池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

アビダルマ哲学要諦(9)

2024-05-13 09:29:24 | 日記

 スッタとは反対に、アビダンマ・ピタカは、スッタでの説明の基盤となり個々の教説が依拠するシステム全体を、できるかぎり飾りを抜いて直接的に明らかにしようと意図している。アビダンマは、聞き手の個人的傾向や認知能力は考慮に入れていない。特定の実用的な必要性に譲歩することはないのである。アビダンマは、文学的な装飾や教育的便宜をいっさい排除した抽象的で形式論的な方法で現実の成り立ちを明らかにする。このため、アビダンマの方法は純理論的な教え方(nippariyāya-dhammadesana)、すなわち真理に関する無駄のない正確な教説と呼ばれる。

このような二つの方法におけるテクニックの違いは、使われる言葉にも影響している。スッタでは、ブッダは、世俗的な言葉(voharavacana)を使い、世俗的な真理(sammutisacca:世俗諦)を認めている。世俗的な真理とは、究極的な存在ではないものについて語られているが、それでも十分に当てはめることのできるような真理である。したがってスッタでは、ブッダは、「わたし」や「あなた」、「男」や「女」、生物、個人、自我についてでさえ、あたかも具体的な事実であるかのように語る。これに対してアビダンマの説明方法は、究極的な真実(paramatthasacca:勝義諦)の視点から見て妥当な用語、すなわちダンマ、その特性、その働き、その関係だけに厳密に限定して使っている。したがってアビダンマでは、意味のあるコミュニケーションを行う目的でスッタにおいて暫定的に受け入れられていた概念的な存在は、存在論的な究極の姿、すなわち、永続的な自我または実体を持たない無常で条件付けられ因果によって生起する裸の心的・物質的現象に分解されている。

ただし、注意が必要だ。この二つの方法の違いを述べる場合、それぞれのピタカが持っている最も特徴的な部分について語っているのであり、完全に二つに分裂したものと解釈すべきではない。この二つの方法は、ある程度重複し相互に浸透している。したがって、スッタ・ピタカの中には、集合体(蘊)、感覚基盤(根)、根元的要素(界)などの哲学的用語を厳格に駆使し、アビダンマ的方法の範疇に入るような教えがある。また、アビダンマ・ピタカの中には、厳密な表現方法から離れ、世俗的な用語を使い、経典の範疇に入るようなセクションがあり、巻全体がそのようになっている場合もある(Puggalapaññatti「人施設論」)。

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