小さな旅のアルバムⅡ

カメラ片手に旅に出よう! 
温泉、散歩、日常の記録を、気のむくままに・・・

「古代蓮の里」埼玉県・行田市

2015年07月26日 | 花見旅
先日デジイチ用100mmマクロレンズを購入したのでテスト撮影を兼ねて埼玉県にある「古代蓮の里」に行って来ました。


どうやら花のピークは7月初めで、もうすぐ終りを向える時期のようで人も少なめで静かでした。


古代の里に到着したのは、am10時、花の勢いがいいのは9時頃までとか・・・完全に外してま~す。


ただラッキーだったのは、有料のはずの駐車場が無料になっていました。


なるべく元気よさそうな花を探してみましょうか・・・白の花は、碧台蓮(へきだいれん)たぶん


なぜか宇宙を感じる不思議なカタチ。


今日も暑~い! 水の流れを感じながら公園内を散歩、木の木陰もありいい雰囲気でした。


淡いピンク色が綺麗です。


メダカ?の学校


しかし暑いですね、木陰があるところはいいのですが陽射しの直撃をうけるところでは、たちまち汗が、じわーとシャッに張付いてしまうありさま、何とかもう少し涼しくなってほしいものです。



2015年7月25日K-30&D FA マクロ 100mm F2.8 WRにて撮影
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暑~い!

2015年07月19日 | 日常
今日は、朝から晴天でいい感じと思っていたら、やたら蒸し暑くてとても外出する気になれず・・・
遠出は避け少しばかり放置気味の庭の手入れを、して見ることにしました。

ポーチュラカという花を近所の花屋さんから買ってきました。
この花、暑さに強く水をあげるのを忘れてもへっちゃらとか、でも午後になったら少しばかりしおれ気味に、それぐらい今日は暑~い。



ずぼらな我が家にピッタリかも?



後から解ったのですが夕方になると花がしぼんでしまうようです。すこし寂しいかな・・・



こちらは、夏に強い百日草、ついでに買って見ました。



こちらは、松葉ボタン、ポーチュラカと同様な品種らしく夏に強い性質らしいので試しにプランタンに植えて見ました。



どれも一株98円程度のお値段だったので、秋まで楽しめればと思っています。



GW前に植えたゴーヤがいい感じに育ってきました。
そういえば関東では、梅雨が空けたらしいですね。

2015年7月19日 K200Dにて撮影           
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長篠・設楽原の戦いの地(愛知県・新城市)

2015年07月11日 | 歴史旅
高天神城跡」を訪れた後、長篠・設楽原合戦の戦いが繰り広げられた地を訪ねて来ました。
静岡県から愛知県への移動です。下道で車で走ること数時間、設楽原歴史資料館に到着した頃には、雨が降って来てしまいました。明日ここで火縄銃を使った祭りが行われるとの話を聞いたのですが、この天気では祭りは、難しそうです。


武田信玄亡き後、武田家を継いだ武田勝頼が(15,000人)の軍を率いて徳川家康の拠点の城、長篠城(500人)を囲んだことで、織田・徳川連合軍(38,000人)と武田軍との全面戦争になった戦いで太平洋戦争に例えれば、ミッドウェー海戦?・・・歴史が変わったとされる重要な場所です。


信長は、三千挺もの鉄砲を三段構えで撃ち、結果、戦国最強とされた武田軍の騎馬隊を打ち破った歴史に残る合戦。
その後、武田氏の勢力は大きく衰退し織田氏の勢力が絶対的になるきっかけとなったのは教科書にも記述のあるところです。


単純に考えれば、長篠城の攻撃をあきらめて甲斐の国に戻ることが出来れば・・・歴史が変わった可能性も。信玄の側近だった名だたる武将たちは、ひとまず退散を進言、また馬防棚を避け横から攻める案を勝頼に提案したが受け入れられずとの話もあり・・・



勝頼は、兵力的に見て不利にもかかわらずどうして織田・徳川連合軍への正面突破の道を選んだのか?信玄が落とせなかった高天神城攻略に成功した勝頼の自信か?信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う話が伝えられている。


もしや信玄依頼の重臣たちへのリストラ実行策か?


