1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月20日・ロバート・プラントの姿

2024-08-20 | 音楽
8月20日は、幕末の風雲児、高杉晋作が生まれた日(天保10年8月20日)だが、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のヴォーカリスト、ロバート・プラントの誕生日でもある。

ロバート・アンソニー・プラントは、1948年、英国イングランドのスタッフォードのウェストブラミッジで生まれた。
ロバートはエルヴィス・プレスリーにあこがれる子どもだった。会計士を目指して勉強していたが、学校をやめ、16歳のころ、家を出てブールス音楽の世界に身を投じた。
シンガーとしてさまざまなバンドを渡り歩いた。下積み生活のなかで、同棲相手が妊娠したときには、一時はふたたび会計士の勉強をはじめようと考えたこともあったらしい。20歳までに芽が出なかったからあきらめようと、アルバイトしながら音楽を続けていた20歳のとき、バンドの新しいボーカリストをさがしていたジミー・ペイジのオーディションを受けた。彼らは意気投合し、プラントがドラマーのジョン・ボーナムを推薦し、ボーナムを強引に説得して仲間に引き入れ、さらにベーシストのジョン・ポール・ジョーンズを加えて、新バンド「レッド・ツェッペリン」を結成した。バンド名は「鉛のツェッペリン号(飛行船)」の意味で、どうせすぐに落ちるだろうさ、というジョークだった。
レッド・ツェッペリンは米国でコンサート・ツアーをおこない、それからデビュー・アルバムを発売した。アルバムは発売前の予約だけで5万枚売れたというから、当時のツェッペリンのライブの魅力たるや恐るべしである。
レッド・ツェッペリンは、シングル盤でチャートをねらうのでなく、ライブとアルバム(LP)で売っていこうとする新しいスタイルのバンドとして成功し、「レッド・ツェッペリン II」「レッド・ツェッペリン IV」「プレゼンス」などの名盤を発表し、世界的なビッグバンドとなった。
プラントが29歳のとき、息子がウイルス感染によって死亡し、彼は精神的に立ち直れないほどに落ち込んだ。
そして、プラントが32歳のとき、ドラムのジョン・ボーナムが泥酔した挙げ句にのどを詰まらせて窒息死すると、レッド・ツェッペリンは解散した。
バンド解散は、しばらく沈黙を守っていたが、やがてプラントは音楽活動を始め、ソロアルバムを発表し、ツアーをおこない、ジミー・ペイジと共演するなど、活動を続けている。

レッド・ツェッペリンの楽曲の作詞・作曲には、プラントとペイジがかならずかかわっている。有名な「天国への階段」もプラントとペイジの共作である。ペイジが曲を書き、プラントが詞をつけるのが基本スタイルらしい。
以前、こんな話を聞いた。レッド・ツェッペリンが人気を博していたころ、元ビートルズのジョージ・ハリスンが、プラントやペイジに言った。
「きみらのバンドは、バラードはやれないだろう?」
カチンときた彼らは、それで「天国への階段」を作ったのだという。結局ジョージ・ハリスンは正しかった。

ロバート・プラントは、高音域の出るハスキーでパワフルなボーカルスタイルでポップミュージック界に衝撃を与えた。世界中の若者が、彼のボーカルスタイルをまねした。
彼のブロンドの長髪、スリムなからだの胸元をはだけて歌うそのパフォーマンスは、ロックのアイコンになった。自分の姿がひとつのスタンダードになるのはすごい。
(2024年8月20日)



●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月19日・アーサー・ウェイリーの知性

2024-08-19 | 文学
8月19日は、ファッションデザイナーのココ・シャネルが生まれた日(1883年)だが、英国人、アーサー・ウェイリーの誕生日でもある。『源氏物語』を英訳した人である。

