諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

227 思い出すこと

2024年03月24日 | エッセイ
伊豆半島の達磨山付近からの駿河湾越しの富士山

この時期教員は忙しい。
目の前にある仕事をしながら次のせねばならないこと、さらにその次…、とキリがなく続く。
この時期は特に今現在に余裕がないから視野は極端に狭くなっている。
だが、一方で余裕ができた時には考えたいことを少しでも描いておくことは大切ではないだろうか。
ポストイットにメモしておくように。


上智大学のアルフォンス・デーケン先生は、「死の準備教育」を提唱されていた。

死は誰もが迎えるものでありながら、死に対する教育はほぼ行われていないと、という。
今日若者の自殺が社会問題のように語られることが多くなった。たぶん先生が生きておられたら、改めて、誰もが避けられない死を正面から取り上げることが必要ですね、と言われたであろう。

また、たまたま伺った公開講座の中では、

特に近しい人にとって、事故や突然の災害で大切な人を失ったとき、気持ちのやり場が難しい。やってあげるべきだったこと、伝えておくべきだったことが、重い後悔とともにのちのちまで残ってしまう。

という主旨のことを述べられていた。
いのちの重さは日頃はことさらには意識されない。
こういうことはこそ時々思い出さないといけないことなのではないだろうか。

そして、先生はこのシリアスなテーマの講義にバランスをとるように、大きな体に笑顔をうかべられて、「じゃ、ラーメン食べにいこうか」と時々おっしゃったりしていた。そんな暖かさも含めて。


鎌倉 円覚寺に横田南嶺老師は、説法の冒頭で必ず座禅の基本を毎回話される。

まず手を合わせて腰骨を立てて、

両方の手のひらと手のひらを胸の前に合わせます。

すっと背筋を伸ばして顎を引いて少しうつむくようにして目を閉じます。

そして目を閉じて、


そのあと、気持ちが落ち着いてきた頃を見計らってこう加えていく、

まずお互いがこのように生まれたことの不思議に手を合わせて感謝をいたします。

何もなかったところに両親父と母との出会いがあって、私たちはこの世に命をいただきました。

この不思議にまず手を合わせて感謝をいたします。

それから次に今日まで生きておられたことの不思議に手を合わせて感謝をいたします。

生まれた時は1人では何もできませんでした。

それが両親や家族や学校に行くようになれば、先生や友達や近所の人たちやいろんな人のお世話になって、今日までこうして生きてこられました。 

この不思議に手を合わせて感謝をいたします。

そして最後に今日ここで、今ここでこうしてお互いに巡り会うことができました。

このご縁の不思議に手を合わせて感謝をいたしますそれではゆっくりと目を開いていきます。

昔はこうした座禅会に地域の多数の人々が集まり、全員で和尚さんの説法を聞き、座禅などの修養の時間を持っていた。
現代より意識的に「思い出さねばいけないことの時間」を設けていたのではないか。

名著『豊かさとは何か』の 暉峻淑子さんは「忙しいとは、心を亡くすと書く」
と言う。



で、今後テキストにしていく予定の
津守 真『保育の地平』ミネルヴァ書房

はまさに忙しい渦中にあっては落ち着いて読めない内容です。
シリーズ「保育の歩(ほ)」はしばらくお休みします。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする