1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月11日・アリス・ポールの悲願

2018-01-11 | 歴史と人生
1月11日は、女優、深津絵里が生まれた日(1973年)だが、女性運動家アリス・ポールの誕生日でもある。

アリス・ストークス・ポール(Alice Stokes Paul)は、1885年、米国ニュージャージー州のマウント・ローレルで生まれた。彼女の一家はクエーカー教徒(友会徒)だった。クエーカー教では、人間はすべて平等であり、有色人種も男女も平等に扱われる。こうした環境で育ったことが、彼女のその後の人生に大きく影響を与えた。とくに、アリスの母親は全国女性参政権協会(NAWSA)のメンバーで、子どものころからアリスは、母親から女性参政権についてよく聞かされていた。
アリスははじめソーシャルワーカーを目指したが、やがてに自分が目指す道は社会福祉家ではなく、社会改革だと気づいた。
22歳でペンシルベニア大学を終了した後、彼女は英国へ渡り、バーミンガムでソーシャルワーカーとして働きながらクエーカーの研究施設で学んだ。
英国時代、ポールは過激な女性運動組織・婦人社会政治同盟(WSPU)に合流し、デモをおこない、警官隊と揉み合いながら演説会を開き、首相や閣僚が出席した晩餐会場のステメドグラスの窓に靴を投げつけ壊すなどして婦人参政権を訴え、ポールは七度逮捕され、刑務所でハンガーストライキを強行し抵抗した。
25歳のときに帰国すると、ポールはNAWSAに参加し、全国女性連盟(NWP)を立ち上げ、母国アメリカでも女性参政権を訴えだした。
28歳のときには首都ワシントンDCに8000人を動員してデモ行進をおこない、その後も、ホワイトハウスの前に「女性参政権」「女性に自由を」と訴える看板を掲げた女性たちによるピケを張り、逮捕、投獄されてはハンガーストライキをおこなった。ポールたちはひどい迫害や虐待にあったが、ひるまなかった。
第一次世界大戦の戦前、戦中を通じて、ホワイトハウス前に陣取る、銅像にのぼる、フェンスにのからだをくさりでつなぐ、投獄されてもなお運動をやめないなどの彼女らの示威行動がついに実を結び、1919年、参政権の性差別を撤廃する憲法修正第19条が成立し、ここに米国人女性の参政権が認められた。
米国女性運動家たちの長年の悲願を達成したアリス・ポールは、1977年7月、脳卒中のため、ニュージャージー州のムアズタウンで没した。92歳だった。

日本女性に参政権が認められたのは、太平洋戦争後、米軍を中心とする占領軍の政策によってであり、日本の男性と女性が話し合って決めたことではない。敗戦がなければ、日本女性はいまだに選挙権をもたなかったかもしれない。すると、アリス・ポールは、日本女性の恩人である。現代の日本女性が、いま手にしている権利に、どれほどありがたみを感じているか。
(2018年1月11日)


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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。

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1月10日・ロッド・スチュワートの声

2018-01-10 | 音楽
1月10日は、ロシアの映画監督、エイゼンシュテインが生まれた日(1898年)だが、英国出身のロック・スター、ロッド・スチュワートの誕生日でもある。