英国の東洋学者アーサー・デイヴィッド・ウェイリーは、出生時の名前はアーサー・デイヴィッド・シュロスといい、1889年、英国イングランドのケント州タンブリッジ・ウェルズで生まれた。父親は経済学者で、アシュケナージ系のユダヤ人の名門出身だった。
名門私立校のラグビー校をへて、ケンブリッジ大学キングズコレッジに進んだアーサーは、古典学を専攻した。
大学での成績は優秀だったが、目の疾患のため21歳になるころ、退学した。
商社に勤めた後、大英博物館の学芸員の職を得て、そこで働きながら中国語の古文や日本語の古文を勉強した。ロンドンに滞在していた日本人に日本語を習ったこともあったらしいが、日中の古文は独学だったという。
彼が25歳になる年に第一次世界大戦がはじまると、英国はドイツと敵国になり、「シュロス」というドイツ系の名がスパイの嫌疑をかけられるもとにもなり、彼ら家族は姓を「ウェイリー」に変えた。これにより彼はアーサー・デイヴィッド・ウェイリーになった。
ウェイリーは29歳のとき『漢詩百七十首』を英訳し、翌年に『日本の詩「歌」』を英訳紹介し、続けて日本の能楽も英訳紹介した。
そして、39歳で『枕草子』を英訳し、40歳のころ、大英博物館を退職した。
44歳のとき労作『源氏物語』の英訳全6巻を完成させたウェイリーは、第二次世界大戦中は情報省に勤務し、ロンドンにいる日本人ジャーナリストや在英国日本国大使館の文書や通信を英訳、分析していた。
戦後も、日本の古典文学のほか、中国の漢詩、『論語』『老子』等の哲学を英訳し続けたウェイリーは、53歳のころ『西遊記』も英訳、紹介している。
大戦後はこれといった定職に就かず、日本、中国の文献を英語圏に紹介し続けたウェイリーは、63歳で大英帝国勲章を受賞した。そして1966年5月、76歳のときに結婚したが、新婚1カ月の6月にガンのため没した。76歳だった。

評論家の正宗白鳥は、紫式部の『源氏物語』について、あれはまるで頭がなく、胴体ばかりがふらふらしているような悪文で、とても読めた代物でないが、ウェイリー訳の英語版『源氏物語』は端切れがよく読みやすい、あれを読んで『源氏物語』を素晴らしさがわかったという意味のことを言ったそうである。

日本文学者のドナルド・キーンは、ウェイリー訳の『源氏物語』の輝きは忘れがたく、数種類ある『源氏』英訳本のなかでもウェイリー訳が最高であると太鼓判を押している。

日本へも中国へも行ったことのない人が、独学で勉強した語学力でもって、生涯を通じて中国、日本の文献を紹介し続け、英語圏に大きな衝撃と影響をもたらした。
没する前、ウェイリーは、ガンの末期にあってはげしい苦痛に苦しんだが、それでも麻薬や鎮痛剤の投与を拒んだ、最後の瞬間まで正気を保っていたい、と。彼はハイドンの弦楽四重奏曲を流し、好きな詩を朗読してもらいながら逝ったそうだ。恐るべき知性である。
(2024年8月19日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jpFF

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月18日・伊藤左千夫の野菊

2024-08-18 | 文学
8月18日は、仏国の映画監督、マルセル・カルネが生まれた日(1906年)だが、小説家、伊藤左千夫の誕生日でもある。小説『野菊の墓』を書いた人である。

伊藤左千夫(元治元年)は現在の千葉、山武で生まれた。本名は伊藤幸次郎。家は農家だったが、父親は漢学と和歌に通じた教養人で、母親は武家の流れをひく女性だった。
日本、中国の書をよく読んだ幸次郎は、18歳のとき「富国強兵に関する建白書」を書いて、元老院に提出。不平等条約に怒り、西欧の列強に対して対等に渡り合える日本を建設するべく、富国強兵の策を論じた熱い論文だった。
政治家を志した幸次郎は、東京に出て法律学校に入学したが、目を悪くして帰郷。20歳のころは失意の日々をすごしていた。
22歳のとき、家出し、ふたたび上京。今回は実業家を目指しての上京で、彼は牧場に勤めだした。重労働の末、26歳で独立し、牛乳搾乳事業をはじめ、これが軌道に乗った。
30歳のころから、茶の湯や、和歌を学びだし、35歳のころから正岡子規に師事し、写生を重んじた短歌を作った。
36歳のころから「左千夫」と号し、40歳のとき、短歌雑誌「馬酔木(あしび)」を創刊。
43歳で処女小説『野菊の墓』を発表。
45歳のとき、「馬酔木」やめ、新短歌雑誌「阿羅々木(アララギ)」を創刊。
1913年7月、脳出血のため没した。48歳だった。
小説作品に『隣の嫁』『春の潮』などがある。

