1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月21日・アンリ・ルソーの個性

2014-05-21 | 個性と生き方
5月21日は、物理学者、アンドレイ・サハロフが生まれた日(1921年)だが、画家のアンリ・ルソーの誕生日でもある。
アンリ・ルソーの絵は、小学校のころから知っていた。熱帯的な、でも、およそこの世のものでない感じのファンタジックな絵で、強烈な魅力があった。

アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソーは、1844年、仏国マイエンヌのラヴァルで生まれた。父親は配管工で、貧しかったため、家計を助けるためにアンリは子どものころから働かされた。高校生だったとき、父親は負債を負い、家を差し押さえられ、両親は立ち退く羽目になり、アンリは途中から寄宿生となって高校に通った。
弁護士事務所勤務、4年間の軍隊勤務などをへて、彼は27歳のとき、パリ市の物品税徴収係となった。以後ずっと税関にの職員として勤めながら、日曜画家として絵画を描いては展示会に出品した。
49歳のとき、税関を退職して、絵に専念。「飢えたライオン」「眠るジプシー女」「蛇使いの女」「夢」などの傑作は退職後に描かれたものである。
1910年9月、肺炎のため、パリで没した。66歳だった。

自分はニューヨークのMoMA(ニューヨーク近代美術館)へ行くたび、あそこにある20世紀の名画の数々をじっくりながめてくるけれど、そのなかの一枚に、アンリ・ルソーの「眠るジプシー女」がある。
おそらくかなりの日本人が目にしたことのある絵柄だと思うけれど、夜の荒野に、肌の黒いジプシー女が眠っている。女のかたわらにはマンドリンのような弦楽器が置かれてある。大きなおすのライオンが女の上に鼻先を寄せて、女の匂いをかいでいる。夜空には白い月が浮かんでいる。という構図で、女もライオンも、布でこしらえた人形のようで、なんとも言えない童話的な味わいがある絵である。
ピカソやアポリネールは認めていたらしいが、ルソーが生前はあまり評価されていなかったというのは、とても不思議な気がする。一目瞭然の、圧倒的な存在感と魅力である。自分などは、見るたびに、
「ああ、個性とは、こういうものだなあ。」
とため息をついてしまう。なにもいらない。「こういうもの」がほしいのである。
(2014年5月21日)


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5月20日・J・S・ミルの功利主義的理想

2014-05-20 | 思想
5月20日は、文豪オノレ・ド・バルザックが生まれた日(1799年)だが、経済学者で思想家のジョン・スチュアート・ミルの誕生日でもある。
自分がJ・S・ミルを知ったのは中学時代で、多湖輝の本『頭の体操』にこう紹介されていたからだ。ミルは知能指数190の天才だったが、
「六十歳近くで代議士になった。二回めの選挙のときのモットーは、『選挙運動をしない。選挙費用を出さない。当選しても地域のために苦労しない』ことであった。もちろん落選した。」(『頭の体操 第5集』光文社)

ジョン・スチュアート・ミルは、1806年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は哲学者、経済学者のジェームズ・ミルで、父親は息子のジョンを学校に通わせず、自宅で教育した。ジョンは、3歳でギリシャ語、8歳でラテン語、11歳でローマ法史を学んだ。
彼は17歳で、父親が勤める東インド会社に入社し、以後35年間同社に勤めた。会社勤めをしながら、『論理学体系』『経済学原理』などを書いた。
プライベートでは、彼は20歳のころ、うつ状態におちいり、数年間そのままだったが、夫と子をもつ人妻だったハリエット・テイラーと出会い、うつ状態から脱出した。ミルはテイラー夫人と友人として交際をつづけ、夫人の夫が死んだ後、ミルが45歳のときに二人は結婚した。
東インド会社を退社後、ミルは選挙に出て一期だけ下院議員議員を務めたが、二期目に落選した後は著作に専念し『自由論』『功利主義』『自伝』などを書いた。
東インド会社時代、大学からの誘いを断りつづけていたミルは、59歳のとき、セント・アンドルーズ大学の学長を引き受けた。
1873年5月、滞在先のフランスのアヴィニョンで感染症により没した。66歳だった。

功利主義哲学者のミルは、父親の友人だったベンサムの、
「正邪の尺度は、最大多数の最大幸福である」
という功利主義を、発展させ、修正を加えた人である。ベンサムの「量」の理屈だと、
「大勢が幸福になるのなら、少数の者はそのために犠牲になってもかまわない」
ということになるが、ミルはそこに「幸福の質」を加えた。そして、
「おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよ」
という道徳律を提唱した。理想主義的な思想家だったと思う。

