小さな旅のアルバムⅡ

カメラ片手に旅に出よう! 
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武田勝頼公の史跡を巡る

2020年10月04日 | 甲信越の旅
久々に旅に出かけてきました。
写真は、JR中央線「甲斐大和駅」の近くにある武田勝頼公の銅像です。
一般的に勝頼公は、父、信玄の遺言を守らず戦による領土拡大をし、長篠・設楽が原の戦いにおいて織田、徳川連合軍に敗れ、この戦を境に衰退、織田軍に追い詰められ最終的に自害し戦後最強と言われていた武田家を滅亡させてしまった不運な武将として扱われています。太平洋戦争で言えば、長篠の戦いは、ミッドウェー海戦に例えられるかも知れません。まあこの見方は、戦勝者からの見方なので・・・
織田軍の武田狩りの追手は諏訪まで及び未完成の新府城(韮崎市)で、大軍を迎え撃つには不十分と言う判断になり、真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿城(大月)に逃亡するか軍議を開く。真田昌幸は要害である岩櫃城行きを勧めたが、小山田信茂は、岩櫃城行きが遠路であり、雪が深いことから岩殿城行きを説き結局は、岩殿城まで退却して織田勢を迎え討つことになる。最終的に武田勝頼は姻戚関係のある武田一族でもあり古参の小山田信茂の岩殿城行きを決意するのだが小山田信茂の裏切りにより向かっていた場所を失い最後にたどり着いた地がこの地となるわけです。
大河ドラマ真田丸でも描かれていましたが未完成の新府城に火を放ち、約700人の軍と、共の者で出発がこの地にたどり着いた頃には200人足らずに。最終的には50人にも満たない数になってしまったと伝えられています。
というわけで以前から興味があった武田家滅亡の地と言われている山梨県の大和町田野地区を旅して見ました。

甲斐大和駅は、国道20号を勝沼から大月方面に少し戻ったところにある駅で平地がほとんど無い山間の駅でした。
そこから少し大月方面に戻り分岐する県道218号で山間の道を進みます。道路は整備されてますが見えるのは山だけです。


ここには、姫ヶ淵、鳥居畑古戦場跡、土屋惣蔵片手切り史跡、武田家関連の史跡などあります。


武田勝頼親子および家臣の慰霊のために徳川家康の命により創建されたのがこの天童山景徳院です。


自刃した勝頼一行の首は信長の元に送られますが、首のない勝頼父子の胴体をこの場所に埋めたと伝えられます。


自刃した勝頼父子の首を、信長の元に送る前に洗ったと伝わる首洗い池。


一度は訪れて見たかった場所では、あるのですが少しばかり悲しい気分での訪問となっちゃいますが武田家ファンとしてはどうしても外せない場所でした。


景徳院本堂、東京がgotoトラベルに加わっていないとは言うもののここは、観光客を見かけずやはり寂しい。


武田信勝公生害石。


墓地は本堂では無くこのお堂の裏側にあるそうです。見逃してしまった(涙)


景徳院の反対側にある駐車場にあるのは、逃亡する将兵が多い中、最後まで武田勝頼に忠節を尽くした侍女16名も、武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされる。その侍女たちが死を選び、身を投げた場所が姫が淵。


水の流れが速く岩が多い。


武田勝頼公は、天正三年(1575年)の長篠・設楽が原の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗北したのですが、実にそれから7年間も織田・徳川勢の侵攻に耐え続けていました。私が思うに現実的には信玄が精力的に開拓した金山が枯渇しはじめ、経済的にも疲弊していたことが武田家滅亡を導いた原因の一つではないかとも考えます。
そして考え深いのは、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれましたが武田滅亡から約3ヵ月後の出来事だったことです。
歴史にはifはありませんが・・・

市川市の自宅を出発していた時に降っていた小雨も止み、これから今日の宿泊地である下諏訪を目指します。

2020年9月16日土曜日TG-6とM6で撮影

コメント (2)
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