9月11日は、英国の作家D・H・ロレンスが生まれた日(1885年)だが、米国の作家O・ヘンリーの誕生日でもある。
オー・ヘンリーこと、ウィリアム・シドニー・ポーターは、1862年、米国ノースカロライナ州のグリーンズボロで生れた。父親は医者だった。ウィリアムが3歳のときに、母親が亡くなり、南北戦争が終わった。ウィリアムは高校に行った後、17歳のときから叔父の経営する薬屋で2年ほど働いた。
20歳のとき、テキサス警備隊のレンジャーだった人を追って家を飛びだし、テキサス州オースティンの裕福な雑貨屋の娘と駆け落ち結婚した。ウィリアム・ポーターは、テキサスの地で不動産屋、土地管理局に勤めた後、銀行の出納係になった。
銀行で働きながら、彼は32歳のころ、ユーモア週刊誌「ザ・ローリング・ストーン」を刊行し、みずから文章やスケッチを描いて雑誌に載せた。
雑誌経営は苦しく、追い打ちをかけるように、銀行から公金横領の疑いをかけられた。彼は銀行を辞め、「ヒューストンポスト」紙のライターをはじめた。
いったんは不起訴になった銀行の公金横領容疑が、再燃して、ポーターは34歳のとき、逮捕、拘留された。
知人たちが積み立ててくれた保釈金によって、ポーターは保釈されたが、裁判がはじまる前に行方をくらました。病気の妻と7歳の娘を残しての謎の逃亡だった。
ポーターは米国南端の街ニューオリンズをへて、ホンジュラスへ逃げていたが、約1年後、妻の危篤を知り、テキサスへ舞いもどった。そうして、妻の最期を看取った後に、あらためて裁判で有罪判決を受け、刑務所に服役した。
刑務所内でポーターは、囚人仲間からその体験を取材し、それもとに短編小説を書き「O・ヘンリー」というペンネームで刑務所の中から外の雑誌へ投稿をはじめた。
38歳のとき、刑務所から出所したとき、彼は小説家「O・ヘンリー」になっていた。
出所後、彼は娘と、義理の父親がいるピッツバーグへ行き、新聞のフリーランスの記者として働きながら、小説投稿を続けた。そうして、40歳のとき、単身ニューヨークへ出て、連載をもつ小説家となり、再婚し、娘を呼び寄せていっしょに暮らした。
しかし、過労と飲酒がたたり、1910年6月、彼は糖尿病に肝硬変などを併発して没した。47歳だった。
米国では「O・ヘンリー賞」があるくらい、O・ヘンリーは有名である。拙著『名作英語の名文句』で彼の『最後の一葉』を取り上げた。ほかにも『二十年後の再会』『賢者の贈り物』など名作は多い。読んで笑ってしまう傑作として『赤い酋長の身代金』『シャムロック・ジョーンズの冒険』はおすすめ。
それにしても、事実は小説よりも奇なりというか、O・ヘンリーの人生は、彼が書いた奇想天外な小説以上に奇妙だし、謎に満ちている。
(2019年9月11日)
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オー・ヘンリーこと、ウィリアム・シドニー・ポーターは、1862年、米国ノースカロライナ州のグリーンズボロで生れた。父親は医者だった。ウィリアムが3歳のときに、母親が亡くなり、南北戦争が終わった。ウィリアムは高校に行った後、17歳のときから叔父の経営する薬屋で2年ほど働いた。
20歳のとき、テキサス警備隊のレンジャーだった人を追って家を飛びだし、テキサス州オースティンの裕福な雑貨屋の娘と駆け落ち結婚した。ウィリアム・ポーターは、テキサスの地で不動産屋、土地管理局に勤めた後、銀行の出納係になった。
銀行で働きながら、彼は32歳のころ、ユーモア週刊誌「ザ・ローリング・ストーン」を刊行し、みずから文章やスケッチを描いて雑誌に載せた。
雑誌経営は苦しく、追い打ちをかけるように、銀行から公金横領の疑いをかけられた。彼は銀行を辞め、「ヒューストンポスト」紙のライターをはじめた。
いったんは不起訴になった銀行の公金横領容疑が、再燃して、ポーターは34歳のとき、逮捕、拘留された。
知人たちが積み立ててくれた保釈金によって、ポーターは保釈されたが、裁判がはじまる前に行方をくらました。病気の妻と7歳の娘を残しての謎の逃亡だった。
ポーターは米国南端の街ニューオリンズをへて、ホンジュラスへ逃げていたが、約1年後、妻の危篤を知り、テキサスへ舞いもどった。そうして、妻の最期を看取った後に、あらためて裁判で有罪判決を受け、刑務所に服役した。
刑務所内でポーターは、囚人仲間からその体験を取材し、それもとに短編小説を書き「O・ヘンリー」というペンネームで刑務所の中から外の雑誌へ投稿をはじめた。
38歳のとき、刑務所から出所したとき、彼は小説家「O・ヘンリー」になっていた。
出所後、彼は娘と、義理の父親がいるピッツバーグへ行き、新聞のフリーランスの記者として働きながら、小説投稿を続けた。そうして、40歳のとき、単身ニューヨークへ出て、連載をもつ小説家となり、再婚し、娘を呼び寄せていっしょに暮らした。
しかし、過労と飲酒がたたり、1910年6月、彼は糖尿病に肝硬変などを併発して没した。47歳だった。
米国では「O・ヘンリー賞」があるくらい、O・ヘンリーは有名である。拙著『名作英語の名文句』で彼の『最後の一葉』を取り上げた。ほかにも『二十年後の再会』『賢者の贈り物』など名作は多い。読んで笑ってしまう傑作として『赤い酋長の身代金』『シャムロック・ジョーンズの冒険』はおすすめ。
それにしても、事実は小説よりも奇なりというか、O・ヘンリーの人生は、彼が書いた奇想天外な小説以上に奇妙だし、謎に満ちている。
(2019年9月11日)
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