「人間の能力は、知覚、判断力、識別感覚、知的活動、さらには道徳的な評価さえも、何かを選ぶことによってのみ発揮される。何事もそれが習慣だからという理由で行う人は、何も選ばない。最善のものを識別することにも、希求することにも習熟しない。知性や特性は、筋力と同じで、使うことによってしか鍛えられない……世間や身近な人びとに自分の人生の計画を選んでもらう者は、猿のような物真似の能力があれば、それ以上の能力は必要ない。」(山岡洋一訳『自由論』光文社)

「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」(井原吉之助訳『功利主義論』『世界の名著38 ベンサム J.S.ミル』中央公論社)

ミルの文章を高校生のときに読み、自分もやせ我慢のソクラテスでありたいと志を立てたが、それからいく星霜をへて、気がつけば、いつの間にか太ったただのブタになってしまった。人生は思い通りにゆかない。流され、どんどんそれていく。自分にとって、ミルはそれを思いださせる苦い作家である。
(2014年5月20日)


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おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。

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5月19日・マルコムXの危機感

2014-05-19 | 歴史と人生
5月19日は、ベトナムの革命家、ホー・チ・ミンが生まれた日(1890年)だが、黒人活動家、マルコムXの誕生日でもある。自分の専門は米国1960年代で、学生当時からマルコムXのことはよく知っていた。

マルコムXは、1925年、米国ネブラスカ州オマハで生まれた。出生時の名はマルコム・リトル。父親はバプテスト(浸礼派)の牧師だったが、地域のKKK(クー・クラックス・クラン、白人至上主義の秘密結社)の標的にされた。マルコムが6歳のとき、父親は何者かにリンチを受け、頭が変形するほど殴られ、鉄道レールの上に放置され、車輪によって三つに切断された遺体となって発見された。これを警察は自殺として処理した。
マルコムの母親は精神病を発症し、精神病院に収容され、マルコムたち9人の子どもは里子に出された。マルコムは白人の上流家庭に引き取られたが、つねに人種差別がつきまとった。成績優秀だったマルコムは弁護士志望だったが、学校教師は彼に、黒人はどんなに努力しても無駄だから、あきらめて、大工を目指したほうがいいと諭した。
マルコムは高校を中退し、ボストンへ行き、靴磨どをした後、ニューヨークへ移り、ギャングになった。賭博、麻薬、売春、強盗を繰り返し、20歳のときに窃盗罪で逮捕された。
白人女性と性的関係をもっていたために、通常の5倍の懲役刑を宣告されたマルコムは、服役中に「ネイション・オブ・イスラム」に改宗。27歳で釈放されると、彼は同教団の広報係となり「マルコムX」と改名した。キング牧師の非暴力主義で人種差別に立ち向かおうという姿勢とは対照的に、抵抗と戦闘をあおる過激な発言でたちまち有名になった。
37歳のとき、教団の指導者が少女を強姦し、子どもを産ませていた事実を知り、これを告発したマルコムは教団から命をねらわれるようになった。
39歳になる年、マルコムはイスラムの聖地メッカへ巡礼の旅に出、帰国後、教団を脱退したマルコムは、アフリカ系アメリカ人統一機構を立ち上げ、
「アフリカへ帰れ」
と黒人たちに訴えるようになった。
もといた教団からの脅迫電話がひっきりなしにかかってくるなか、マルコムは、つねに護衛を連れて歩くようになった。
1965年2月には、マルコムの自宅に爆弾を仕掛けられた。幸い彼と彼の家族は無事だったが、爆発の一週間後、ニューヨーク市マンハッタンで舞踏場で演説中、聴衆にまぎれてい
た3人の暗殺者に銃の乱射を受け、没した。39歳だった。
この暗殺には、CIAやFBIも加担していたとする説も存在する。

スパイク・リー監督の映画「マルコムX」は、ショッキングな名作だった。マルコム・Xの波瀾に満ちた人生を描いた内容で、おおよそ事実に沿っている。緊迫した状況が積み重ねられ、アメリカ合衆国という巨大な帝国の組織体制に、無情に押しつぶされていくマルコムXの姿が鮮やかに浮かび上がる映画だった。こうした状況を、他人ごとのように感じる日本人もいるかもしれないけれど、弱い者を圧し、強者の既得権をより堅固にしようとする昨今の日本の政治状況を見ると、そうばかりも言っていられない気がする。

暗殺される1年ほど前、マルコムXは「投票権(ballot)か弾丸(bullet)か」と訴えている。
「白人の精神を変えようとするな。そいつは無理だ。アメリカの意識は破綻している。とうの昔にアメリカは道徳意識を失っている。アンクル・サム(合衆国政府のこと)にそんな意識はない。」(荒このみ訳「投票権か弾丸か」『アメリカの黒人演説集』岩波文庫)
この「白人」「アメリカ」ということばを「自民党」「官僚」に置き換えると、妙にしっくりくる気がするのは気のせいだろうか。
(2014年5月19日)


