、日本語の記事を英訳し、原英文記事と照合してみることである。」p.120
・「本例で学んだ要点を念のためここにメモしておこう。
①長い1文に訳出するよりも2文以上に分けて訳す方が楽な場合が多い。(この逆もありうる!)
②文中の単語の意味を考える場合、その根幹の意味を履歴情報から押さえておくと参考になる場合が多い。
③muddled translaion → muddled thought! 悪訳は誤解を呼ぶ! 良訳を心がけよう!
」p.130
・「一般にごちゃごちゃいろんな訳語を覚えるより、根幹の意味を1つ、しっかりと覚え、あとは前後関係と国語力で補うという姿勢で英文に対処する方が、弾力性に富み、また楽しくもあることを、ここで今一度、読者にお教えしておきたい。」p.143
・「現在のところ和英辞典はどれもたいへん不備であって「日本語で引く同義語辞典」くらいに思った方がよい。この事態は改善されるべきであるが、和英辞典の充実はその形態の研究をも含めておそらく国家事業としてやってもよいくらいの大事業のはずだから、早急な改善はのぞむべくもない。」p.161

?こうろんおつばく【甲論乙駁】(甲が論じ乙が反対する意)互いに論じ反駁し合って議論がまとまらないこと。
?きせき【鬼籍】 過去帳。点鬼簿(てんきぼ)。 鬼籍に入る 死んで鬼籍に記入される。死亡する。

《チェック本》
・忍足欣四郎『英語辞典うらおもて』岩波新書 黄180, 1982年
・加島祥造『英語の辞書の話』講談社学術文庫 689, 1985年
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【本】オーケストラの職人たち

2007年10月31日 22時24分06秒 | 読書記録2007
オーケストラの職人たち, 岩城宏之, 文春文庫 い-7-5, 2005年
・指揮者のエッセイ。クラシック業界の裏方さんについて。登場するのは楽器運搬業者、ステージマネージャ、演奏旅行に同行する医師、写譜屋、ピアノ調律師、演奏会チラシ配布業者などなど。
・これまで同著者の著作は数冊読みましたが、その中では一番おもしろかった。内容は密度が濃く、よくまとまっていると思います。過去の、指揮業にまつわる単なる受動的経験を語るだけではなく、ハープを運搬するトラックに同乗したり、写譜屋やチラシ配布業者を自ら訪ねたり、日本各地のオケに電話をかけまくったりと、本に書くことを意識して能動的に取材している点が、内容の充実に繋がっています。
・「聴衆は、膨大な数の裏方の仕事のおかげで、はじめて存在することができるのである。」p.8
・「どうも人類には、裏人間と表人間という二つの人種が、はっきりとあるようだ。」p.9
・「東京の紀尾井ホール専属ステージマネージャーの宮崎隆男さんは、日本の超々ナンバーワンの最高のベテランである。」p.16
・「世界一のオーケストラには、必ず世界一の裏方がいるものだ。逆もまた真である。」p.20
・「上着が、汗をたっぷり含んで、腕が思うように動かなくなってしまうのだ。搾ると、ジャーッと汗が床に流れた。バケツに雑巾を搾るのと同じだった。」p.26
・「レストランでは、ボーイさんがどんなに勧めても、楽器を預けるのを断り、楽器を膝ではさんだりしながら、不自由な格好で食事をしている。  とにかくバイオリニストには、お持ちしましょう、などという親切を言ってはいけない」p.30
・「実はハープの演奏には、指や腕に、とっても大きな力が要る。だからハーピストは、みんな、すごい力持ちである。」p.42
・「ネタ本は、1990年に出した、岩波新書の『フィルハーモニーの風景』なのである。著者は岩城宏之。」p.47
・「だが、舞台全面を同じ明るさにするのも、別の意味で、非常に難しい仕事である。たくさんのライトに、強さや角度のムラがあると、薄い影ができてしまう。  楽譜に、かすかにでも影がうつることは、許されない。演奏者の手の動きなどが楽譜の上でチラチラして、集中心が損なわれ、演奏が困難になる。  しかも、遠くからのシーリングやスポットが、楽員の視野のなかにちょっとでも入ると、目がくらんで、指揮者の細かい動きや表情の変化を、把握できなくなる。」p.64
・「通常のオーケストラの、海外演奏旅行のための航空貨物は、メンバーたちのスーツケースを別にすると、平均五トンと聞いている。」p.67
