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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月25日・ルノワールの光

2019-02-25 | 美術
2月25日は、『時計じかけのオレンジ』を書いた小説家アンソニー・バージェスが生まれた日(1917年)だが、仏国の画家ルノワールの誕生日でもある。

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、1841年、仏国リモージュで生まれた。労働者階級出身で、子どものころ、陶磁器工房で働いていて、その技量を認められ、陶器に彩色デザインを施していた。
21歳のとき、パリの美術学校に入学。同時に画家シャルル・グレールのもとで絵画を学びだした。シスレーやモネと知り合ったのもそのころだった。
ルノワールが生きていた時代のフランスは、なにかと物騒だった。彼が29歳のとき、対プロイセンの戦争(普仏戦争)がはじまった。すると、彼は召集され、騎兵隊に配属された。しかし、赤痢にかかり、間もなく除隊となり帰ってきた。
翌年、普仏戦争が終わると、武装解除に抵抗するパリ国民軍の反乱が起きて、パリコミューンの臨時政府ができた。30歳のルノワールは、セーヌ川の岸辺で絵を描いていて、パリコミューン支持派の人々によって、敵方のスパイとまちがえられ、あやうくセーヌ川に投げこまれそうになったこともあったという。その後、盛り返してきた共和政権側により、パリコミューン派の大虐殺がおこなわれた。
そんな時代を、ルノワールはもっぱら絵画に打ち込んでいたが、サロンに出品する絵画作品はよく落選した。そんな彼が、同じ落選組のモネ、ドガたちといっしょに開いた絵画展が、有名な第一回印象派展で、これに33歳のルノワールは「桟敷」など数点を出品した。
第二回印象派展には「ぶらんこ」「陽光を浴びる裸婦」などの傑作を出品。ルノワール独特の木漏れ日の光が人物の上にこぼれ散っている、美しい人物画だったが、当時の批評家にはまったく理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評された。
そして第三回印象派展には、名作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を出品。
ルノワールは生涯、絵筆を離さなかった人だった。
50歳をすぎたころから、進行性のリューマチ性関節炎にかかり、66歳には、より暖かい気候を求めて、地中海に近い土地へ移った。車椅子による生活を余儀なくされ、右肩や手の硬直が進んだが、それでもルノワールは描く技術を鍛え、キャンバスが動くよう工夫したりして、描きつづけた。晩年の豊満な裸婦像は、そうして磨かれた技術の上に築き上げた新境地である。ルノワールは、1919年12月に没した。78歳だった。
映画監督のジャン・ルノワールは彼の息子である。

ルノワールたち印象派の画家たちは、光や色に対して、科学的なアプローチをもっていた。それまで「海の青」といえば、
「海がこういう色に見えるから」
と、青色を塗っていたのだったが、印象派の人たちはちがう。彼らは、
「海が青く見えるのは、海が青色の光を吸収せず、反射するからである」
と、そういう考えのもとに、画面の色彩を構成していった。

あのまばゆい輝きを放つルノワールの絵画が、当初、まったく評価されず、けなされたというのは、いまとなってはまったく信じがたい。当時のパリに行って、ルノワールの作品を、偏見なく、純粋に美を見つめられたかどうか、と、ときどき自問する。
(2019年2月25日)



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