チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「イタリアにはイ長調がよく似合う(舞楽借景)」

2008年07月26日 19時47分56秒 | 内緒鏡で覗くイ長科クリニック
演歌や歌謡曲などには、
「上海帰りのリル」「蘇州夜曲」
「(薔薇の騎士のヴァルツァーの主題による)虹と雪のバラード」
「(ドイツ民謡「故郷を離るる歌」の主題による)青葉城恋唄」
「東京キッド」「ブルーライトヨコハマ」「京都慕情」
「大阪で生まれた女」「南国土佐を後にして」「思案橋ブルース」など、
いわゆる「ご当地ソング」なるものがある。いっぽう、
くら音にも「ご当地もの」はある。
「ローマの謝肉祭(1838年作曲-1844年出版)」(ベルリオーズ)、
「イタリア交響曲(1833年作曲-1851年出版)」(メンデルスゾーン)、
「イタリア奇想曲(1880年作曲-同年出版)」(チャイコフスキー)、
「スペイン奇想曲(1887年作曲-同年出版)」(リムスキー=コルサコフ)、
など……。ところで、
「東京キッド」の故美空ひばり女史は、
「歌に行き、恋に生き」た歌手だった。恋した相手は画家ではなく
ギターを持った渡り鳥だったが。さて、プッチーニのオペラで、
タイトルロウルがグォ・ヂンヂンなどに負けじと、
テーヴェレ川まで身をおトスカなどと言って
序奏をつけてダイヴして果てたのは、
サンタンジェロの城塞のテッペンからである。が、
残念ながらシブキはだいぶあがってしまって、
高得点は期待できなかったようである。
「サッコ・ディ・ローマ」時にこの城で防衛戦に加わったり、反対に、
教皇の怒りをかってこの城に幽閉されてたこともあるのが、
ベンヴェヌート・チェッリーニである。同人を
タイトルロウルに扱ったオペラをベルリオーズは書いた。が、
おもにその多楽器使いが嫌われてた同人の作品の初演は、
例によって嘲りで迎えられたらしい。
vnはプリーモ、セコンドそれぞれが少なくとも15丁、という
当時としては異例な大編成である。にもめげず、
ベルリオーズはこのオペラの中から2つの主題を採って
“スィングル・カット”する。それが、
序曲「ローマの謝肉祭」の成り立ちである。
*♪ドーー・ーーー│>ソーー・ー<ラ<シ│
 <ド<レ<ミ・<ファー>ミ│>レ<ミ>レ・>ラ>ー<レ│
 >ド>シ>ラ・>ソー<ラ│>ソー<ラ・>ソー<ラ│>ソ*♪
このサルタレッロは、アッレーグロ・アッサイ・コン・フォーコ、
6/8拍子、「イ長調」である。例によって、
あか抜けしない、拙い厚ぼったいオーケストレイションである。
とはいっても、ベルリオーズは自身は下手ながら、
以降の管弦楽法の可能性を引き出し、変えた功労者である。いっぽう、
作曲された年はこれより先だったが、生前には出版されず、
作曲者の死後に印刷されたのが、メンデルスゾーンの
「イタリア交響曲」である。生前に出されなかったのは、
作曲者がまだ改訂の必要があると考えてたからであり、
多忙で手をつけられないままに38歳で脳卒中死してしまったのである。
*♪ド│<ミーー・>ド●ド│<ミーー・>ド●ド│
    <ソーー・ー>ファッ>レッ│>シー●・●>ソ>ファ│
    >ミー<ソ・<ドー<ミ│>ラー<ド・<ファー<ラ│
    >ソーー・ー>ファ>ミッ│ミー●・●●*♪
アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、6/8拍子、
「イ長調」である。この作曲家も、
ベルリオーズ同様、自身で指揮してたにもかかわらず、さかのぼって、
少年の頃には親がオーケストラを「あてがって」やってた、
くらいなのに、オーケストレイションは巧みとは言い難い。それでも、
「ヘタウマ」というか、妙に風情がある箇所も多いのである。
大金持ちのボンボンのわりには、常に悲しさを漂わせてる芸風に加え、
金持ちの倅らしく上品で端正な顔が、とくに女性に好感を与える。