・「当時、わが国では、オーケストラの組合運動が始まったばかりだった。71年の暮れに、日本フィルのユニオンは、スポンサーに対し、強硬な待遇改善闘争を展開した。(中略)結局年末のベートーヴェンの「第九」公演で、ストライキを打ったのだった。(中略)東京厚生年金会館を埋めつくした聴衆は、音楽を聴けずに、引き揚げたのだった。日本の文化史上初めてで、しかも唯一のストライキである。  これがスポンサーを刺激したというか、都合のよいきっかけを与えてしまったのか、年が明けると、フジテレビと文化放送は、日本フィルの解散を決定した。」p.69
・「欧米ではあたりまえのことだが、日本で今、日常的に練習できる専用のホールを持っているのは、新日フィルと仙台フィルハーモニー管弦楽団と札幌交響楽団だけである。」p.71 Kitaraのことを言っているのか……? "日常的に練習"?? そんなホールあるのか、謎。
・「オーケストラというものは、世の中の好況、不況に関係なく、よい仕事をすればするほど、大きな赤字を出してしまう、困った存在なのだ。」p.71
・「僕は札幌交響楽団の音楽監督になって何年目かに、いつも演奏旅行のとき、裏方さんたちの中でひときわ陽気にステージ作りをしているオジサンが、事務局のメンバーでないことを初めて知った。札幌通運の田村英記さんだった。」p.76
・「日本には現在、プロのオーケストラが23ある。」p.80
・「オーケストラにとって、フィランチャイズのホールは、楽器なのである。本番だけ、他人の楽器を借りるバイオリニストはいない。  演奏旅行にはホールを持って行けないが、フランチャイズで練り上げた音を、持って行くのである。世界の一級のオーケストラは、こうやって音を作ってきたのだ。」p.86
・「運送会社がトラックにオーケストラの名前を大書して、横に自社の名前を書くのは、文化的イメージを売るために、大きなPRになるのである。」p.91
・「だがとても悲しいのは、クラシック音楽に対する僕の身体の反応が、昔とまったく変わってしまったことだ。正直いうと、クラシック音楽を楽しめなくなったのだ。」p.97
・「これは日本のオーケストラだけではない。世界中のオーケストラが言葉の違う国に演奏旅行する時、ほとんどの場合、お医者さんに同行してもらっている。」p.99
・「以前、自分の十八番を質屋に入れた噺家のことをきいたことがある。金を返すまでその噺をしなかったそうだし、貸す質屋もスゴイ。日本は文化国だったと、感動してしまう。」p.119
・「写譜がきれいで正確だと、非常に読みやすい。オーケストラのメンバーが、余計な事ことに神経を使う必要がなく、音を出すことに専念できるので、賀川(純基)さんの写譜だと、彼の美しい音がした。」p.129 写真参照。
・「数年前に、あるオーケストラが『ウエスト・サイド・ストーリー』の抜粋を演奏会形式でやるために、こっそり写譜して演奏したのがバレて、アメリカの出版社に約三億円の罰金を請求され、拝み倒して何千万円かで勘弁してもらった、という話を聞いている。」p.136
・「作曲者やその家族のために、著作権法は非常に大切なものであるけれど、その高額のレンタル料の何十分の一程度しか、その作曲者や、あるいは作曲者死後の家族に支払われないのだと思うと、ある意味では、この著作権制度は、世界の楽譜出版社の "マフィア王国" を守るためのような気もするのである。」p.136
・「オーケストラのリハーサルは、世界中だいたい同じようなものだが、午前中二時間半、ランチタイムのあと再び二時間半というのが、もっとも多い。そしてそれぞれの二時間半の中間に15分から20分の休憩がある。つまり大勢での緊張の連続は、一時間ちょっとぐらい、というわけだ。」p.143
・「デザインとして写譜に取り組むプロ集団のハッスルコピーと、歌いながら写譜をした賀川さんという、二つのタイプがあるわけである。」p.145
・「ぼくは自分の耳に、まったく自信がなかった。今だってないが、タイコ叩きから転向したばかりだったので、赤ん坊のころから音感教育を受けてきている、多くの指揮者たちに、すごく劣等感を持っていた。」p.148
・「「指揮者ってすごいんですねえ。オーケストラの音が全部わかる耳をしているんですねえ」  と感心されることがある。  「全部の音が聞こえると言ったら、ウソになります。でも聞こえないと言うのも、ウソです。聞いています。聞こえない音は、存在していないと思っているしかありません」  などと言ってケムにまく。」」p.148
・「<モーツァルトとかベートーヴェンのような、二百年昔の西洋のオジサンの音楽ばかりやらないで、世界で一番多く『現代音楽』を指揮する人間になろう>」p.157
