池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

アビダルマ哲学要諦(4)

2024-05-07 12:57:57 | 日記

アビダンマ・ピタカが表現しているシステムは、哲学でもあり、心理学でもあり、倫理学でもあり、解脱に至るプログラムの枠内にこれら全てが統合されている。アビダンマは、存在論、現実の性質に関する見方を提示していることから、一種の哲学と見なすことができる。このような見方は、「ダンマ(法)理論」(dhammavāda)と呼ばれてきた。簡単に言うと、現実は究極的にはダンマと呼ばれる多様な基本的な構成要素の集まりであると主張するのがダンマ理論である。ダンマは、現象の背後に隠れている本質的な物体ではなく、「単なる見かけ」とは反対の「それ自体で実在する何か」でもなく、現実を構成する基本的な要素である。

ダンマには、大きく分けて2つのクラスがある。1つは無条件のダンマで、これにはNibbana(ニッバーナ「涅槃」)しかない。もう1つは条件付きの(因果の影響下にある)ダンマであり、これは経験プロセスを構成する瞬間的な心的・物質的現象のことである。ものが実際に存在し個人が個人として生き続けるというのが我々の見慣れた世界だが、ダンマ理論によれば、これは、ダンマから与えられた生データを心が加工し作り上げた概念的な構造物である。我々が日常的に見ているものの実体は、ダンマの基層の上に作り出された約束事の世界でしかない。この現実世界の最終的な姿はダンマでしかない。これは、心によるデータの概念的処理とは無関係に「それ自身から」(sarūpato)ある確定的な存在である。

現実世界の性質に関するこのような考え方は、すでにスッタ・ピタカにもあり、特に人間を構成する集合群(蘊)、感覚基盤(根)、根元的要素(界)、縁によって条件付けられたものごとの生起(因縁)などについてのブッダの説示に含まれており、実践的観点からまとめられたスッタの教えの背後で、その教理を支える暗黙の土台として現前していると考えることができる。アビダンマ・ピタカそのものにおいてさえ、ダンマ理論は明確な哲学的教義となっているわけではなく、後代に作られた注釈書で現れるのみである。しかしながら、暗示的ではあっても、この理論は、体系化プロジェクトというアビダンマの明確な課題の背後で、調整的原理としての役割を果たしていることは明確である。

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