1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月22日・ファラデーのローソク

2024-09-22 | 科学
9月22日は、映画女優アンナ・カリーナが生まれた日(1940年)だが、科学者マイケル・ファラデーの誕生日でもある。半ペニー硬貨を使ったボルタ電池を作った人である。

マイケル・ファラデーは、1791年、英国イングランド、ロンドンに近いニューイントン・バッツで生まれた。父親は鍛冶屋で、マイケルは4人きょうだいの3番目の子だった。
父親がからだが弱く、貧しかったため、マイケルたち子どもは早くから働きに出た。
13歳のとき、近所の文具屋の小僧になったマイケルは、1年勤めた14歳で同じ文具店がやっていた製本所の徒弟になった。そこで7年間の年季奉公をするあいだに、彼はいろいろな本を読み、化学者の講義を聴きに行くなど、化学への関心を深めていった。
21歳で年季が明けたマイケルは、晴れて職人として雇われることになったが、就職先の親方が怒りっぽいのに閉口し、べつの道を模索しだした。そのとき、以前講義を聴いた王立協会のサー・ハンフリー・デビーに、講義を聴いてとった分厚いノートを同封して就職の希望を書いた手紙を出したのが縁で、彼は王立研究所の助手となった。
ファラデーはサー・デビーの助手として新発見をつぎつぎと成し遂げた。
32歳のとき、塩素の液化に成功。34歳でベンゼンを発見。40歳のとき、電磁誘導を発見。
そのほか、ファラデーの電気分解の法則の確立、電気分解の法則の発見、物質が磁場に対して反発する反磁性の発見、電磁場によって光の偏光面が回転するファラデー効果の発見などなど、さまざまな分野で目覚ましい業績をあげた。
41歳のとき、オックスフォード大学の名誉博士号となり、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員や、フランス科学アカデミー外国人会員にも選ばれたファラデーは、67歳のとき、実験の現場から引退し、王室のはからいで用意されたロンドン郊外にある宮殿で余生を送った後、1867年8月、同宮殿内の自宅で椅子にもたれて没した。75歳だった。

身分差別のはげしい英国のことで、ファラデーは科学者として認められても、貴族階級に差別を受け続けた。師匠の妻、デビー夫人はファラデーを同じ食事のテーブルにつかせず、移動する際も彼を馬車の馭者台にすわらせた。
ファラデーが30歳のころから、実験の功績をめぐって彼と師サー・デビーは仲たがいし、以後、師は弟子に嫉妬するようになった。ファラデーが王立協会会員に推薦されると、師匠は猛反対した。しかし、結局ファラデーは協会のフェローに選ばれ、34歳のとき、サー・デビーの後任として英国王立実験所長の職に就いた。サー・デビーはファラデーが38歳のとき、亡くなっている。

高校のとき、物理学の先生からファラデーについて教わった。コイルのそばで磁石を動かすとそのコイルに電圧が生じるという電磁誘導を発見したファラデーは数学的教養がほとんどなかったが、そのおかげで自由な発想ができ、実験によって新しい科学的偉業をつぎつぎと打ち立てた。ニュートン力学にしばられた数学のできる学者たちは最初彼を笑ったが、すぐに笑えなくなった。ファラデーによって、人類はニュートン力学の外へはじめて一歩を踏みだしたのである、と先生はおっしゃった。
岩波文庫のファラデー著『ロウソクの科学』を読んだ。ロウソクの芯の先だけが燃えて、なぜ芯が燃え進まないのか、といったところから話がはじまり、実験と考察が積み重ねられ、終わりのほうに日本製のロウソクをとても褒めて書いてあった。

ファラデーはナイトの勲章授与の話をことわったそうだ。いまは亡きデヴィッド・ボウイも勲章授与の打診があったが、ことわっている。そんなことも思いだす。
(2024年9月22日)



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『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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9月21日・スティーヴン・キングの方法

2024-09-21 | 文学
9月21日は、英国のSF作家、H・G・ウェルズが生まれた日(1866年)だが、モダンホラーの作家スティーヴン・キングの誕生日でもある。

