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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月31日・ジョン・ボーナムのドラム破り

2014-05-31 | 音楽
5月31日は、米国の国民的詩人、ウォルター・ホイットマンが生まれた日(1819年)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマーのジョン・ボーナムの誕生日でもある。ロック・ミュージック界が生んだ最高のドラマーの一人である。

ジョン・ヘンリー・ボーナムは、1948年、英国イングランドのレディッチで生まれた。
父親は建築会社を経営していた。5歳で空箱やコーヒー缶で自分でドラムセットを創って叩いていたジョンは、10歳のとき、母親にスネアドラム(サイドドラム)を買ってもらい、15歳のとき、父親にドラムセットを贈られた。
16歳で義務教育を終えたジョンは父親の会社で大工の見習いになった。見習いをしながら、地元のいくつかのバンドにドラマーとして参加し、ドラムを叩いた。
ボーナムはドラムのレッスンを受けたことがない自己流のドラマーだった。あまりに激しく叩くので、ドラムヘッド(ドラムの打面の皮)を破ったり、やかましすぎてクラブから出入り禁止になったりし、英国一大きな音で叩くドラマーと呼ばれた。
20歳のとき、新しく結成するいバンドのためのドラマーをさがしていたギタリストのジミー・ペイジと出会い、ペイジに惚れ込まれた。ボーナムは気が進まず、加入を断っていたらしい。ボーカル担当のロバート・プラントは、ボーナムに8通の電報を打って口説き、バンドのマネージャーが、それに追い打ちをかけ、ボーナムに40通の電報を送りつけて口説いた。ついに口説き落とされたジョン・ボーナムと、ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加え、新バンド「レッド・ツェッペリン」が結成された。
たしか、バンド名「レッド・ツェッペリン(鉛の飛行船)」は、ロックバンド「ザ・フー」のドラマー、キース・ムーンがよく言っていた、
「鉛の飛行船みたいに、どうせすぐ落ちるさ」
というジョークからの命名だったと記憶する。
ボーナムが20歳のとき結成されたツェッペリンは、北欧や米国をライブ・ツアーしてまわり、ライブで評判を高め、アルバムを売っていったライブバンドだった。それまでのシングルヒットを出して有名になっていく方法論とは、まったくちがった売り出し方をしたバンドだった。ツェッペリンは世界的なバンドとなり、世界をツアーしてめぐった。一台のバスドラムで叩いているとは信じられない高スピードで打ち鳴らされるボーナムのドラムは世界のロックファンのあいだで大評判となり、とくに三連符の一拍目を抜かした「頭抜き3連」はボーナムの代名詞となった。
ところで、ボーナムは飛行機恐怖症だった。彼は飛行機に乗る恐怖を忘れるために、アルコールに頼るようになり、飲酒量はしだいに増え、アルコール依存症になった。
1980年9月、ボーナムはウォッカを浴びるほど飲んで練習スタジオ入りし、リハーサルの後に入ったジミー・ペイジの家でも飲みつづけた。正体をなくして寝かされたベッドで翌日、吐瀉物をのどを詰まらせ窒息死した遺体となって彼は発見された。32歳だった。
バンドの柱だったボーナムの死により、伝説のロックバンド「レッド・ツェッペリン」はただちに解散した。

その昔、指揮者の山本直純が、オーケストラの一員として大太鼓を叩いていたとき、強く打ちすぎて、皮を破り、手が太古から抜けなくなったことがあるという話を聞いたことがあるが、やはり、ボーナムも破っていたのであったか。

ツェッペリンの音楽を聴くたびに、ジョン・ボーナムはすごいドラマーだったと、あらためて思う。思えば、彼が亡くなったのは、ジョン・レノンが射殺される3カ月前で、1980年の後半はロックファンにとって悪夢が続いた。悪いことが続く、というのは、ほんとうかもしれない。
(2014年5月31日)



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