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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。

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5月18日・フランク・キャプラのアメリカン・ドリーム

2014-05-18 | 映画
5月18日は、映画のフランク・キャプラ監督の誕生日でもある。自分はキャプラ作品の心温まる作風がけっこう好きである。代表作は「或る夜の出来事」「オペラハット」「我が家の楽園」。この3作はすべてアカデミー監督賞受賞作だというからすごい。

フランク・キャプラは、1897年、イタリアのシチリア島で生まれた。誕生時の名はフランシスコ・ロサリオ・キャプラ。生家は果樹園を経営していて、フランクは7人きょうだいのいちばん末っ子だった。生活が苦しく、彼が5歳のとき一家は米国へ渡った。移民船がニューヨークに近づいたころ、あたりは暗かった。船が自由の女神像の前を通りかかると、父親は女神が掲げたたいまつの光を見上げ、フランクに言ったという。
「あれは自由の灯だ。よく覚えておくんだよ。自由だ。(That's the light of freedom! Remember that. Freedom.)」
米国に入国した一家は、大陸を横断して、西海岸のロサンゼルスに住みついた。父親はオレンジ畑で働き、フランクも子どものときから新聞売りをして家計を助けた。父親の希望で、フランクは工業のカレッジに進んだ。酒場のバンジョー弾きなどさまざまなアルバイトをしながら苦学してカレッジを卒業した。
卒業後間もない21歳のとき、徴兵され陸軍に入った。彼が従軍中に、父親が没した。
インフルエンザにかかり除隊したフランクは、23歳のとき、米国に帰化し、フランク・ラッセル・キャプラとなった。
除隊後は、家に帰った。すると、きょうだいのなかで唯一カレッジを出ていて、かつ、唯一定職についていないのがフランクだった。
彼は家を出て、サンフランシスコへ行き、農場で働いたり、映画のエキストラをしたり、ポーカーゲームをしたり、本のセールスをしたりして生活費を稼いだ。
そうして生活に窮しかけたとき、新聞でサンフランシスコに新しい映画の撮影所がオープンするという記事を見かけた。キャプラは撮影所に電話をかけ、ハリウッドからやってきた者だが、と自分を売り込んだ。キャプラの映画経歴などないに等しかったが、撮影所側は彼に興味を示し、フィルム1巻のドキュメント映画を撮るよう彼に依頼した。キャプラは素人のキャストでそれを2日間で撮り上げた。
それを出発点に、キャプラは映画の助監督、脚本家をへて、映画監督となった。
「或る夜の出来事」「オペラハット」「我が家の楽園」「スミス都へ行く」「素晴らしき哉、人生!」など、アメリカン・ドリームとヒューマニズムを盛った良心的な作品を撮る、ハリウッドを代表する監督となった。
1991年9月、心不全のため、カリフォルニア州で没した。94歳だった。

キャプラの作品では、クラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールが主演した恋愛コメディ「或る夜の出来事」がいちばんよく知られているかもしれない。アカデミー賞の主要部門を独占したこの映画は、コルベールがヒッチハイクするクルマを止めるために、スカートの裾を上げて脚を見せるシーンで、とても有名である。

キャプラ作品によく登場する女優ジーン・アーサーが自分は好きで、キャプラ作品はけっこう観ている。「オペラハット」「我が家の楽園」「スミス都へ行く」などで、庶民派アイドルといった役どころを演じている。ジーン・アーサーは、西部劇の「シェーン」の、あの少年の母親役だといったほうがわかりが早いかもしれない。

新大陸に希望を夢見て渡ってきたイタリア系移民の子どもは、自由の女神に迎えられ、ふと見かけた新聞記事にチャンスをつかみ、成功をつかんだ。キャプラの撮った映画より、キャプラ自身の人生のほうが、よりドラマティックだと思う。
(2014年5月18日)



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絵画連作によるカラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。

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5月17日・エリック・サティの家具として音楽

2014-05-17 | 音楽
5月17日は、アイルランドの音楽家、エンヤが生まれた日(1961年)だが、作曲家、エリック・サティの誕生日でもある。
自分はジャン・コクトーを読んでいて、サティのことを知り、聴くようになった。