やはり品のある顔に、憂いをたたえたのはチャイコフスキーである。
**♪ドーーーーー・>ソーーーー<ド│<ミーーーーー・ーーーーーー│
   ミーーーーー・<ソーーーーー>ミ│>ドーーーーー、<ミー>ドー<ミー│
  >ソーーーーー・ーーーーー<ド│ドーーーーー・ドーーーーー│
   ドーーーーー・ーーーーーー**♪
アンダーンテ・ウン・ポーコ・ルバート、6/8拍子。
スコア全体の調号は「3♯」である。が、この
ア・ドゥーエ(2管で)のE管トランペットによるファンファーレは、
実質「ホ長調」である。次いで、「タタタ・タン」という
運命の動機に打ちぬかれ続ける実質「イ短調」の陰カンツォーネが
弦楽4部のユニゾンで奏される。そして、また冒頭のファンファーレが
全奏でやはり「ホ長調」で再現される。このとき、
ファンファーレの節をマルカティッスィモで吹くのは、
上記トランペットだけでなく、A管のピストン式コルネット2管も
「かぶせ」られてる。ときに、ベルリオーズは
ピストン式コルネットの「下品な音色」を嫌ってたそうである。
当時はまだコルネットにはピストンをくっつけれても、
トランペットにそうすることは難儀だったようである。で、
旋律的なものをラッパに吹かせたいとき、「仕方なく」であろうか、
ベルリオーズは「ピストン式コルネット」を「愛用」した。ともあれ、
二度めのファンファーレに続いて、「イ短調」の陰カンツォーネが
コーラングレとファゴット1管のユニゾンで手短かに再現される。そして、
やっと「イ長調」のお出ましである。
ポキッスィモ・ピウ・モッソ。2管のオーボエが3度のハモりで
*♪ミ│<ソー>ミ・<ソ>ファ、>ミ│>レー、<ミ・<ファー、<♯ファ│
    <ソ>ミー・●●*♪
という陽カンツォーネを歌う。これがピストン式コルネットでも吹かれ、
vn2部に受け継がれ、さらに、木管群の大ユニゾンで
プチ・クライマックスを迎える。
この曲の以降はまた別の機会に触れることにするが、
転調を重ねながらも終いはまたイ長調に戻って終わるのである。ところで、
この「イタリア奇想曲」について、巷では、
「チャイコフスキーにしてはめずらしく、南国の明るい気分に満ちた曲」
などと言われてる。「フィレンツェの思い出」が
「イタリアっぽくなく、ロシア臭プンプン」
などと評するむきにはそう匂ってしまうのかもしれない。
作曲を開始したのは1880年1月、
父イリヤーの訃報をローマで受けた一週間後のことである。
グリーンカの「スペイン序曲」2つを念頭において構想した、
というふうにメック夫人には書いてるようである。
小池栄子女史と雅子妃のしゃべるときの口元の区別もつかない
拙脳な私があえて観念的なことを想像すれば、
「ローマのホテルの部屋で、チャイコフスキーは
町から聞こえてくる騎兵隊の起床ラッパに、亡き父との記憶が蘇る。
続くイ短調の哀しい旋律は、父への挽歌である」
というようなことである。さて、
今年2008年はリームスキィ=コールサコフの没後100年だから、
「イタリア」ネタでもないのに「スペイン奇想曲」も「特段に」加えといた。
というのは表向きで、「リームスキィ」というロシア語は、
「ローマ人」という意味である。ちなみに、「コールサカフ」のほうは、
「カルサーク」という「コサック・キツネ」のことである。
キツネはイヌ科で、「単独行動」を採ることが多い。
「コサック」もトルコ系の言葉で「群れから離れた者→一匹狼」
を意味するらしい。余談であるが、コサックはキコリではない。
木を切るのはヨサクである。ヘイヘイホー、トントントォーン。
推測であるが、「cors-」という語幹の、
「corps(英語で「群れ」)」や「corsaire(仏語で海賊)」、
“コルシカ”島(corsica)の「corse」などはみな、
同源なのではなかろうかと思う。それはさておき、
まだ作曲を学んだ者が少なかった当時のロシアで、
きちんとした音楽教育を受けてないにもかかわらず、
