1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月20日・ハッブルの宇宙

2022-11-20 | 科学
11月20日は、ハチの「8の字ダンス」の発見者カール・フォン・フリッシュが生まれた日(1886年)だが、天文学者ハッブルの誕生日でもある。

エドウィン・パウエル・ハッブルは、1889年、米国ミズーリ州のマーシュフィールドで生まれた。父親は保険会社の役員だった。
9歳のころ、ハッブル一家はイリノイ州ウィートンに引っ越し、エドウィンはそこで育った。少年時代は勉強よりもスポーツに秀でていたエドウィンは、走り高跳びの州記録保持者だった。彼はシカゴ大学に入学し、数学と天文を学んだが、学生時代はボクシングの名選手としても活躍した。
大学卒業後、英国のオックスフォード大学の奨学生に選ばれて渡英。法学を修め、3年間の留学を終えて帰米してからは、法律事務所に勤め、高校教師などをした。
第一次世界大戦中、ハッブルは従軍。戦後はシカゴ大学の天文学研究室にもどり、30歳のとき、カーネギー研究所所属のウィルソン山天文台の職員となった。
35歳のとき、ハッブルはわれわれがいる銀河系の外にも銀河があると論文に書いた。そして、40歳のころ、外の銀河からの光が赤方偏移していることを発見。あわせて、現在「ハッブルの法則」と呼ばれている法則を発見した。
第二次世界大戦中、ハッブルはふたたび従軍したが、その期間を除いて、ハッブルはずっと天文台で天体の観測と研究をして生きた。そして1953年9月、ハッブルは心不全のため、カリフォルニア州のサンマリノで没した。63歳だった。

ハッブルの名前を、ハッブル宇宙望遠鏡によって知った。大天文学者ハッブルの名前をとって、ロケットで打ち上げられた宇宙望遠鏡はそう名付けられたと。

赤方偏移と宇宙の膨張について知ったときは、ショックだった。
赤方偏移というのは、銀河系の外にある遠い星からの光をスペクトル分析してみると、光の帯全体が赤いほうへずれて映るもので、これはその光を放つ物体が遠ざかっていることを示している。
スペクトルのずれ方をよく調べていくと、銀河系の外にある2つの銀河のあいだの距離が大きくなればなるほど、たがいに離れる相対速度も比例して大きくなっていくということがわかった。これが「ハッブルの法則」である。
つまり、夜空に見える星たちはどんどん遠のいている。宇宙はどんどん広がっている、ということである。これを逆算して、時間の流れを逆上れば、宇宙の最初にたどりつくことになる。それが最初の大爆発「ビッグバン」で、以来、星はどんどん遠ざかり、宇宙は膨張を続けている、という。

ハッブル宇宙望遠鏡が写した写真を見ると、感慨深い。
人類がはじまって何万年かたって、ようやく人類も宇宙に望遠鏡を浮かべて、遠くの宇宙を見る目をもった。しかし、この宇宙望遠鏡をもってしても、見えるのは宇宙のはじめに近いころに生まれた銀河の光がせいぜいで、いちばん最初に生まれた星の光はもう見えないくらい遠くなってしまった。われわれは宇宙の新参者で、宇宙の田舎者。遅れてきた生物である。
(2022年11月20日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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11月19日・カルバン・クラインの専心

2022-11-19 | ビジネス
11月19日は、ツイッター(Twitter)の共同創業者ジャック・ドーシーが生まれた日(1976年)だが、米国のファッションデザイナー、カルバン・クラインの誕生日でもある。