エリック・サティは、1866年、仏国の英仏海峡に面した街オンフルールで生まれた。父親は海運業を営んでいた。母親は英国生まれのスコットランド人だった。
エリックが4歳のころ、父親は事業をたたみ、一家はパリへ引っ越した。父親はパリで役所の翻訳仕事をした。エリックが6歳のとき、母親が没し、エリックは弟とともに、オンフルールの祖父のもとに預けられた。そして6年後にパリの父親のもとへもどった。
13歳でパリ音楽院に入学したエリックは、20歳のとき音楽院を退学し、酒場のピアノ弾きになった。
22歳のとき、ピアノ曲「3つのジムノペディ」を作曲。
24歳のとき、秘密結社「薔薇十字団」の創始者と出会い、入団。ピアノ曲「薔薇十字教団の最初の思想」「バラ十字教団のファンファーレ」などを作曲した。
29歳のころピアノ曲「ヴェクサシオン」を作曲。
48歳のころ、ふたまわり年下のジャン・コクトーと知り合い、彼らは画家のパブロ・ピカソを加えて、脚本コクトー、美術・衣裳ピカソ、音楽サティというトリオを組み、前衛バレエ劇「パラード」を作った。上演すると、非難ごうごうだった。
ラヴェル、ドビュッシーに強い影響を与えたサティは「貧しき者の夢想」「(犬のための)ぶよぶよした前奏曲」「自動記述法」「気むずかしい気取り屋の3つの高雅なワルツ」「官僚的なソナチネ」「不愉快な概要」など、変わった題名の曲を多く発表した後、1925年7月、肝硬変のため、入院先のパリの病院で没した。59歳だった。

サティは演奏会用の楽曲を作る一方で、家具の音楽、ということを提唱した人でもあった。家具のように、日常にふつうに存在していて邪魔にならない音楽ということで、これは後にブライアン・イーノが作りだした環境音楽に通じると思う。

サティの「ヴェクサシオン」は「嫌がらせ」「しゃくの種」という意味で、1分程度の部分を840回繰り返すという指示が付いていて、世界一長い曲とされる。
こういう曲がめったにコンサートホールで演奏されないのは当たり前で、はじめて「ヴェクサシオン」が演奏されたのは、サティが没して約40年後、沈黙の音楽「4分33秒」の作曲家ジョン・ケージによってだった。演奏に18時間40分かかったという。
でも、ジョン・ケージは演奏すると約639年かかる「ASLSP(As SLow aS Possible)」を発表していて、さらに、ショパンのマズルカのなかにも永遠に繰り返す楽曲があって、永久に終わらない曲もあるというから、上には上があるものだ(サティも、永遠に繰り返す曲を書いている)。

コクトーによると、サティはこう言ったそうだ。
「肝腎なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ。」(曽根元吉訳「サティ万歳」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)
この思想は、現代の資本主義社会の思想ともっとも遠いところにある、現代人が黙して傾聴するべき命題だと思うけれど、どうだろう。

自分はサティが好きで、いろいろ聴いてきた。「家具の音楽」を志向した彼の音楽はどの家にもしっくりと収まるので、サティを嫌う人はおそらくいないだろうけれど、どれを聴こうかしらという人には「あなたがほしい……(Je te veux)」など、おすすめします。
(2014年5月17日)



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『ポエジー劇場 子犬のころ2』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は泣いているリスに出会って……。友情と冒険の物語。

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5月16日・溝口健二の長まわし

2014-05-16 | 映画
5月16日は、ロックミュージシャン、ロバート・フリップが生まれた日(1946年)だが、世界的巨匠だった映画監督、溝口健二の誕生日でもある。
自分は溝口の「瀧の白糸」「雨月物語」「祇園囃子」などを観たことがある。

溝口健二は、1898年、東京の浅草で生まれた。父親は職人で大工だった。健二は3人きょうだいのまん中で、姉と弟がいた。健二が5歳のとき、日露戦争がはじまり、父親は戦争需要をあてこんで軍用の雨合羽を作りだしたが、戦争が終わり、あてがはずれて破産。家は競売に出され、姉は養女に出され芸妓になった。
健二は小学校のとき、岩手、盛岡の親戚に預けられて転向していった。
小学校を卒業後、彼は15歳で浴衣の図案屋に奉公に出た。
その後、姉からの援助を得て、洋画の学校に通ったり、新聞社の広告部で働いたり、演劇や映画びたりの日々をへて、映画俳優と知り合い、そのつてで22歳のとき、映画会社に助監督として入社。
24歳で監督に昇進し「愛に甦る日」で監督デビュー。以後「唐人お吉」「瀧の白糸」「武蔵野夫人」を発表。
54歳のとき、ヴェネツィア国際映画祭に出品した「西鶴一代女」で国際賞を受賞。
55歳のとき「雨月物語」で同映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。
さらに56歳のとき、「山椒大夫」でも同サンマルコ銀獅子賞を受賞。と、ヴェネツィアで3年連続入賞という快挙を成し遂げた。
世界的巨匠となった溝口は「祇園囃子」「赤線地帯」などを発表した後、1956年8月、白血病のため、京都で没した。58歳だった。

溝口健二は撮影現場では暴君のように君臨し、スタッフや俳優たちに罵声を浴びせて威張っていたらしい。溝口作品によく出演した女優、田中絹代によれば、溝口は仕事場では大監督だったが、すべてを映画に注ぎ込む生き方をしたため、プライベートではユーモアに欠け、日常はおもしろくない人だったという。

溝口映画の特徴的な手法は長まわしで、カットの声をなかなかかけず、ずーっとカメラをまわしつづけて長いシーンを撮っていく。それで「演技は俳優の領分」だとして、俳優には演技上の助言はいっさいせず、演技者まかせにした。それで独特の雰囲気のある映像ができあがった。
クロード・ルルーシュ監督も、せりふを俳優まかせにして、遠く離れたところから望遠レンズを向けるという独特の撮り方をするけれど、それにも通じるかもしれない。
そういえば以前、ジャン=リュック・ゴダール監督が、ローリング・ストーンズによる「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景を撮った際、ゴダールはカット割りをほとんどせず、録音スタジオ内を舐めまわすようにずーっとカメラをまわし続けて、或る異様な雰囲気の映像を作っていた。
実際、ゴダールは、溝口の墓参りをしたほどの大の溝口ファンで、
「好きな映画監督を3人あげると?」という質問にこう答えたという。
「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」

名作と名高い「雨月物語」を観たのはずいぶん前のことだけれど、そのときの自分にとっては長いワンシーンが退屈で、むしろ「瀧の白糸」のほうが新鮮だった。そこに描かれた風俗のめずらしさもあって、随所でびっくりさせられた。自分はまだ溝口の芸術が理解できていないのかもしれない。
(2014年5月16日)


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『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。

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5月15日・ジャスパー・ジョーンズの題材

2014-05-15 | 美術
5月15日は、俳人の西東三鬼が生まれた日(1900年)だが、芸術家のジャスパー・ジョーンズの誕生日でもある。自分がはじめて見たジャスパー・ジョーンズの作品は「旗」だった。星が48個ある合衆国の星条旗が描かれたもので、彼の作品ではもっとも有名なものかもしれない。線や色に独特のゆるさがあって、不思議なおかしみがある。あれはエンカウスティークという古代の絵画技法で、ロウや樹脂を混ぜた顔料で描かれているのだという。

ジャスパー・ジョーンズ・ジュニアは、1930年、米国ジョージア州のオーガスタで生まれた。幼いころに両親が離婚し、ジャスパーはサウスカロライナ州にいる父方の祖母やおば、あるいは母親の家を転々としながら育った。サウスカロライナ大学で1年半ほど学んだ後、19歳のとき、彼はニューヨークに出てデザイン学校に入った。
当時は戦後間もないころで、米国にはまだ徴兵制度があった。ジャスパー・ジョーンズは徴兵され、折しも朝鮮戦争が勃発したため、極東に配置された。22歳から23歳までのころ、彼は兵士として日本の仙台に駐屯していたという。
除隊し、ニューヨークへもどってきたジョーンズは、同じビルに住む芸術家のロバート・ラウシェンバーグと出会い、二人は恋人となった。ジョーンズは、ラウシェンバーグと影響を与え合うとともに、同じようにゲイだった振付師のマース・カニンガムと、無音の楽曲『4分33秒』の作曲家ジョン・ケージのカップルにも強い影響を受けた。
ジョーンズは28歳のとき、はじめてギャラリーで個展を開いた。その個展で、MoMA(ニュヨーク近代美術館)が展示作品のなかから数点を購入し、館内展示をはじめた。
一躍有名になったジャスパー・ジョーンズは、30歳のとき、ブロンズ像の上に油彩をほどこし、本物そっくりの2本の缶飲料が並んで立っている「彩色されたブロンズ像(Painted Bronze)」を発表。また、31歳のとき、米国地図を油彩でゆるい感じで描いた「地図(Map)」を発表。世界の芸術シーンに大きな影響を与え、彼に続くロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホールなどのポップ・アートの先駆的役割を果たした。ジョーンズは現在もニューヨークに在住している。

ニューヨークのMoOMAで自分はジャスパー・ジョーンズ作品の実物を見たことがある。「旗(Flag)」「4つの顔のある的(Target with Four Faces)」「緑の的(Green Target)」「白い数字(White Numbers)」などなど。
ジャスパー・ジョーンズの作品の特徴として、取り上げた題材のおもしろさ、ということがまずあると思う。合衆国の星条旗とか、ダーツの的とか、缶入り飲料とか、それまで芸術家が取り上げてこなかったけれど、誰もがよく目にして知っているものを、取り上げ、それを芸術として見せ、みんなをあっと言わせたのだった。

