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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「エリス女史とは誰ぞ/森鴎外生誕150年」

2012年02月17日 00時46分18秒 | 事実は小説より日記なりや?
[淡路島。かよふ千鳥の、鳴く声に、いく夜寝覚めぬ。須磨の関守]
今日は金曜であるが、これは、
「金葉集」巻四・冬、#270、
[関路千鳥といへる事を詠める]
という源兼昌の歌である。
「関路千鳥(せきぢのちどり)」とは、
この歌が詠まれたときの御題である。が、中国の
「史記」にある「鶏鳴狗盗」という「函谷関の故事」を、インテリ女史の
清少納言がもじった「関路の鶏」をさらに借用したものである。
元の故事をかいつまむと以下のとおりである。が、あくまでも、
人から聞いた受け売りである。
伝聞(デンブン)である。
[春秋時代、函谷関は朝、一番鶏が鳴くまで開かないことになってた。が、
それでは孟嘗君は昭襄王の追っ手に捕まり殺されてしまう。そこで、
モウシヨウがないから逃げおおすには悪戦クトウしてでもいいと決意した。
狗盗(=コソドロ)を使って鶏の鳴き声を真似させたのである。すると、
本物の鶏もそれにつられて鳴きだした。そのため、関は開けられて
孟嘗君は難を逃れることができたとさ]
この故事の知識をひけらかして清少納言が詠んだのが、
[夜をこめて、鶏の空音に、謀るとも、よに逢坂の、関は許さじ]
である。ともあれ、
源兼昌の歌から採った芸名を使ってたのが、昨日亡くなった
淡島千景(1924-2012)女史である。当時は、
宝塚の団員は「百人一首」から芸名をつけてたらしいが、
故淡島女史と桂歌丸との顔の区別がつかない拙脳なる私には、
どの範囲までかは判らない。

鶏→千鳥、とくれば、さらに別の鳥の話題も
アル・カモメ。否、あるかもね。
今日2月17日は、
森鴎外(1862-1922)の生誕150年にあたる日である。
(以下、ここでは簡易慣用字体の「鴎」で代用させていだだく)
といっても、
鴎外が生まれたのは江戸時代最末期の文久2年正月19日であり、
それをゴレゴリオ暦に換算すると、1862年2月17日、なのである。
鴎外は石見国津和野亀井家の医師の倅として生まれた。
主君は亀井亜紀子現参議院議員の先祖である。ちなみに、
亀井家は江戸時代に大名となる前は尼子家の家臣だった。
藩祖亀井茲矩は途中で養子が入ってるために同女史とは血縁はないが、
「亀井踊り」という話が作られた人物である。それはともかく、
鴎外の最初の小説は、[石炭をば早や積み果てつ]で始まる
「舞姫」である。その中の
「エリス・ヴァイゲルト」というドイツ人女性は誰なのか、
ということが長らく謎だった。そもそも、
「エリス(洋式に綴ればElisもしくはEllis)」なんて女性名は、
現実には存在しないといっても過言でない。
漱石は造語で知られるが、鴎外も、
吾輩だって固有造語名詞を作れるんだぞ、
ということを誇示したわけである。実在の女性が
"Elise(エリーゼ/Elisabeth=エリーザベトの愛称)"であることから、
"Elsa(エルザ)"、"Else(エルゼ)"、"Lise(リーゼ)"、"Lili(リリ)"、
"Liesel(リーゼル)"、"Betti(ベッティ)"、"Bettina(ベッティーナ)"、など、
何にしようかな、といくとおりかの候補を挙げて、その中から
エリスぐりのひとつを選んだらそういう名になった、
ということはありえない(※)。なぜなら、
"Ellis"なんていう呼び名がないなんてことを知らないほど、
鴎外はそこらへんに転がってる無知な輩とは
対極の人物だからである。ともあれ、
横文字で表記するとなれば、「舞姫」の中の女性は、
"Ellis Weigert"ということになる。ちなみに、この
"Weigert(ヴァイゲルト)"というサーネイムは、実際の
"Wiegert(ヴィーゲルト)"というサーネイムのeとiを入れ替えただけ、
と普通は思うはずである。が、
私のようなダジャレオヤジはすぐさまに、その
「交替」に「意味がある」のではと勘繰ってしまう。果たせるかな、
ドイツ語にwiegertという語は固有名詞以外にはないが、
Weigertという語は動詞weigeren(ヴァイゲレン)の
単数2人称と単数3人称の変化形、
および複数命令形として存在する。そして、
その動詞weigeren(ヴァイゲレン)の意味は、
「拒む」「否定する」「従わない」なのである。
10年ほど前には植木哲なる人物が、
"Anna Bertha Luise Wiegert"(アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト)
という実在の"16歳"だったと"突きとめて"る。それに乗っかった
元TBS職員で大手TV製作会社テレビマンユニオンの重役のひとり
今野勉が、おととしの11月にNHKBSで
「森鴎外の恋人、『舞姫』120年目の新事実」
を制作して放送した。そして、
その過程を本にまとめて上梓した。
「鴎外の恋人(百二十年後の真実)」(NHK出版刊)である。
"真実"などと偉そうなサブライトルを附したものだが、これは、
"写楽が消えて数十年後の「浮世絵類考」に
「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」
と書かれてて、いっぽうで能楽師斎藤十郎兵衛が実在した"
ということだけで、
「写楽は斎藤十郎兵衛である」
と断定する以上に「金田一耕助」の等々力警部ほどの
いいかげんな決めつけである。
「エリーゼのために」は"悪筆のベートーヴェンのThereseという綴りを
ElIseと誤読した"という"推測"と同レヴェルである。