・「世界中のあらゆる楽器のオリジナルは、インド産である。糸をこすって音を出す楽器は、ヨーロッパに行ってバイオリン系の弦楽器になったし、中国大陸へ流れて胡弓になった。  はじいて音を出すシタールはヨーロッパのギターやハープになったし、日本の琴や三味線も中国大陸を経て来たものである。」p.159
・「とにかくこの地球という星の人類がやっている音楽は、すべて親類同士なのである。クラシック音楽や、ロック、浪花節、教会のミサ……等は、みんな同根なのだ。」p.161
・「――ラテン語のclassicusはもと〔納税者階級に属するもの〕という意味から〔模範的〕という意味をもつに至った。」p.163
・「ところでぼくは、音が二つ以上つながって聞こえるものを、みんな音楽だと思っている。」p.164
・「わが国のクラシック音楽主催業者――マネージャー、つまり音楽事務所とか、呼び屋たちが仕事をする上での常識的計算がある。  彼らは当然、仕事の安全な利益を考える。ひと月に一度は音楽会に足を運ぶと予測するクラシック愛好者を、人口の二パーセントと計算しているそうである。」p.165
・「とんでもないことを書くが、ほかの日本人の音楽家の演奏を観るのは、どうも好きじゃない。  楽しそうに見えない。外国人どもも、楽しそうにニコニコ弾いているのではない。真剣である。概して、我が国の音楽家が真剣になると、クソマジメな、つまらない顔になる。西洋音楽に合わないみたいだ。(中略)だから自分のビデオは、必死になって見ないようにしている。音楽が嫌いになるから。自分さえ見なければ、クラシックは大好きだ。矛盾も極まれりである。」p.171
・「音楽や絵画に「わかる」「わからない」という言葉を使う人種は、世界で日本人だけである。」p.171
・「日本第二のピアノメーカー、カワイピアノ(河合楽器製作所)は、ヤマハから独立した人が作ったのだということを、ぼくは初めて知った。現在、世界ナンバーワンの電子楽器のローランドの創始者・梯郁太郎社長も、ヤマハ出身である。」p.184
・「最近の地ビールブームで、全国いたるところに、モクモクといろいろな味のビールが湧きだしてきた。  近い将来、ピアノでも同じように「地ピアノ」が生れ出すようになると面白いと思う。」p.186
・「ピアノは機械ではなくて、厳然とした楽器なのだから、音楽的な能力と個性を持つ人間が、耳でやらなければだめだと思います。」p.187
・「その瀬川(宏)さんが、どうやって調律を学んだのか話してくれた。  「たまたまアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリという天才ピアニストの調律をするチャンスがありました。この人はピアノのありとあらゆることを熟知していました。その上で調律に要求する。彼が『何かおかしい』と言えば、おかしいに違いないと思うほかありません。  演奏会の終わったあと、先生はぼくをピアノの前に連れていって、ひとつの音をポンとたたき、怒った顔をして帰ってしまう。何も言ってくれないのです。翌日の演奏会に備えて、ぼくは徹夜してその鍵盤の何が先生を怒らせたのかを調べる。何日目かに、はじめて先生はうなずいてくれる。こうやってぼくは学んだのでした」」p.198
・「瀬川 ミケランジェリ先生のような、それこそ世界ナンバーワンの、F1レーサーのようなピアニストの調律で一番神経を使うことは、鍵盤のタッチの感じです。もちろんピッチを完全に整えるのは当然ですが、一般の方々は「調律」というと、ピアノの弦の音程を整えることだと思っていらっしゃるでしょうが、もちろんそれが第一条件です。本物のピアニストの場合は、このことから始まって、鍵盤のタッチや、弦をたたくハンマーを、その先生の音色感をつかんだうえで、ほぐしたり、固めたりとか、いろいろ大変な仕事があるのです。」p.198
・「その先生の指の癖によって、八八鍵のへこみかたは、さまざまな違いがあるわけです。」p.200
・「調律は、一オクターブを一二の音で等分に分けて、そこに半音の間隔で、少しずつズレを作るということなんです。調律に大切なことは、①耳、②手先の器用さ、③根気が続くための体力です。」p.204
・「ぼくは「音楽」を聞いていたのだった。耳がよいとか悪いとかではない。耳の使い方なのである。  瀬川さんが最初のうちは、ピアノを「調律する物体」として聞けなくて、「ピアノ音楽」を聞いてしまったという悩みが、ぼくにはよくわかる。」p.209
・「耳には直接聞こえないけれど、どんな音をならしても、その倍音が同時になり、それが人間の耳に快感を与えるわけです。」p.211
・「岩城 機械的に計測はできないんですか?
