12月21日は、映画女優ジェーン・フォンダが生まれた日(1937年)だが、生物学者ジャン・アンリ・ファーブルの誕生日でもある。
ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは、1823年、南仏アヴェロン県の寒村サン・レオンで生まれた。畑をもたず、これといった技術ももたなかった父親は、近所の家を手伝ったり、雑用を請け負ったりし、母親は手袋作りの内職をしていた。
ジャンの下に弟が生まれると、ジャンは口減らしのため、祖父母の家に預けられた。このとき3歳だったジャンは、まともな道さえない荒れ地を20キロメートルも離れた祖父母の村まで歩いていったという。
大自然のなかで育ったジャンは、7歳のときに父母の家へもどり、サン・レオンの小学校に入学した。
ジャンが10歳のとき、一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁のあるロデズに引っ越していき、父親はそこでカフェを開いた。
貧しかったジャンは、教会の手伝いをすることで学費を免除されて中学に通い、ラテン語やギリシャ語など語学で優秀な成績を修めた。
しかし、父親のカフェ経営はうまくいかず、一家は離散状態となり、ジャンは15歳のころ、学校を中退して、肉体労働をしながら独学で勉強するようになった。
17歳のとき、ファーブルはアヴィニョンの師範学校に入学。19歳の年に小学校教師の免許をとり、カルパントラで数学と物理学の教師になった。
その後コルシカ島の大学で数学を研究した後、ファーブルはアヴィニョンにもどり、博物館の館長を務め、染料の研究などをしたが、市民に対しておこなった彼の生物学の講義が宗教界から非難を受け、ファーブルはアヴィニョンを追いだされる恰好となった。
56歳のとき、セリニアンに移り住んだファーブルは、自宅の裏に1ヘクタールの庭を作り、そこに世界中から取り寄せたさまざまな植物を植えて、昆虫の研究をはじめた。そうして研究、観察しつつ書きつづけられたのが『昆虫記』全10巻で、セリニアンの村では「虫好きの変な老人」でしかなかったファーブルの名声は、この本の出版により、フランス全土でしだいに高まっていった。
ファーブルはレジオンドヌール勲章を受賞した後、1915年10月、老衰と尿毒症のため、セリニアンで没した。91歳だった。
ファーブルの名は、牧野富太郎とともに小学校のころから馴染んでいた。
ファーブルの研究は、厳密さに欠け、しばしば誤った認識があると生物学の専門家から批判されるけれど、それを差し引いてもファーブル昆虫記のおもしろさは圧倒的で、ファーブルが全世界の子どもたちを生物学の道へといざなった功績は絶大である。
ファーブルが昆虫研究に本腰を入れたのが、50代後半からで、それから30年以上も昆虫三昧の生活を続け、それがファーブルをファーブルたらしめているというのは興味深い。
ファーブルはまた、最初の妻を亡くした後、64歳のとき、23歳の娘と再婚し、3人の子をもうけている。小林一茶と同様「老いてますます盛んなり」のみごとな後半生だった。
(2018年12月21日)
●おすすめの電子書籍!
『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com
ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルは、1823年、南仏アヴェロン県の寒村サン・レオンで生まれた。畑をもたず、これといった技術ももたなかった父親は、近所の家を手伝ったり、雑用を請け負ったりし、母親は手袋作りの内職をしていた。
ジャンの下に弟が生まれると、ジャンは口減らしのため、祖父母の家に預けられた。このとき3歳だったジャンは、まともな道さえない荒れ地を20キロメートルも離れた祖父母の村まで歩いていったという。
大自然のなかで育ったジャンは、7歳のときに父母の家へもどり、サン・レオンの小学校に入学した。
ジャンが10歳のとき、一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁のあるロデズに引っ越していき、父親はそこでカフェを開いた。
貧しかったジャンは、教会の手伝いをすることで学費を免除されて中学に通い、ラテン語やギリシャ語など語学で優秀な成績を修めた。
しかし、父親のカフェ経営はうまくいかず、一家は離散状態となり、ジャンは15歳のころ、学校を中退して、肉体労働をしながら独学で勉強するようになった。
17歳のとき、ファーブルはアヴィニョンの師範学校に入学。19歳の年に小学校教師の免許をとり、カルパントラで数学と物理学の教師になった。
その後コルシカ島の大学で数学を研究した後、ファーブルはアヴィニョンにもどり、博物館の館長を務め、染料の研究などをしたが、市民に対しておこなった彼の生物学の講義が宗教界から非難を受け、ファーブルはアヴィニョンを追いだされる恰好となった。
56歳のとき、セリニアンに移り住んだファーブルは、自宅の裏に1ヘクタールの庭を作り、そこに世界中から取り寄せたさまざまな植物を植えて、昆虫の研究をはじめた。そうして研究、観察しつつ書きつづけられたのが『昆虫記』全10巻で、セリニアンの村では「虫好きの変な老人」でしかなかったファーブルの名声は、この本の出版により、フランス全土でしだいに高まっていった。
ファーブルはレジオンドヌール勲章を受賞した後、1915年10月、老衰と尿毒症のため、セリニアンで没した。91歳だった。
ファーブルの名は、牧野富太郎とともに小学校のころから馴染んでいた。
ファーブルの研究は、厳密さに欠け、しばしば誤った認識があると生物学の専門家から批判されるけれど、それを差し引いてもファーブル昆虫記のおもしろさは圧倒的で、ファーブルが全世界の子どもたちを生物学の道へといざなった功績は絶大である。
ファーブルが昆虫研究に本腰を入れたのが、50代後半からで、それから30年以上も昆虫三昧の生活を続け、それがファーブルをファーブルたらしめているというのは興味深い。
ファーブルはまた、最初の妻を亡くした後、64歳のとき、23歳の娘と再婚し、3人の子をもうけている。小林一茶と同様「老いてますます盛んなり」のみごとな後半生だった。
(2018年12月21日)
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