1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月21日・クリスチャン・ディオールの灯

2018-01-21 | ビジネス
1月21日は、フェミニズム運動家、伊藤野枝が生まれた日(1895年)だが、ファッション・デザイナー、クリスチャン・ディオールの誕生日でもある。

クリスチャン・ディオールは、1905年、仏国のノルマンディー地方のグランヴィルで生まれた。父親は裕福な肥料製造会社を経営者で、クリスチャンは5人きょうだいの上から2番目だった。
両親は彼に外交官になってほしかったが、芸術家志向の強かったクリスチャンはそれを望まなかった。クリスチャンが5歳のとき、一家はパリへ引っ越した。
ファッションのスケッチを描いては売ってお金を稼いでいたディオールは、軍隊経験をへて、37歳のとき、ファッションハウスのデザイナーとして働きはじめた。当時、同僚だったデザイナーに、ピエール・バルマンがいた。
第二次世界大戦が終了した、40歳の年に独立し、彼は自分のファッション・ブランドを立ち上げた。
そうして、いまだ各地に戦争の傷跡が残るヨーロッパに、ぜいたくに生地をたくさん使い、ウェストを細くひきしめ、ふわりと豊かに広がった、くるぶしまであるロングスカートの優雅なファッション・デザインを打ちだして、ファッション界に衝撃を与えた。
彼のデザインは「ニュールック」と呼ばれ、復興途上にあったヨーロッパの理想、あこがれの的となった。
パリ・ファッション界の王者として長らく君臨したディオールは、香水や装身具など、服以外のさまざまな分野に進出し、世界的なブランド王国を築き挙げた後、1957年10月、心臓麻痺により、イタリアのモンテカティーニで没した。52歳だった。

世界にはいろいろな有名ブランドがあるけれど、クリスチャン・ディオールというと、やはり優雅で高級なもの、という印象が強い。
多くの歴史ある街々が爆撃によって廃墟と化し、戦争でボロボロになっていたヨーロッパの人々に、ヨーロッパ文化の粋を思いださせた、戦後ヨーロッパに高らかに掲げられた灯火といったイメージがある。
ドレス全体のシルエットがシンプルで、洗練されている。ディオールは同性愛者だったそうで、そうした性向がある繊細さをかもしだしてファッション・センスに生きるのかもしれない。イヴ・サン・ローランとか、ヴェルサーチとか、すぐれたファッション・デザイナーには同性愛傾向をもつ人が多い。

ディオールは言っている。
「女性の香水は、彼女について、彼女の筆跡よりも多くを語る」
ディオールが言うのだから、そうなのだろう。そうにちがいない。
(2018年1月21日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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1月20日・尾崎放哉の流浪

2018-01-20 | 文学
1月20日は、映画「甘い生活」を撮ったフェデリコ・フェリーニ監督が生まれた日(1920年)だが、俳人の尾崎放哉の誕生日でもある。

尾崎放哉は本名を、尾崎秀雄といい、1885年に鳥取で生まれた。武士の家系で、父親は裁判所の書記官をしていた。
十代のなかばから俳句を作っていた尾崎は、成績優秀で、一高、東大法学部と進んで、大学卒業後は、通信社をへて、26歳のとき、保険会社に入社した。
エリートコースを進んで順調に昇進していたが、しだいに俳句に入れ込みだし、勤務態度が悪くなり、36歳のときに会社を辞めた。
その後、朝鮮半島の保険会社に勤め、満州に渡った後、38歳のとき、からだを悪くして帰国し、しばらく京都のコミュニティー「一燈園」で暮らした。
39歳からは、京都や神戸、福井県小浜市などの寺を転々とし、寺の雑用をする寺男として暮らし、40歳のとき、小豆島の寺の寺男となり、その地で1926年4月、肋膜炎のため没した。41歳だった。