ロデリック・デイヴィッド・スチュワートは、第二次大戦中の1945年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は以前スコットランドのエディンバラで大工の棟梁だった人で、ロンドンで新聞販売店を経営していた。ロッド(ロデリック)は5人きょうだいのいちばん下で、上に兄2人、姉2人がいた。すぐ上が8歳も年が離れた子だった彼は「おとぎ話みたいに幸せ(fantastically happy)」と思いだすくらいに甘やかされて育った。
サッカーと音楽に熱中していた彼は、14歳のとき、父親にギターを買ってもらった。
15歳で学校をやめ、印刷屋で働いたり、父親の店で新聞売りをしたりした後、サッカー選手を目指し、ロンドンのサッカーチームの入団テストを受けに行ったこともあったが、結局音楽の道を目指した。そして、19歳のころには、歌手のコンサート・ツアーやレコーディングに、コーラスやブルースハープで参加するようになっていた。
いくつかのバンドの結成、解散を経験した後、23歳で、名ギタリスト、ジェフ・ベック率いるジェフ・ベック・グループに参加。ヒット曲を出し、ハスキーボイスのロック・ボーカリストとして一躍名をあげた。
24歳のとき、フェイセズのヴォーカリストとなった。フェイセズは英米でヒットを飛ばし、ロッドが29歳のとき、来日公演を果たしている。
30歳のとき、フェイセズが解散。ロッドはソロとなり、活動の拠点を英国から米国へ移した。このとき発表したアルバムが「アトランティック・クロッシング(大西洋を渡る)」だった。この作品の大ヒットにより、ロッドは世界的スターとなった。
以後、「明日へのキック・オフ」「スーパースターはブロンドがお好き」などのアルバムを発表。34歳で来日したときの日本人のフィーバーぶりはものすごかった。武道館公演など、観客がなかなか入りきらず、開演が大幅に遅れた。2013年、68歳で発表したアルバム「タイム」が全英でナンバー・ワンに輝くなど、いまなお最前線で活躍する現役ロック・ヴォーカリストである。

はじめてロッド・スチュワートを見たのは彼が30歳だったころ、英国公演のテレビ中継録画だった。ブロンドの長髪、光る素材のピンクのジャケットというド派手な衣裳の歌手が、しきりにお尻を振って踊っていた。
「つぎの曲は、マスコミの記者に捧げます」
と言って「もう話したくない(I Don't Want to Talk About It)」を歌った。
ひと通り演目を終え、ロッドはいったんそでへ下がり、アンコールの声にこたえ再登場してきた。抱えてきたサッカーボールを客席にけりこんで、
「あと3分あるなら『セイリング(Sailing)』をやろう」
独特のしゃがれ声でこの名曲を歌いだすと、客席は波のようにゆっくりと揺れだした。

歌手の西城秀樹がかつてやっていた、マイクスタンドを派手に動かしながら歌ったあのステージ・パフォーマンスはロッドをまねしたのだそうだ。

ときどき「胸につのる思い(You're In My Heart)」など、ロッドのバラードをむしょうに聴きたくなる。あの切ない声はほんとうに魅力的で、後を引く。
(2018年1月10日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。

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1月9日・ジミー・ペイジの音

2018-01-09 | 音楽
1月9日は、仏作家、ボーヴォワールが生まれた日(1908年)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のギタリスト、ジミー・ペイジの誕生日でもある。

ジェームス・パトリック・ペイジは、1944年に英国イングランドの西ロンドン郊外で生まれた。父親は産業人事課の管理職で、母親は医者の秘書だった。ジェームズの家にはなぜか、ギターがあり、彼は12歳のときはじめてそれを弾いた。
ギターフリークの彼は19歳のころ、アートスクールに通いながらスタジオ・セッションにギターで参加するようになり、21歳のとき、ソロでレコード・デビュー。
22歳で、ロックバンド「ヤープバーズ」に参加。ヤードバーズは、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックと、名ギタリストが代々在籍した伝説のバンドである。
24歳のとき、ヤードバーズが解散し、ペイジは、ボーカリストのロバート・プラント、ドラマーのジョン・ボーナム、ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズとともに「レッド・ツェッペリン」を結成した。バンド名は「鉛のツェッペリン号(飛行船)」の意味で、どうせすぐに落ちるだろうさ、というジョークだった。
レッド・ツェッペリンは米国でコンサート・ツアーをおこない、それからデビュー・アルバムを発売した。アルバムは発売前の予約だけで5万枚売れたというから、当時のツェッペリンのライブの魅力たるや恐るべしである。
「レッド・ツェッペリン II」「レッド・ツェッペリン IV」「プレゼンス」などを発表した後、ペイジが36歳のとき、ジョン・ボーナムの死亡によりバンドは解散。その後、ペイジはソロとして、またユニットとして音楽活動を続けている。

