野中兼山作 手結(てい)港
土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
長期間に渡り、土佐のくじら国防論ご愛顧、本当にありがとうございました。
土佐のくじら国防論の後半は、国防プロジェクトと銘打って、日本の国防面に関する、
具体的な可能性について言及したしました。
その中には、まだ研究中開発中のテクノロジーも含まれておりますが、未来への投資や、関連技術獲得はできるはずであり、それは必ず次の産業の基盤となるはずです。
この国防プロジェクトで私が言いたかったこと、そして分かっていただきたかったことは、
国防への工夫によって、国家が繁栄することも十分可能である・・・ということです。
ともすれば、国防負担増=国民の負担増・・・という簡単な図式と思考で、この分野は語られ勝ちであります。
一般的な常識や、歴史的な事実検証から見れば、その見解は正しいと思います。
しかし、「そうとは限りませんよ。」「やり方次第だと思いますよ。」という思いで書いたのが、
土佐のくじら国防論であり、国防プロジェクトシリーズであり、その中核であるネオヤマトなのです。
その精神とは、
国防インフラとして造ったものを、平時においては民間が、交通インフラや生活・産業インフラとして使ってしまう
という発想です。
一般的な生活インフラですと、どうしても初期投資が小さくなり、大規模なものは造りにくくなってしまいます。
産業インフラも、投資分の見返りから計算されたものが、価値の多くを占めますので、どうしても大事業にはなりません。
しかし国防インフラにとっては、国家が守れることこそ最大のリターンですから、
国家が守れないような、陳腐な代物は造っても仕方がないので、初期投資は大きく、大規模事業化がしやすいのですね。
そしてその大規模インフラは、平時においては、もったいないので使ってしまえば、
今度は生活・産業インフラとしては、とても大規模なものとなりますね。
生活・産業インフラとして造ったものは、規模が小さくなり勝ちですし、
現状の高速道路のように、日常生活上の交通インフラオンリーの発想ですと、微妙に蛇行している構造となったりして、
国防として使おうとしても、とても国防機能としては使えませんね。
よって、生活・産業インフラオンリーの発想だと、有事の際には、
改めて国防インフラを構築しなければならなくなるので、二重の出費と時間が必要となるわけです。
実は国防プロジェクト・ネオヤマトは、江戸時代の土佐藩家老、野中兼山が実際に行った世策を、参考に書かれています。
野中が家老に赴任する前の土佐の国は、高知平野の地形的特徴から、米が多く採れませんでした。
それを野中は、大きな河川の上流に堰(せき)を造って、平野を丸ごと水田と化し、土佐を米所といたしました。
野中兼山作 山田堰跡
また、大量に採取できるようになった米を、大量に海上輸送する必要から、土佐湾沿岸に大規模港をいくつか造りました。
その名目は、天候の厳しい土佐沖での航行を考え、藩船の避難先として造られたものです。
それにより土佐藩は、外様の小藩であるにもかかわらず繁栄し、幕末の雄藩のひとつとなりえました。
幕末の雄藩、薩摩・長州・土佐の三国の共通点は、共にとても豊かな藩財政をしていたことです。
これは野中兼山という、一人の傑出した政治家の造ったインフラによる、200年以上の富の蓄積があったからです。
しかし野中の造ったこれらの事業は、単純に藩経済活性化とだけ考えれば、驚異的な大事業でありました。
当時の技術的レベルや常識的規模から考えれば、堰や港の規模が大きすぎるのです。
堰からは用水路が平野中に張り巡らされるだけでなく、用水路としてはとても広く、
しかも、水の流れがとても早くなるように造られています。
水田用の用水路ならば、無理に水を早く流す必要はありません。
むしろ、ゆっくり流す方が、使い勝手が良いのではないでしょうか?
また港も当時の船ならば、大船団を構える事ができるほどの大型の港でありました。
私はこれら、野中兼山の事業は明らかに、
対江戸幕府を意識した、国防インフラの観点から造られている と私は考えています。
当時は、外様系大名の取り潰し政策が激しく、大きな藩から取り潰されていた時期だからです。
そして野中の造った土佐の国は、幕府軍の進入が絶対できない国となっているからです。
広大な平野に、縦横無尽に張り巡らされた用水路は、堀としての機能を持ちます。
また、平野中が水田ということは、平野中央にある高知城にいたるまで、広大なぬかるみということです。
鎧兜を身に着けた当時の侍たちは、水量豊富で流れの速い用水路=堀でおぼれ、火縄銃はただの筒と化します。
また延々と続くぬかるみだと、馬は無力ですし、疲弊した侵入者を葬ることなどたやすいことです。
野中兼山作 三又(みつまた)用水
また大型港は、即軍港を意味し、大型の軍船を利用できます。
土佐藩を、海上から攻撃することは、当時の船では絶対に不可能です。
徳川幕府は、土佐藩を取り潰すことはできなくなりました。
土佐の国に攻め入れば、確実に負けるからです。
野中の造った、一見すると生活・産業インフラに見える国防インフラによって、土佐の国は栄えるだけでなく、
外様藩でありながら、幕府と事実上の対等関係に幕末までありました。
これが幕末に、土佐藩主山内容堂による、大政奉還建白書によって、江戸時代が終わった経緯でもあるのです。
つまり、当時の強く豊かな土佐藩が、倒幕の意思を固めたら、幕府としては打つ手がなくなったということです。
私は現代日本を、野中兼山の政治思想で守ることをお勧めいたします。
ともあれ国防を強めることが、国民負担増にならず、国家を繁栄させた実例は、日本の歴史に実際に存在するのです。
日本は未来の子孫のためにも、そして世界の平和のためにも、
勇気を持って、国防からの繁栄の道に進むべきです。
野中兼山像
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