カルバン・リチャード・クラインは1942年に、ニューヨークのブロンクスで生まれた。父親はハンガリーからの移民で、ハーレムで雑貨屋を経営していた。カルバンは、3人きょうだいの真ん中だった。カルバンの母方の祖母は洋服の仕立て屋をやっていて、カルバンの母親は家族でやっていた雑貨屋を手伝いながら、よく母親の仕立て屋を訪ねていた。これが、カルバンの服への愛情を培い、彼は子どものころから、服のファッション・スケッチを描きためていた。
工業デザイン高校、州立のファッション工科大学へと進んだカルバン・クラインは、いくつかのアパレル会社で働いた後、26歳のとき、幼なじみのバリー・シュワルツとともに「カルバン・クライン」ブランドのレーベルを立ち上げた。これは、親友シュワルツが実家の雑貨屋を継いで出してくれた1万ドルを元手に、小さなショールームを借りてスタートさせたベンチャー・ビジネスで、シュワルツが経営面を、クラインがデザイン面を担当した。
はじめ、クラインはコートなどを中心とした女性服からスタートした。男性的な感覚の女性ファッション、機能的でシンプルなデザインの「カルバン・クライン」服は好評を得、彼らのビジネスは、百貨店ボンウィット・テラーへの販路を得ることをきっかけに急成長。
「カルバン・クライン」ブランドは、スポーツウェア、化粧品、男性下着、ジーンズ、香水、時計、宝石などの分野にも進出し世界的なブランンドに発展した。
60歳のとき、クラインは会社を4億3000万ドル(約520億円)で米アパレル会社フィリップス・バン・ヒューゼン(PVH)に売却し、PVH傘下に入り、その翌年、クラインはデザイナーから引退した。
彼の引退後も「カルバン・クライン」ブランドは続いている。

1985年の米国映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公が、「Calvin Klein」のロゴが大きく入った下着パンツをはいていて、これがギャグのネタに使われていた。
日本でもこのロゴ入りパンツをはいている男性をときどき見かける。

カルバン・クラインは、「ポロ」のラルフ・ローレンと同じく、ブロンクスの片隅のユダヤ人ファッション・シーンから出発し、ニューヨークのセレブ・ファッション・シーン、世界へと活躍の舞台を広げきた成功者である。共和党支持者で、巨額の政治献金を共和党に渡してきたことでも知られる。
子どものときから、好きな道一筋で突き進んできた彼は、一意専心、一点突破、全面展開と、まことにみごとなビジネスキャリアをもつアメリカンドリームの体現者である。

カルバン・クラインは、味わい深いことばを吐いている。
「わたしは狂っている。それ以外のふりをしたことはない。(I'm crazy, and I don't pretend to be anything else.)」(Brainy Quote)
(2022年11月19日)



●おすすめの電子書籍!

『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。


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11月18日・ヴェーバーの魔弾

2022-11-18 | 音楽
11月18日は、調査実務家のジョージ・ギャラップが生まれた日(1901年)だが、オペラ「魔弾の射手」を書いた作曲家ヴェーバーの誕生日でもある。

カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバーは、1786年、現在のドイツのオイティーンで生まれた。父親は元軍人で、歌劇の監督をし、自分で劇団を旗揚げした。カールは、3人きょうだいのいちばん上で、モーツァルトの妻コンスタンツェの従弟である。名前に貴族の家柄を示す「フォン」があるが、ヴェーバー家の場合はそのふりをしているだけで、実際には貴族ではなかった。
ヴェーバーは小さいころから父親の巡業について各地を旅しながら育った。そんな環境のなかで音楽に親しみ、やがてハイドンの弟に師事するなど、本格的に音楽を勉強しだし、13歳のときに、はじめてのオペラを作曲した。
18歳の年にヴロツワフの楽団の楽長、27歳のときにプラハ歌劇場の芸術監督に就任。傾きかけていた劇場を建て直し、31歳でザクセンの宮廷楽長となった。
ドレスデン歌劇場でドイツ・オペラを上演しながら、みずからピアニストとしてヨーロッパを公演旅行してまわり喝采を浴びた。
35歳のとき、オペラ「魔弾の射手」を発表。初演から大好評を博した。
39歳のとき、結核の身をおして英国ロンドンへ渡り、自分の書いた英語のオペラ「オベロン」の初演を指揮した後、病状が悪化し、1826年6月、ロンドンで没した。39歳だった。

ヴェーバーのことを、学校のころ、英語読みで「ウェーバー」と教わった。
ヴェーバーの「魔弾の射手」は、静かにはじまる序曲や、ポップな感じの狩人の歌など、すてきである。音楽はいいけれど、このオペラの筋立てには疑問がある。