ペイジが曲を作り、プラントが詞を書き、それをバンドで仕上げるというスタイルのレッド・ツェッペリンは、アンプを大音響で鳴らしてライブツアーをしてまわり、スターになったライブ・バンドである。彼らはまた、シングル・レコードをほとんど出さず、もっぱらアルバムを売ったアルバム・バンドである。この二つがツェッペリンの特徴である。

ツェッペリンの音楽、ペイジのギター・サウンドの攻撃的な印象は、独特のものだった。聴く者にマンジンガンを浴びせてくるような戦闘性が音楽にこめられていて、音が騒音のように耳を逆撫でする。その昔、マンガ「ゴルゴ13」に、捕虜にした敵を縛り上げ、ヘッドホンをつけレッド・ツェッペリンを聴かせる拷問シーンがあった。でも、聴き込んでいくと、その騒音に似た音楽がなぜか心地よくなってくる。「胸いっぱいの愛を」「ロックンロール」「天国への階段」「アキレス最後の戦い」など、名曲である。

「天国への階段」は、ある女性が天国への階段を買うというフレーズからはじまる幻想的な歌だが、その後半にあるつぎの歌詞が、彼らの音楽の特徴をよくあらわしている。

「もしも、とてもハードに聴きこんだなら(And if you listen very hard)
 その音はついにきみに届くだろう (The tune will come to you at last)
 そのとき、すべては一つとなり、一つはすべてとなる(When all is one and one is all)
 そうして転がる石は動かぬ岩となるのだ。(To be a rock and not to roll.)」(AZLyrics.com: http://www.azlyrics.com/)
(2018年1月9日)



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1月8日・エルヴィス・プレスリーの肌着

2018-01-08 | 音楽
1月8日は、ロックスター、デヴィッド・ボウイが生まれた日(1947年)だが、もうひとりのスター、エルヴィス・プレスリーの誕生日でもある。

エルヴィス・アーロン・プレスリーは、1935年、米国ミシシッピー州のテューペロで生まれた。エルヴィスは双子の弟で、兄のほうは死産だったらしい。エルヴィスが生まれたとき、父親はまだ18歳、母親は22歳だった。父親は職を始終変えている男で、エルヴィスが3歳のときには文書偽造の罪で数カ月服役した。ひどく貧しかった一家はそのとき家を失い、母親はエルヴィスを連れて一時親戚に身を寄せた。
小さいころからまわりにいた黒人たちの音楽を聴いて育ったエルヴィスは、11歳のとき、歌のコンテストに出て入賞した。
13歳のとき、一家はテネシー州メンフィスへ越した。公営の低所者用アパートに入居した。
エルヴィスは、18歳で高校を卒業すると、電気会社にトラック運転手として就職した。同じ年、母親にプレゼントするつもりで、レコーディング・サービスに料金4ドルを支払い、自分の歌声を吹き込んだレコードを作った。その録音を聴いたレコード会社が、エルヴィスに才能を感じ、レコーディングの際に歌い手として彼を呼んだ。それを縁に、19歳でレコード・デビュー。彼は黒人のように歌う白人歌手として注目された。21歳のとき、テレビ番組に出演し、身をくねらせて「ハートブレイク・ホテル」を歌い、これが一大センセーションを巻き起こし、エルヴィスは一気にスターダムに上り詰めた。
以後「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「監獄ロック」「好きにならずにいられない」など数多くのヒット曲を歌い、熱烈なファンをもつ「ロックの帝王」として君臨し、世界中の若者に多大な影響を与えた。アイドル歌手として映画にも数多く出演した。
1977年8月、メンフィスの自宅で、心臓発作のため没した。42歳だった。