スティーヴン・エドウィン・キングは、1947年、米国メイン州のポートランドで生まれた。スコットランドとアイルランド系で、父親は商船の船乗りだった。スティーヴンには、養子である兄がひとりいた。
スティーヴンが2歳のとき、父親はたばこを買いに行くと出たきりもどらず、行方不明になった。母親に女手ひとつで育てられたスティーヴンは、小さいころから麻疹、咽頭炎、扁桃腺炎などにかかり、病気がちで寝ていることの多い少年時代を送った。
11歳のときに母親からブレゼントされたタイプライターで文章を打ってはSF雑誌に投稿をはじめ、高校時代には、観てきた映画を小説化して小冊子にし、輪転機で刷り、学校で同級生たちに売った。メイン大学を卒業後、教師の職を求めたが、得られず、クリーニング屋で働いた。働きながら、男性雑誌にホラーやSFや犯罪小説の投稿を続け、その原稿料と給料とで、学生結婚した妻タビサ・スプルース(タビー)と2人の子どもを養った。
24歳のとき、ようやく高校の英語教師の職を得たが、学校の雑務に追われて忙しく、給料は安く、時間がなくなった。作家としても鳴かず飛ばず。借家住まいからトレーラーハウスに移り、妻のタビーはダンキン・ドーナッツ店でアルバイトをする苦しい生活が続いたが、それでも彼の小説執筆を、タビーは無駄呼ばわりせず、執筆を励ましつづけた。
26歳のとき、トレーラーハウスの洗濯室で書いたモダンホラー小説『キャリー』を出版社に送ると、これが出版され、ベストセラーとなった。この作品のペーパーバック版の権利は6万ドルで売れ、そのうち半分の3万ドルがキングに入ってきた。その額は、彼の高校教師の年棒の4年ぶんに相当した。同作品は映画化もされてヒット。晴れてベストセラー作家となった彼は『シャイニング』を書き上げ、その後『ザ・スタンド』『デッド・ゾーン』『スタンド・バイ・ミー』『グリーンマイル』『アトランティスのこころ』『ドリームキャッチャー』などを発表。飛ぶように売れる本が求められるショッピングモール街の書店に欠かせないベストセラー作家となった。40歳のころには薬物依存症になり、52歳では散歩中にクルマにはねられ重傷を負ったが、いずれの危機も克服し執筆を再開した。

現代屈指の巨匠スティーヴン・キングは拙著『名作英語の名文句2』でもとり上げた。冒頭から読者をはらはらさせながらその興味を吊り上げて引っ張っていくサスペンスの力と、読者の予想をいい意味で裏切る豊かなストーリー展開、そして作品全体の底に人間性や人間存在に迫る問題意識が横たわっている、その重さがいい。

キングは、作品のアイディアを得るよい方法などない、として、こう述べている。
「...good story ideas seem to come quite literally from nowhere, sailing at you right out of the empty sky: two previously unrelated ideas come together and make something new under the sun. Your job isn't to find those ideas but recognize them when they show up. (よいストーリーのアイディアは文字通りどこにもない場所からやってくる。何もない空からあなたを目指してやってくる。2つのもともと関係のないアイディアがいっしょになり、太陽の下でべつの何か新しいものになったりもする。なすべきは、そうしたアイディアを見つけることでなく、それが姿を現したら気づくことである)」(Stephen King, On Writing, Pocket Books)
(2024年9月21日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「グリーン・マイル」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