尾崎放哉は、五七五の定型にこだわらない自由律の俳句を詠んだ人である。
尾崎放哉は一面、自堕落で、わがままで、独善的で、お金を無心したがり、酒飲みで、酒癖が悪く、ひねくれたところのある、およそつきあいにくい人だったらしい。
学問はできたのだろうが、そうした性格的な欠点がわざわいして、極貧のなかで俳句を詠み、極貧のなかで死んだ。
生涯にわたって荻原井泉水を師と仰ぎ、頼った。小豆島の寺も荻原が紹介したらしい。
ひねくれたはみだし者だったようだけれど、俳句はすっきり冴えている。

「こんなよい月を一人で見て寝る」

「うつろの心に眼が二つあいている」

「白々あけて来る生きていた」

ソクラテスやランボー、ゴーギャン、ゴッホなども、社会生活の上では破綻的だった。『月と六ペンス』ではないが、こうした人々の残した作品や思想を思うとき、人生の価値とはいったいなんだろうと考えさせられる。
放哉がみずからすすんで孤独を求めて生きた挙げ句に、詠んだのが、つぎの代表作である。

「咳をしても一人」

横光利一が、フランンス象徴主義の詩人マラルメについて言ったことばに通じる。
「マラルメは、たとえ全人類が滅んでもこの詩ただ一行残れば、人類は生きた甲斐がある、とひそかにそう思っていたそうですよ。それが象徴主義の立ち姿なんですからね。」(横光利一『夜の靴』講談社文芸文庫)
(2018年1月20日)



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『心をいやす50の方法』(天野たかし)
見て楽しめるヒーリング本。自分でかんたんにできる心のいやし方を一挙50本公開。パッと見てわかる楽しいイラスト入りで具体的に紹介していきます。「足湯をする」「あの世について考える」「五秒スクワット」などなど、すぐに実行できる方法が満載。ストレス、疲労、孤独、無力感イライラなどの諸症状によく効きます。また、なんと、退屈しのぎにも効果が。


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1月19日・エドガー・アラン・ポーの凄味

2018-01-19 | 文学
1月19日は、文豪、森鴎外(本名・森林太郎)が生まれた日(文久2年)だが、米国の作家、エドガー・アラン・ポーの誕生日でもある。

エドガー・ポーは、1809年、米国マサチューセッツ州のボストンで生まれた。両親はともに俳優だった。エドガーは3人きょうだいのまんなかで、上に兄、下に妹がいた。
エドガーが生まれた翌年、父親は家族を捨てて出ていき、その後、母親が肺結核で没したため、エドガーは、ヴァージニア州リッチモンドに住む裕福な商人で、ジョン・アランという人の家に引き取られた。そこで彼は、エドガー・アラン・ポーという名を名乗ることになった。
ヴァージニア大学に1年ほど通った後、18歳のとき、年齢を22歳といつわって陸軍に入隊した。陸軍士官学校をへて、雑誌編集にかかわるようになり、編集者として辣腕をふるいながら、詩や短編小説を発表しつづけた。
ポーは、米国ではじめて著述によって生活を立てようとした作家と言われる。が、当時はまだ著作権が確立されておらず、経済的にはひじょうな困難を強いられた。
発表した作品は好評で、ヨーロッパでも高い評価を受けたが、経済的には恵まれず、貧しい生活のなかで執筆を続けた。
1849年10月、メリーランド州ボルティモアの路上で倒れ、うわごとを言っているところを発見されたポーは、病院に担ぎ込まれ、その4日後に没した。40歳だった。
作品に、世界最初の推理小説といわれる『モルグ街の殺人』、短編小説に『アッシャー家の崩壊』『黄金虫』『黒猫』、詩に『大鴉』などがある。