かつてエルヴィスのハワイ・ホノルル・コンサートのテレビ生中継があって、中学生のころそれを見て衝撃を受けた。第一印象は得体の知れない宇宙人を見た、というものだった。あのときエルヴィスは、一曲歌い終えると、首のスカーフを客席に放り、それをステージに押し寄せた女性ファンたちが奪い合った。それからエルヴィスはステージのそでへ行き、新しいスカーフを巻いてきて一曲歌い、またそれを女性ファンに投げる。それを繰り返していた。エルヴィスは白いジャンプスーツの胸を大きく開け、肌を見せていた。
「肌着を着ていない!」その日、タンスにあったランニングシャツをすべて捨て、以後、上の肌着を着なくなった。そのテレビ中継は、全世界で15億人以上が見たそうだ。

メンフィスのエルヴィスの自宅に、お墓参りにいったことがある。プライベート・ジェット機やピンクのオープンカーなどのほか、自宅のなかも見学した。自宅にはスカッシュのコートやトレーニングジムなど、いろいろな施設がこじんまりとそろっていた。外にある施設へ行けない大スターの孤独と、物騒な米国の社会事情が思われた。

エルヴィスの汗がついたスカーフにキャアキャア騒いで群がる年輩の婦人たちの姿が、ロックの魅力の核心である。「かっこいい」という感激は、ほかのすべてを消してしまう。
エルヴィスは、その権化だった。
(2018年1月8日)



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1月7日・白洲正子の真価

2018-01-07 | 歴史と人生
1月7日は七種粥(ななくさがゆ)。なずな(ぺんぺん草)、すずな(かぶ)、すずしろ(大根)など春の七種をおかゆに入れて食べれば万病が防げるとのおまじないの日。この日は『橋のない川』の住井すゑ(すえ)が生まれた日(1902年)で、随筆家の白洲正子の誕生日でもある。

樺山正子は1910年、東京で生まれた。祖父は元薩摩藩士で海軍大将、伯爵になった人物。父親は鉄鋼会社や銀行の役員で、後に貴族院議員になった。正子は次女だった。
4歳のころから能を習っていたという正子は、14歳で米国留学。18歳のとき帰国した。
19歳のとき、白洲次郎と結婚。白洲正子となった。夫、白洲次郎は、戦後日本の復興の道筋をつけた首相、吉田茂の懐刀で、占領軍GHQの幹部と対等に議論して一歩も引かなかったと言われる伝説の人物である。
白洲正子は、官界・財界の大物である夫の家庭を守る妻におさまることを潔しとせず、自分で骨董屋をはじめたり、随筆を書いたりした。青山二郎や小林秀雄、梅原龍三郎などの文化人との親交もあつく、随筆でいくつかの文学賞を受賞した。
1998年12月、肺炎のため、入院していた東京の病院で没した。88歳だった。

白洲正子は、伯爵家の令嬢という上流階級の女性だけれど、薩摩藩士の血をひいているせいか、たおかやかな深窓の令嬢ではおよそない、活発なモダンガールだった。夫・次郎との若いころの写真を見ると、まるで「グレート・ギャッツビー」そのままの優雅さである。

白洲正子が骨董に入れ込んでいたころ、骨董品を前にして批評家の小林秀雄が、
「値段をつけてみろ」
と試験していじめたり、彼女が骨董屋の店を構えたとき、小林が店の品ぞろえを見て、
「特色のない店だな。やめちまえ」
と言ったそうだ。

小林秀雄という人は、男相手だと、飲んでからんで、相手が泣きだすまで責めつづけるというたちの悪いからみ酒だったらしいが、女相手だと急にやさしくなり、男性陣対女性陣の議論になると、かならず女性の側につくフェミニストでもあった。
その小林が、女性相手に真剣にものを言うというのは、骨董という彼の得意ジャンルに白洲正子が趣味以上に踏みこんできたからでもあろうが、小林が彼女をひとりの人間として認め、対等にものを言ったということのあかしである。
おそらく、小林秀雄のフェミニズムは、若いときに友人の中原中也から奪い取った長谷川泰子と同棲した挙げ句ついに逃げだした経験から、女性にはこりごりで、怖いからなるたけ女性とは距離をおき立ち入らないでおこうという構えだったろう。
小林秀雄の娘は、白洲正子の息子と結婚した。