伊藤左千夫の小説『野菊の墓』は夏目漱石も褒めた傑作である。松田聖子主演の映画など、テレビや映画で観た方も多いかもしれない。

『野菊の墓』とよく比較された小説に片山恭一の『世界の中心で愛を叫ぶ』があるけれど、以前、二つの作品をたてつづけに読んで、読み比べたことがある。
どちらも恋愛小説で、女のほうが病気で死ぬ病気ものだという点は共通しているけれども、それ以外の部分はまったくといっていいほどちがう話である。
時代的、因習的な制約のあるなしのほか、両作品でいちばん異なるのは、主人公の男の人物造形である。
『野菊の墓』のほうの主人公の男は、自己犠牲の精神をもっていて、背筋がぴんとしていて、男らしい。
一方の『世界の中心~』のほうの主人公の男は、欲望だけがある男で、ひたすら女々しい。でも、この本の帯には有名女優の「こんな恋がしてみたいです」という宣伝文句がついて売れに売れ、それまでトップだった村上春樹の『ノルウェイの森(上巻)』をぬいて、日本史上最大の発行部数を記録したのである。320万部も売れたらしい。
作品としても『野菊の墓』のほうが断然立派なのだけれど、現代日本人は女々しいのが好きなのだろう。こう書くと、カチンとくる人も多いかもしれない。
伊藤左千夫の歌にこういうのがある。

「秋草のいづれはあれど露霜に痩せし野菊の花をあはれむ」

(2024年8月18日)


●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月17日・デ・ニーロの献身

2024-08-17 | 映画
8月17日はルーマニアの女流作家、ヘルタ・ミュラーが生まれた日(1953年)だが、ハリウッド俳優、ロバート・デ・ニーロの誕生日でもある。

ロバート・デ・ニーロ・ジュニアは、1943年、米国のニューヨークで生まれた。父親は画家だった。ロバート・ジュニアは、父方からイタリア、アイルランドの血を、母方からイングランド、ドイツ、フランス、オランダの血を引いている。
ロバートはマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジで育った。彼が2歳のころ、両親が離婚。母親に引き取られた彼は、近くに住む父親の家と自宅とを行ったり来たりしながら成長した。
10歳のとき、学校の劇で「オズの魔法使い」の臆病なライオン役を演じたころから俳優志望だったデ・ニーロは、16歳で高校を中退して俳優養成学校に通いだし、20歳のとき、ブライアン・デ・パルマ監督の「結婚パーティー」に出演して俳優デビュー。
29歳のとき公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザーPART II」で、アカデミー助演男優賞を受賞した。デ・ニーロはこのとき、出演に先立ち、イタリアのシシリアまで行ってイタリア語を勉強したという。
そして33歳のとき、マーティン・スコセッシ監督の名作「タクシードライバー」に出演。この作品でタクシーの運転手役を演じるにあたって、デ・ニーロは3週間、ニューヨークでほんとうにタクシー運転手をした。
35歳のときの作品「ディア・ハンター」では、撮影に入る前に、映画の舞台であるピッツバーグに引っ越し、偽名を使ってしばらく暮らしていた。
37歳のとき、「レイジング・ブル」で、アカデミー主演男優賞を受賞。このとき、太った元ボクサーを演じるために、猛烈に食べて20キロも体重を増やした。
また、44歳のときの作品「アンタッチャブル」では、実際に髪の毛をぬいてアル・カポネを演じるなど、徹底的な役作りで知られる現代の名優である。

デ・ニーロの特徴は、出演作品に駄作がないことである。
ハリウッド映画のなかには、観終えて、
「ああ、おもしろかった」
というだけで、後になにも残らない作品がけっこうあるけれど、デ・ニーロの出演作はちがう。観た者は、かならず、なにか重たい何か持たされて日常生活にもどることになる。

その昔、友人がデ・ニーロの「タクシードライバー」を観てきて、興奮して言った。
「あれは、おれのことを映画にしたんだ」
それからすこしたって顔を合わせたら、その友人はこう言って笑った。
「映画雑誌を読んでいたら、『タクシードライバー』は自分を描いた映画だっていう投書がいくつもあって、いやになった」
その友人はまちがっている。「タクシードライバー」は彼でなく、わたしのことを映画化したものである。
(2024年8月17日)



●おすすめの電子書籍!