瀬川 できます。でも、できないんです。そこを言葉で言うのは不可能です。
」p.212
・「ルビンステインぐらいの大物になると、音楽会の前に、今晩の協奏曲の後に、アンコールに何を弾こうかなどと、考えていない。普通のピアニストは、あらかじめ曲を用意して、さらっているものである。」p.217
・「本来オーケストラというガクタイ集団は、演奏が終わるやいなや、一刻も早くステージから出ていきたい本能の持ち主なのだ。」p.218
・「演奏会は原則として、二時間内で終わらないと労使協定違反になる。規定時間を過ぎると、経営者側は、オーバータイム手当を払わなければならない。」p.220
・「オーケストラの演奏会のアンコールは、いつごろから始まったのだろうか。  いろいろな説があるが、偉大な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、戦前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者になってからだという説を、ぼくは信用している。  ベルリン・フィルの定期演奏会の会員たちに、最後の曲のあと、うんと拍手をするという習慣をつけさせるためだった、というのだ。」p.228
・「演奏に、マジメ、フマジメはないのはもちろんだが、必死になってやったその楽章を、アンコールとして演奏するときは、まったく違う気持ちになってしまうから不思議だ。つまり、オーケストラと一緒に、すごくリラックスして、楽しく演奏できるのだ。  そして不思議なことに、たいていの場合、さっき真剣にやったときより、うまくいってしまうことが多い。プレッシャーから解放されて、音楽の本質に素直に触れることができるからだろうか。」p.229
・「ひとつだけ企業秘密を明かすと、放送のための公開録音のときは、オーケストラの誰かがミスをして、うまくいかなかった楽章を、嬉しそうな顔で、アンコールとして演奏することもある。」p.230
・「つまり、平均すると練習に二日間、本番に一日というわけで、三日に一度、音楽会という計算になる。これ以上のペースは無理である。(中略)もう20年以上も前に、バイオリンの巨匠、アイザック・スターンと共演したことがあった。  「このところ、ちょっと音楽会をやりすぎているので、少し反省しているんだ」  「……?」  「この一年間に、リサイタルや協奏曲をあわせて、290回もやってしまった。身体はともかく、さすがに心が疲れてしまった。よくないことだ」」p.236
・「なんといっても、音楽専用のサントリーホールが、東京の音楽界を変えてしまいました。それまでのホールは、すべて多目的ホールでしたから、音楽専用ホールの美しい音を聴いたお客さんは、音楽を聴く本当の喜びを覚えてしまったのではないでしょうか。」p.244
・「東京は、世界最大の音楽市場なのだ。年間に3000種類以上のチラシの束が、東京中のコンサートホールで、毎晩、何千何万と配られているのである。」p.245 数年前、初めて東京(NHKホール)での演奏会を聴きに行ったときに、会場前でビニール袋に入った分厚いチラシの束を配っているのを見たときは衝撃を受けました。量が多すぎて、一々プログラムに挟むなんてやってられないのですね。
・「先の音楽会の宣伝も今日の音楽会が終わってからでなく、開始の前に配るのが重要だと思います。  つまり、食べ物のことは、これから食べる食事とは関係なく、食事前に考えたほうがいいと思うんです。終わったばかりでは、次の食事のことは考えませんからね。」p.253
・「それぞれのコンサートの内容によってチラシの順番を変える。チラシの一番上に何を置くかで、受け取り率が大きく変わる。  たとえばバレエの公演会場で配るチラシの一番上に、バレエダンサーの熊川哲也さんの公演チラシを置くと、客のすべてが受け取るそうである。」p.257
・「普通は、自分の音楽会のときに、他人の演奏会の宣伝をされるのはイヤと思うものです。しかし前にも言ったように、東京ではお互いさまだという感じがあるのです。大阪や名古屋では配れないということは、それだけお互いに嫌い合っているわけですね。」p.258
・「昔は来るのがマニアばかりで、素朴な情報があればよかったんですけど、今はポップスも聴くけど、クラシックも聴こうか、という膨大な層になっています。(中略)現在のクラシック界は、クラシック・ファンだけでは成り立たなくなっているのです。」p.258
・「二年ほど前、サントリーホールでベルリン・フィルハーモニーが演奏中に、お客さんが持っていた携帯電話が鳴って大問題になり、サントリーホールは、次の日からお客さん全員に、携帯電話を厳重に注意するようにパンフレットを配るなど、大変に敏感で強力な反応をしました。  そうして、超スピードでサントリーホールは、携帯電話の電波を防ぐウエーブ・ウォールにしてしまったので、現在は、携帯電話が演奏中に鳴ることは、なくなりました。」p.263
