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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「露の世は、露の世ながら、さりながら/小林一茶生誕250年」

2013年06月15日 20時47分46秒 | 歴史ーランド・邪図
プロ野球のいわゆる"統一球"を
飛びやすいように変えながら公表してなかった問題が
話題になってる。
間違ったことを書いてたのを指摘されると
そのブログのエントリ自体を消してしまったり、
そしらぬ顔で誤認箇所を直してしまったりする人種は
けっこう多い。また、
非公開でツイッターをする者や、
ブログでコメントを受けつけないのがいたりする。
これらにはすべて共通の心理が働いてるのである。
「隠蔽体質」に起因するものである。
隠蔽体質とはつまり「ウソツキ」である。
ウソをつかなければ生きてこれなかった人々である。
そうした点で、この人らは"弱者"という鎧をかぶることができる。
"鬱"という隠れ蓑に逃れることができるのである。
[やれ鬱だ? サイコが手摺り、足を摺る]

本日、2013年6月15日は、
小林一茶(西暦およそ1763-同1828)の
生誕250年の日にあたる。同人は、
現在の長野県上水内郡信濃町柏原で
自作農の家に生まれた。柏原は先月、
駒沢大学吹奏楽クラブの合宿で2人が
湖に飛び込む"儀式"で溺死した
野尻湖が近くにある。北国街道の宿場町でもあったので、
ここを参勤交代のルートのひとつにしてた
加賀百万石前田家が通ることもあった、
わりと栄えてた町である。が、
一茶が3歳のときに母「くに」が死んでしまう。
これが一茶の苦難の人生の始まりだった。5年後、
父弥五兵衛は後添え「はつ」(あるいは「さつ」)を娶る。
すぐに異母弟「仙六」が生まれた。そして、この
継母は一茶に仙六の世話をさせ、粗相があると理不尽に
一茶をきつく叱責した。かように
一茶と継母の仲は険悪となった。
ことなかれな父は14歳の一茶を江戸に奉公に出した。
その奉公先でもこきつかわれたらしい。

それでも、
一茶は生物としての強い本能を備えてたようである。
俳句の世界に自己顕示の場を見いだす。
その才能に恵まれてた一茶は、俳人として名を成した。
39歳のとき、帰省してた一茶の目の前で父が倒れる。
看病の甲斐なく父は死ぬのだが、そこから、
一茶と継母&異母弟との遺産相続係争が顕在化する。
12年間におよぶ係争の結果、一茶は
遺産の半分を得た。すでに齢50となってた。
一茶は故郷に居を移し、母方の従兄弟の口利きで
28歳の(宮澤)「きく」と結婚する。
50の爺さんでも若い初婚女性と結婚できたのは、
江戸で俳人として名をなした"先生"、いってみれば
"芥川賞作家"みたいな看板があったからである。
私のような絵空事を描けないただの
頭痛もちブサイクオヤジには無理な話である。
俳句でけっこうな「作品」を残してるのに、
世俗的な子作りに一茶はせっせと励むのだった。
妻の生理日までこまめに記録してた
性欲旺盛、エッチ大好きオヤジの一茶と「きく」には、
長男「千太郎」、長女「さと」、次男「石太郎」、三男「金三郎」、
という3男1女ができた。が。
長男「千太郎」を妊娠して8か月のきくと
一茶はセックスしてたことが祟ったかどうかは判らないが、
その千太郎は生後1か月で死んでしまう。また、
長女「さと」を妊娠してるときにも性欲魔一茶は
妊婦と何度もやらかす。

それでも長女は1年は生きた。が、
疱瘡(天然痘)で死んでしまう。このときに詠んだのが、
[露の世は、露の世ながら、さりながら]
である。
「人の命も露のようにはかなく消えてしまうものである。
それは頭では理解してるのだが、そうはいっても……」
ということである。
たてつづけに二人の子に死なれた一茶の悲嘆である。が、
一茶の受難はこれだけではすまない。
次男「石太郎」も生後3か月のとき、
負ぶさってた「きく」の背中で窒息死してしまう。
三男「金三郎」は、「きく」が37歳で死んでしまうのだが、
体の弱った「きく」の替わりになる乳やり女の口利きを
ある男に託した。が、その女は本当は乳が出なかった。
その口利き男による養育費ねらいの詐欺だったのである。結果、
三男も痩せこけ、栄養失調で死んでしまうのだった。
この頃、一茶は脳梗塞で倒れ、半身不随になってた。かつ、
妻「きく」が身罷ったとき、一茶はすでに59歳になってた。
[もともとの、一人前ぞ。雑煮膳]
が、子孫を残すことに執着してた一茶はへこたれなかった。
後妻(田中)[雪(ゆき)」38歳を娶る。
飯山藩本多家家臣の娘である。
いい口があったと興奮した一茶は
不覚にもオネショをしてしまう。が、
双方、家をあけてスレチガイ。
自分は勝手に1か月も家をあけときながら、
体調が悪いときに実家に帰ってた新妻を一茶がなじると、
お気に召さぬならご勝手にと、実家に引き上げてしまった。
わずかに同居した数日の間に、何度も体を求めてきた
ヒヒジイには普通の女性ならドンビキなことだろう。
洒落た俳句をひねるイケメンオヤジとはほど遠いジジイに、
イメージと異なった女は冷たいものである。
即刻離縁となった。

それでも、泥臭くも一茶はくじけない。
64歳。脳卒中の発作にもめげない。
アソコだけはビンビンだった。
今度は子連れの(宮下)「やを」との縁談に臨んだ。
3人目の妻は32歳。一茶はまたまた励んだ。ところが、
柏原が大火にみまわれる。一茶の家も丸焦げになった。
半身が不自由な一茶を新妻は背負い、子の手を引いて
逃げ出したという。かいがいしい女性だった。
一茶は焼け残った土蔵での生活をやむなくされた。
そうして一茶は満ち足りずとも、不自由ながらも、
ささやかな幸せの中で5か月あまりを過ごした。
文政10年11月19日(現行暦換算1828年1月5日)、
一茶は最後の卒中に襲われ、ついに命つきた。
享年66。一茶はついに子を残すことができないまま
息絶えた。ところが……。
最後の妻「やを」は文政11年4月、
女児「やた」を出産した。土蔵の中でも、
半身不自由な一茶は、相変わらず励んでたのである。
この「やた」は明治6年(1873年)に46歳で亡くなるが、
その5代目の子孫が健在ということである。
一茶は偉大な凡人だった。
天国があると信じてるむきにはカワイソウだが、
そんなものはないのである。
どうせ消えてなくなるだけである。私はせめて
頭痛がしない日だけでも、快楽をむさぼりたいと思う
何の取り柄もない生き物である。
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