チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「『東大寺の大仏』と『海ゆかば』、『聖武天皇』と『大伴家持』」

2012年08月15日 23時21分31秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
8月15日は、昭和20年に日本が
「ポツダム宣言を受諾したと発表した日」
である。私は直接「大東亜戦争」を知らない世代である。が、
子供の時分に大人から話はとくと聞いてる。だから、
♪せんそうがおわって、ボクらは生まれた♪
などというクソ歌謡曲など軽々に歌わない。
「審判のせいで」日本に勝てなかったと言いわけしたらしい
韓国女子ヴァリーボールのキム・ヨンギョンと
故郷には仕事がなくて密航して日本に来て
父が乳搾りという仕事にありついてた大阪生まれ大阪育ちの
在日帰還朝鮮人で、退任後には不正や国家反逆のかどで
逮捕・死刑が待ってるのが恒例になってる
近代国家テハンミングクの大統領として来日した際に
天皇陛下に頭を下げたことを同胞らに詰られたイ・ミョンバクの
顔の違いが判らないほど拙脳なる私は、
南方戦線の海からラヴェルノ「ダフニスとクロエ」第3部の「夜明け」を
想起してしまう。私は想像力に乏しいので、
クラシック音楽と何らかの風景が結びついてしまうのは
これともうひとつだけである。

大東亜戦争のとき、NHKのラジオ放送で大本営発表が読まれる前に流された
「海ゆかば」は、昭和12年に信時潔がNHKからの依嘱で作曲した歌である。
信時潔は当時、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授から退いてたが
講師だった。ときに、東京芸術大学といえばその音楽学部楽理科に、
テレビマンユニオン所属のタレントで"作家・エッセイスト"というふれこみの
華恵(旧Hanae)というのが在籍してる。
米国父と福島母(よくありがちながら離婚済)のハーフだそうだが、
ブログのプロフィールにはこう書かれてる。
<機を織るようにつなげていきたい日々のこと、本のこと、
 音楽のこと、出会った人びと>
鶴の恩返しのパクリながら、
日本国民の税金で助成されてる国立大を出てもおそらく、
音楽教師にもその他国民に恩返しをする職にも就かないだろう。
税金の無駄遣いである。ツイッターでこうつぶやいてたらしい。
<おじいちゃんの妹の息子さんって、
 私からしたら叔父さん?違うか。なんて言うんだ?>
ご立派な"作家"大先生である。ともあれ、
「海ゆかば」という曲も戦後の報道の刷り込みによって
南方戦線の海を想起させられる。

♪ソーーー│>ミーー・ーーーー・・>レーーー・<ーーラー│
>ソーーー・ーーー・・ーーーー、・<ラーー<シ│
<ドーーー・ーー>ソー・・<ミーーー・ミーーー│
>レーーー・ーーーー・・ーーーー、・レーーー│
<ミーー・ーーーー・・>レーーー・レーー>ド│
>ラーーー・ーーーー・・ーーーー、ラーーー│
<シーーー・ーー>ラー・・>ソー<レー・レーーー│
>ドーーー・ーーーー・・ーーーー、>ドーーー│
ドーーー・ーー<ファー・・ファーーー・<ラーーー│
>ソーーー・ーーーー、・・●●●●・ソーーー│
ソーーー・ーー<ラー・・>ソー>ミー・>レーー<ソ│
ソーーー・ーーーー、・・●●●●・ソーー<ミ│
ミーーー・ーーー・・>レー>ドー・ーー<レー│
>ドーーー・ーーーー・・ーーーー♪

詞は万葉集(巻18-4094)の長歌(大伴家持)から採られてる。
天平年間の疫病流行・天災によって、
聖武天皇は国分寺や東大寺の大仏建立を発案したが、
その大仏に塗る金の調達が案じられてた。そんな中、
天平21年(西暦およそ749年)に、
陸奥国で金が産出されたと報告されたのである。そして、
聖武天皇の「陸奥国より黄金出せる詔書」に対して、当時
越前守として任地にあった32歳の家持が詠ったのが
この「海ゆかば(を含む長歌)」である。
[賀陸奥國出金 詔書歌一首 并短歌]
(陸奥国(みちのくのくに)に金(こがね)を
出だす詔書を賀(ことほ)ぐ歌一首、併せて短歌(3首))
という題詞にあるように、
聖武天皇の詔書を持ち上げつつ、いわば近衛隊としての
大伴氏(と佐伯氏)の忠誠を訴えた歌である。
長いので前後は省略するが、