・「そして、ぼくと同世代の多くの音楽家――黛敏郎さんや武満徹さんたちが、まだ音楽家のタマゴの頃、何度も石井のおばさんに感謝したことを知った。  「この子はモノになる。勉強させてやろう」  おばさんの直観である。(中略)主催者の目をごまかして若者を会場に入れてやる石井さんを、ノンキそうな大村さんは、いつもハラハラ見ていたという。」p.267
・「政治、ビジネス等の人間社会のすべての活動が、裏方によって動いているのだということを、「裏方のおけいこ」の連載の三年間で、実感したのだった。」p.270
・以下、解説(江川紹子)より「感動的だったのが、滋賀県にある「びわ湖ホール」。どの席から、舞台がどのように見えるのか、電話に出たチケット担当者が熟知していて、いま残っている中でよさそうな席を丁寧にアドバイスしてくれた。」p.273
・「それにしても、岩城さんが書かれる文章は、しばしば本題から離れて脱線する。実はそういう部分こそ、岩城さんの人柄がにじみ出たエピソードが多く、読んでいて楽しい。」p.274
・「そう、岩城さんは「本音の人」なのだ。  それに、「行動の人」でもある。本の中でもこう書いている。  <準備万端整うのを待っていたら何事もできないから、まず先行するのが、ぼくの主義である>」p.275
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【本】図像探偵 眼で解く推理博覧会

2007年10月28日 17時39分57秒 | 読書記録2007
図像探偵 眼で解く推理博覧会, 荒俣宏, 光文社文庫 NFあ18-1, 1992年
・著者が所有するアンティーク本の中からお気に入りの図像を取り上げ、それにまつわるエピソードを紹介し、またそこに含まれる意味を読み解く。西洋から想像した、当時は未知だった日本の風景やアフリカの動物の図、飛行機の無い時代に描かれた富士山を眺め下ろす地図、当時の思想を反映した風刺絵など。
・著者はそれぞれの図についてとても楽しそうに語っているのですが、その歴史や美術に関する知識が細かすぎて、私にはついていけないところが多々ありました。著者と一緒に楽しい気分を味わうためには、それなりの教養が必要。
・図画を楽しむためには、やはり文庫本のサイズではきびしい。左右ページにまたがった図では、その中央がページの谷間に吸い込まれてしまい、せっかくの図が台無しに。
・「なんのことはない。コンピュータもまた、美術史をなぞって進化しているだけなのだ。言い換えれば、私たちが哲学だ趣味だ思潮だといって極力神秘めかしてきた美術史上の様式区分は、すべて、形に対して加える "彫刻" すなわち操作のパターン集として解析できるのである。」p.7
・「奇妙なことに、イギリスではシェークスピアの昔からヘビを虫の仲間と考えたし、中国や日本でも、「虫」の字は元来ヘビのとぐろを巻く姿を形象したものであった。つまり、多くの土地ではヘビは「虫」だったのである。」p.33
・「和犬と呼ばれる種類では、たいていの場合、耳がピンと立っている。逆に、耳の垂れた犬は洋犬と考えてほぼ間違いではない。」p.37
・「最近の大脳生理学によれば、人間の脳の一部にはゴチャゴチャとした図の群れから「顔面」あるいは「目鼻立ち」を識別する中枢がある。つまり、顔を見分ける働きが、生理レベルで大脳に存在するというわけだが、描く側も、初めて出くわした対象に対しては、どこかに「顔面」のイメージをまぎれこませて、図像の安定をはかる傾向があるようなのだ。」p.136

《チェック本》
エドガー・アラン・ポオ 『群集の人』
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【本】理工教育を問う -テクノ立国が危うい-

2007年10月25日 22時07分23秒 | 読書記録2007
理工教育を問う -テクノ立国が危うい-, (編)産経新聞社会部, 新潮文庫(6052)さ-33-2, 1998年
・日本における "理工離れ" についてのレポート。「若者の理工離れの暗雲」、「大学院博士課程の貧困」、「理工教育再生への試み」と題した三部からなり、関係各所への豊富なインタビューで構成される。
・今のところまだ "理工離れ" からくる弊害を、肌で感じた事はありません。本書は10年以上前の内容ですが、これからジワジワと影響が出てくるのでしょうか。これに加えて、単純に数(人口)の上で日本人の比率はどんどん減るし、最近まで "発展途上" と呼ばれていた国々の人は力をつけてくるしで、この先の技術競争はずっと厳しくなるのでしょうね。問題の底には「他の国には負けられねぇ」という考えがあるようですが、「国の隔たりを無くした技術・人材・知識の共有」のような方向には流れないものでしょうか。…なんて無理な話か。"技術戦争" に終わりは無い?