思えば、天下の名画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」も、女神や天使、王女、貴族の子女のいずれでもなく、市井の無名の一女性を描いたもので、描かれた当時は題材としてはまったく新しいものだったのにちがいない。でも、誰も知らない女性だったから、題材の斬新さはほとんど評価されなかった。

ダ・ヴィンチのころに、キャンベルスープ缶とか星条旗とか、誰もが日常で目にするものがあったら、ダ・ヴィンチはそれを描いたろうか。題材の新しさ。ジャスパー・ジョーンズの提議した問題は、いろいろなことを考えさせてくれる。
(2014年5月15日)



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『黒い火』(ぱぴろう)
47枚の絵画連作による物語。ある男が研究を重ね、ついに完成させた黒い火とは? 想像力豊かな詩情の世界。

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すでに外堀は埋まっている

2014-05-14 | 日本の未来を憂う
一昨年の衆院選での自民党の圧勝から、時代はどんどん悪くなっているように思われます。ここへきて、
「集団的自衛権の新解釈」
が首相を中心に、取り巻き連中のあいだで取り沙汰され、また一段、ぐんと悪くなる段階へきている気がするので書いておきます。

日本国民としてまず、認識しておくべきは、
「すでに外堀は埋まっている」
という事実です。昨年2013年の12月に公布された秘密保護法によって、もう国民は権力側の支配下に完全に置かれてしまっているわけです。
政府にたてつくような意見を言う市民は、とつぜん逮捕されて、理由も告げられず投獄され社会から姿を消す、国家機密保護をたてに、逮捕理由すら永遠に明かされない、そういう時代にすでに突入しているわけです。これは、これは1925年に通過した治安維持法と同じであり、ナチス・ドイツが反対者を「夜と霧」にまぎれて連れ去り、社会から消し去ったやり口と同じです。
秘密保護法は、1年以内に施行されることになっていますから、今年2014年中には実行に移されます。こんな文章を書いている自分の身も、きわめてあぶないわけです。

そこへきて、今度は「集団的自衛権」の拡大解釈です。
首相は、自分の意見に賛成する元官僚や学者だけを寄り集めて私的な諮問委員会である「安保法制懇談会」を作り、現行の憲法下でも、日本が海外派兵できる理屈をひねりださせました。それによると、
・日本と密接な関係にある外国への攻撃
・日本の安全に重要な影響を及ぼす
・攻撃された国の要請、または同意を得る
おおまかにいって、この条件がそろえば、日本は「自衛隊」を海外派兵できる、ということにしよう、というものです。

これは具体例で言えば、こういうことではないでしょうか。
たとえばアフリカのある国のなかで紛争が起きたとします。
これは、その国の政府が攻撃されたということである。
日本はその国と(ヤシの実かコーヒー豆か知りませんが)貿易関係がある。
これは密接な関係であり、そんな親しい国の政府への攻撃を見過ごすわけにはいかない。
それは世界平和への挑戦であり、ひいては日本の安全をおびやかすことにつながる。
その国の政府は、政府軍を助けてくれるなら、歓迎すると言っている。
日本の軍隊を派遣しろ。
これは命のやりとりになる。
「行きたくない」というやつは、監獄にぶちこめ。
兵隊が足りなければ、徴兵制を敷いて、召集令状のはがき1枚で呼びつければいい。
戦地の最前線に行って誰が、敵の弾の的になるのか?
それはあなただ。あなたは日本の安全保障のために、命を捧げるのだ。

こうなると、首相は、いやな政敵がいたら、手をまわして、その相手宛てに召集令状を出させれば、かたがつくことになります。実際、前の戦争のとき、東條英機首相が何人もの反対者をそうやって戦地へ送り込んだことは周知の事実です。

とにかく。
交戦権を明らかに否定している平和憲法をもちながら、海外派兵がOKならば、もはやその国は法治国家ではない。一党独裁の独裁国家です。
今回の「集団的自衛権の新解釈」問題は、それくらい深刻な問題をはらんでいると思う。
もしもそんな拡大解釈を許すのなら、
「自衛隊を派遣する場合は、弾除けとして、国の3権の代表である首相、衆院議長、最高裁判所長官の3者の子息3名を最前線の部隊3隊に分けて同行、配置させること」
くらいの国家的危機感の共有がほしいと思います。

