1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月24日・ジェロラモ・カルダーノの流儀

2019-09-24 | 科学
9月24日は、『グレート・ギャツビー』の作家フィッツジェラルドが生まれた日(1896年)だが、万能の天才ジェロラモ・カルダーノの誕生日でもある。レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代のイタリア人である。

ジェロラモ・カルダーノは、1501年、イタリアのパヴィアで生まれた。彼は私生児で、ミラノの住人だった母親は、ペストの流行を避けてパヴィアへ行き、彼を生んだ。父親は弁護士で、ダ・ヴィンチの友人だったという。
19歳のとき、ジェロラモはパヴィア大学に入学し、医学を学んだ。彼は大学卒業後、けんか腰の変わり者だという評判と、非嫡出の事実がついてまわり、なかなか定職に就けなかった。ミラノの医科大学に勤めたが、正式採用はされなかった。
44歳のとき代数学の論文『偉大なる術(Ars Magna)』を出版。このなかで彼は、3次方程式と、4次方程式の解き方を示した。この解法は、それぞれべつの数学者が発見したのを教わったもので、そのことはまえがきや本文にも記されているが、この本が画期的だったのは、当時は数学の解き方というのは、数学の師匠から弟子へ秘伝として伝えられるのが常識であったのを、こうやって学術論文として広く公表してしまった点だった。この旧習打破によって、どれだけ西洋科学の進歩が速まったか計り知れない。もちろんすくならかぬ非難や衝突があった。
また、この本のなかで、カルダーノは人類ではじめて、掛け合わせてマイナスになる数「虚数」の概念を示した。これも数学史の上で革命的なことだった。
52歳のとき、スコットランドのジョン・ハミルトン大司教を治療した。病に臥した大司教が治療不可能と思われていたのを治癒したことから、彼の名声は一気に高まった。
23年間ずっと訴訟につぐ訴訟を戦ったカルダーノは、40年以上チェスに没頭し、25年間毎日サイコロ賭博をやり続けたギャンブラーで、64歳のころ『チャンスのゲームの本(Liber de ludo aleae)』を執筆した。彼の死後に出版されたこの本は、はじめて書かれた体系的な確率論とされる。
カルダーノの業績は多岐に及び、流体力学の研究で功績があったほか、何桁かの数字を組み合わせで開くカギ「コンビネーション・ロック」の発明、ジャイロスコープのもととなるジンバルの発明、方向を変えて回転動力を伝えられるユニバーサル・ジョイント付きのドライブ・シャフトの発明など、現代でも用いられている発明が数々ある。
占星術家でもあった彼は、53歳のころにイエス・キリストのホロスコープを作図して出版していたが、その過去を69歳のときになってとがめられ、カルダーノは異端審問にかけられ、数カ月間投獄された。これは、3次方程式の解法を彼に教え、それを公表されて恨んでいた数学者タルターリアの陰謀だともいわれるが、カルダーノは教授職から身をひくことを余儀なくされ、釈放後はローマへ移り、失意のなかで『わが人生の書』を書いた。1576年9月、ローマで没した。74歳だった。没年については異説も存在する。

奔放な人生を生きた天才カルダーノは言っている。
「あとになっていつ思い出しても、少しも後悔しないようなことだけをすべきである。だがそれを実行しようと思っても、人間では欲望よりも能力の方が早く失われるが」(カルダーノ著、青木靖三・榎本恵美子訳『わが人生の書』社会思想社)
(2019年9月24日)



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