チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「さわり」

2009年02月18日 18時33分50秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
という言葉は、もとは、人形浄瑠璃で
他派のでも「いいとこ」ならどんどん採り入れ、それを
「他流に触る」と言ったことから、それが
「触り」となって、やがては名文句・名調子、
「聴かせどころ」を意味するようになった由。でも、
会見でいかにも酩酊状態(かどうかは知らないが、
少なくともそう見られてしまう)では、
差し障る、というものである。中川大臣、
次回総選挙、落ちてしまうかも。
すピリットできない体調だったら、
どうせなら、ブッシュ・スィニアみたいに、
宮中だろうが最後の晩餐会だろうが、ところかまわず
吐いて倒れてみせればよかったのに。そんな
演技ができないところは、生粋の日本人という
証左かもしれない。今日の新聞各社は、
同大臣の辞任を大きく扱ってた。ときに、
産経新聞の「ココロのギャラリー」というコラムには、
紀伊半島の熊野古道と、イベリア半島の
Santiago de Compostela(サンティアーゴ・デ・コンポステーラ)
巡礼路のことが載ってた。ふたつは姉妹道路、
なんだそうである。スペイン語でCompostelaとは、
compos=campus(原)、stela=star(星)、つまり、
星野、という意味である。万が一にも千が壱にも、
「我が儘」「卑怯」「支配欲求が強い」「金の亡者」
「シュミは殴る蹴る」という意味ではない。いっぽう、
Santiagoとは聖ヤコブという意味である。12使徒の中で
最初に殉教した大ヤコブの遺体がはるばる遠く
イベリア半島に移されて埋葬された、というのが、
サンティアーゴ・デ・コンポステーラの町である。そして、
800年後に「奇跡的に発見」された、のだが、それが
レコンキスタ(再征服)の格好の守護偶像となった、
とされてる。この聖ヤコブのスィンボルは
「ホタテ貝」である。いっぽう、
ホタテ貝がヴィーナスの象徴であることは、
ボッティチェッリの「ラ・ナッシタ・ディ・ヴェーネレ(ヴィーナスの誕生)」で、
井上羊水似の西風の神ゼピュロス(スペイン語ではセフィーロ)が
「みなさぁん、お元気ですかぁ~~~」と言いながら、
海から生まれたてのヴィーナスを
息で浜辺に打ち寄せてやってるのだが、そのとき、
そのヴィーナスが巨大ホタテに乗って
サーフィンをしてることでも解る。が、
貝、とりわけホタテ貝は女性器を意味し、また、
フランスでマドレーヌ(=聖母マリア)という菓子は
ホタテの形状である。つわり、否、つまり、
ヴィーナスの誕生は妊娠・出産、ひいては
「受胎告知」を表すものなのである。いっぽう、
聖ヤコブはイエスのもっともお気に入りの側近で、
レオナルドが描いた「最後の晩餐」でも、
イエスのすぐ左隣に席してるのである。一説によると、
イエスの母マリアのそのまた母アンナは、
聖母マリアの父にあたる亭主に先立たれた後、
再婚しマリアという娘をもうけ、さらにまた再婚して
またマリアという娘をもうけた、という。そして、
その二人のマリアが生んだのが、
大ヤコブとヨハネ兄弟、小ヤコブ、だった、
のだそうである。「3」人のマリア……
「3」を重要したいキリスト教が作った
都合のいい話かもしれないし、その真偽は判らないが、
いずれにせよ、そんな説もでるくらい、
イエスと大ヤコブは非常に「近い」関係だったのだろう、
と推測される。そやさかい、あたりきしゃりきや、と、
「ホタテマン」であることを許されたんちゃうやろか。いっぽう、
熊野詣への熊野古道にも、「伝説」が残ってる。
百人一首にも選ばれてるほどの歌詠いな和泉式部が
熊野詣をした折(本当にしたかどうかは不明)、
熊野本宮大社まであともう少し、というときになって、
月経になってしまった(ということになってる)。
当時の認識では(今も特定の場ではそうかもしれないが)、
女性の生理の血は、不浄のもの、穢れである。よって、
和泉式部も泣くなく参拝を諦め(るふりをしてみせ)た。が、
名代の女流歌人である。歌のひとつもひねり出す、
というものである。熊野本宮にメンスる森を伏し拝んで、
こう詠ったという(それで、その場所を
伏拝王子と呼ぶようになった、とされる)。
「はれやらぬ、身のうき(掛詞[浮き][憂き])雲の、
 たなびきて、
 月の障り(文字どおりの月を隠すものと月経の掛詞)と、
 なるがかなしき」
お見事! と、そんな秀歌をひねり出されたら、
熊野権現も黙ってては男が廃る。
「もとよりも、塵にまじはる、神なれば、
 月の障りも、何かくるしき」
という歌を返した、のだそうである。さすがは権現様、
「チリに交わる」→「チリ共和国の首都はサンティアーゴ」
という大胆な予言オヤジギャグをかまして千年後の世界遺産、
「姉妹道路」という「道を切り開いて」たのである。
冗談はともかくも、それで和泉式部は
大手を振って参拝しちゃったのだという。ときに、
この和泉式部であるが、その子の一人が
小式部内侍である。いつも母親が代作してるんだろう、
とからかわれて即座に詠んだといわれる、
「大江山、いく(掛詞[行く][幾][生])野の道の、遠ければ、
 まだふみ(掛詞[踏み][文])も見ず、天橋立」
という、できすぎた歌で有名である。母親同様、
美貌と恋多きこと、で知られてた、
ということである。その小式部内侍が
サンティアゴのひだちがかんばしからず死亡したとき、
和泉式部は孫たちを前にしてこう詠ったという。
「とどめおきて、誰をあはれと、思ふらむ。
 子はまさりけり。子はまさるらむ」
(拙大意)子供たちと親の私をこの世に残して
    逝ってしまったけど、
    どちらをより不憫に思ってたのかしら、
    小式部内侍ちゃんは。そうだわ、
    私も親と死に別れたときよりも
    子であるあなたを亡くした今のほうが
    ずっとずっと悲しいわ。だから、
    あなたもきっと、
    子供たちのことを思う気持ちのほうが、
    親である私を思う気持ちより
    強いのでしょうね。
    私はなんてかわいそうな女なの。
私にはなじまない人格である。さすが、あの
道長に「和泉敷き布団」とまでは言われなかったが、
「浮かれ女(=bitch)」と蔑まれた女性である。
こんな、若くして(20代半ば)死んだ娘や、
その遺児たちをこそ思うべきときにも、
「私のこと」などと「我」が強く出てくる
「我が儘」「自己中」な人格なのである。だから、
昨今の二性同権・共同参画四角四面云々はともかくも、
(他の女性たちはそんなとき、憚って参拝を控えてきたのに)
権現様が現れて「いいよ」とおっしゃったのだから、
じゃあ、問題ないじゃん、しきたりなんて関係ないでしょ、
参拝しちゃおぅっと、という
「モデル」に引き出されただけのことはある、
「慎みに欠けた」女性の典型だったのではないか、
と思わせる逸話である。

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