白洲正子は、娘時代も晩年も、生涯ずっとかっこよかった女性である。それは、生まれや育ちがよいおかげでもあったが、本人に中身があった。
(2018年1月7日)



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1月6日・シュリーマンの発掘

2018-01-06 | 歴史と人生
1月6日は、米国の偉人、ベンジャミン・フランクリンが生まれた日(ユリウス暦1706年)だが、トイロを発掘した考古学者、シュリーマンの誕生日でもある。

ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマンは、1822年、現在のドイツ、メクレンブルク=フォアポンメルン州で生まれた。父親はプロテスタントの牧師で、ヨハンは9人きょうだいの上から6番目だった。
家が貧しく、13歳のときに学校をやめて食品会社で働きだした。
19歳のとき、ベネズエラに新天地の夢を見て海を渡ったが、船が難破し、オランダ領に漂着した。それが縁でオランダの貿易会社に勤めだし、24歳のとき、ロシアで商社を創業。戦争時の武器輸出などで財を成した。
シュリーマンは、その後の人生を、古代ギリシアの発掘に賭けることを決意。語学の習得に励み、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、トルコ語など18カ国語をあやつるようになり、商売で築き上げた財産を、ホメロスの『イーリアス』に描かれたトロイ戦争の跡の発掘に注ぎ込んだ。彼はトルコのヒサルルクこそ、いにしえのトロイアにちがいないと見当をつけ、48歳のころから、発掘作業をはじめた。
そして、51歳のとき「プリアモスの財宝」を発見した。「伝説のトロイアを発見」「トロイ戦争はほんとうにあった」とのニュースは世界をめぐった。
その後もシュリーマンはトロイの発掘をつづけたが、1890年12月、旅行先のイタリア、ナポリの急死した。68歳だった。

小学生のころからギリシア神話を愛読していたので、シュリーマンの自伝『古代への情熱』を何度も読んでいる。読んでいちばん感心したのは彼の言語習得能力で、シュリーマンはひとつ新しい言語を自分のものにすると、つぎの言語にいく。しだいに記憶力が鋭さを増し、だんだん習得速度が早くなっていき、現代ギリシア語にいたってはほんの六週間でマスターした、そういう記述である。まさに神速で、ことばもない。

おおまかにまとめると、シュリーマンの生涯はこうである。
子どものころにホメロスの物語を読んで感動し、ギリシアとトロイの戦争はほんとうにあったのだと信じた。商売でお金を儲けたお金で、みんながおとぎ話だと思っているトロイ戦争の跡を発掘し、ほんとうだと証明して見せる、と決意した。将来結婚していっしょに発掘をしようと約束した女の子は、成功したシュリーマンが迎えにいくと、すでにほかの男と結婚していた。彼はべつの女性と結婚し、発掘に向かい、ついに発見した、というような話である。けれど、こうした話は、シュリーマンの創作で、トロイ発掘の試みは彼以前からあり、彼は実際には事業をたたんでから発掘を思いついたという異説もあるらしい。
いずれにせよ、たいした偉業、たいした人生で、凡人にまねできる業ではない。

イタリアのジョークに、たしかこういうのがあった。
「ツイてないよ。もう、これより下がないという不運のどん底だよ」
「そうか。じゃあ、掘ってみろ」
ときどき、掘ってみなくては、シュリーマンのように。
(2018年1月6日)



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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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1月5日・宮崎駿の指摘

2018-01-05 | マンガ
1月5日は、語呂合わせで「囲碁の日」。この日は、文豪、夏目漱石が生まれた日(慶応3年)だが、マンガ家でアニメ映画監督の宮崎駿(みやざきはやお)の誕生日でもある。