「魔弾の射手」は、ボヘミアの森に住む狩人が、侯爵主催の射撃大会に出場する話である。大会直前になって、射撃の名手の狩人は急に不調となり、練習でも弾が的にぜんぜん当たらない。大会の優勝には、森林保護官という彼の就職と、保護官の娘である恋人との結婚の二つがかかっていて、そのプレッシャーのせいかもしれない。焦った狩人は悪魔と取り引きをして、7発の弾のうち6発は射手の思い通りに命中し、7発目の弾は悪魔の思い通りに命中するという魔弾を手に入れ、大会に臨む。

ヴェーバーの「魔弾の射手」は、観客にいい気持ちで帰ってもらうように、悪者が倒れ、狩人は恋人とめでたく結ばれる、というハッピーエンドが用意されているのだけれど、以前から、悪魔の弾に手を出した者に、このお気楽な筋立ては如何なものか、と疑問を感じていた。
最近資料を読んで、どうやらこの話のもととなったドイツに古くから伝わる民話では、悲劇的な結末だったと知った。狩人の恋人は魔弾に当たって死に、彼女の両親も亡くなり、狩人は気が狂ってしまうというのが、もとの民話の筋立てらしい。ヴェーバーというと、そんなことを思いだす。
(2022年11月18日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


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11月17日・イサム・ノグチの融合

2022-11-17 | 美術
11月17日は、仏映画女優ソフィー・マルソーが生まれた日(1966年)だが、彫刻家イサム・ノグチの誕生日でもある。

イサム・ノグチは、日露戦争がはじまった1904年、合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父親は日本人の詩人・野口米次郎で、母親はニューヨーク生まれのアメリカ人レオニー・ギルモアだった。
両親はニューヨークで出会い、いっしょに暮らしたが、英語で詩を書く日本人の父親は、イサムが生まれる4カ月前に日本へ帰ってしまった。身重の母親は日本人が比較的多い土地で息子を育てようと、カリフォルニア州へ引っ越し、そこでイサムを産んだ。
しかし、軍事的に増長する日本を警戒し米国では反日意識が高まり、暮しにくくなっていく米国を避け、母親はイサムを連れて船で日本へ渡った。
母子を出迎えた父・米次郎は、3歳になる息子の名前をイサム(勇)と名付け、それで彼の名はイサム・ギルモアとなった。
複雑な家庭事情を抱えた母子は、やがて父親・米次郎と離れ、母子二人だけで暮らしだした。母親は英語の家庭教師や雑誌編集の仕事をしてイサムを育てた。
7歳になる年に神奈川の茅ヶ崎へ引っ越したイサムは、10歳で指物師に弟子入りし、秋いっぱい家具作り、欄間彫刻の修行をした。
「指物師のもとにいた期間こそ、ぼくが受けた教育と名のつくもののなかでただひとつ、心からの喜びを持って学んだもの」(めら・かよこ『イサム・ノグチ物語』未知谷)
14歳になる年、小学校を卒業すると、イサムは家族と離れ、単身船に乗って太平洋を渡り、米国インディアナ州の中学校へ入学した。第一次世界大戦中だった。
米国でイサムは「ジャップ」といじめられながら苦学し、彫刻家を志したが、弟子入りした師匠に「才能がない」と烙印を押され、破門された。意気消沈し、18歳で急きょ医師へ志望を変更し、ニューヨーク・コロンビア大学の医学部へ進学した。
このころニューヨークで会った、ノーベル賞候補のだった野口英世博士は、彼に、医師より芸術家のほうが偉大だといい、芸術家になるよう勧めた。
19歳のイサムは医大生を続けながら、街の教会でやっている夜間の美術学校に通いだした。そのころ彼は父の姓をとり「イサム・ノグチ」と名乗り、彫刻家の道に人生を決めた。そしてブロンズ像「ウンディーヌ(ナジャ)」を作った。
その後、彼はニッケル・クロム製の「バックミンスター・フラーの頭像」を発表し、ピカピカの金属像でセンセーションを巻き起こした。
イサムは、一個一個の石や木を刻む彫刻から、地球の大地そのものを彫刻して美しい作品ととする「プレイマウンテン(遊び山)」へと考えを進化させ、日本で広島市内の平和大橋をデザインし、和紙を使った照明器具を開発し、フランス・パリではユネスコ本部の庭園を作り、米国内ではジョージア州アトランタにあるビーモント公園の遊具をデザインした後、1988年12月、心不全のためニューヨークで没した。84歳だった。

