1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月20日・犬養毅の言

2024-04-20 | 歴史と人生

4月20日は、画家ジョアン・ミロが生まれた日(1893年)だが、政治家、犬養毅(いぬかいつよし)の誕生日でもある。五・一五事件で殺された総理大臣である。

犬養毅は、安政2年(1855年)に、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山)で生まれた。父親は庄屋で、郡奉行を務めた土地の名士で、毅は次男だった。生まれたときの苗字は「犬飼」だったのを後に「犬養」に改めた。
毅は21歳のとき、上京して慶応義塾に入学。25歳で慶応を中退して新聞記者になり、後、統計院の書記官となった。そして27歳で、大隈重信が結成した立憲改進党に入党。
35歳のとき、第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、生涯を政治家として生きた。
犬養は、玄洋社代表の遠山満の盟友であり、中国要人とのつきあいも深く、とくに孫文とは親友であり、日本に亡命中の孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。犬養は、アジアが団結してヨーロッパ列強に対抗していこうとする大アジア主義の人で、ガンジーやネルーなどと並ぶ、アジアを代表する国際派だった。
1930年のロンドン軍縮会議の後、翌1931年に日本軍部が暴走して満州事変を起こすと、時の若槻禮次郎内閣は総辞職した。これに代わって、総理大臣となったのが、当時の野党第1党、立憲政友会の総裁だった犬養毅だった。中国との個人的人脈のパイプをもつ犬養に、話し合いによって満州事変を解決することが政界長老たちから期待されたが、軍の増長を押し止めようとする犬養の行動は、軍部の怒りを買った。
1932年5月15日の夕方、武装した海軍の青年将校と陸軍の士官候補生たちが、犬養のいる首相官邸に警備を破って乱入した。犬養は言った。
「話せばわかる」
兵隊たちは言った。
「問答無用」
ピストルで撃たれ、血だらけになった犬養は、駆けつけた官邸の者に、
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」
と言ったという。犬養はその夜、日付が変わる前に没した。77歳だった。

この五・一五事件の前日、映画の喜劇王、チャールズ・チャップリンが来日していて、事件当日は犬養首相と面会する予定だった。テロを起こした将校たちは「日本に退廃文化を流した元凶」としてチャップリンもいっしょに暗殺するつもりだったが、当日チャップリンが気が変わって急きょ相撲観戦に出かけ、事件に巻き込まれずにすんだ。

国際的な難民支援活動を展開したエッセイストの犬養道子は毅の孫、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子は曾孫にあたる。

時の総理大臣が殺されたというのに、五・一五事件を起こしたテロリストたちはひとりも死刑になっていない。みんな軽い刑を受けて釈放された後、満州へ行き、侵略事業に携わっている。当時の軍部の強硬な態度と、民族主義的な風潮の強かった世論に押されたものだろうが、これはまったく驚くべきことである。

右傾化、排他主義傾向が進んだ日本。そろそろ、五・一五事件のようなテロ事件が起きるのかもしれない。内向きになり、世界が見えなくなっている日本人は、いまこそ犬養毅を思いだすべきである。
(2024年4月20日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧などなど。日本人の美点に迫る。


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4月19日・源氏鶏太の品

2024-04-19 | 文学

4月19日は、精神物理学者、グスタフ・フェヒナーが生まれた日(1801年)だが、小説家、源氏鶏太の誕生日でもある。

源氏鶏太は、1912年富山で生まれた。本名は田中富雄。家業は置き薬屋で、富雄は7人きょうだいの末っ子だった。上のきょうだいたちは年が離れてていて、それぞれ独立し、父親は行商で家を離れ、末っ子だった富雄は母親とふたり暮らしのときが多かったという。
学校時代から詩を書いていてた富雄は、18歳の年に富山商業を卒業し、大阪の住友に入社。経理課に勤務した。
サラリーマン生活をしながら、雑誌の懸賞小説に応募し、22歳のとき、新聞の懸賞をとり、以後も雑誌や新聞に小説の応募を続けた。
32歳のと、海軍に召集され、無線担当の兵となった。
戦後は、GHQ(連合軍総司令部)による財閥解体の指示により、住友の清算処理に関わった。
35歳のとき、源氏鶏太のペンネームで雑誌「オール読物」に短編『たばこ娘』を発表。
平家より源氏のほうがひいきで、さむらいらしい名前ということで、「源氏鶏太」というペンネームにしたという。
39歳のとき『英語屋さん』などで直木賞を受賞。以後、ユーモアの漂うサラリーマン生活を描いた小説を量産し「サラリーマン小説の第一人者」と呼ばれた。映画化された作品だけでも80作以上あり、森繁久彌が主演し「社長シリーズ」としてヒット映画シリーズとなった。1985年9月に没。73歳だった。