宮崎駿は、1941年、東京で生まれた。父親は飛行機部品を作る会社の経営者で、駿は4人きょうだいの上から2番目だった。
小さいころから絵が上手だった彼は、学習院大学の政経学部に進み、マンガを描いていた。同大では後に政治家になる麻生太郎と同期だったという。
大学を卒業した22歳のとき、アニメーション映画の制作会社に入社。以後、同社で、また転職先で一貫してアニメーション制作にかかわりつづけた。
33歳のとき、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」の全カットのレイアウトを担当。
37歳のとき、テレビアニメ「未来少年コナン」を演出、監督。
38歳で、アニメ長編映画「ルパン三世 カリオストロの城」を監督。
そして41歳のとき、雑誌に「風の谷のナウシカ」の連載をはじめ、この壮大なマンガ作品の一部を映画化したアニメ作品「風の谷のナウシカ」を43歳で発表。
44歳のとき、スタジオジブリを設立し、以後「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「風立ちぬ」などの名作アニメ映画を監督し、世界的な巨匠となった。

はじめて見た宮崎アニメは「未来少年コナン」で、あのふんわりと宙に浮かぶ映像感覚の新しさに驚かされた。
映画「風の谷のナウシカ」には圧倒された。緻密でやわらかな画風、エンジン付きグライダーで空中を自在に飛ぶ王女さまという人物造形、全体を貫く大きな自然観、ギリシア神話などヨーロッパの伝説を取り入れた黙示録的世界観、しかし終末を乗り越えたところに希望があるという、けっして暗く終わらせない結末、と、ほんとうに感服した。
マンガ本の「風の谷のナウシカ」のほうがもっとすごいけれど、映画版「風の谷のナウシカ」はやはり偉大な作品である。宮崎アニメというと、どれも傑作なので、
「やっぱりトトロ」
「千と千尋が最高」
「宅急便がおしゃれ」
などと、ベスト作品は好みにより分かれるけれど、やはり「ナウシカ」は忘れられない。

2013年の「風立ちぬ」を最後に、もう長編アメニは作らないと宣言した宮崎監督だが、君子豹変してすでに彼は次作を準備している。現在日本は急速に右傾化、軍国主義化しているから、宮崎監督は、やむにやまれず腰を上げて、反戦色の濃い作品を作るのではないか、と予想しているが、どうだろうか。

宮崎監督はどこかでこういう意味のことを発言していた。
「日本人は個人としては温かく人間的だが、集団になると冷酷なことを平気でおこなう」
これほど正確な日本人の描写をほかに知らない。
(2018年1月5日)


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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。人と作品による映画史。チャップリン、エイゼンシュテイン、溝口健二、ウォルト・ディズニー、ハワード・ヒューズ、ヴィスコンティ、黒澤明、パゾリーニ、アラン・レネ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、ベルトリッチ、北野武、黒沢清……などなど監督論30本を収録。映画人たちの人生を通して「映画を観ることの意味」に迫り、百年間の映画史を総括する知的追求。映画ファン必読の「シネマの参考書」。


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1月4日・夢野久作の蠅

2018-01-04 | 文学
1月4日は、官公庁御用始めの日(土日に重なると月曜日に順延されるけれど)。この日は、点字を開発したフランス人、ルイ・ブライユが生まれた日(1809年)だが、異端の幻想作家、夢野久作の誕生日でもある。

夢野久作は、1889年(明治22年)に、福岡で生まれた。出生時の名は、杉山直樹。父親は右翼系政治団体「玄洋社」の創成期を担い、中央の政界や軍部にも顔のきいた大物、杉山茂丸だった。
子供のころ、祖父から四書五経など中国古典をたたきこまれたという直樹は、上京して慶応大学に入学。大学在学中に陸軍の将校教育を受け、陸軍少尉の位を得た。
24歳のとき、大学を中退し、故郷福岡で農園をはじめたが、うまくいかず、上京して寺の修行僧になったり、九州にもどって新聞社の記者をしたりした後、30歳前後にルポタージュや童話を書きはじめた。
37歳のとき、雑誌の懸賞小説に『あやかしの鼓』が入選し、小説家としてデビュー。「夢野久作」というペンネームは、父親が彼の作品を読み、
「夢の久作の書いたごたる」
と感想を漏らしたところからという。
『押絵の奇蹟』『ドグラ・マグラ』などを書いた後、1936年3月、脳溢血のため没した。47歳だった。

