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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月23日・川上宗薫の誠実

2014-04-23 | 個性と生き方
4月23日は「サン・ジョルディ」の日。スペインのカタロニア地方では、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る日だが、この日は日本画家、上村松園が生まれた日(1875年)であり、作家の川上宗薫(かわかみそうくん)の誕生日でもある。官能小説の大家である。
自分が若いころ、川上宗薫はすでにものすごい売れっ子で、週刊誌や夕刊紙でその小説をよく見かけた。後輩の官能小説作家たちとちがい、川上宗薫の文章は、人間として生きてきた実感に裏打ちされた或るまじめさがあったように思う。

川上宗薫は、1924年、愛媛の宇和(現在の西予市)で生まれた。父親はキリスト教のメソジスト派の牧師だった。本名は、漢字表記はペンネームと同じで「むねしげ」。
子どものころから引っ越しを繰り返し、長崎の中学、福岡の高校に通った。17歳のとき日米開戦を迎え、20歳のとき、長崎の陸軍連隊に入隊した。入隊後は肋膜炎を患い、入院したが、その入院中に、長崎への原爆投下によって、母親と二人の妹を失った。
敗戦後、22歳のとき九州大学に入学。はじめ哲学科、後に英文科へ移った。学生結婚をし、大学に通いながら高校で英語の授業を教え、文芸部で小説、俳句を書いた。
大学を卒業後、高校教師となり、千葉へ引っ越して、高校で英語を教えながら、小説を書いた。30歳から36歳にかけて『その掟』『初心』『或る眼醒め』『シルエット』『憂鬱な獣』で5度、芥川賞候補になった。が、受賞は逃しつづけた。その期間の受賞者には吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、北杜夫がいる。
35歳のころ、友人だった水上勉の小説を、知り合いの編集者に推薦すると、すぐに本になり、水上勉は急に売れっ子になった。川上は追い越された嫉妬を茶化した小説を発表し、水上も恩人の川上を揶揄した小説を書いて応酬し、両者の仲は険悪になった。ケンカの影響で川上は文芸誌に原稿を受けとってもらえなくなり、すでに教師をやめ、執筆業に専念していた川上は窮した。彼は官能小説の分野に本格的に進出した。過去の体験の上に、さらに体験取材を重ねて、実体験に基づく官能小説を書きつづけて、その分野の大家となった。
1985年10月、リンパ腺がんのため、東京の自宅で没した。61歳だった。

牧師だった川上宗薫の父親は、原爆によって妻子を失ったため、キリスト教への信仰を捨てたそうだ。牧師の子だった川上と、寺の小僧だった水上勉が友人同士で、二人ともひじょうに女好きで、性欲が旺盛だったのは、とても興味深い。
一方は何度も候補にあがりながらついに芥川賞をとれず、一方は直木賞をとった。受賞の有無が大きくその後の方向性を分け、一方はやわらかい小説を、一方はかたいものを書くようになった。ただ、どちらも流行作家で、プライベートでモテモテで女性関係が忙しかったのは共通していた。

川上宗薫と水上勉。自分は両作家とも好きで、自伝的な川上の『わが好色一代』や水上の『フライパンの唄』なども読んだ。水上が川上を皮肉って書いた『好色』も読んだ。そのほか、吉行淳之介や小林秀雄がらみの逸話もすこし知っていて、二人の人生経緯をながめると、感慨深いものがある。
どちらも小説家だからうそつきにはちがいないが、自分の読者としての印象からすると、どちらかというと川上宗薫のほうが誠実で、より信頼できる感じがする。仲たがいしていた二人は後、川上が45歳のころには仲直りしたそうだ。ちょっとジョン・レノンとポール・マッカートニーに似ている。
(2014年4月23日)



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