織田・徳川連合軍への正面突破を実行し多くの火縄銃の威力に圧倒され破れ、名だたる名将を失ったと伝えられているが元々兵力に差が有りすぎる。


信長が三千挺もの鉄砲を三段構えで撃ち、勝利したとの話だがこれは、こじつけの話では?現実としては、4段~5段打ちでなければ馬のスピードにはかないません。
以前、松本城で火縄銃での実演を見物したことが有るのですが三段構えでは、タイムラグがありすぎでした。真実は???


色々な想いを抱きながら、帰り道、浜松の餃子家さんでの夕食。


やはり自分がドライバーの場合には長距離の運転時には、腹七文目でなくては・・・
お腹がいっぱいになり過ぎで帰り道の車の運転が辛くなった掛川~新城市までの旅でした。私は、武田信玄ファンなので今後、武田家の辿った地をゆっくり巡って見たいと考えていま~す。

2015年7月にK-30&TG-850にて撮影                                   
                                          のち
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高天神城跡(静岡県・掛川市)

2015年07月07日 | 城・城跡
掛川城」見学の後、古い宿場町の探索か城跡かと迷ったあげく今回は、高天神城跡の探索をすることに、昨日、大雨でなければ両方探索が出来たのにな~あ(涙)と思いながらの城跡見学です。
「高天神を制するものは、遠江を制す」と言われた高天神城、標高132mの鶴翁山を中心に、自然の地形を巧みに活かした山城です。ここを舞台に武田と徳川による激しい争奪戦が繰り広げられました。


三方が絶壁で、難攻不落とされた城だが現在は杉や檜のうっそうとした林に覆われています。


高天神城の築城は、室町時代、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する過程で築かれたとする説が有力と言われています。


訪れる人は決して多くは無いようですが少なくも無い?城跡への探索を終えようとしている関西系のおばさんたちと遭遇、杖を貸してもらいました。


今川氏の滅亡後徳川家康の持ち城となり、小笠原長忠が引き継ぎ城主となりました。


1571年(元亀2年)、武田信玄が攻めるも城は落とせず。


信玄が攻め落とせず、跡を継いだ勝頼が天正2年、大軍二万で囲んで開城させた。


名将信玄があきらめた城を落としたのだから、勝頼の武名は大いに上がったに違いない、この時、援軍の織田信長が間に合わず、おわびとして家康に黄金2袋を贈呈した。


しかし長篠・設楽原の合戦に勝利して反攻に出た家康は、横須賀城(掛川市)を拠点に高天神城の奪還を目指す。家康は無理押しはせず、天正5年ごろから周囲に砦をつくって包囲し、城への補給路を断つ作戦に出た。


写真は現在の設楽原


織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は、その後衰退。


横須賀城を拠点とした家康が高天神城の奪還に成功しました。
深い緑の影を落とす木々に覆われた城跡は、戦国のロマンを秘めながら静かに時を重ねています。

今日は、これから長篠・設楽原の合戦場址へと向かいます。  

K-30&TG-850にて2015年7月撮影
                                   
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掛川城(静岡県・掛川市)

2015年07月05日 | 城・城跡
静岡県にある掛川城に行って来ました。
梅雨の真っ最中のせいか到着した日は大雨で観光は、出来ずじまい(涙)
翌日の朝、雨が止んだので早速城へ向かって見ました。
城近くの店は白壁の外観が多く城下町の雰囲気を感じる工夫がされていていい雰囲気でテンションアップ。



掛川城の表玄関にふさわしい桜門造りの本格的な櫓門。


土曜日の朝、静かな街、


丘の上に建つ城


階段の上にそびえる天守閣


城壁に空けられた 火縄銃用の狙い窓


のぞいてみると・・・


今川氏真が徳川家康に攻められた時に、井戸から立ちこめた霧が城をつつみ家康の攻撃から城を守ったという伝説がある井戸。


三層四階の天守閣へ


掛川城は、日本初の「本格木造天守閣」として復元されたもの、鉄筋より雰囲気がありますね。


遮るものが無いので見晴らしは最高でした。掛川駅方面をみると新幹線が見えました。


右の円になっている花壇が本丸があった場所


掛川城御殿を見下ろします。


掛川城御殿から城を見上げる。


江戸時代後期に再建された建物で、全国で数ヶ所にしか残っていない大変貴重なもの。


本丸跡には、花が植えられた公園となっています。

東海道新幹線に乗ったときに見えた城、調べたら掛川城であることが解ったのが8年前、やっと訪問することが出来ました。

2015年7月4日土曜日K-30&TG-1にて撮影

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