諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

226 保育の歩(ほ)#19 保育所の行方

2024年03月10日 | 保育の歩
箱根八里(三島大社→小田原城)🈡 夕刻 小田原城に到着候!

そもそも保育所の目的は「子守」や「託児」だっただろう。
担った人たちは家庭やコミュニティでの自然に育っていく子どもたちの姿をイメージし、それに近づけようとしだろう。
それは近代の学校のもつ教育の機能的なあり方とは一線を画していた。
いわば「子ども(らいし)時間の確保」である。
そして、つかみどころのないそのイメージの中に子どもがいることこそが、子どもたちの将来の“大きなこと”になるように思われるし、実際そうだろう。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来に対して確実にできうることともいえる。

もちろん、保育所も社会的機関である。
行わる保育は意図的に行われ、説明と評価とがあるべきである。
しかし、逆に、その中でこそ漠然としたイメージとしての「子ども(らしい)時間」が確かな形となって見えてくる可能性があるのではないか。
そんな作為的な無作為みたいなことができるのかどうか、あるべき「子ども(らしい)時間」にむけて、各国の知恵を訪ねたい。

テキスト:
秋田喜代美/古賀松香『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』明石書店

さて、テキストにある9か国から4か国を見てきたところでまとめてみたい。
上記の通り、「子ども(らしい)時間」を意図的に創造することの知恵を知りたかったのであるがあり、頷けることも発見することも多かった。
ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデン、シンガポールとも保育者の想像性や人間性を生かしつつ、子どもたちの年齢の特徴に応じた緻密な意図を企画できるような努力を見てとることができた。
大事なことは工夫する努力を怠ないことというのが大きな印象である。

一方で、こうした読み方の意図とは別に強く感じたことは、編者の古賀松香氏の「おわりに」にある発言に近いものである。

保育の質とは、子どもたちのために、いかにあるべきか、そして、いかに保障されるべきか。その問いは重い。
本書は、諸外国の保育の質評価のあり方を主な検討材料として、その問いに迫ろうとしたものである。9カ国の保育の質評価に関する制度設計は、その国の文化・社会的背景のもとで成り立ち、また発展してきた。そして特に近年、乳幼児期が注目されるようになってから、その制度的発展はスピード感を持ってなされ、グローバルに広がりを見せている。
ひるがえって、はたして日本はどうだろうか。諸外国における制度設計や改革のスピード感に圧倒されたのは私だけだろうか。乳幼児期の重要性に対する認識が、国内ではまだ不十分と感じたのは私だけだろうか。

見てきた4か国だけでも、2010年前後からの制度の改革はとても急速で、ICT機器のアップデートされていく様相に近い。
それには各国の事情がある。産業構造の変化、女性の社会進出、移民への教育保障、ICT人材養成などを急ぐ学校への接続、そして背景には不透明な時代への積極的な教育アプローチの枠組みと、乳幼児期の教育の重要性の認識がその改革の確信になっている。

テキストでは、各国の改革を総括しつつ次の10項目について分析し今後の保育のあり方の志向性を探ろうとしている。

〇 権利補助としての保育
〇 社会的変化に対応する国策としての保育制度展開。
〇 質の可視化とアカウンタビリティー
〇 地方分権と多様性・自律性
〇 一元化をめぐる所感・管理体制
〇 保育の無償化
〇 就学前教育への公費投入
〇 保育者の要件、資格、免許
〇 保育者の養成・研修等
〇 カリキュラム
〇 監査・評価(モニタリング・スクリーニングを含む)


なんとなく牧歌的に考えがちな「子ども(らしい)時間」を社会の中に位置づけつつ意図的に創造するは、決して容易ではなく、多岐に渡る社会的な仕組みを広範な人々の納得を得ながら慎重につくっていく必要があるのかがわかる。

例えばこの中で、「質の可視化とアカウンタビリティー」についてのまとめとして、古賀氏は、

こうした厳格な質の評価システムは、査察や認証評価と結果の公表が現場にとって圧力となり、評価結果重視の実践を形作る危険性もはらむ。すべての保育施設の質向上や社会に対するアカウンタビリティーを果たすことは、むろん重要である。しかし、一定の質基準に照らして評価される子どもや保育者にとって、それらはどのような意味を持っているかみていくこともまた必要であろう。制度によって実現されることと抑圧されることの両方を視野に入れて、質が可視化されることの意義と、保育施設の多様性や自律性の保障のバランスを効力していく必要があるのではないだろうか。

といい、「カリキュラム」についは、

それぞれの国のキュラムには、教育哲学ともいえる柱や内容がちりばめられている。これらの内容は、ただお題目として並んでいるのではなく、実践の内容と評価に関わり、先にあげた公費導入の説明責任とも絡んでいる。例えば、所属感、ホリスティックな発達、「世界についての理解」の学びを支える実践、発達にふさわしい実践、ジェンダーを含む平等性など、多様な概念が軽くに含まれているが、その育ちや育ちを支え、実践をどのように評価し、家庭や地域に対する説明責任を果たすのか。非常に重要な課題が横たわっているのである。

と指摘し、「監査・評価」では、

保育の評価については、国レベルの法律に基づいて行う外部評価期間の監査と自己評価を組み合わせて実施するあり方、州レベルでの評価体系を作り、企業等に外部委託して評価を受けるあり方、他の施設の保育者が対話的に行う評価等、それぞれの国の文化や価値が反映された様々な方法が見られる。
その中で明確な就学レディネスや保育プロセスの評価を実施していた英国が、到達度評価から、教育の本質にシフトする志向性に打ち出されていること、就学前の基礎形成の幼児教育に求め、目標到達へ向けた教授が重視されるようになったスウェーデンが形成的評価を行っていること、州ごとの独自性が重視されていたドイツにおいて、全国的な質のモニタリングを行う調査研究を始めるなど、全国における保育の質への取り組みは、二項対立を超えて、揺れ動いていることが見て取れる。就学レディネスかホリスティックな発達か、診断的形成的評価か、中央集権か地方分権かという2項対立ではなく、それぞれの国が重視する子どもたちの育ちの議論を深め、発達の見方や評価の方法において、目配りの効いた組み合わせとバランスを、実践しながら検討し続けることの重要性が示唆される。


と見ている。

こうしたことは、結局、制度から見た保育(教育)と、顔の見えるこの子への保育(教育)との距離の調整の難しさということでもあるだろう。
総論では届かないところがあり、各論から積み上げるとこんどは運用がしきれない。
その埋まりにくい距離をどうするか、それこそがこのテキストの主題といってもいいだろう。

編者の代表の秋田喜代美さんもこのデリケートさを各国の取り組みに倣おうとされている。
このことはすなわちこのテキストの発行の意図でもある。

日本は全くエビデンスがない国である。理論的な言葉での量的データへの批判だけなら容易である。しかし、現場の事実を明らかにすることで、困難を多く、抱える地域や園、子どもたちの声なき声をいかにして集め、そこから実際に保育実践の質向上につなげて元気や活性化が生まれる政策のデザインを考えるのかが、これから問われていくのではないだろうか。そのためには、保育の研究者や、経営者や実践者といった専門家は、どのような知見を出すことが子どもたちの代弁者としてできるだろうか。また保育者や市民はどのような参画が可能だろうか。質について各国の姿から学ぶことと、足元の地域から縁から新たな可能性を見出し、日本独自の新たな保育の質評価のあり方を見出すことの両方の統合や往還が問われる時期にある。それは合わせ鏡のような構造にある。

これでこのテキストいったん閉じる。

次回は違う入り口から保育に入ってみる。臨床に徹した立場という片側である。予告的に津守 眞さんの言葉である。

教育・保育は、人為的に作られたマニュアルに従ってなされるのではなく、人間と人間とが、互いに信じ合い、愛を持て、手探りで模索しながら作っていくものです。それが積み重ねられて、人間の知が作られます。そのような知はいわゆる知識体系とは異なります。私どもは確かな世界を生きているからこそ、どの子どもも信頼し、一緒に生きやすい共同体をつくる道を模索して、歩むところに教育があるのです。地を這うような、目立たない日々の保育の中に光があります。

                            『学びとケアで育つ』小学館から

《見出し写真 補足》
箱根八里のデータは次の通り、ほんとにほぼ正確に八里ありました。
9時間の箱根越えは、YAMAPでのデータと、asics 2000GT という快適なシューズによるもので、あくまで現代版「箱根八里」ですね。







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