ナナ日記

ミニチュアダックスのナナは16才9ヶ月で虹の橋を渡って行きました。
この頃は庭仕事と時々読書。歴史好き。

ふるさと探訪

2007年07月07日 | 家族日記
母を送っていった帰りに、平生町阿多田の回天資料館(いや、こういう名前ではなかったかも)に立ち寄りました。
映画で使った回天のレプリカがあって、人一人ようやく座れるくらいの高さの固い冷たい黒い鉄の筒なんだよね。この中に入って、ただ敵に向かって突撃していったわけだ・・。
周南市の大津島にある回天記念館に比べると資料も少ないんだけど(あそこは基地も残っているし)、身近にこんな歴史があったんだなあ~と感慨深かったです。
9人の人がここの基地でなくなったり出撃したりして亡くなっているんだけど、私の父親と同じくらいの人たち・・。大正13年~15年、昭和元年~生まれくらいで。
私の父は当時病気で、戦争にはいかなかったんですが、私が生意気盛りの頃に、なんかの話の時「死に損なったものの気持ちはわからん」というようなことを吐くように言ったのを思い出しました。
9人の中で、隊長さんが終戦直後の8月18日に自殺して亡くなったとあって、切なかったです。部下を死なせたという自責の思いだったんでしょうが、その方も享年21歳。
なんて若い・・

その後、平生町の郷土資料館に立ち寄りました。
色々な歴史資料をみてから帰ろうとしていると、館員の方が出てこられて、「建物の左手に回天の実物が置いてありますよ」と教えてくださいました。
本当に、回天2号機の実物の一部だそうです。阿多田でみたものよりも一回りもおおきいものでした。
館員の方の説明では、1号機はとにかく急ごしらえで作られたもので、色々不備な部分が多かった。潜行の深度は60mしかなかったそうなのです。搭載していく潜水艦も60mまであがってこないと、回天を外に出せなかったということで、それだけ攻撃もされやすかったので、2号機以降改良されていったというような話でした。

阿多田は訓練基地なんだけど、訓練といっても戦争末期だから、平生湾にも米軍の機雷が沢山あったようで、訓練中にそれに当たって亡くなるというのもあったらしい。

こんなに人の命を無駄にしていく戦争って、絶対あってはならないと思いました。
人の命より大事なものってなんだろうね