・表紙[写真]の豆電球は、うっかりすると見過ごしそうですが、この配線では点きません。本書中で紹介されている、豆電球と乾電池の接続法についての設問で某大学の学生では正解者が35%しかいなかった現状を揶揄したものか、それとも素で間違っているのか。
・「「医学が人の命を救うなら、国の命を救う意味で理工系の人材の育成は重要だ」」p.32
・「「入試科目を減らした年には一時的に志願者が増えるが、翌年は高倍率が敬遠され、大きく志願者を減らすケースが多い。結局、入試科目の減少は志願者増にはつながらず、あとが怖いんです」」p.35
・「研究開発担当役員の一人は、最近の新入社員を「しんにゅう社員」と揶揄する。「難しい仕事は『避』け、普通の仕事も『遅』い。自分では判断できず、『迷』う。そのくせ、『遊』びはうまい」というわけだ。」p.46
・「「理科嫌いが増えている原因は教師にあります。いまの先生はどうしても、結果の出る入試や運動部のほうに目が向いてしまい、"将来の科学者を育てたい" などと考えている先生はほとんどいません」」p.74
・「一連の調査結果は、現代の若者が科学技術の成果に対しては強い関心(受容的関心)を示すものの、科学技術の成果が得られるまでのプロセスに対してはあまり関心(能動的関心)を示さない傾向を示している。こうした若者を小林助教授は「文明社会の野蛮人」と呼ぶ。  なぜ「野蛮人」なのかというと、「高度に文明が発達した社会に生まれた人間は、小さいころから便利な製品が身のまわりにあふれ、科学技術の恩恵に浴しているため、それらが先人たちの努力の結晶であるというプロセスを見失い、自然物と人工物との区別がつかなくなる」からだそうだ。」p.84
・「「私は恵まれています。友人の中には、親から『学費はもう出せない』と言われ、泣く泣く大学院進学を断念した優秀な学生が何人もいます。親のサポートがないと大学院、特に学費の高い私学の大学院には進めないのが現状です」」p.130
・「最近、豆電球のエナメル線のカバーをむかずに実験を始め、「電球がつかない。この豆電球は壊れている」と生徒に話した小学校の女性教員の実例が日本物理教育学会で報告されたが、」p.146
・「小委員会のテーマは「"理科" が消える危機感への対応策」だった。  議論の末、最終的に緊急に解決しなければならない課題が三つに絞られた。一つは大学入試の問題。二つ目は「国民的素養としての理科」と「専門家養成のための理科」の考え方とその在り方の問題。そして最後が、教員養成に関する問題だった。」p.148
・「理工教育再生の大きなカギの一つは、間違いなく大学が握っているのである。」p.178
・「アメリカをすべて見習う必要はないが、日本の大学は競争的環境があまりにも少なすぎる。  今後、日本の大学が外国人にも教員採用への門戸を拡大し、世界に伍した教育・研究成果をあげていくためには、若手研究者の競争的環境をつくりだすための「任期制」の問題は避けて通れないだろう。」p.188
・「「現在の日本の教育が抱える最大の問題は、教育の流れがあまりに体系化され過ぎた点だと考えます。小学校から東京大学に進学するまでに非常に体系化されたルートがあるわけです。これは子供の創造性を養う上で困ったことです」」p.208
・「「最大のソフトは人材であり、資源小国の最大の資源である」  大学キャンペーンを始めてから三年経って、私たちが行き着いた結論のひとつがこれである。」p.218
・「その有馬氏は、理工教育再生のポイントについて「まず、お父さん、お母さんたちが理科に興味を持つことだ」と強調している。」p.220
・「わが国の家庭においては、親子の対話、特に父親との対話が極めて少ない。人間の才能は、優れた他の人間との個人的な接触によって育まれると言われる。その意味で、多様な社会経験を持つ父親との、ゆったりとした対話こそが、「考える力」を子供達に備えさせる原点であると言っても過言ではない。」p.227
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【本】失投

2007年10月20日 21時34分26秒 | 読書記録2007
失投, ロバート・B・パーカー (訳)菊池光, ハヤカワ・ミステリ文庫 HM110-1, 1985年
(Mortal Stakes by Robert B. Parker 1975)

