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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月25日・清水善造のロブ

2024-03-25 | 思想
3月25日は、雑誌「Ms.」を創刊したグロリア・スタイネムが生まれた日(1934年)だが、伝説のテニスプレイヤー、清水善造の誕生日でもある。


清水善造は、1891年、群馬の箕郷(みさと、現在の高崎)で生まれた。家は小さな田畑を耕作する農家で、善造は7人きょうだいの長男だった。
貧しかった清水家では、善造の進学を望まなかったが、乳牛を飼い、その世話を善造がし、牛乳販売の利益を学資にあてるのなら中学校へ行ってよいと父親に言われ、彼は往復20キロある中学校までの道をわらじばきで通った。雨の日も風の日も休まず、善造は中学校から帰ると、草刈りをして牛に草を与えた。その草刈り鎌の扱いが、後のラケットさばきにつながったと言われる。善造は中学で軟式テニスをはじめた。
英語の辞書を一冊丸ごと暗記していた彼は東京高等商業学校(高商)への進学を望んだが、父親は反対し、家に学資のあてもなかった。そこで善造は元村長の金持ちを訪ねて、受験し合格したあかつきには学資を出してほしい旨を掛け合いにいった。元村長は、村から高商合格者が出たら村の誉れだとその申し出を快諾した。当時の高商は、早稲田、慶応など足元にも及ばない難関だった。17歳の善造はみごと合格し、高商の軟式テニス部に入った。
21歳で高商を卒業した清水は、三井物産に入社。インドのカルカッタ勤務となり、現地で硬式テニスをはじめ、すぐにベンガル選手権に出て優勝した。
それからは、三井の出張所がある英国、南米など世界各地へ転勤しては、そこのテニス大会に出て勝ちつづけ、どの地の社交界でも「シミー」と呼ばれ、もてはやされた。
デビスカップをはじめとするさまざまな大会で活躍。29歳のとき、ウィンブルドン(全英)でベスト4、31歳のとき全米でベスト8、世界ランキングは30歳のとき第4位という成績を残した。ちなみに後の松岡修造の最高位が46位、錦織圭が4位(2015年時点)である。
36歳で選手生活を引退。終戦直後の54歳のとき、三井生命の取締役に就任。しかし、公職追放で翌年すぐに退任して、べつに貿易会社を興した。63歳でデビスカップ日本代表監督としてメキシコ遠征を率い、73歳のとき脳内出血で倒れ、右半身付随になった後、1977年4月、大阪で没した。86歳だった。


清水善造といえば、当時世界最強だった米国のビル・チルデンと名勝負を繰り広げたことで有名で、なかでも、29歳のときのウィンブルドン大会での清水のロブ(ロビング)はスポーツ美談として昔は教科書にも載っていた。
両者が試合でラリーを打ち合うなか、長身のチルデンがコートの芝に足をすべらせて転んだところ、背の低い清水はエースを決めず、わざと高い山なりのロブを上げた。チルデンは起き上がり、打ち返して、それがエースとなった、という話である。上村淳一郎『やわらかなボール』(文藝春秋)によると、この話は脚色された誇張らしい。足をすべらせたチルデンが、起きてどちらへ動くか見定めかねた清水が、チルデンのいる場所へ返球した。もともと清水は特殊な握り方で、特殊な打ち方をする、強打できない選手だったので、鋭くない球が返った、というのがほんとうのところらしい。


美談はさておき、清水善造の驚異的な活躍は事実である。彼は酒もたばこもやらず、つねに節制し、淡々と鍛練にはげむ実直な人間だった。一時栄華を極めたチルデンは晩年は困窮したが、清水はそんなチルデンとの友情を終生大事にした。美しい日本人だった。
(2024年3月25日)



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