案の定、
今野勉が「鴎外の恋人(百二十年後の真実)」を出した5か月後に、
六草いちか女史というベルリーン在住のライターが著者である、
「鴎外の恋(舞姫エリスの真実)」(講談社刊)
が上梓された。こちらもサブタイトルに「真実」という語が入ってる。が、
ここでは、今野勉の恣意的な決めつけありきの推論ではなく、
丹念な資料調査がなされてるのである。そして、
それまで"真実"とされてきた
"Anna Bertha Luise Wiegert"(アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト)
(当人だとすれば、来日時、15歳10か月の子供)などではなく、
"Elise Marie Caroline Wiegert"(エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)、
1866年9月15日、出生当時は露普墺に分割されてて
プロイセン王国領だった現在はポーランドのSzczecin(シチェチン)生まれの、
来日時21歳の女性を「探し当て」たのである。今野勉がこだわった
モノグラムの件も、きちんと考証に基づいた考察がされてる。
今野勉のれっきとした裏付けなしな恣意的な理念によるlinenの
"M(森の頭文字)"と"R(林太郎の頭文字)"型が
まったくの筋違いであることを暗に示してるのである。ともあれ、
こういう人物とその会社が莫大な収入を得て
いわゆる"教養番組"を制作してながら、
無垢な視聴者に誤った情報を与え続けてきたのである。のみならず、
出版という分野にまで図々しく出しゃばり、
対価を得て物を書いて文化人気取りかもしれないが、その実は
検証されてない他人の思いこみの受け売り程度の内容、
というお粗末なものを産み出させる素地があるのは、
TVの教養番組制作関係者の一般的な知的レヴェルに
合致してるのだとしか思えない。いっぽう、
こういう海外ロケをメインにしてるTV制作会社の
現地コーディネイターもしてるという六草いちか女史はその著書の中で、
この"エリーゼ探し"が「偶然」の産物であるということを、
くどいくらい強調・繰り返してた。が、
そのあまりに詳細な調査過程の記憶や記録と
上梓のタイミングを思うと、かなり入念に、
こういったいい加減なTV制作者の嘘を是正すべく
"真正なるエリーゼ探し"をしてたのではないかと、逆に思わせる。

ところで、
「鴎外の恋(舞姫エリスの真実)」の中で六草女史は
「鴎外」というペンネイムについても言及してた。
諸説ある中で「かもめの渡し=新吉原の外」説が主流である、
というのがwiki受け売りレヴェルの"認識"である。つまり、
「遊郭のようなところに通って身を持ち崩すことなく、
クルワの外である千住に住まう」というイシ表示をペンネイムにした、という。
"15歳の子供"に懐疑の念を抱いた女史は、それにも「疑問」を呈してる。
女史は「エリーゼ」との思い出深いベルリーンのシュプレー川に飛来してた
「鴎」を、「外」国から留学した自分とに重ね合わせたものだったのでは、
と推察してる。私も道灌山ではないが同感である。が、
別の推論を持ってる。

[以下は性的表現、変態性欲について言い及んでます。また、
鴎外を神格化されてるかたにもなじまない類の話ですので、
そういうことを不快に思うようなかたは、
以下にはけっして読み進まないでください]