また、憲法改正のハードルを、
「国会の総議員数の3分の2以上の賛成」から、
「総議員数の過半数」
に、まず下げる改正して、それから変えやすくなった憲法を、あからさまに海外派兵OK な変更しようという2段がまえの計画も、政府与党にはあります。
一部の文化人のあいだでは、これに乗って、市民の側で、新憲法草案をつくろうという動きもあるようだけれど、それは政府の策略に進んではまるような愚行だと思います。
「おや、立派な草案をお持ちで。じゃあ、せっかくお作りになったそれを活かすためにも、まず憲法を変えやすくしましょう。いっしょに力を合わせて改正しましょう」
と政府側はすり寄ってくるでしょう。
そうして、憲法が改正しやすくなったあかつきには、草案を検討するといった約束は反故にされ、政府与党案がすんなり新憲法におさまる、といった寸法です。反対者には、秘密保護法をたてにした「夜と霧」が待っています。

とにかく、すでに外堀は埋まっているわけですから、これ以上のことがないように、内堀まで埋められないように気をつけなくてはなりません。
憲法改正の国民投票の選挙権を18歳以上に与えようというからには、政府与党は、若い連中はいまの社会や近隣国に不満をもっている連中が多いだろうから、彼らは改正に賛成するだろうと踏んでいるものと思われます。その改正が、ゆくゆくは自分たちを戦地の地獄に追いやるともしらずに、と。

とにかく内堀まで埋められないように気をつけて、つぎの選挙のときに、秘密保護法の是非を争点にする市民運動を起こして、これを廃案にする政党を勝利させるところまでもっていかなくてはなりません。
外堀の土をのけなくては、安心して自由に政治を議論することもままなりません。

それにしても、2012年衆院選時の自民党の公約
「『天下り』を根絶します。」
はどうなったのでしょう。
役人が太っていくばかりの国の経済に未来などありません。

自分の考えでは、ただでも少子化、高齢化が進み、産業の国際競争力が衰え、国の経済状況がかんばしくないときに、生産をせず、ひたすら消費のみをする軍隊・軍事費にお金を注ぎ込むのは具の骨頂だし、近隣諸国とケンカするのは、遠くの国々を戦争景気で喜ばせるだけだの自殺行為だと思います。
軍事費などにお金を使わず、官僚の既得権益を開放し、規制撤廃をすすめ、優秀な高級官僚たちにもどんどん社会へ出てベンチャー企業を起こしてもらって、経済再構築をはかるのが、正しい日本の未来を開く道だと自分は信じます。
(2014年5月14日)


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5月14日・ジョン・フィールズの大西洋横断

2014-05-14 | 歴史と人生
5月14日は、社会事業家、ロバート・オーウェンが生まれた日(1771年)だが、数学者、ジョン・フィールズの誕生日でもある。数学のノーベル賞と言われる「フィールズ賞」を作った人である。
フィールズ賞のことは自分がはじめて知ったのは、1970年に広中平祐博士が受賞して話題になったときだった。ああ、そういう賞があるんだ、という感じだった。フィールズはてっきり米国人だとばかり思っていて、じつはカナダの人だったとは、ごく最近まで知らなかった。

ジョン・フィールズは、1863年、カナダのオンタリオ州ハミルトンで生まれた。父親は皮製品店の経営者だった。
21歳でトロント大学を卒業したフィールズは、米国へ行き、メリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で博士号を取得した。彼は同大学で2年間教鞭をとった後、 ペンシルヴェニア州でも教えたが、北米の数学研究の状況に幻滅し、28歳のときにアメリカ大陸を離れ、ヨーロッパへ渡った。ベルリン、ゲッティンゲン、パリを歴訪し、フロベニウス、マックス・プランクなどの大数学者たちと交友をもった。
39歳のとき、乞われて母国カナダのトロント大学へもどったフィールズは、大学で教鞭をりながら、オンタリオ州(州都トロント)に働きかけて、大学への補助金を確保するとともに、研究会議や研究基金の設立をうながした。
晩年には、フィールズはすぐれた研究をした若手数学者を表彰する賞の創設を提唱し、運動していたが、その実現を見る前に、1932年8月、トロントで没した。69歳だった。

フィールズは数学者の賞ためにと遺言し、47000ドル(約470万円)の遺産を賞の基金に寄付した。これを原資として、1936年にフィールズ賞が創設されたが、初回に2人の数学者にメダルを授与した後、しばらくお休みがつづいた。その後、1950年になって、4年に一度の賞としてフィールズ賞は再創設され、40歳以下の2人から4人のすぐれた研究成果をあげた数学者に授与されるようになった。
日本の学者では、小平邦彦(1954年)、広中平祐(1970年)、森重文(1990年)の3人が受賞している。ここ20年以上、日本人の受賞者はない。

