土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

基地問題は、国家が決める仕事。(自由は、責任と義務の範疇にしかない。)

2014-01-17 21:09:00 | 土佐のくじら国防論

土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。

東京都知事選挙が注目され勝ちで、あまり目立たないのですが、今月19日に、沖縄県名護市長選挙があります。
ここで立候補をしているのは、自民系の候補者と、社民・共産の推薦を受けた候補者の一騎打ちです。

沖縄県名護市と言えば、年末に、名護市辺野古への米軍基地移設が決定した自治体です。
沖縄県知事の承諾が直後での、首長選挙ですが、まぁ、市町村の首長選挙なのに、
やはりというか、その争点は、基地移転の賛否のようです。

はっきり申し上げて、市町村レベルで、国家の国防を議論することはできません。
なぜなら国防は、国家の仕事であるからです。

名護市民が、地元に基地移設が嫌な方がいらっしゃるのは、動機的には理解いたしますが、それは無理です。
なぜなら、名護市の理論では、国家は護れないからです。

名護市民が、独自に国防への提示をなさり、その方が理に適っているならば、当然話は違って参ります。
しかし一市町村では、国家は護れないのです。
ですから、いくら名護市民が、基地新設を嫌がる民意を発したとしても、それが適わないからといって、
民主主義がどうのこうのと言う問題では、最初からないのですね。

民主主義の議論の、次元が違うからです。
そもそも、市町村自治で議論できる自由範疇ではない話だからです。

市町村自治で議論できるのは、自由の幅が限定されております。
小中学校の運営などの教育部門や、上下水道の運営、
そしてゴミ処理の運営などが、市町村レベルでの議論の自由の範疇なのです。

国防の仕事やその責任は、国家にありますから、市町村首長選挙の争点に本当は、してはいけない範疇なのです。
なぜなら名護市長では、日本国の国防の責任が持てないからです。

本来軍事基地問題を、市町村首長選挙の争点にしてはなりません。
反対派の市長をたとえ担ぎ出し、「基地反対が市民の民意だ。」と、民主主義の原理を適応してはなりません。

名護市長には、国家は護る責任と義務がないからです。
ですから、たとえ反対派の市長が当選しても、日本国民の総意の元、やるべきことはやらなければないりません。

責任と義務を果たさない自由など、自由ではないのです。
それは、単なるわがままです。

自由とは、果たすべき義務と、責任の範疇にしか存在いたしません。

たとえば、どのような自動車に乗ろうが、それはオーナーの自由でしょう。
軽自動車であろうが、スーパーカーであろうが、リムジンであろうが、
どのような年式で、どのようなカラーであろうが、それを誰も咎めることはありません。

それは自由です。
しかし、いざ運転を開始すれば、自由な運転が許されますか?

「自分はもっと、早く行きたい。」とか、「もっと、コーナーの内側を攻めたい。」などの、自由意見が許されますか?
運転者は、道路交通法という縛りに従わなければなりません。

自由とは、責任と果たすべき義務の範疇にしかないことを、民主主義国家の国民である日本人が理解しないならば、
日本での民主主義や自由は、ただの衆愚制となり、国家の没落と破滅への道となることを警告いたします。

国防の義務と責任を、名護市民は果たすことはできません。
ですから、基地反対論者を首長として選んではならないし、選んでも無駄です。
それが真の自由であり、真の民主主義の姿なのです。