鴎外は結婚後に現在の文京区千駄木、団子坂あたりに
居を構えた。そして、数年後に住居を新築した。
その2階からは東京湾が見えたとされてる。で、
鴎外はそこを「観潮楼」と名づけ、自らを
「観潮楼主人」と名乗った。が、
妻の話では実際には湾は見えなかった、という。
さて、
鴎外は東京帝大の医学生としてはドイツ留学を果たせなかったが、
陸軍に入ってその軍医として当時の医学先進国ドイツに
官費で留学した。日本のエリートだからといって、
白人から人種差別されないわけがない。所詮、
日本人など白人に相手にされないのである。
鴎外はそういう艱難をなめたことだろう。
英語で「無礼なこと」を"gall"という。
「苦々しい怒りと敵意」を持つ者の態度である。が、そこから派生して
"gall"には「胆汁」という意味もある。
医学は鴎外の本来の専門分野である。彼らにとっては、
自分は小賢しい「黄色い」人種なのである。別言語であるが同語源からは、
「よそ者」「外国人」という意味もある。が、
そんな中で"エリス"のモデルとなった女性と昵懇になることができた。

いっぽう、
私のように外国語のひとつも話せない拙脳なる者には、
"gall"も"gull"も区別がつかない。鴎外のような秀才は
そんなことはないが、それでも、江戸の
地口文化を受け継いだ明治時代の日本人文学者である。
"gull"は「鴎」なのである。そして、全面的に
「ケルト」=「ガリア」というわけでもなく語弊はあるが、「ケルト」を意味する
"Gallia(ガリア)""Galic"などの語はこの"gull"と同源であり、
英語の"yellow"とも源を同じくするのである。
それはひとまずさておき、
ドイツ語で「鴎」は"Moewe(メーヴェ)"という。明治時代的な日本語表記だと、
「メウエ」である。「目上」とは眉であり、その「外」側は、
「こめかみ」である。漢字で表記すると(ここではできないが)、
「耳みっつ」に「頁」という字と、
「需」に「頁」という字である。音読みは、
「ショウジュ」である。
[今よりその福を消受し給わん](即興詩人)である。ともあれ、
この二字はともに、「頁」という旁であるのは、その
「頁」が「頭部」を表すからである。そして、この
「頁」という旁の読みは、
「オオガイ」であり、「オウガイ」のダジャレなのである。また、鴎外は、
陸軍において小倉(第12師団軍医部長)に左遷されたことがあるが、
そのときに「ガルの学説」という「骨相学」への関心を示す小論文を認めてる。
この「ガル」というのは、
Franz Joseph Gall(フランツ・ヨーゼフ・ガル、1758-1828)というプロイセンの医師で、
「骨相学」の開祖である。トンデモ医学の一種ではあるものの、
一概に全面否定できない部分もある。また、
骨相ではなく人相であり信憑性は保障しないが、
フジTVの「ホンマでっか!?TV」では、
れっきとした評論家や学者さんらが、
[会社の代表の顔幅で業績が分かる]
[ヨーロッパでは人種の往来が多いために相手の家系がわかりづらいから、
顔を見て家系を判断する顔相の研究が発達した]
と発言されてた。

さて、
私は子供のときに風邪をひいて熱が出てお通じが悪いと、
往診にやってきた町医者に、
「おかんちょう、しましょう」
と言われて、左側を下にした側臥位をとらされた。そして、
寝巻きのズボンとパンツをお付きの看護婦さんにずり下ろされ、
尻まる出しの姿にされ、指で押しひろげられて弛緩したアヌスに
嘴管を挿し入れられ、グリセリン溶液を注入された、
という昭和な世代に育った。そういう恥ずかしい体験が
病みつきになるか拒絶感を催すかは、個人差である。ともあれ、
鴎外がその住居を「観潮楼」と名づけ、自らを
「観潮楼主人」と名乗ったことについては、ただそれだけでは、
それほど"妖しい"感じはしないかもしれない。が、
幾多の筆名を使った林太郎が
「鴎外」だけは生涯使い続けた、ということに、私のようなヘンタイオヤジは
"故意ンスィデンタル"なものをビリリと感じるのである。
「オウガイ」は医学を専攻したものなら日常に使う言葉である。
「横臥位」とは「側臥位」の別称なのである。
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