イサム・ノグチ。民族的に宙ぶらりんの苦しい状況から身を起こし、数々の出会いのなかでみずからを成長させ、自身の個人的な悩みを、全人類に通じる、地球人としての普遍的な思想にまで昇華させた芸術家である。
(2022年11月17日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、イサム・ノグチ、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


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11月16日・ダランベールの知性

2022-11-16 | 科学
11月16日は、シンガーソングライター、来生たかおが生まれた日(1950年)だが、フランス百科全書派のダランベールの誕生日でもある(11月17日生まれとする文献も)。

ジャン・ル・ロン・ダランベールは、1717年、フランスのパリで生まれた。彼は生まれるとすぐ、ノートルダム寺院に隣接する聖ジャン・ル・ロン教会の入口の石段の上に、木の箱に入れて置き去りにされた。この時点ではまだ名前がなかった。
赤子は捨て子の収容所に送られ、教会の名にちなんでジャン・ル・ロンと名付けられ、パリの北方の村に里子に出された。後に知れたところによると、ジャンを捨てた母親は、枢機卿の妹クローディーヌ・アレクサンドリーヌという当時32歳の女で、パリの社交界でいく人かの男性と関係をもつうちにお腹が大きくなり、産み落とした子を教会の石段に置き、知らぬ顔をしたのだった。父親はそのとき外国にいた貴族の砲兵将校ルイ=カミュ・デトッシュで、彼は帰国して事情を知ると、すぐに子どもをさがしはじめた。見つけ出した息子ジャンをガラス職人の妻に預け、養育費を仕送りし、子どもに「ダランベール」という姓を授けた。それで彼の名はジャン・ル・ロン・ダランベールということになった。
ジャンが9歳のとき、父親は没した。父親は彼が暮らしていけるよう年金を残していき、ジャンは養母に愛情をもって育てられた。
ジャンは寄宿舎付きの小学校を抜群の成績で出ると、貴族の子息の入る学校、コレージュに入学した。彼は数学が好きだった。コレージュを卒業後、法律学校に通い、21歳で弁護士の資格を手にした後、数学への興味を捨てきれず、数学者として生きることに決めた。
21歳のとき、はじめての論文を科学アカデミーに提出したのを皮切りに数々の論文を発表。26歳の年に発表した『動力学論』のなかで「ダランベールの原理」を展開。これは力学上の画期的事件で、ほかに『液体の均衡と運動論』『風の一般理論』などを書いた。
ダランベールは29歳のころから、友人のディドロに協力して『百科全書』の編集にたずさわった。彼は数学部分を担当し、知人に原稿を依頼し、みずから『百科全書』の序文も書いた。ダランベールの名声はしだいにヨーロッパに広まり、ドイツのフリードリッヒ2世や、ロシアのエカチェリーナ2世から招かれた。彼はそれらの誘いを丁重に断った。
37歳のとき、彼はアカデミー・フランセーズ会員に選出され、その後も『百科全書』を作っていたが、教会側からの妨害に、ルソーとの決裂が重なり、嫌気がさして、42歳のころ、編集作業から手を引いた。
59歳のころ、恋人と死別したダランベールは家に引きこもりがちになった。それでも彼に会いたがる来客は絶えず、その名声は国内外で高まっていった。
1783年10月、膀胱結石のため没した。65歳だった。育ての母親と、貧しい人々に財産を残し、教会の牧師に会うことを拒否し「不信者」として逝った。

現代日本において、知性を信頼して生きている人はなかなかいない。たいていの人は、まわりを見まわし、見よう見まねで、動物として生きている。

ディドロの書いた本を読んでダランベールを知った。
ダランベールは、もっとも聡明な時代と言われるフランスのヴォルテールの時代に、まさに知性への信頼を貫いて生きた代表的知識人だった。18世紀のポール・ヴァレリーである。それにしても、教会の階段に置かれた捨て子だったという人生の出発点はすごい。
(2022年11月16日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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11月15日・ロンメルの騎士道

