池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

アビダルマ哲学要諦(3)

2024-05-05 12:28:33 | 日記

スッタ(経典)と違って、これらは、現実に行われた説法や議論を記録したものではない。教理の基本原則を系統的に並べ、詳細に定義し、念入りに図表化し分類した、本格的な論文集となっている。これらは、最初に作られた後、口頭で伝えられ、他の聖典と同様に紀元前1世紀頃に文字に写されたものと思われるが、文字になったことでアビダンマの特徴である体系的な思考と厳密な一貫性が際だつことになった。

テーラワーダ仏教では、伝統的にアビダンマ・ピタカがきわめて尊重されており、仏教聖典という王冠を飾る宝石として崇拝されている。このような尊崇の例として、スリランカ国王カッサパ五世(紀元10世紀)はアビダンマ・ピタカを金の板に彫り込ませ、最初の巻には宝石を埋め込ませた。また、別の国王ヴィジャヤバフ(11世紀)は、毎朝執務の前に「法集論」を学習する習慣を持っており、これをシンハラ語に翻訳した。しかし、アビダンマをざっと読んだだけでは、なぜこれだけ敬意が払われたのかが理解できない。アビダンマの本文は、教理上の専門用語をいじり回した学問的研究で、重々しくて長ったらしい繰り返しの多いものにしか見えない。

しかし、これらの古い書物には何か重要なことを伝えようとしていると信じて、じっくりと内容を研究し深く考察を進めたとき、アビダンマ・ピタカがこれだけ深く尊重されたかという理由がはじめて明らかになる。このような気持ちでアビダンマ論書に取り組み、その幅広い含蓄と有機的な統一性への知見をある程度深めると、これらの書物が、我々の経験している現実全体の包括的なビジョン、言い換えるなら広範囲な体系的完結性と分析的正確さという特徴を持ったビジョンを表現しようとしていることに他ならないと気付くだろう。テーラワーダ仏教の正統的な教理の観点から見れば、アビダンマが表現しているシステムは、推測によって作り出された虚構ではなく、形而上学的な仮説を寄せ集めたモザイクでもなく、深さと綿密さの両面で物事の全体性に迫り、存在の真の性質を、我々の心が理解したとおりに提示するものである。このような性格を持つため、テーラワーダ仏教は伝統的にアビダンマを、ブッダの自由闊達な全知全能(sabbaññuta-ñāna:一切知智)を可能なかぎり完璧に表現したものと見なしている。すなわち、完全な悟りを開いた人間の心に物事がどのように映るかを、ブッダの教えの両極(苦と苦の克服)にしたがって順序立てて述べたものである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アビダルマ哲学要諦 (2) | トップ | アビダルマ哲学要諦(4) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事