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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月5日・中島敦の美しさ

2015-05-05 | 文学
端午の節句、こどもの日の5月5日は、経済学者カール・マルクスが生まれた日(1818年)だが、作家、中島敦の誕生日でもある。

中島敦は、1909年、東京で生まれた。おじいさんの代からの漢学者の家系で、祖父はお弟子さんが千数百人という漢学塾を開いていた人で、父親は漢文の教師だった。
敦が生まれて間もなく、彼が1歳になる前に、両親が離婚した。彼は祖母のもとに預けられたりしたが、その後、父親が再婚して、6歳のころには、父親のもとに引き取られた。ただし、父親は転勤が多く、奈良の郡山、静岡の浜松、朝鮮半島の京城など、敦は転校を繰り返した。
一高の生徒だった18歳のとき、肋膜炎にかかり入院。19歳のころ、喘息を発症。喘息の発作が起きるたび、はた目には、もうだめかと思われるほど苦悶するのが常だったが、この病気は彼が死ぬまで続いた。
21歳の年に、東京帝国大学の文学部国文科に入学。学生時代には、ダンスや麻雀に熱中しながら、永井荷風、谷崎潤一郎、上田敏、森鴎外、正岡子規の作品はすべて読んだという。卒論は、荷風と谷崎を中心にすえた「耽美派の研究」だった。
24歳になる年に、大学卒業。卒業後は、高等女学校の教師になった。教師稼業のかたわら、小説を書いたが、喘息がいよいよひどくなり、転地療養の必要から、32歳の年に退職。南洋庁に就職して、フィリピンの東にあたるパラオ諸島に赴任し、植民地用の国語教科書作りにたずさわった。1941年の日米開戦のニュースは、サイパン島で聞いた。
太平洋戦争がはじまると、喘息の発作はいよいよひどくなり、彼は内地勤務を希望して、容れられ、日本へ帰国。
帰国後は猛烈な勢いで小説を執筆し、その作品が雑誌に載りだし、評判を集めつつあった1942年12月、没した。33歳の若さだった。

中島敦の魅力のひとつは、その高い教養からくることばの豊かさ、正確さである。
そして、一作一作の素材がめずらしく趣向が凝っていることである。
『悟浄出世』『悟浄嘆異』は、孫悟空が活躍するあの『西遊記』から着想を得た思想劇で、『弟子』は孔子の弟子の話。中国の古典に題材をとった『李陵』『名人伝』『山月記』のほか、くさび形文字のメソポタミア時代の学者が、文字に霊があるかどうか研究するという『文字禍』とか、南洋諸島を舞台にした『幸福』『夫婦』など、設定からしてバラエティーに富んでいる。

中島敦の全集を自分はもっていて、ときどき読み返す。『宝島』『ジキル博士とハイド氏』の作者スティーブンソンを主人公にした伝記小説『光と風と夢』など、なつかしい。スティーブンソンは、からだを悪くして、南太平洋の南の島へ転地療養してきて、現地の人々をいじめる本国英国のやり方に怒り、新聞で論陣を張り、現地の人々の味方になり、現地で「ツシタラ(語り部)」と慕われるようになった。そんな話である。
『光と風と夢』は、第十五回芥川賞の候補になった。が、最終選考で落選し、その回の芥川賞は該当作なしだった。選考委員のうち、室生犀星と川端康成は推していたが、たしか川端は選考会に欠席していたと思う。端正で、豊かで、美しい小説である。
(2015年5月5日)


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