ポーの作品は拙著『名作英語の名文句』の1、2の両方で取り上げた。

エドガー・アラン・ポーよりも江戸川乱歩の名を先に知っていた。
小学生のときにはじめて読んだポーの小説は『メールストロムの旋渦』だった。すごい話だった。『死霊』を書いた埴谷雄高もこの作品を絶賛していた。
それは、船乗りが海で巨大な渦に巻き込まれた体験を語る話で、その人は機転をきかせてかろうじて助かったのだけれど、子どものときに読んでいて感じた、あのなんとも言えない恐ろしい印象は、いまだによく覚えている。この小説は、村上春樹の『スプートニクの恋人』に影響を与えていると確信している。

ポーの書いたものには、宿命の響きがある。人間のもつ重たい運命を、わしづかみにしてきて、どんっと机の上に置いて見せた、そういう凄味がある。
(2018年1月19日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「メールストロムの旋渦」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「黒猫」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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1月18日・A・A・ミルンの熊

2018-01-18 | 文学
1月18日は、タレント兼映画監督のビートたけし(北野武)が生まれた日(1947年)だが、児童文学作家A・A・ミルンの誕生日でもある。『クマのプーさん(Winnie-The-Pooh)』の作者である。

アラン・アレクサンダー・ミルンは、1882年、英国ロンドンのハムステッドで生まれた。父親は学校を経営していて、アランは小さいときそこに通った。8歳のころ、その学校にH・G・ウェルズが教師として在籍していて、彼はこの『タイム・マシン』『透明人間』を書いた大SF作家の授業を受けたことがあるという。
ケンブリッジ大学を出たミルンは、雑誌の編集者となり、第一次世界大戦がはじまると、軍隊の情報部で宣伝用の記事を書いた。
第一次大戦後は文筆家となり、評論、戯曲や推理小説を書いた。
ミルンは31歳で結婚し、38歳のとき、夫婦のあいだに男の子が生まれた。その息子、クリストファー・ロビンのために、ミルンは息子がもっているぬいぐるみたちが活躍するという童話を書いた。そして、それをイラストレーターと組んで絵本とし出版した。それが『クマのプーさん』で、「ウィーニー・ザ・プー」の名は、ロンドンの動物園にいるクマの名前「ウィーニー」と、白鳥の名前「プー」をくっつけたものだった。
この絵本は世界的な大ベストセラーとなり、モデルになったクリストファー・ロビンのぬいぐるみたちは、米国の出版社の企画で、大西洋を渡り、全米を巡業ツアーしてまわったという。その後、ディズニーがこれをアニメ・キャラクター化し、さらに世界のすみずみまで流布していった。
ミルンは、1956年1月、イーストサセックス州のハートフィールドで没した。74歳だった。

『クマのプーさん』は、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。
主役のクマのプーさんは、なかなか独善的な思考力の持ち主で、その言動がとても興味深い。日本人にも、プーさんのような考え方をする人は、たくさんいるだろう。
典型的な例だと、たとえば、ハーヴァード大学のマイケル・サンデル教授が、目的論的論法の限界を示す例として取り上げていたこのエピソードがある。

あるときプーさんが森のなかを歩いていると、ある木の上のほうから、ブンブンいう音が聞こえてきた。プーさんは考える。
あのブンブンいう音には、なにか意味があるはずだ。自分が知っているブンブンいう唯一のものはミツバチだ。自分が知るかぎり、ミツバチがなぜミツバチでいるかというと、それはハチミツを作るためである。なぜハチミツを作るのかといえば、自分が知るかぎり、それは自分が食べるためである。そして、プーさんは木を登りはじめる。

ものごとの意味をその目的から考えようとすると、どうしても、自分の知識の範囲内で目的を考えようとするので、しばしば考えを誤る。サンデル教授が取り上げたのはその一例としてである。このくだりの滑稽なプーさんを、ハーヴァードの学生たちは笑っていた。見ていて笑えなかった。まるで自分が笑われているようで。
(2018年1月18日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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1月17日・坂本龍一の美