長編『ドグラ・マグラ』は、狂人が書いた推理小説という奇抜な設定で、日本三大奇書のひとつに数えられて名高い。
その昔、聞いた話によると、『ドグラ・マグラ』は発表当時、推理小説界の大御所、江戸川乱歩に酷評されたそうだ。でも、後に乱歩は、
「あのとき、自分は頭がどうかしていた」
と、評価を180度変えたらしい。

中学生のころ、数学教師があるとき、授業中にこんなことを言った。
「宇宙空間はねじれているという学説があって、それによると、たとえば、どこまでも見える望遠鏡で、なにもない宇宙空間をのぞくと、自分の後頭部が見える」
おもしろい話だなぁ、と感心して聞いたが、後にこれは夢野久作の『猟奇歌』からの借用だと知れた。
「無限に利く望遠鏡を
 覗いてみた
 自分の背中に蠅が止まつてゐた」(夢野久作『猟奇歌』青空文庫)
中学時代の数学の先生が猟奇歌を読んでいたかどうか、たしかめたいけれど、すでに鬼籍に入られていて、たしかめようがないのは、そういう望遠鏡を持っていないのと並んでとても残念である。
(2018年1月4日)


●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、泉鏡花、夏目漱石、森鴎外などの文豪まで。平成から明治へと時間をさかのぼりながら、新しい角度から日本の大作家たちの生き様を検討していきます。あわせて、これを読まずに死んだらせっかく生まれてきた甲斐が半減するという珠玉の小説作品を厳選し、実体験に基づき愛をもって解説。既成の文学評価を根底からくつがえし、あなたの読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。

●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com


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1月3日・ジョージ・マーティンの輪

2018-01-03 | 音楽
1月3日は、『指輪物語』の作者、J・R・R・トールキンの誕生日(1892)だが、「五人目のビートルズ」ジョージ・マーティンの誕生日でもある。

ジョージ・ヘンリー・マーティンは、1926年、英国イングランドのロンドンで生まれた。彼が6歳のとき、家にピアノが届き、彼はピアノに熱中しだした。両親を説得してピアノのレッスンを受けた。将来ラフマニノフのような音楽家になることを夢見ていたが、最初は測量技師や事務仕事に就いた。
17歳のとき、海軍に入り、パイロットとなったが、彼が戦闘に参加する前に第二次世界大戦は終わり、終戦の翌々年に除隊。彼は退役軍人用の特典を利用して、音楽院で3年間、クラシック音楽の基礎を学んだ。このころ、彼は学校でピアノとオーボエの授業を受けたが、オーボエの教師はマーガレット・エリオットだった。
音楽学校を卒業したジョージ・マーティンは、BBC放送のクラシック音楽部門で働いた後、24歳でレコード会社EMIへ入社。EMI傘下のパーロフォン・レコードでさまざまなレコードの制作にたずさわった。
36歳、パーロフォン・レコードのトップとなっていたマーティンは、リバプールから売り込みにやってきたブライアン・エプスタインという男が持ち込んだデモテープを聴き、エプスタインがマネージャーをしている四人組のバンド「ザ・ビートルズ」との契約を即決した。ビートルズはデッカ・レコードのオーディションを落ちたばかりで、しかもマーティンは彼ら四人に直接会う前に、契約を決めたのだった。
ビートルズはジョージ・マーティンのプロデュースでレコード・デビューし、その後も、ビートルズのメンバーたちのアイディアをつぎつぎと取り入れ実現し、また彼らに音楽理論を手ほどきし、また演奏に参加しながら、彼らと共に曲を作り上げていった。
ビートルズは世界的バンドとなり、ジョージ・マーティンは「五人目のビートルズ」と呼ばれた。70歳のとき、彼はナイトの勲章を受け「サー」の称号を得た。
2016年3月、睡眠中に亡くなり、その死は元ビートルズのリンゴ・スターによりツイッターで公表された。90歳だった。