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9月20日・ソフィア・ローレンの日常感

2024-09-20 | 映画
9月20日は、米作家アプトン・シンクレアが生まれた日(1878年)だが、イタリアの映画女優ソフィア・ローレンの誕生日でもある。

ソフィア・ローレンは、1934年、イタリアのローマで生まれた。本名はソフィア・ヴィラーニ・シコローネ。父親は建築技術者で、母親は女優志望のピアノ教師だった。彼女とのあいだにソフィアと妹アンナ・マリアと二人も子どもをもうけながら、父親が入籍を拒んだため、ソフィアたち母子はローマの南、ポッツォーリの街にある祖母の家に身を寄せた。
ポッツォーリは軍需物資が行き来する港湾の街で、第二次世界大戦時には空襲の標的になった。ある日の空襲の際、爆弾の破片でソフィアはあごを負傷した。これをきっかけに、彼女ら一家は遠い親戚を頼ってすこし西へ入ったナポリへ疎開していった。
戦後、一家はポッツォーリにもどり、祖母はそこで自家製のサクランボ酒を飲ませるパブを開いた。母親がピアノを弾き、妹が歌い、ソフィアは給仕と皿洗いをした。
14歳のとき、ソフィアはミス・イタリアのコンテストに出た。優勝は逃したものの、最終選考に残り、これがきっかけになり、彼女は演劇学校に入り、17歳のとき、ハリウッド映画の超大作「クオ・ヴァディス」にエキストラとして出演した。
19歳のころには主役を演じるようになった彼女は、23歳のとき出演した映画「島の女」によって、一躍世界的に知られる存在となった。以後、「楡の木蔭の欲望」「月夜の出来事」「黒い蘭」に出演した後、26歳のとき「ふたりの女」でアカデミー主演女優賞を受賞。
そのほか、マルチェロ・マストロヤンニと共演した「昨日・今日・明日」「あゝ結婚」「ひまわり」、チャーリー・チャップリン監督の下、マーロン・ブランドと共演した「伯爵夫人」、ピーター・オトゥールと共演した「ラ・マンチャの男」など、数々の名作に出演した。サッカーチームではもちろん、ディエゴ・マラドーナがいたナポリの熱烈なサポーターである。

美人コンテスト出身の女優ということで、彼女は、ダニエラ・ビアンキ、シルビア・クリステル、萬田久子、佐藤藍子、米倉涼子、藤原紀香、上戸彩、武井咲の大先輩にあたる。

ソフィア・ローレンの出演作はかなり観ている。あのイタリア女性らしい、きりっと引かれた眉、神秘的な黒い目、よくしゃべる大きな口、迫力のある大きな胸とひきしまった肉体。そういったセクシーな要素があわさって独特の、どんな環境でもたくましく生きていく意志をもった女という雰囲気がかもしだされ、彼女をほかのどの女優とも異なった唯一無二の存在にしている。

彼女の出演作品「ひまわり」は世評が高い。どれほど多くの人からあの映画について語るのを聞かされてきたか知れない。戦争によって引き裂かれた男女、マストロヤンニとローレン、そして一面のひまわり畑の強烈な印象。「ひまわり」は映画史に残る名編である。
3本の短編がセットになったオムニバス映画「昨日・今日・明日」とか、ドン・キホーテ映画「ラ・マンチャの男」など、ああいった作品の、ソフィア・ローレンらしい、銀幕の夢物語でない、現実の日常生活にいながら、しかも強烈な存在感を放つ特別な女は、なかなかいない。
(2024年9月20日)



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『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。


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9月19日・ニニ・ロッソのトランペット

2024-09-19 | 音楽
9月19日は、「ミニスカートの女王」ツイッギーが生まれた日(1949年)だが、「トランペットの詩人」ニニ・ロッソの誕生日でもある。

ニニ・ロッソは、1926年、イタリア北西部のトサン・ミケーレ・モンドヴィで生まれた。本名は、ラファエレ・セレステ・ロッソ。父親がサーカスでトランペットを吹いていた影響で、ニニも早くからトランペットに親しんでいた。
彼は19歳で学業を放りだし、家を出た。ナイトクラブで働きながらトランペッターを目指した。が、そのクラブが警察から営業停止をくらい、ロッソは仕方なく家に帰った。
ミュージシャンとしてのキャリアをまたゼロからはじめ、18歳のときには自分でジャズ・バンドを結成し、クラブなどで演奏していた。
36歳のとき、「夕焼けのトランペット」でレコードデビュー。そのころ発表した「さすらいのマーチ」が、オーケストラにカバーされ、映画に使われてヒット。
39歳のとき、「夜空のトランペット」が世界的に大ヒット。唯一無二のソロトランペッターとなった。
1994年10月、腫瘍のため、没した。68歳だった。