リームスキー=コールサコフはできて間もないペテルブルク音楽院の
作曲科教授の椅子に収まった。1871年、27歳のときである。が、
所詮、音楽のド素人である。教えるほうが何もわかってないのだから、
教わるほうも大変である。努力もしたのであろうが、
1884年、40歳のときに「和声学教本」を著した。それを
チャイコフスキーに送って批評を仰いだとのことである。
チャイコフスキーは半年後、その「第1章」についての批評を送った。
「あまり怒らないならもっと見るけれど」と書き添えて。つまり、
この年になっても、「管弦楽法の大家」リムスキー=コルサコフは
和声に関してもまだまだ未熟だったのである。チャイコフスキーに憧れ、
妬み、強い劣等感と並はずれた支配欲求を、派閥で固めて
弟子たちからの称賛で虚栄心を満たしていく。1887年の夏休み、
リムスキー=コルサコフは長年かけて勉強しつづけてきたものを
精一杯に駆使して管弦楽作品を完成させた。が、
**♪ドーー<レ・>ド<レ>ド<レ│>ドーー<レ・>ド<レ>ド<レ│
  >ド>シ>ラッ>ソッ・<ラ>ソ>ファッ>レッ│
  <ソー>ド<ミ・>ドッ<ミッ>ドッ<ミッ│
  >ソー>シ<レ・>シッ<レッ>シッ<レッ**♪
陳腐で退屈な楽想に終始する。
ヴィーヴォ・エ・ストレプトーゾ(喧しく)、2/4拍子、
「イ長調」である。チャイコフスキーが「イタリア奇想曲」なら、
オレは「スペイン奇想曲」だ、調性もおんなじにしたぜ、
と、天才に対抗しようという意識が哀れである。この人物の
虚栄心はそれだけではこと足りない。後年、
「自叙伝」の中で、この作品初演の最初のリハーサルで、
上記のイ長調のアルボラーダの通し演奏が終わるやいなや、
楽団員全員から拍手喝采が湧きおこった、と「自慢」してるのである。
ヒトラー、スターリン、毛沢東、金正日らを
拍手や語録掲げで讃える党大会、とまったく同じである。いずれにしても、
vnのプリーモにせよセコンドにせよ、
管弦楽法の大家の大先生リームスキー=コルサコフにとって、
開放弦のE線をブルブル震えさせ共振させて大騒音を発生させることくらい
おチャのこチャイチャイでなかったのは、
さぞや一生の不覚だったに相違ない。ともあれ、
こういう「まがいもの」屋は、チャイコフスキーへの対抗心、敵愾心から、
それだけで、「キソウ曲」というタイトルと「イ長調」という調性を
借景したが、真っ当な作曲家らにとっては、
キリスト教大本山ヴァティカーノがあるイタリアは、
「♯(十字架)が3つ」なイ長調がふさわしいのである。ところで、
“バチカン”といえば、グレゴリオ暦が施行された年に生まれた
グレゴーリオ・アッレーグリの門外不出の「秘曲」ミゼレーレを
たった3度聴いただけですべての声部を覚えて譜起こししてしまった14歳の少年
モーツァルトは、35年の生涯のうち、「3」度、イタリアを訪れた。いっぽう、
一生の間に「イ長調」の交響曲を、「3」曲、書いた。

第1回イタリア旅行)1769年12月から1771年3月まで
第2回イタリア旅行)1771年8月から同年12月まで
壱)k.114「14番」(作曲1771年12月)
弐)k.134「21番」(作曲1772年8月)
第3回イタリア旅行)1772年10月から1773年3月まで
参)k.201(186a)「29番」(作曲1774年4月)

3つめの「イ長調交響曲」は最後のイタリア行きからやや月日が経ってるが、
1つめは第2回イタリア行からサーツブァクに帰ってすぐに書かれ、
2つめも第3回イタリア行脚に立つほんの少し前に作曲されてるのである。
結局、「イタリアにはイ長調がよく似合う」という言葉も、
つきつめれば「モーツァート」が「応答」するのである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「畏れ入谷の鬼子母神、父は... | トップ | 「why-意図?」 »

コメントを投稿

内緒鏡で覗くイ長科クリニック」カテゴリの最新記事