2018-01-17 | 音楽
1月17日は、ヘアー・デザイナーのヴィダル・サスーンが生まれた日(1928年)だが、音楽家、坂本龍一の誕生日でもある。

坂本龍一は、1952年、東京で生まれた。父親は文芸書の編集者で、母親は帽子のデザイナー。龍一は一人っ子だった。
3歳からピアノをはじめ、10歳から先生について作曲を学びだした坂本は、18歳で東京芸術大学に入学。学生時代に飲み屋で仲良くなったミュージシャンに誘われて、クラブで演奏するようになり、それが縁でスタジオ・ミュージシャンとなり、さまざまなレコーディングに参加した後、26歳のとき、ベーシストの細野晴臣、ドラマーの高橋幸宏とともに「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成。シンセサイザーを前面に押しだし、中国の人民服ファッションを身にまとったテクノ・ポップ・バンドとして欧米ツアーをおこない、日本でも「ライディーン」「TOKIO」などが大ヒットし、テクノ・ブームを巻き起こした。
31歳のとき、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」に出演し、その映画音楽も手がけ、彼が書いた映画のメインテーマは世界的に知られる名曲となった。
35歳のころには、イタリア人のベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラストエンペラー」に出演、同映画の音楽を担当し、これによりアカデミー賞作曲賞を受賞した。
40歳のとき、スペイン、バルセロナ五輪の開会式の音楽を作曲し、みずからオーケストラを指揮した。以後、さまざまなミュージシャンとのコラボレーションやインスタレーション(空間芸術)、女優と組んだ朗読会、音楽教育番組作り、反原発運動など、音楽活動だけにおさまらない広い分野で活動、発言を続けている。

YMOの当時から坂本龍一は「教授」と呼ばれていた。1980年代前半のYMO人気はすさまじいものがあった。カーステレオでこれを大音量で流している学生は当時まわりにたくさんいた。そんななか、YMOのテクノ・サウンドを聴くと、なぜか頭痛がして、聴いていられなかった。だから、テクノはいまでも聴かない。

坂本龍一の音楽を聴くようになったのは、デヴィッド・ボウイとビートたけしが主演した「戦場のメリークリスマス」のサントラ盤からで、それ以降はかなり聴いている。CDもたくさん持っている。とくに彼が37歳のとき発表した「ビューティ」はしびれるような名作で、沖縄風あり、フォスターあり、バーバーありと、さまざまな音楽スタイルを取り入れながら「美」の感覚を表現しようとする音楽家の姿勢に打たれた。
坂本龍一は若いころのある夜、中華料理屋の前にあるラーメンなど料理のロウ細工の見本が並んだショーケースが醜くて許せなくなり、発作的に破壊して、警察に連行されたことがあった。そんな美意識がずっと彼の音楽の底に感じられる。

ずっと昔、作家の村上龍に「座右の銘」をと揮毫をお願いしたら、
「坂本のまねをして『勇気』と書こう」
と言って書いてくれた。だから、おそらくそのころ坂本龍一のモットーは「勇気」だったのだろう。ゲーテやセルバンテスも、水戸黄門の主題歌も、みんな、人生では「勇気」が大事だと言っている。
(2018年1月17日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


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1月16日・ケイト・モスの連想

2018-01-16 | ビジネス
1月16日は、女流評論家のスーザン・ソンタグが生まれた日(1933年)だが、ファッションモデル、ケイト・モスの誕生日でもある。