・私立探偵スペンサーシリーズの第三作目。謎解き中心のミステリー物を期待して読みましたが、解説にもあるように主人公のスペンサーが活躍するヒーロー物という雰囲気でした。"いかにも" なアメリカンジョークをとばしていたかと思うと、その一方で哲学的な香りがする議論を闘わせたりもする、その饒舌さが印象に残ります。
・紹介文「スペンサーは、我が耳を疑った。レッド・ソックスのエース、マーティ・ラブが八百長試合を? 野球賭博には大金がからむ。あり得ない話ではない……球団の極秘の依頼で調査を開始したスペンサーはラブの妻リンダに疑いをもつ。彼女の秘められた過去が事件の鍵なのか? やがて冷酷な犯罪組織がスペンサーを襲うが……現代の騎士、私立探偵スペンサーが、大リーグの黒い霧に挑む! 人気沸騰のシリーズ会心作、待望の新訳」カバー
・「シンフォニィ・ホールからわずかに下ったハンティングトン街の古風な煉瓦造りのマクドナルドでチーズバーガー二つとチョコレイト・シェイクを取った。」p.42 いくら好きだからって、同じハンバーガーを二つ注文するという行為に度肝を抜かれました。アメリカでは普通なのでしょうか。私(日本人?)には無い発想。
・「「この中に、二組の指紋のついた写真が一枚入っている。一組は俺の指紋だ。もう一組の指紋の主を知りたい。FBIに照会してくれないか?」  「なぜ?」  「俺は結婚する事になっていて、花嫁候補の信用状態を調べたいんだ、信用するか?」  「しない」」p.65
・「私はフィルムが本物であるという前提に立って全てを考えているので、確認しないで事を進める訳にはいかない。」p.133
・「スペアリブが出来上がって、パンが熱くなった。薄切りのズッキーニをビールの練粉にさっと入れて、少量のオリーヴ油で揚げた。一人で食事をするのは、何もこれが初めてではない。今日は楽しくないのは、なぜだろう?」p.212
・「しかし、俺には、いかに行動するか、という事しかない。俺に当てはまるシステムはそれしかないんだ。俺がどのような人間であるにせよ、部分的には、自分がやるべきでないと思う事はやらない、という事が基盤になっている。あるいは、やりたくない事をやらない。」p.267
・「とにかく、俺は、自分の死というものをかすかに味わった。誰でもたまにそういう事があるのだと思う。それが自信喪失という事になるのかどうか、俺には判らない。事によると、人間であるがために避けられない事かもしれない」p.268
・以下、解説(北上次郎)より「スペンサーにとって大切なのは事件の解決ではなく、ましてや依頼者の幸福でもなく、現実と対しながら自己の名誉をどこまで保ち続けられるかということである。そのためであるなら暴力をふるうことに何のためらいもない。現代の騎士物語として、この暴力、肉体の強調はいささか特異だ。」p.272
・「ロバート・B・パーカーはあるインタビューに次のように答えている。  「どちらかというと、冒険小説と呼んでほしい。スペンサーは探偵だが、シャーロック・ホームズとか、エラリイ・クイーンみたいな探偵じゃない。複雑な謎を解かないんだからな。チャンドラーがかつて "隠れた事実を探る一人の男の物語" と言ったことがある。同感だね。男、心情、名誉の行動についての本なんだ。西部小説と同じ伝統だ」(木村次郎『尋問・自供』早川書房)」p.273
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【本】エピジェネティクス入門 三毛猫の模様はどう決まるのか

2007年10月18日 22時03分06秒 | 読書記録2007
エピジェネティクス入門 三毛猫の模様はどう決まるのか, 佐々木裕之, 岩波科学ライブラリー 101, 2005年
・"岩波科学ライブラリー" このシリーズは初めて読みました。平易な語り口とほどほどの分量ながら、内容としては新書よりも専門領域に一歩踏み込んでいて、少しレベルが高く感じました。
・読んではみたけれど、いまいち "エピジェネティクス" とは何なのか、ピンときていません。「三毛猫の模様はどう決まるのか」という問いに対する回答は、「エピジェネティックな現象が偶然に起こった結果」であるとのことですが、やはりどこか釈然としない。喩えるなら、「今日の天気はどう決まるのか?」という問いに「偶然です」と答えられているような気分です。"偶然" という言葉がひっかかります。本当にそれは "偶然" 起こる現象なのか。読む側としては「天気予報を100%当てる方法」を期待するのですが。