[海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃 敝尓許曽死米 可敝里見波勢自]
(海行かば、水漬く屍。山行かば、草生す屍。
大君の、辺にこそ死なめ、顧みはせじ)
「(拙大意)海での戦なら水漬しで醜く膨らんだ死体に、
山での戦なら草が生えるほどの野ざらし死体となっても、
大君(天皇)の方に向いて盾となって背後から斬られてこそ死にたい、(だから)
うしろから斬りかかられるのを怖がって敵のほうに振り向いたりはしないつもりだ」
ちなみに、
「続日本紀」の第13詔「陸奥国出金詔書」には、
[海行波 美豆久屍 山行波 草牟須屍 王乃 幣尓去曽死米 能杼尓波不死]
とあって、終いの句が
[能杼尓波不死(のどには死なじ)]
となってる。これは、
「(拙大意)天皇を護衛しそこねて自ら喉を切って死んだりはしないぞ」
あるいは、
「のど」は「のどか」「なだらか」の「n-d」で「傷がないこと」であり、
「(拙大意)体のどこにも傷を作らない身では死んだりしないぞ」
という意味である。

ここで話は逸れるが、
「こそ...め(已然形)+。。。じ」という「係り結び」のプリミティヴな形が窺われる。
「辺にこそ死なめ」の「死なめ」は、
「死ぬ」の未然形「死な」に意志を表す助動詞「む」の已然形が附いたものである。
「おおきみのほうを向いておおきみをおまもりして後ろから斬られ死にするつもり
"だからこそ"怖がって斬りかかってくる敵のほうに振り向いたりはしないぞ」
という"已然形"本来の役割が採られてるのである。

話を戻すと、
聖武天皇は母親が藤原不比等の娘であり、皇后も藤原不比等の娘である。
藤原氏によってがんじがらめにされた立場なのである。
金が産出されるやいなや改元して、命の危険から
娘(孝謙天皇、その後重祚、称徳天皇)に譲位して出家してしまう。
ここから家持の左遷、そして不遇時代が続く。
この間の実権は光明皇太后(聖武后)や不比等の孫仲麻呂が握り、
橘諸兄の子奈良麻呂の乱が起きる。が、
廃太子ののちに仲麻呂は淳仁天皇を立てたものの、
道鏡に惑わされた孝謙上皇と衝突し、恵美押勝と改名した仲麻呂は
光明皇太后の死でさらに対立が深まり、ついに反乱を起こして敗れ、
捕らえられて斬首された。仲麻呂(恵美押勝)と親しかった淳仁天皇は廃され、
淡路に配され(そして、殺され)た。孝謙上皇は重祚し、
称徳天皇としてさらに道鏡を寵愛した。が、
皇位継承を図った道鏡の企みは、宇佐に遣わされた
和気清麻呂によって偽託が判明し、阻まれた。ために、
清麻呂はヒステリックな称徳天皇によって
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国に流された。
このとき、家持は"偶然にも"大宰少弐に左遷されてたのだが、
この道鏡の皇位簒奪計画を阻止したグループに家持がいたのかどうかは、
ウサイン・ボルトによるアポロの弓引きポウズと
伊東四朗の電線マンの振付の区別がつかない
拙脳なる私には知るよしもない。翌年、
称徳天皇が崩御すると道鏡は即失脚。ちなみに、
後継者争いで殺し合いを多く行った結果、称徳天皇の死をもって
天武系は断絶した。そして、
[石走る、垂水の上の、さわらびの、萌え出づる春に、なりにけるかも]
でのみ知られる、政争から外されてた天智天皇の第7皇子志貴皇子の
そのまた第6皇子だった中納言白壁王が「後任」とされた。
第49代光仁天皇である。55年ぶりに天智系が復活したのである。
ともあれ、道鏡の失脚と入れ替わるように、
20年以上ずっと従五位下どまりだった家持は
正五位上に昇叙する。そのまた翌年にすぐに従四位下。その後は、
従四位上、正四位下、正四位上、従三位、ととんとん拍子。
官職も中納言にまでのぼりつめる。

ところが、
やはり「近衛隊長」という家系の家持は、
東北方面の防衛を案じ、高齢ながら持節征東将軍に任じられ、ついに、
67歳で陸奥国に客死する。だがしかし、
死の直後、藤原種継暗殺の首謀者として官位を剥奪される。
子の永主(ながぬし)は隠岐に流罪となるが、
家持の遺骨は埋葬を許されず、やはり隠岐に流されたのである。
21年後の大同元年(西暦およそ806年)、死の床の桓武天皇によって
流罪の永主は許され、故家持も従三位に復位された。ともあれ、
そういう政治不安定な時代に
家持は大伴家の惣領として生きたのである。こんな
家持の生涯を考えれば、
「海ゆかば...」という詞が臨場感をもって思い返される。
国の内外の民の平穏と幸福を日々祈ってくださってる
天皇陛下と天皇家に対して、日本人が家持と同じ思いを抱くのが
自然だと思うのは果たして小日本右翼だろうか。
ごく真っ当な日本人である。
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