ケイト・モスことキャサリン・アン・モスは、1974年、英国イングランドの広域ロンドン南部の街クロイドンで生まれた。父親は旅行代理店、母親はバーのウェイトレスだった。ケイトが13歳のとき、両親は離婚した。
14歳のとき、バハマへ旅行した折、立ち寄った米国ニューヨークのJFK空港で、モデル事務所の経営者にスカウトされ、それがきっかけでファッション業界に入った。
16歳のとき、英国の雑誌ページにはじめて登場し、またたく間に世界的なモデルへとのし上がった。ケイトはグッチ、カルヴァン・クライン、シャネル、ブルガリなどのファッションショーに登場し「ヴォーグ」「ヴァニティ・フェア」の表紙になった。
彼女がファッション界にデビューした当時は、クラウディア・シファー、シンディー・クロフォードといった、女性らしいセクシーな曲線美で魅了するスーパーモデルたちが全盛を誇っていた。が、彼女らとは正反対に、ケイト・モスは肌が青白く、目の下にくまがあり、ガリガリにやせた、両性具有的で不健康な個性美の持ち主だった。
カルヴァン・クラインの広告でセミヌードになった彼女は、その裸体美でなく、拒食症と疑われるガリガリの細さで物議をかもし「ヘロイン・シック」「ウェイフ(浮浪者)ルック」などと呼ばれた。
31歳のときには、コカインを吸っている写真が大衆紙に載り、スキャンダルにもまれたが、1年後には世界で一、二を争う高収入のスーパーモデルとなって復活した。経済誌「フォーブス」によれば、2007年ごろの推定年収は約9百万ドル(約9億円)だったという。かつて映画俳優のジョニー・ディップの恋人だった彼女は、戦争地域の子ども救済やガン研究、エイズ患者支援などさまざまな慈善事業を応援している。2013年には彼女は満40歳を迎えるのを記念し、トルコで4日間のデトックスプログラムを受けてからだのラインを整えた後、「プレイボーイ」誌上でヌードを披露し、話題をまいた。

アンチ・スーパーモデルのトップモデル、ケイト・モスは、20歳ごろのデビュー当時、やせた不健康な若者だった。やせて両性具有的と言えば、1970年代の「ミニスカートの女王」ツイギーが思いだされるが、ツイギーのほうが異星人的(人間でない感じ)だったのに対し、モスのほうは病的(いちおう人間)な印象を受ける。
でも、2003年に、ジャケット姿のデヴィッド・ボウイに、後ろからモスが全裸で抱きついているツーショットを撮った29歳のころには彼女はすっかり女性らしくなっていた。

ポール・マッカートニーやキース・リチャーズと同様、マリファナやドラッグに関して寛容な考えをもっているので、モスのように、ドラッグの使用で批判された有名人は、つい応援したくなる。芸能人などがマリファナ・スキャンダルで世間のバッシングにあうたびに、ここがネーデルランドでないのが彼らの不運だった、と同情のため息をつく。

法律上の善悪と、道徳的な善悪を混同すると、ひどい社会になる。たとえば、さんざんいじめられた者が仕返しするのは、法律的には傷害罪だが、道徳的には同情すべき余地がある。一方、高級官僚が天下り、渡りを繰り返して何億円も稼ぐのは、法律的には問題ないが、道徳的には極悪非道だろう(公僕を看板にしているだけに悪質である)。
ケイト・モスからそんなことを連想する。
(2018年1月16日)



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1月15日・ナセルの膂力

2018-01-15 | 歴史と人生
1月15日は、「わたしには夢がある」と演説したマーティン・ルーサー・キング牧師が生まれた日(1929年)だが、エジプト大統領だったアブドゥル=ナセルの誕生日でもある。