2022-11-15 | 歴史と人生
11月15日は、七五三。この日は、天王星を発見したウィリアム・ハーシェルが生まれた日(1738年)だが、ドイツ軍人ロンメル将軍の誕生日でもある。

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルは、1891年、ドイツ領だったヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツで生まれた。学者の家系で、父親はギムナジウムの数学教師で、後に校長になった。エルヴィンは4人きょうだいの上から2番目で、兄、弟、妹がいた。
エルヴィンは勉強嫌いの怠慢な少年だったが、しだいに勉学とスポーツに目覚め、航空機のエンジニアを志望するようになった。しかし父親の反対にあい、彼は19歳になる年にヴュルテンベルク王国軍に入隊した。
軍の歩兵隊にいたロンメルが23歳になる年に第一次世界大戦が勃発。少尉だったロンメルは、塹壕戦や敵要塞の攻略に功をあげ、ドイツが敗戦したときには大尉に昇進していた。
荒廃した敗戦国ドイツでヒトラーが首相となり、ナチス党が政権をとると、42歳のロンメルはヒトラーの軍拡路線を多くの軍関係者たちと同様に歓迎した。
ロンメルは軍学校の教官をへて、ヒトラーの警護担当となり、ヒトラーの個人的な信頼を得て出世していった。これは、貴族出身の上級軍人が多いドイツ軍のなかで、ヒトラーが同じ平民出身のロンメルに親近感をもったためだとも言われる。ロンメルが46歳のときに出した軍事教本『歩兵攻撃』はベストセラーとなった。
ロンメルが48歳のとき、ヒトラー率いるドイツはチェコスロバキアを併合、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。
ロンメルはみずから前線勤務を願い出て、戦車隊を率いて西部戦線に従軍。ドイツ戦車の唯一の長所である高速性能を生かし、猛烈なスピードで進軍した。彼は部下には止まらずに砲撃するよう指示し、しばしば参謀本部からの停止命令を無視して、自分の師団だけで動き、敵の意表をつく電撃攻撃で、フランス占領に多く寄与した。
フランスが降伏すると、ロンメルはアフリカ戦線に移り、戦車隊を率いて砂漠で戦った。戦力と補給力で圧倒的に勝る連合軍側の裏をかき、多くの捕虜、燃料、装備を奪い「砂漠のキツネ」と恐れられた。砂漠の戦いでは兵器や物資が枯渇しがちで、両軍側とも敵から奪った兵器で戦っており、ロンメルも英国軍の装甲車に乗っていた。
地中海の補給路が断たれると、さすがにロンメルも局地戦で敗戦、撤退するようになり、52歳で現地任務を解任され、ドイツへもどって病気療養をした。
1944年、ノルマンディー上陸作戦(Dデイ)があった翌月、ロンメルは前線近くで敵機の機銃掃射を受け頭部に重傷を負った。その3日後、ヒトラー暗殺未遂事件が起きた。
事件への関与を疑われたロンメルは、反逆罪で裁判を受け死刑になるか、自殺するかの選択を迫られ、家族の安全と引き換えに、1944年10月、毒を飲んで自殺した。52歳だった。
国民的英雄だったロンメルは戦傷により死亡したと発表され、国葬が営まれた。

終生ナチス党員にならなかったロンメルは、敵陣地を攻撃する際、殲滅作戦をとらず、攪乱して捕虜にする方法をとった。また、捕虜にした敵軍ユダヤ人兵士は全員射殺せよという命令を無視して、捕虜を丁重に扱った。こうした騎士道的な態度によって、彼の名声は死後も高くありつづけている。

ロンメルはアルベルト・シュペーアなどと並び、敵側・連合軍からも評価の高い、突出したドイツの才能だった。ロンメルの人生は、生まれた時と場所によって大きく制約を受けたけれど、彼が平時に生まれたらどんなことをしただろうとときどき想像する。
(2022年11月15日)



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11月14日・ベークランドの発明

2022-11-14 | ビジネス
11月14日は、印象派「光の画家」クロード・モネが生まれた日(1840年)だが、合成樹脂「ベークライト」を発明したレオ・ベークランドの誕生日でもある。