源氏鶏太は、司馬遼太郎、黒岩重吾ら、関西系の作家たちの仲間である。
源氏鶏太は会社勤めをする人を主人公にしたサラリーマン小説を数多く書いた人で、生前は彼の本は、どの本屋に行っても文庫本の棚のいちばん多くのスペースを占めていた。

『たばこ娘』『英語屋さん』など、源氏鶏太の作品は、いずれも愛情をもって人間を見つめる著者のまなざしが感じられる、悲しくて、笑いがある、温かい作品である。どれを読んでもおもしろい「はずれがない」プロの作家であり、現代作家が失ってしまった「品」がある。
源氏作品をまだ読んだことがない方には、短編『初恋物語』をおすすめしたい。後味のよい絶品である。
(2024年4月19日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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4月18日・島尾敏雄の結婚

2024-04-18 | 文学

4月18日は、東急グループを築いた五島慶太が生まれた日(1882年)だが、作家、島尾敏雄の誕生日でもある。

島尾敏雄は、1917年、横浜で生まれた。父親は輸出絹織物商だった。6人きょうだいのいちばん上だった。敏雄が6歳のとき、関東大震災により自宅が全壊したが、家族は福島の相馬の親戚の家にいたため、難を逃れた。
一家は、兵庫県へ引っ越し、敏雄は神戸の商業学校へ進み、19歳のとき、九州は長崎の高等商業学校へ進んだ。
高商時代、島尾は友人たちと同人誌を発行し、小説を書いた。ドストエフスキーやプーシキン、ゴーゴリといったロシア文学を読みふけっていた島尾たちの雑誌は、反戦思想の傾向をとがめられて内務省より発売禁止にされた。
23歳の年に九州帝国大学に進んだ島尾は、戦時のことで、半年繰り上げで大学を卒業し、海軍予備学生となった。海軍では魚雷部門に配属され、特攻を志願。27歳のとき、九州と沖縄のあいだにある奄美群島のなかの加計呂麻島に配属され、人間魚雷に乗って特攻出撃するときを待った。が、ついに出撃命令は出ないまま、28歳で敗戦を迎えた。
戦後は神戸の外語大学の講師をしながら同人誌に小説を書いた。その後、東京、千葉、奄美大島と転居し、精神病を発症した妻に付き添い、看護した体験に材料を得た『死の棘』など、病妻ものと呼ばれる一連の小説で有名になった。『魚雷艇学生』などを書いた後、1986年11月、脳梗塞のため没した。69歳だった。

戦争末期、魚雷の特攻隊員として奄美に配属された島尾敏雄は、国民学校の教師をしていた加計呂麻島出身の娘とはげしい恋に落ちた。島尾に出撃命令が出て、その出撃を見届けたら、娘も崖から身を投げて死ぬつもりだった。
しかし、出撃命令は出ぬまま、敗戦となった。
戦後、二人はすぐに結婚し、子どもをもうけた。が、夫の敏雄が外に女を作った。この浮気が原因で、妻は精神がおかしくなり、心因性発作を起こし、精神病棟に入ったり、自宅療養したりするようになり、それに夫は付き添った。この夫婦生活に材をとり、妻がねちねちと夫をいたぶる様子を延々と描写したのが代表作『死の棘』である。

「病妻もの」の島尾敏雄は、ある世代には絶大な人気があった。
『死の棘』は映画化され、カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。

それにしても、不遇な時代に咲いた若い、情熱的な恋が、ついに実を結び、晴れて結婚した後、二人には壮絶な夫婦生活が待っていた、という経緯は、人生についてあらためて考えさせる。よく、結婚することを「ゴールインする」と表現するけれど、結婚は単なるスタートにしかすぎないことがよくわかる。
ちなみに、作家だった奥さん(島尾ミホ)のほうは、夫より21年長生きして、2007年3月に、87歳で没している。
(2024年4月18日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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4月17日・J・P・モルガンの理由

2024-04-17 | ビジネス

4月17日は、世界初の女性首相、スリランカのシリマヴォ・バンダラナイケが生まれた日だが、実業家J・P・モルガンの誕生日でもある。

ジョン・ピアポント・モルガンは、1837年、米国コネチカット州ハートフォードで生まれた。父親は銀行家で、母親は牧師の娘だった。
ジョンは生涯を通じて、英国国教会の流れをくむ米国聖公会のメンバーだった。
高校卒業後、ヨーロッパで教育を受け、フランス語とドイツ語を身につけた後、20歳のとき、父親の銀行の英国ロンドン支店に就職した。
21歳で米国ニューヨークへ移り、23歳でJ・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立。この会社が、ほかの銀行と提携、合併などをへて、現在のJPモルガン・チェースへとつながっていく。
モルガンは、32歳のころから、鉄道業界に参入した。強力な資金調達力にものを言わせて経営困難におちいっている鉄道会社を買収し、経営のてこ入れをして再建した。多くの投資家がモルガンを評価し、彼に追随するようになり、40代のころには、モルガンの経済界における影響力は連邦政府よりも強大だと言われた。
金を買いつけて米国政府の危機を救い、鉄鋼業界を再編してUSスチールを設立し、企業合併を進めて現在のゼネラル・エレクトリック社を作り、米国の金融界、産業界を支配する最大の財閥を作り上げた。
事業のかたわら、美術品、宝石の収集や、博物館や美術館、各種学校の後援に力を注いだ後、1913年3月、イタリアのローマで没した。75歳だった。
彼が没した当時、J・P・モルガン・アンド・カンパニーの資産は、米国のミシシッピ川以西にある22州の合計と同規模だと評価された。