ガマール・アブドゥル=ナセルは、1918年、エジプトの地中海に臨む古都アレクサンドリアで生まれた。父親は郵便局員で、ガマールは長男で、下に弟が2人いた。
ナセルが子どものころは、エジプトは英国の保護国となっていた。その昔、オスマン・トルコの属州だったエジプトが、自立しかけて失敗し、英仏に干渉された結果、英国の管理下に置かれたのである。エジプトは、アレクサンダー大王の時代からずっと、ヨーロッパや中近東の強国の干渉と闘ってきた歴史をもっている。
ナセルは成長するにつれ、民族主義的な思想に目覚め、祖国エジプトの解放へ向かって動きだした。18歳のときには、学生デモに参加し、逮捕・拘留されている。
21歳で、陸軍士官学校を卒業。
彼が30歳のとき、イスラエルが建国され、これに対して、レバノン、シリア、イラク、エジプトなど周囲のイスラム諸国はいっせいにイスラエルに対して宣戦布告した。この第一次中東戦争のときには、ナセルは少佐としてアラブ連合軍に従軍した。
ナセルが34歳のとき、彼を含む自由将校団がクーデターを起こし、国王を追放することに成功。このエジプト革命により、ナセルは革命政府の副首相兼内務大臣となった。
そうして、36歳でエジプト首相、38歳でエジプト大統領となった。
大統領になったばかりのナセルは、それまで外資企業が運営していたスエズ運河の国有化を決定。これに英仏が反発。スエズ戦争勃発となった。
英仏軍をしりぞけたナセル政権は、運河の国有化を国際社会に認めさせた。ナセルはヨーロッパ列強を追い払ったアフリカの英雄、アラブの大統領として、絶大な人気を誇り、その名は世界にとどいた。
その後、イスラエルとの中東戦争に敗れるなど、一時の勢いは失ったが、エジプト国民からの支持は厚かった。
1970年9月、カイロで心臓発作により没した。52歳だった。

「成せばなる。成さねばならぬ、なにごとも。ナセルはアラブの大統領」

ナセルとかガンディーとかカストロとかゲバラとか、欧米勢力に抵抗し勝利した人にはなぜだか拍手したくなる。アジア、アフリカ、中南米に多くいるであろう、反欧米歴史観をもつ人々と同胞だという意識がすこしある。
かつて日本が日露戦争と戦ったのは、ひとえに自国の都合であって、アジアのことなどまったく考えていなかったろうけれど、インドやトルコの人たちは日本の勝利を喜んでくれた。それと同じ心情かもしれない。ナセルは英雄である。
韓国大統領のように、大陸国家と海洋国家のはざまで生き抜こうとする半島国家のリーダーも大変だけれど、ナセルのように、世界の注目が集まるエジプトの地で、列強を相手にどっしりと構えて応じた指導者も、また大した膂力(りょりょく)だった。
(2018年1月15日)



●おすすめの電子書籍!

『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒され、きっと心が幸福になれますよ。しあわせへの近道、ここにあります。


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1月14日・シュヴァイツァーの瀬

2018-01-14 | 歴史と人生
1月14日は、作家の三島由紀夫が生まれた日(1925年)だが、「密林の聖者」シュヴァイツァー博士の誕生日でもある。

アルベルト・シュヴァイツァーは、1875年、ドイツとフランスのあいだでずっと領有権問題で争われてきたアルザス地方で生まれた。彼が生まれた当時はドイツ領のカイザースベルクで、現在はフランス領のケゼルスベールとなった。父親は牧師で、その地方では裕福な家庭だった。アルベルトは父親にピアノやオルガンなど音楽を習った。
子どものとき、近所の子と取っ組み合いのけんかをして、相手をねじ伏せた。そのとき、負けた相手が負け惜しみに言った。
「お前みたいに毎日肉入りのスープを飲んでいたら、お前なんかに負けやしない」
アルベルトはこのことばにショックを受けた。これが恵まれない人のために身を捧げようとする彼の人生のターニングポイントになった、と、子ども時代のケンカは、シュヴァイツァーの伝記のなかのもっとも印象的な場面のひとつである。
大学で神学や哲学を学んだ後、30歳以降は人のために尽くすと決心し、大学の医学部に入り直した。38歳のとき、医学博士の免許をとると、医療環境の貧しいアフリカのガボンへ出発した。ガボンは大西洋岸にある赤道直下の国で、そこに診療所を作り、医療活動をおこなった。診療所で博士が傷口に赤チンを塗ると、現地の黒人は、
「早く治るようにもっとたくさん塗ってくれ」
と訴えた。運営資金に困ると、博士はヨーロッパへ行き、オルガンのコンサートでバッハの名演奏家ぶりを披露して資金を作り、それを診療所に注ぎ込んだ。
カント哲学の研究者でもあったシュヴァイツァーは、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下に怒り、反核運動を展開して、77歳のとき、ノーベル平和賞を受賞した後、1965年9月、ガボンのランバレネで没した。

