た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

八島ヶ原湿原

2017年09月05日 | essay

 

 休日に八島ヶ原湿原を歩く。

 何度か訪れたことのある場所なので、広々とした景色と長く続く遊歩道があるのは知っている。運動不足で贅肉のつき始めた体には、長過ぎるくらいでちょうどいい散策コースである。

 標高千六百余。高原にははや秋の風が吹き、花の盛りは過ぎていたが、それでも慎ましく咲く山野草たちが行く路行く路で迎え入れてくれた。綿毛のような花を咲かせるヒヨドリバナ、鮮やかに黄色いのはオミナエシだろうか。誰かの思いが籠ったように、ノアザミが風に揺らめく。そして見渡せば、日に輝く黄金のススキ。澄んだ空気が性に合うのか、足は珍しく疲れを知らない。

 それでも一息つこうかと思った矢先に、小さな看板が現れた。喫茶や宿泊を営む一軒屋らしい。なかなか洒落た造りである。こんな山中の、それも国定公園のど真ん中に、と疑いながら中を伺うと、落ち着いた若い夫婦が出てきた。テラスで珈琲をいただく。

 カップを片手に、色づいた日を浴びる草木を眺める。

 席を立った後、近くの神社も覗いてみる。建物はなく、大木の陰に、人の膝ほどに積み上げた石垣があり、そのぐるりにご神体を護る様にして、巨大な高さのススキの束が幾つも刺さっている。神官たちの振り乱した長い髪のようにも見える。何か背筋のぞっとするものを感じる。

 再び遊歩道へ。

 以前読んだ書物の文句を思い出した。生物の多様性を保存するというならば、熱帯雨林のような種の宝庫と呼ばれる場所だけに注目していては駄目だ。草原には草原の、沼地には沼地の、数は少ないにしても独自の動植物が息づいているのであり、それらをすべてあるがままに保存することが大事だ、と。確かそんな内容だった。

 なるほど、と改めて実感する。今自分の歩いている湿原はすでに秋を迎え、どちらかというと枯れかけたものが多いのだが、それでも体中の細胞が沸き立つような幸福感と共に、自然の豊かさをしみじみと感じる。派手な豊かさではない。きらびやかなものはそこにはない。あるがままの、素朴な、しかし雄大に広がる豊かさがある。

 遊歩道は板切れを二枚渡しただけの狭いものである。人とすれ違うたびに体を避けて挨拶を交わす。格別何を見に来たというわけでもなかろうに、みんなとても嬉しそうである。実に穏やかで、満ち足りた顔つきをしている。

 それは、コンビニで籠一杯に買い物して、洒落た服を着て高級なものを食べても、どうしても作ることのできない表情である。

 豊かさ、の問題である。おそらく。

 

 二時間ほど歩いて、湿原を後にした。

 

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