『映画男優という生き方』(原鏡介)
世界の男性映画スターたちの生き様と作品をめぐる映画評論。ヴァレンティノ、マックイーン、石原裕次郎、シュワルツェネッガーなど男優たちの演技と生の真実を明らかにする。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月16日・トーマス・ロレンスの顔

2024-08-16 | 歴史と人生
8月16日は、米国歌手、マドンナが生まれた日(1958年)だが、英国軍人、トーマス・ロレンスの誕生日でもある。人呼んで「アラビアのロレンス」その人である。

トーマス・エドワード・ロレンスは、1888年、英国ウェールズのトレマドックで生まれた。父親のトーマス・チャップマンは、妻子ある男だったが、娘の家庭教師となったセアラ・ロレンスと不倫関係となり、子どもがをもうけた。それでチャプマンは妻子を捨てて、セアラと暮らすようになり、5人の男の子をもうけた。トーマスはその上から2番目の子で、両親は結局結婚しないまま暮らしたため、母ロレンス姓を名乗った。
トーマスは、オックスフォード大学に入学して歴史を学んだ。中東の考古学調査に参加するうち、やがて中東の砂漠地域の軍用地図を作成するようになった。
第一次世界大戦がはじまると、ロレンスは26歳で召集され、はじめ陸軍の地図課に所属し、後に情報部に転属となった。
第一次大戦で英国が敵として戦った同盟国側は、ドイツ、オースリア=ハンガリー帝国、ブルガリア、オスマン帝国(トルコ)といた国々だったが、中東にくわしいロレンスは、アラビア半島に派遣され、敵オスマン帝国の背後をかく乱するべく、アラブ民族の反乱を組織し、ともに行動した。
ロレンスはアラブ人と協力して、鉄道爆破、敵陣地への奇襲攻撃など神出鬼没のゲリラ戦を展開して、大国オスマン帝国を悩ませ、英国軍の戦いを側面から助けた。
結果、第一次大戦が終わると、大帝国を誇ったオスマンのほとんどの領土は英仏など連合国側に占領され、国土はいちじるしく縮小した。
大戦後、ロレンスは、砂漠の反乱をともに戦ったアラブ側の指導者ファイサル(後のイラク国王)とともにパリ講和会議に出席し、英国の植民地省や陸軍、空軍に勤務した。
除隊した2カ月後、ロレンスはオートバイを運転中、自転車を避けようとして事故を起こし、その数日後に没した。46歳だった。ヘルメットはかぶっていなかたらしい。

オスマン帝国に対する英国の戦い方たるや、さすが老獪、である。これを見習って、もしも第二次世界大戦時に、日本が日米開戦に臨んで、前もって中南米に人材や物資を送って米国に対する現地の反乱をあおるくらいの深謀遠慮があったら……。まあ、そういう展開ができる老獪さがあれば、その前にもっと政治力をふるって、国際社会での孤立や真正面からの衝突を避けられていたろうから、そもそも戦争になっていないだろうけれど。

ロレンスは、英国からアラブに送り込まれ、敵国を背後から混乱させるべく、ラクダに乗ってゲリラ戦を展開したスパイ、テロリスト兼軍人である。結果として、英国支配をへて、アラブ諸国の独立を招くことにもなった。
映画「アラビアのロレンス」では、心情的にアラブ側に寄り添いながら、最後にはアラブにも英国にも用済み扱いされる英国人として描かれていたが、本物のロレンスがどこまで映画に近い人物だったかはわからない。ただ、ロレンスを演じた主演のピーター・オトゥールは、恐ろしいほど実物そっくり。カーク・ダグラスのゴッホと双璧である。
(2024年8月16日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする