1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月4日・オードリー・ヘップバーンの道

2015-05-04 | 映画
みどりの日の5月4日は、首相を務めた田中角栄(1918年)が生まれた日だが、映画女優、オードリー・ヘップバーンの誕生日でもある。

オードリー・ヘップバーンは、1929年、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれた。オードリーは、英語、ネーデルランド(オランダ)語、フランス語、スペイン語、イタリア語ができ、5歳のときからバレエを習っていた。
オードリーの父親は、ナチスの支持者だったが、ベビーシッターとベッドにいるところを妻に見つかり、家を出ていった。オードリーが6歳のときのことだった。
ヨーロッパに戦雲がきざすと、彼女の母親は子どもたちを連れて、ネーデルランドのアルンヘムへ引っ越した。ネーデルランドが中立を保ち、ナチス・ドイツの侵略をまぬがれると考えたからだ。が、ドイツは中立など無視して侵攻し、ネーデルランドは占領された。
戦争中は、オードリーの親族はレジスタンス活動に従事し、叔父がナチによって処刑され、彼女の異父兄たちも、ベルリンの強制労働キャンプへ送られたり、地下にもぐったりした。オードリー自身も、レジスタンス支援のための募金活動をした。
戦争末期になると、ナチス・ドイツは、レジスタンス活動への報復として、ネーデルランド市民への燃料と食料の配給を止め、飢え死にしたり、凍死したりする市民が続出した。
オードリーの家庭でも食料に窮し、彼女は栄養失調になり、死にかけたこともあった。その反動で、戦争が終わり国連などの食料援助が届いたとき、オードリーは砂糖や缶入りのコンデンスミルクをかき込みすぎて、かえって病気になったという。
16歳の年に終戦を迎えたオードリーは、バレエの道を進み、レッスンのためにアムステルダムへ行き、後に英国のロンドンへ移り住んだ。オードリーは、バレエ、ミュージカル、映画と、活躍の場を移していき、たまたま映画のロケ中に、『青い麦』の女流作家コレットに見出され、コレット原作のブロードウェイミュージカル「ジジ(邦題「恋の手ほどき」)」の主役に大抜擢されることになった。
米国ニューヨークへ渡ったオードリーは、22歳でブロードウェイ・ミュージカル「ジジ」の主役となり、同時期に、映画界の巨匠ウィリアム・ワイラー監督のフィルムテストを受け、ワイラーの新作「ローマの休日」のヒロインに抜擢された。
オードリーはこの大ヒット映画「ローマの休日」一作で、世界中の映画ファンを魅了し、アカデミー賞の主演女優賞をとり、トップスターとなった。
彼女はその後、「ティファニーで朝食を」「噂の二人」「暗くなるまで待って」「ロビンとマリアン」などに出演し、60歳のときに、女優業から引退した。
引退後は、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使となり、エチオピア、ベネズエラ、エクアドル、ホンジュラス、スーダン、バングラデシュ、ベトナム、ソマリアなど、戦争や貧困の深刻な地域を訪ね、食料、薬品などの支援やその広報活動に励んだ。
かつて栄養失調で死にかけ、国際的な食料支援によって命を救われた彼女は、今度は支援する側にまわった。
彼女は、1993年1月、スイスで虫垂ガンにより没した。63歳だった。

ヘップバーンはいまなお、とくに日本では断トツの人気を誇る映画女優である。ハリウッドの美の基準を変え、名声を慈善活動に利用するという偉大な道を開いた聖女だった。
(2015年5月4日)


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