モルガンは、鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーと同時代の人物で、カーネギーから鉄鋼会社を買いとって、製鉄業界を再編した。

南北戦争当時、北軍側には徴兵制があったが、お金を払って代理人に兵役についてもらうことが可能で、カーネギーや、後に大統領になったアーサー、クリーヴランドと同じく、モルガンもお金を払って、代わりの者に戦地へ行ってもらった。

モノガンは、よくも悪くも、現代の銀行・保険・証券系企業がおこなっている金融資本による企業支配のスタイルを作り上げたパイオニアである。ただし、強引な剛腕をふるった一方で、ピューリタン(清教徒)らしい社会奉仕的な考えももちあわせていた。

モルガンは言っている。
「人はなにかするとき、二つの理由をもっているものだ。一つは、よい理由。もう一つはほんとうの理由である。(A man always has two reasons for doing anything: a good reason and the real reason.)」(Brainy Quote)
(2024年4月17日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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4月16日・団鬼六の懐

2024-04-16 | 文学

4月16日は、喜劇王、チャールズ・チャップリンが生まれた日(1889年)だが、SM官能小説家、団鬼六(だんおにろく)の誕生日でもある。

団鬼六は、1931年、滋賀の彦根で生まれた。本名は、黒岩幸彦。戦争中だった中学時代に大阪へ引っ越して、以後大阪で育った。
大阪の大学を出た後、バーのマスター、中学の英語教師、シナリオライターなど職を転々としながら小説を書き、26歳のとき、小説雑誌の新人賞に入選。はじめ、投機的な先物相場や株式投資を題材にした経済小説を書いていたが、30歳のころ雑誌「奇譚クラブ」に投稿したSM小説『花と蛇』をきっかけとして、サディズムとマゾヒズムを中心に据えた官能小説を書きだし、その分野の第一人者となった。
作家稼業のかたわら、映画制作や雑誌出版を手がけた。
58歳のころ、お金がたまったので、断筆宣言をして豪邸を建て、豪遊しだしたが、バブル崩壊のあおりを受け相場で大損をこしらえ、屋敷を売り払い、山のように背負った借金を返すためにまた原稿を書いた。2011年5月、食道がんのため、東京の入院先で没した。79歳だった。

エログロに偏見がないので、世評高い『花と蛇』ほかの団鬼六作品を崇敬している。ただし、むしろ、ポルノ女優・谷ナオミの話、賭け将棋の小池重明の話など、団鬼六のノンフィクションのほうが好きである。

以前、団鬼六の自伝『蛇のみちは』を読んだ。痛快な人生で、団鬼六の父親の話がまた痛快だった。学校の教師時代、団鬼六は生徒に自習させておいて、教壇の机で小説の原稿を書いていたこともあったらしい。とにかく、性愛を含め、人間存在に関して、ゆったりと構えた、懐が深い人だった。

彼はSM小説の巨匠だけれど、本人は実生活ではSやMのけはまったくなかった。でも、やがてそれでは済まなくなった。
「僕の別れた女房も、SMなんて大嫌いだったんですね。ところが、やがて僕の弟子と関係するようになってしまった。その男は女を縛らないとできない奴なんですよ。でも女房は、それで快感を得ている。それで『俺がSMのことを書いてたら怒ってたくせに、よくそんなことができるな』と言ったら、『愛情があったら、何だってできるわよ』と。(中略)僕も女房が浮気したときに、M的な快感を知りましたね。きわめて淑徳だった女房がジーパンにやられたとき、相手の男に『おまえ、やったのか』と訊いたんですよ、弟子ですから。(中略)あのとき僕は、いちばん精神的にマゾだったと思いますね。えらく興奮しましたですよ。(中略)だから、次のときからは、女房が男に会いに行くとわかると、男に電話して『おい、頑張ってこい』と言いましたね。それで一発終わったら電話しろと言っておく。その電話を待っているあいだが、実にイライラして、楽しいんですよ。」(『山田詠美対談集メンアットワーク』幻冬舎文庫)
まさに、ワイルドの「人生は芸術を模倣する(Life imitates art.)」である。
(2024年4月16日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
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