レオ・ヘンリカス・アーサー・ベークランドは、1863年、ベルギーのヘントで生まれた。父親は靴屋で、母親は家政婦だった。
レオはヘント大学で化学を学び、化学の準教授を勤めた後、26歳で米国へ移った。
当時すでに写真の新しい引き延ばし方法を発明していたベークランドは、写真会社に2年ほど勤めた後、化学コンサルタントとして独立した。
彼は2年間の研究をへて、「ベロックス」という印画紙を発明した。これは、従来はできなかった、室内の人工光のもとで写真の引き延ばしができる画期的なもので、ベークランドは35歳のとき、この特許をコダック社に750,000ドルで売った。
特許を売って得た資金でニューヨークに私設研究所を建て、彼はその後も研究を続け、44歳のとき、人工合成樹脂「ベークライト」を作りだすことに成功し、その特許を取得した。
ベークライトは、フェノールとホルムアルデヒドを原料とした熱硬化性樹脂の一つで、人工的に合成されたプラスチックである。
ベークランドは47歳のとき、ジェネラル・ベークライト社を設立してベークライトの販売をはじめ、彼は特許をめぐる法廷闘争に勝ち、競合他社を吸収して会社を発展させた。
彼の発明したプラスチックは、電話機、ラジオ、電気機器の絶縁体、風呂桶、食器、さまざまな商品ののカバーなど生活のあらゆる部分に使われるようになり、ベークランドは億万長者となった。
年をとるにつれか彼は偏屈になり、76歳のとき会社を売却して引退し、フロリダの邸宅の庭園造りに熱中しながら、缶入りの食糧ばかりを食べて暮らした。
1944年2月、ベークランドは入院中だったニューヨーク州のサナトリウムで脳出血のため没した。80歳だった。

なぜ合成樹脂の分野に手をつけたのかと問われて、ベークランドはこう答えた。
「お金をもうけるため」

プラスチックこそは世紀の発明で、それはわたしたちの身の回りをちょっと見まわせば、一目瞭然である。コンセント、時計、ケータイからクルマ、航空機部品にいたるまで、わたしたちの生活はひと言で言えばプラスチック製である。よくも悪くも、プラスチックによって、人類の生活は、より安価に、より軽量に、より画一的になった。
(2022年11月14日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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11月13日・ジーン・セバーグの髪

2022-11-13 | 映画
11月13日は、『宝島』『ジキル博士とハイド氏』を書いたロバート・ルイス・スティーヴンソンが生まれた日(1850年)だが、映画女優ジーン・セバーグの誕生日でもある。

ジーン・ドロシー・セバーグは、1938年、米国アイオワ州のマーシャルタウンで生まれた。スウェーデンからやってきたルター派の移民3世で、父親は薬剤師で、母親は教師、ジーンは4人きょうだいの一人だった。
高校卒業後、アイオワ大学で演劇を学んだが、彼女は映画女優の道を選んだ。
バーナード・ショーの戯曲を映画化した「聖女ジャンヌ・ダーク」のオーディションを受け、18,000人の応募者のなかから選ばれ、19歳のとき同作品で映画デビュー。
続いて「悲しみよこんにちは」に出演し、彼女のショートカットの髪型は「セシルカット」として大流行した。
そして、21歳のとき、ジャン・リュック・ゴダールの初監督作品「勝手にしやがれ」に、ジャン・ポール・ベルモンドとともに主演。射殺されたベルモンドをセバーグが見下ろすラストシーンは、彼女の顔のアップで、こうつぶやいて幕となる。
「最低って何のこと?」
同作品はヌーヴェルヴァーグの代表作となり、彼女の名前を世界にとどろかせた。以後「さよならパリ」「ペンチャーワゴン」「大空港」などに出演した。
セバーグは、1960年代に盛り上がった黒人の公民権運動に共鳴し、29歳のころ、米国の黒人武闘派組織「ブラックパンサー党」に資金提供したことから、米国FBIによって要注意人物としてマークされるようになった。彼女は尾行、盗聴など、FBI調査員によってつきまとわれていたと考えられ、彼女は精神的に追いつめられていたらしかった。
32歳のころ、彼女が妊娠すると、子どもの父親はブラックパンサー党幹部だといううわさが流れ、このうわさもFBIによる意図的な流言だったとも言われるが、結局、セバーグは流産した。
流産から1年後から、セバーグの自殺未遂がはじまった。
1979年7月、セバーグはパリのメトロから飛び降りて何度目かの自殺未遂をはかった。それは未遂に終わったが、その翌月8月30日、セバーグは映画を観ると言って家をでたまま行方不明となり、失踪の9日後の9月8日、仏国パリ郊外に路上駐車されたクルマのなかから彼女は遺体となって見つかった。40歳だった。
アルコールと薬物摂取による自殺とされるが、謀殺説も根強く残っている。
彼女が手にしていた遺書には「許して。もう私の神経は耐えられません」と書かれていた。セバーグは生涯に3度結婚しているが、彼女が32歳のころに離婚した2番目の夫は、彼女の死後、記者会見を開いて、セバーグはFBIの追及によって精神を病んでいたとFBIを非難した。そして、彼もその年の暮れに自殺した。

『FBI vs ジーン・セバーグ 消されたヒロイン』(ジーン・ラッセル・ラーソン、ギャリー・マッギー著、石崎一樹訳、水声社)を読んだ。
ジョン・レノンに対してそうだったけれど、米国という国は、反米的だと目をつけた者に対しては容赦しない国だとあらためて思い知らされる。
惜しい女優をなくした。ジーン・セバーグは、いかしていた。
(2022年11月13日)



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『映画女優という生き方』(原鏡介)
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11月12日・グレース・ケリーの握力

2022-11-12 | 映画
11月12日は、米国の社会運動家エリザベス・スタントンが生まれた日(1815年)だが、ハリウッド女優で、モナコ公妃となったグレース・ケリーの誕生日でもある。

グレース・パトリシア・ケリーは、1929年、米国ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれた。父親はアイルランド系で一介のレンガ職人から建築会社を経営する億万長者にのし上がった人物で、ローボート競技の五輪チャンピオンでもあった。母親はドイツ系で大学の体育講師。グレースは4人きょうだいの3番目で、姉、兄、妹がいた。
きょうだいでいちばんからだが弱かったグレースは人形遊びが好きな内気な少女だった。
11歳のころ、遅まきながらバレエを習いだしたグレースは、アマチュア劇団に入り、実生活では表現できない理想の自分を舞台上で表現する喜びに目覚めた。
17歳で高校を卒業した彼女は、家を離れ、単身ニューヨークへ越して演劇学校に入学した。発音や演技力を鍛えるかたわら、彼女は広告モデルのアルバイトをし、18歳のときには、彼女はビルの広告塔やテレビCMにいつも登場する売れっ子モデルになっていた。
19歳で演劇学校を卒業後、舞台、テレビドラマ、をへて、ハリウッドに進出。23歳で出演した西部劇「真昼の決闘」で本格的に映画デビューした。
以後「モガンボ」「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」「喝采」「トコリの橋」「泥棒成金」「上流社会」に出演し、その高雅な美貌から「クール・ビューティー」と呼ばれた。
ケリーは、カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世に熱烈なラブレターで口説かれ、26歳のとき、大公と結婚し、彼女はモナコの公妃となった。
観光収入が支えの小国モナコは、彼女を迎えて傾きかけた国家財政を建て直した。
レーニエ3世とのあいだに一男二女をもうけたケリーは、子育てがひと段落すると、詩の朗読という新しい表現活動に乗りだしていたが、そんな矢先の1982年9月、自分でクルマを運転中、下り坂のヘアピンカーブを飛びだし、45メートル下の崖へ転落し、運び込まれたモナコの入院先で没した。52歳だった。
公妃は運転中に脳卒中を起こして意識を失い、ヘアピンカーブでアクセルを踏みこんだものと見られている。モナコではケリーの息子が大公の地位を継いだ。