シュヴァイツァー博士は、かつては世界の偉人を選ぶとき、エジソンやキュリー夫人らと並んでかならず入ってくる「偉人伝の常連」だった。その自伝『水と原生林の間で』は愛読書である。どこを読んでもとてもおもしろい。

シュヴァイツァー博士が、近年もてはやされなくなったのは、博士が、
「白人と黒人は兄弟である。ただし、白人が兄、黒人が弟である」
という考え方をもっていて、これが差別主義だと批判されたためらしい。
「それが、いったい、どうした」と、言いたい。
無論、ヨーロッパ人キリスト教徒としての限界、時代的な限界はあったろうけれど、当時のほとんどのヨーロッパ人たちは、アフリカの黒人など人間でないと考えていて、実際彼らはアフリカへ出かけていって現地人を襲い、生け捕りにして奴隷としてたたき売っていたのである。ゾウもライオンもアフリカ人も同じだった。
博士に比べれば、ほとんどの現代日本人でさえひどい人種差別主義者にちがいない。博士が現代に生きていたら、いまの世の博愛主義者たちより、もっと先鋭的な平等主義を唱えて、世界を驚かせていたろう。
身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。
(2018年1月14日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。シュヴァイツァー、エジソン、野口英世、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。



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1月13日・狩野芳崖の志

2018-01-13 | 音楽
1月13日は、『くまのパディントン』の作者マイケル・ボンドが生まれた日(1926年)だが、狩野芳崖(かのうほうがい)の誕生日でもある。江戸時代から明治時代にかけて生きた日本画家である。

狩野芳崖は、文政11年1月13日(西暦だと異なる)、下関に生まれた。小さいころは幸太郎といった。
父親は長府藩(ちょうふはん)の御用絵師で、幸太郎の師匠は父だった。
19歳のころ、江戸へでてべつの絵師のもとで修行。
30歳のとき帰郷。このころから「芳崖」の名を名乗るようになった。
廃藩置県があったのが、43歳のとき。
これによって、全国で200万人の藩士が解雇されたというが、藩のお抱え絵師だった芳崖も、給料がもらえなくなり、生活は途端に困窮しだした。
カイコを飼ったり、陶磁器の下絵を描いたりしたが、苦しい暮らしむきがつづいた。
路頭にまよう寸前のぎりぎりの窮乏のなかで描き、展覧会に出品した作品「桜下勇駒図」「雪景山水図」が、審査員だった東京大学のアーネスト・フェノロサに認められるところとなり、フェノロサとの親交がはじまる。それまで、芳崖の絵はモノクロの水墨画だったが、このころから色に目覚め、彩色をはじめた。
さらに西洋画の空気遠近法や陰影法をとりいれ、新しい日本画の創造を目指し、「悲母観音像」の製作にとりかかる。
フェノロサが創立に向けて奔走していた東京美術学校(芸大美術部の前身)の、初代日本画主任教授に、芳崖は就任する予定だった。が、学校がはじまる前に亡くなってしまった。
絶筆となった「悲母観音像」は、亡くなる4日前まで、描きつづけていたらしい。
「あと3日あれば」
といい残して芳崖は没した。60歳だった。

「悲母観音像」は、なんともいえない深い魅力をもった作品で、たて型の画面の雲間の、右上のほうに悲母観音がぽかりと浮かんで立っていて、その足元のあたりに、シャボン玉のような透明な球がふんわり浮かび、なかに赤ちゃんがいる。見下ろす観音さまと、しゃぼん玉のなかから見上げる赤ちゃんの目と目が合って、そこに目に見えないきずながある。背景には、この世とは思われない、奥行きが限りなく深く感じられる虚空。空間の配置がすばらしく、絵全体から強烈な魅力が放射されている。
この傑作が未完成だったとは信じられない。あと3日で、どこをどう描き足したかったのか、まったくわからない。

芳崖という人は、生活にほんとうに苦労した人だが、生活苦に負けず、それに打ち勝った。そんなものをものともせず、自分の芸術の理想を最後まで追いつづけた。

「芳崖」の号は、「禅の極致は法に入れて法の外に出ることである」という教えから、「法外」の「ほうがい」の音からつけた名だという。志の高さを見習いたい。
(2018年1月13日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
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1月12日・ペスタロッチの一擲

2018-01-12 | 思想
1月12日は、作家、村上春樹が生まれた日(1949年)だが、スイスの教育家ペスタロッチの誕生日でもある。

ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチは、1746年、スイスのチューリッヒで生まれた。イタリア系の家系で父親は医者。ヨハンは3人きょうだいのまん中で、兄と妹がいた。
子どものころ、ヨハンは、農村地帯に住む親戚の家へ行き、いなかの子どもたちが貧しいため、学校に行けず、働いている現実を見てショックを受けた。都会のチューリッヒならば、まだ学校に行っている年ごろなのに、と。
大学で神学、言語学、哲学などを学んだ後、ペスタロッチは、22歳のとき、アールガウ州のブルック村に土地を購入し、そこを「ノイホーフ(新しい農場の意)」と名付け、農場経営をはじめた。さらに28歳のころから紡績業をはじめ、貧しい子女を雇い入れ、彼らを教える学校も並行してはじめた。経営状態は火の車となった。
50人の子どもたちにパンを与え、ペスタロッチは川の水を飲んで飢えをしのいだ。
紡績業は失敗し、貧民学校は閉鎖した。
30代なかばから、ペスタロッチは執筆に取り組み、教育書『隠者の夕暮れ』、教育小説『リーンハルトとゲルトルート』を発表した。
フランス革命の影響がスイスに波及し、ペスタロッチが52歳のとき、スイスでも革命が起き、革命政府が成立した。すると、ペスタロッチは革命政府の支援をとりつけ、53歳で、シュタンツの村で80人の戦争孤児を寺院に集め、教育をはじめた。ノミやシラミでいっぱいの、気持ちのすさんだ子どもたちと起居飲食をともにしてすごした。しかし、間もなく彼の孤児院はフランス軍によって接収されることになり、わずか半年ほどで廃院。喀血して倒れたペスタロッチは、療養し『シュタンツ便り』を書いた。
その後、小学校の教師になり、みずから教科書や教材を作り、教員のための教育法の書『ゲルトルート児童教育法』を書き、女子学校や聾唖学校を作り、生涯子どもの教育に奮闘した。そして、1827年2月、ブルックで病死した。82歳だった。

「二十八歳のとき農業を通じての教育を試みたが失敗し、餓死しそうになった。このとき、友人からわずかばかりの金を借りたが、家に帰る途中、牡牛が死んで泣いている農夫に出会った。『さあ、この金で新しい牛を買いなさい』といって、全額を渡してしまった。」(多湖輝『頭の体操 第5集』光文社)
この一文を中学生のときに読んで以来、ペスタロッチの愛読者になった。

「貧困の泥土のなかにあっては人はけっして人になれない」
ペスタロッチはそう言って、下層の子どもたちを教育によって救おうと終生児童教育に身を捧げた。労働者の生活環境改善に尽力した英国の実業家ロバート・オウエンも彼の学校を見学に来たというから、生前から彼の試みは有名だったのだろうけれど、ペスタロッチの学校経営はうまくいかず挫折が多かった。それでも、彼は挑みつづけた。
いい生活を望む以前に、まともな生活さえ望まない無私の境地。文字通り、他人のために身を投げだした人生だった。恐るべき人物だった。

ペスタロッチの墓のそばに州が建てた記念碑の碑文には、こうあるそうだ。
「すべてを他人のためになし、おのれのためにはなにも求めず。彼の名に恵みあれ!」
(2018年1月12日)



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