9月12日は、『ソラリスの陽のもとに』のSF作家スタニスワフ・レムが生まれた日(1921年)だが、サッカー選手、長友佑都(ながともゆうと)の誕生日でもある。
長友佑都は、1986年、四国愛媛の三芳で生まれた。小学校3年生のころ、両親が離婚し、母親に連れられて、母親の実家に近い小さな家に引っ越し、母子家庭となった。ただし、子どもが姓を変えたくないだろうという母親の気遣いから、姓は「長友」のままとなった。母親の仕事は冠婚葬祭の司会業で子どもたちを育てた。
サッカー少年だった長友は、小学校6年生のとき、愛媛FCの下部チームに入るべくテストを受けたが、不合格。失意のまま、進学した中学のサッカー部に入った。
中学のサッカー部は不良のたまり場で、長友も練習そっちのけでゲームセンター通いする不良部員となった。しかし、新たに赴任してきたサッカー部の顧問の教師による熱心な説得、励ましにより、ふたたびサッカーに情熱を傾けるようになった。
高校は、サッカーの強豪校である九州の東福岡高校へ進み、寮生活を送った。
高校のサッカー部ではレギュラーだったが、全国的には無名で、大学へはスポーツ推薦が得られず、長友はやむなく指定校推薦で東京の明治大学へ入学した。明治大学のサッカー部は、スポーツ推薦で入学した者はすんなり入部できたが、それ以外の入部希望者は1カ月の練習参加の後、選考がおこなわれて、入部の可否が判断される狭き門だった。長友はその門をくぐった。
大学時代は、椎間板ヘルニアで苦しみ、練習や試合に出られない時期を長くすごした。スタンドで太鼓をたたいてチームを応援しながら、長友は体幹を鍛えることで、その病気を克服した。
22歳になる年、大学に籍をおいたまま、JリーグのFC東京の特別指定選手となり、プロデビュー。すぐに日本代表、オリンピック代表のメンバーとなった。
24歳の年には、ワールドカップ南アフリカ大会の日本代表の全試合にフル出場。決勝トーナメント進出への大きな力となった。これきっかけに、イタリア、セリエAのACチェゼーナへ移籍し、さらに翌年、インテルナツィオナーレ・ミラノ(インテル)へ移籍し、大活躍。彼がゴールを決めた際、チームメイトが彼の横に並んでそろって日本風にお辞儀をするパフォーマンスが名物となった。その後、長友はトルコ・リーグへ移り、活躍を続けている。
いまでこそ「サッカーの天才」である長友も、小さいころは、およそ天才ではなかった。しかし、彼は将来はプロのサッカー選手になることを信じて、体力作りや走り込み、練習をずっと続け、プロ選手となり、さらに階段をのぼって、ついに「世界のナガトモ」になった。けがに泣かされ、それを克服してきた。「不撓不屈」とは彼のことである。
「人は生かされているんだと感じ始めたことで、長友佑都という人間が生きる意味を考えるようになった。」(長友佑都『日本男児』(ポプラ社)
若くして悟りを開いた、驚くべきアスリートである。
(2019年9月12日)
●おすすめの電子書籍!
『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com
長友佑都は、1986年、四国愛媛の三芳で生まれた。小学校3年生のころ、両親が離婚し、母親に連れられて、母親の実家に近い小さな家に引っ越し、母子家庭となった。ただし、子どもが姓を変えたくないだろうという母親の気遣いから、姓は「長友」のままとなった。母親の仕事は冠婚葬祭の司会業で子どもたちを育てた。
サッカー少年だった長友は、小学校6年生のとき、愛媛FCの下部チームに入るべくテストを受けたが、不合格。失意のまま、進学した中学のサッカー部に入った。
中学のサッカー部は不良のたまり場で、長友も練習そっちのけでゲームセンター通いする不良部員となった。しかし、新たに赴任してきたサッカー部の顧問の教師による熱心な説得、励ましにより、ふたたびサッカーに情熱を傾けるようになった。
高校は、サッカーの強豪校である九州の東福岡高校へ進み、寮生活を送った。
高校のサッカー部ではレギュラーだったが、全国的には無名で、大学へはスポーツ推薦が得られず、長友はやむなく指定校推薦で東京の明治大学へ入学した。明治大学のサッカー部は、スポーツ推薦で入学した者はすんなり入部できたが、それ以外の入部希望者は1カ月の練習参加の後、選考がおこなわれて、入部の可否が判断される狭き門だった。長友はその門をくぐった。
大学時代は、椎間板ヘルニアで苦しみ、練習や試合に出られない時期を長くすごした。スタンドで太鼓をたたいてチームを応援しながら、長友は体幹を鍛えることで、その病気を克服した。
22歳になる年、大学に籍をおいたまま、JリーグのFC東京の特別指定選手となり、プロデビュー。すぐに日本代表、オリンピック代表のメンバーとなった。
24歳の年には、ワールドカップ南アフリカ大会の日本代表の全試合にフル出場。決勝トーナメント進出への大きな力となった。これきっかけに、イタリア、セリエAのACチェゼーナへ移籍し、さらに翌年、インテルナツィオナーレ・ミラノ(インテル)へ移籍し、大活躍。彼がゴールを決めた際、チームメイトが彼の横に並んでそろって日本風にお辞儀をするパフォーマンスが名物となった。その後、長友はトルコ・リーグへ移り、活躍を続けている。
いまでこそ「サッカーの天才」である長友も、小さいころは、およそ天才ではなかった。しかし、彼は将来はプロのサッカー選手になることを信じて、体力作りや走り込み、練習をずっと続け、プロ選手となり、さらに階段をのぼって、ついに「世界のナガトモ」になった。けがに泣かされ、それを克服してきた。「不撓不屈」とは彼のことである。
「人は生かされているんだと感じ始めたことで、長友佑都という人間が生きる意味を考えるようになった。」(長友佑都『日本男児』(ポプラ社)
若くして悟りを開いた、驚くべきアスリートである。
(2019年9月12日)
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さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。
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