・「われわれ人間も含めて、どうして同じ種の生物がこのように多彩な外見を示すのでしょうか。  第一の要因として、ゲノム(すべての遺伝子と、それらの調節領域、およびそれ以外の部分からなる遺伝情報全体をこう呼びます)の多型があげられます。(中略)任意の二つの固体を選んでゲノムを比較してみると、1000塩基に一つ程度の割合で塩基置換(たとえばCがTに置き換わるなど)が存在します。このような正常集団中の違いを多型と呼びます。」p.1
・「エピジェネティクスは、「DNAの配列には変化を起こさないで遺伝子の機能を調節する仕組み」のことをいい、ときに見た目にも鮮やかな影響を外見に与えます。また、エピジェネティクスは、ごく単純には「遺伝子の働きを抑える仕組み」と考えていただいてもけっこうです。」p.2
・「トランスポゾンは生物の進化の途中でゲノムに寄生するようになったDNAで、ゲノム上のある場所から別の場所へと移動することが可能な転移性因子のことです。」p.3
・「雄にはX染色体が一本しかありませんから、茶か黒かどちらか一方の遺伝子しか持ちません。ですから雄は二色(白と茶、または白と黒)にしかならず、三毛猫はほとんど例外なく雌なのです。」p.8
・「エピジェネティクスは偶然を取り込む生命現象と言えるかもしれません。」p.11
・「現在では、エピジェネティクスは「DNAの配列に変化を起こさず、かつ細胞分裂を経て伝達される遺伝子機能の変化やその仕組み」または「それらを探究する学問」と定義されています。」p.17
・「DNAの塩基配列には変化を与えないで、化学修飾というかたちで遺伝子に印をつけ、それをDNA複製と細胞分裂を経て次の細胞へ伝えていく……これがエピジェネティクスの仕組みの神髄です。」p.32
・「では、動物では獲得形質の遺伝は起こらないのでしょうか。必ずしもそうとは言い切れません。」p.54 前出『生物学個人授業』(p.157)では真向から否定されていましたが、生物学的常識は変わりつつあるようです。
・「エピジェネティクスは遺伝的なプログラムにしたがって働くだけでなく、偶然や環境をも取り込みつつゲノムを操ることができることがおわかりいただけたでしょうか。エピジェネティクスはとても柔軟性に富み、寛容な遺伝子の調節機構と言えるかもしれません。」p.60
・「がん細胞でゲノムDNAが全体的に低メチル化状態にあることは、およそ20年前に発見されました。これはがんの種類を問わず見られ、しかもがん化する以前の腺腫など、良性腫瘍でも見られる傾向です。(中略)低メチル化により本来適度に調節されるべきがん遺伝子の働きが増加する場合があるのではないかと疑われています(表1)。」p.75
・「実際、がんのように解明されているわけではありませんが、動脈硬化、喘息、糖尿病、統合失調症、アルツハイマー病など、よく見かける病気でもエピジェネティクスの関与が疑われています。」p.78
・「たとえば、がん抑制遺伝子のメチル化の度合いを調べることで、悪性度や進行度を判定したり、どのがん抑制遺伝子が抑えられているかで、治療法の選択を変えたりすることが可能になるかもしれません。」p.80
・「一方で、遺伝子をメチル化する技術については最近進展がありました。2004年の夏、特定の遺伝子の働きを人為的にDNAメチル化で抑え込んでしまう方法が発表されました。目的とする遺伝子だけを狙い撃ちできるとは夢のような話です。」p.84
・「DNAメチル化は生物にとって非常に使い勝手のよい道具であったと思われるのです。実際、DNAメチル化は自分自身の遺伝情報を守る、ウイルスやトランスポゾンを不活性化する、染色体構造を安定化する、転写のノイズを抑える、遺伝子の発生段階特異的または組織特異的な発言を調節する、ゲノム刷り込みの目印となる、X染色体の不活性化を安定化するなど、さまざまな目的に使われています。」p.91
・「生物は使える道具はなんでも利用して生きています。しかし、一度その道具に依存したシステムを作って利用を始めると、今度はその道具なしには生きてゆけなくなってしまう危険性があるのです。哺乳類はインプリンティングやX染色体不活性化などの高度な現象にDNAメチル化を利用しており、もはや完全に中毒してしまった状態と言えます。」p.92
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