英国の映画俳優デヴィッド・ニーヴンが、筋萎縮性側索硬化症の闘病生活の末、1983年に亡くなったとき、ひっそりと少人数でおこなわれた葬儀に駆けつけ、墓前でソロのトランペットを吹いたのがニニ・ロッソだった。

ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」は、トランペットによる絶唱で、心にしみる。聴くと切なく胸に迫って、なぜか泣けてくる不思議な曲である。
コマ落としで進む忙しい現代。
たまにはニニ・ロッソのトランペットソロを、目を閉じて静かに聴く時間をもちたい。
シャンペンにキャビアへの挨拶せわしいパーティーやとんぼ返りのあわただしい海外リゾート旅行でなく、現代の産業社会では、そんな悠然ぽっかりとした時間こそが最高のぜいたくである。
(2024年9月19日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


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9月18日・レオン・フーコーの振り子

2024-09-18 | 科学
9月18日は、映画女優グレタ・ガルボが生まれた日(1905年)だが、物理学者レオン・フーコーの誕生日でもある。

ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは、1819年、フランスのパリで生まれた。父親は出版業をしていた。からだが弱かったため、学校に通えず、もっぱら家庭教師に学んだジャンは、はじめ医師を目指したが、血を見るのが怖く、また体力がないこともあって、断念し、物理学や光学を学び、科学ライターになった。
教科書や新聞に科学記事を書きながら、フーコーはさまさざまな実験をした。
26歳のとき、太陽表面の詳細な写真撮影にはじめて成功。
30歳のときには、光の測定実験をおこない、光の速度を、秒速31万3000キロメートルと求めた。(現在、光速は真空中で約30万キロメートルとされている)
31歳で、空気中の光は、水中よりも速く進むことを証明。
32歳で「フーコーの振り子」の実験により、地球が自転していることを証明した。
そのほか、鏡面の製作法を考案したり、大きな反射望遠鏡主鏡を製作したりした後、1868年2月、多発性硬化症のため、パリで没した。48歳だった。

哲学者のミシェル・フーコーとはちがう。
「フーコーの振り子」を知っている人は多いかもしれない。
東京の上野にある国立科学博物館は、太古からの化石や動物の剥製から隕石や月の石まである、静かな、とてもすてきなところだけれど、あそこに「フーコーの振り子」がある。
建物の何階ぶんかを打ち抜いた、とても高いところから長いワイヤーで、大きな金属の球が吊り下げられ、その球がすごくゆっくりとしたペースで地上すれすれを振れている。これが「フーコーの振り子」で、ちょっと見にはわからないけれど、その振れる軌道面がわずかずつ回転している。これが地球の自転を示す証拠で、地球が自転しているから、振り子の振動面が自転と逆方向に回転していくのである。
32歳のフーコーは、パリのパンテオンで、長さ67メートルのワイヤーで直径30センチメートルの鉄球を吊り下げて振り子とし、これを揺らせ、その振動面がしだいに回転していくのをこの公開実験によって証明して見せた。

じつは、振動面が回転していくことは、それ以前から知られていたらしい。でも、これが地球の自転の証明になるとは、フーコー以前には誰も気づかなかった。毎日見ているものの意味を気づかぬまま死んでいく人は、限りなく多い。

高校生のとき、物理の授業で振り子の実験をした。精密さを期するため、実験室の窓、カーテンを閉め切って、息をかけないようマスクをしておこなった。振り子の球を揺らせるのにも、指で振らせると、横揺れが起きるので、糸で作った輪に球をひっかけ、糸の先を横の器具に結わえておいて、ぴんと張ったその糸を、ライターの火で焼き切って、振り子をスタートさせた。
振り子というと、なんだか懐かしい。
(2024年9月18日)



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『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


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