グレース・ケリーの映画女優時代は20歳から26歳まで。出演作はたった11本。なかでも「裏窓」は圧巻だった。ケリーがとにかくセクシーで魅力的。脱ぐわけでもないのに、ひたすら妖艶で輝いていた。24歳当時の彼女が観られる「裏窓」は映画ファン必見である。

グレース・ケリーの没後5年くらいから彼女の性愛生活を暴露した伝記が公になりだし、それらを読んだ。17歳で処女を捨て、生涯にわたって恋をしつづけたグリース・ケリーの恋愛遍歴は派手で奔放だけれど、ぜんぜん悪い印象を抱かなかった。
近くにいる男性を片っ端から夢中にさせてしまうグレース・ケリーは、全世界の女性の敵といった存在だったが、彼女とつきあった男たちは交際中も別れた後もずっと彼女を裏切らず愛しつづけた。彼女が生きていたら、ほとんどの者は取材に応じなかったろう。
グレース・ケリーは、若いころから自分の欲望や目標をよく把握していて、周囲の価値観に惑わされず、自分の人生を自分の手でしっかり握って生きた人だった。もって範とすべき人生の握力である。
(2022年11月12日)



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11月11日・ヴォネガットの功

2022-11-11 | 文学
11月11日は、ポッキーの日とも言われるが、米作家カート・ヴォネガットの誕生日である。

カート・ヴォネガット・ジュニアは1922年、米国インディアナ州のインディアナポリスで生まれた。ドイツ系移民の4世で、父親は建築技師だった。カート・ジュニアは3人きょうだいの一番下で、上に兄と姉がいた。
カート・ジュニアは18歳の年にコーネル大学に入り、生化学を学んだ。
大学在学中に陸軍に徴集され、軍からの命令により、彼はカーネギー工科大学やテネシー大学で機械工学を学んだ。
第二次世界大戦が勃発すると、ヴォネガットは22歳でヨーロッパ戦線へ送られ、斥候の任務についた。この報を聞いて、彼の母親は睡眠薬を飲んで自殺した。
ヴォネガットは戦線に出ると間もなく敵ドイツ軍に捕まり、捕虜となり、その町並みの美しさで有名なドレスデンの捕虜収容所「スローターハウス5」に入れられた。
翌年、連合軍側によるドレスデン大爆撃があり、美観を誇ったドレスデンは廃墟と化したが、ヴォネガットは奇跡的に生き残った。
戦後、除隊したヴォネガットは、シカゴ大学大学院で人類学を学んだ後、25歳のとき、にューヨーク州スケネクタディのゼネラル・エレクトリック社の広報部で働きながら、SF小説を書きはじめた。
雑誌に短編を発表した後、30歳のとき、処女長編『プレイヤー・ピアノ』を発表。
以後『タイタンの妖女』『猫のゆりかご』『スローターハウス5』『タイムクエイク』などを書き、アイオワ大学で小説家の講義をするなどした後、2007年4月、自宅の階段から落ちて頭部を強打したのが原因で、ニューヨークで没した。84歳だった。

カート・ヴォネガットの影響は強大で、『ガープの世界』を書いたジョン・アーヴィングはアイオワ大学でのヴォネガットの教え子だし、日本の村上春樹や高橋源一郎は彼から圧倒的な影響を受けている。漫才コンビ「爆笑問題」の太田光がヴォネガットの愛読者なのは有名で、彼が所属する事務所の名「タイタン」はヴォネガットの小説に由来する。

ヴォネガットの作品『タイムクエイク』は、拙著『名作英語の名文句2』でもとり上げた。彼の『スローターハウス5』や『タイムクエイク』などは、ユーモアと深刻さを兼ね備えたみごとな傑作で、伝統的な小説とはかけ離れた、みごとに人を食った書き方の作品である。ヴォネガットは、『トリストラム・シャンディ』など18世紀の小説には見られたけれど、19世紀以降の小説では忘れられてしまった、人を食ったユーモアの文体を復活させ、新しい文学を提示して見せた小説の名人である。

ヴォネガットは言っている。
「We are what we pretend to be, so we must be careful about what we pretend to be.(われわれは、われわれがそういうふりをしているところのものである。だから、われわれは何のふりをするか注意しなくてはならない。)」(Goodreads)
(2022年11月11日)



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