ジョージ・マーティンのオーボエの師匠マーガレット・エリオットは、ミュージシャンのピーター・アッシャーと、女優ジェーン・アッシャーの母親である。後に彼女の家には、ジェーンと婚約したポール・マッカートニー(ビートルズ)が居候として転がりこんでくる。ポールが「イエスタデイ」の曲を思いついたのは、マーガレットの家で寝ていたときである。また、ポールはピーター(ピーター・アンド・ゴードン)に曲を提供していて、それはヒットチャートの一位になっている。縁の不思議な輪である。

ジョージ・マーティンは、こういう意味のことを言っている。
「ビートルズは、自分のところへ、前の曲と似た新曲をもってこなかった。けっして『スターウォーズ2』を持ってこなかった」
つい慣れたやり方でお茶を濁そうとするたびに、このことばを思いだす。
(2018年1月3日)



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1月2日・クラウジウスの提議

2018-01-02 | 科学
1月2日は、『正法眼蔵』を書いた道元禅師(どうげんぜんじ)が生まれた日(正治2年)だが、物理学者、ルドルフ・クラウジウスの誕生日でもある。「エントロピー」の概念を打ち立てた人である。

ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウスは、1822年、当時プロイセン王国だった、現在のポーランドのコシャリンで生まれた。父親は牧師で学校の校長だった。
ルドルフは歴史学を好んだが、やがて物理学を志した。大学を出た後、ギムナジウムや大学で教えながら、物理学の研究をし、論文を発表した。
彼がはじめて「エントロピー」の語を論文で使ったのは、43歳のときだった。
それまでに、熱力学の第一法則である「エネルギー保存の法則」がすでに知られていたが、クラウジウスはこれに第二法則「エントロピーの法則」を加えた。
チューリヒ大、ボン大など、数々の大学の教授を歴任し、ロンドン王立協会の外国人会員でもあったクラウジウスは、1888年8月、貧血症によりボンで没した。66歳だった。

熱力学の第一法則は、こういうものである。
「ある閉じた世界のなかで、エネルギーの総量は変化しない」
たとえば、ものが燃えて灰になると、物質のエネルギーが減ったわけだが、それは周囲の温度が上がるという、べつのエネルギーに移しかえられたので、全体として見れば、エネルギーの総量は変わらない、ということで、究極的に言えば、こうである。
「宇宙が閉じた世界ならば、宇宙のエネルギーの総量は一定である」

一方、クラウジウスによる熱力学の第二法則は、こうである。
「外に何も変化を与えずに熱を低温から高温へ移すことは不可能である」
これは、平たく言えば、こういうことである。
「エネルギーは、高いほうから低いほうへ流れるので、その逆はない」
「閉じられた世界のなかでは、エントロピーはつねに増大する」

クラウジウスが導入した「エントロピー」というのは、なかなかつかみづらい概念だけれど、「乱雑さ」「広がり具合」とも翻訳することができる。
熱いコーヒーに氷のかたまりを入れると、それは混ざり、ぬるいコーヒーになる。その逆(冷たい氷部分と、熱いコーヒー部分とに分離するなど)はあり得ない。
宇宙が閉じた世界だとすると、熱はつねに低いほうへと流れつづけ、ついに全体が同じ温度になり、熱の移動がない「宇宙の死」が訪れる。
整理整頓された部屋は、ほうっておくとどんどん乱れ散らかっていき、その逆(部屋がさらにきれいになっていくなど)はあり得ない。

こうしたクラウジウスの提議は、その後の人類に大きな影響を与えた。
地球の環境汚染や温暖化など、地球の生態系にとって、もっとも悪いことをしている種族はおそらく人間で、そうしてみると、人間こそエントロピーそのものだという気がしてくる。でも、地球環境に対してろくなことをしてこなかった人類のなかにクラウジウスのような人もいたのだから、まだ人間も捨てたものではない。
(2018年1月2日)


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