虎は死んで皮を残す。フィールズはフィールズ賞を残した。自分は何を残せるか。

若き数学者フィールズが、北米の数学研究の状況を見渡し、がっかりしてヨーロッパへ脱出したというのは、感心する。
日本の若者の海外志向が衰えてきたと言われる昨今、フィールズのように、自分の母国の状況が悲惨ならばもっといいところへ行けばいい、と自由に動く態度はまぶしく感じられる。
もちろん業種にもよるけれど、どこの場所で自分を生かすかでなく、どの分野で自分を生かすかを優先して考えるのは健康的だと思う。ネットが進んだ現代社会では、なおさらにちがいない。
(2014年5月14日)



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『5月生まれについて』(ぱぴろう)
ロバート・オーウェン、フロイト、クリシュナムルティ、ホー・チ・ミン、バルザック、サハロフ、ドイル、エマーソン、吉村昭、中島敦、西東三鬼、美空ひばりなど、5月生まれ31人の人物論。ブログの元になった、より深く詳しいオリジナル原稿版。

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5月13日・ドーデーの草子地

2014-05-13 | 文学
5月13日は、女帝、マリア・テレジアが生まれた日(1717年)だが、作家のアルフォンス・ドーデーの誕生日でもある。
自分がはじめて読んだドーデーの作品は短編種『月曜物語』の冒頭の一変『最後の授業』だった。中学か高校の国語の教科書に載っていたと思う。アルザス地方の学校で、いたずらっ子が、授業に遅れていくと、教室はいつもと様子がちがう。フランス語の教師は彼を叱らない。外からプロシア兵のラッパが聞こえる。教師は青くなり、黒板に大きく「フランスばんざい」とチョークで書き「もうおしまいだ……お帰り」と壁に頭を押しつけて動かない。最初読んだときは、なんのことやら、という感じだった。この短編に流れる情感を理解するようになったのは、何年も後のことだった。

アルフォンス・ドーデーは、1840年、南仏プロヴァンスの地中海に面した街ニースで生まれた。父親は絹織物を製造する事業家だった。アルフォンスが2歳のとき、二月革命が勃発し、父親の事業が倒産。彼ら一家は仏中部のリヨンへ引っ越し再起をはかった。
アルフォンスは子どものころから詩を書く文学少年だったが、彼が15歳、リセ(高校)の生徒だったとき、父親が破産。アルフォンスはリセを中退し、アレーの街の中学の代用教員になった。
教師の仕事が嫌いだった彼は、18歳のとき、教員をやめ、パリにいた兄を頼っていき、兄の部屋に居候として転がりこんだ。
パリでは詩集を自費出版し、貴族の秘書を務め、劇場上演向けの戯曲を書き、20代なかばのころには、ドーデーは新聞に短編小説を発表する作家になっていた。
29歳のとき、短編集『風車小屋便り』を発表。
30歳のとき、ビスマルク率いるプロシア(ドイツ)と、ナポレオン三世のフランスとのあいだで普仏戦争がはじまると、ドーデーは従軍。翌年、フランスの敗北で戦争は終結し、講和条約により、アルザス地方の仏系住民は追い出された。パリへ帰ったドーデーは、戦争ののときの体験をもとに『月曜物語』を書いた。
1897年12月、脳出血のため、パリ郊外で没した。57歳だった。

ゾラ、フローベール、ゴンクールら自然主義作家と親交の深かったドーデーの長男は、ヴィクトル・ユーゴーの孫娘と結婚している。

ドーデーは自分が大好きな作家のひとりで、一作を挙げるなら、迷わず『風車小屋だより』のなかの一編『アルルの女』をおすすめする。これはドーデーが、新婚旅行で訪ねた南仏プロヴァンスで聞いた或る村の青年の悲しい恋愛事件を小説化したもので、後にドーデーはこれを戯曲にし、それにビゼーが音楽をつけてオペラとなった有名な作品である。自分は戯曲のほうの文庫本ももっているけれど、小説、戯曲と味わいがちがって、どちらもそれぞれに秀逸だと思う。
小説は6ページほどの短い話なのだけれど、胸をしめつけられるようなその後味は忘れがたい。もしも長編小説が結局スタンダールの『パルムの僧院』につきるのなら、短編小説は『アルルの女』なのかもしれない。小説のなかに、こんなフレーズがある。
「全く、わたしたちの心はみじめなものだ!」(桜田佐訳『風車小屋だより』岩波文庫)
この草子地(作品中に作者が顔を出してものをいう部分)は、いまでも自分の頭のなかでリフレインして離れない。
(2014年5月13日)


●おすすめの電子書籍!

『わたしにそれを言わせないで(二) 女子高生乱れ心』(香川なほこ)
社長秘書のバイトをする女子高生、美奈は、社長と関係をもちながら、告白された担任教師にもひかれ、恋に苦しむ。青春官能小説。

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