釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

「自然」とは共存できない人工放射線

2011-10-11 19:35:13 | 文化
連日晴れた日が続いてくれたが今日はややいつもより雲が多い。職場の方にお聞きするとやはり釜石ではどこも今は鹿がたくさん出て来ているようだ。中には天然記念物の日本カモシカらしい動物が車とぶつかって死んでしまったという話もある。冬を控えて食べ物を今のうちに確保しようと民家に近いところへも出没するようになったのだろう。福島第一原発事故後原発から20Km範囲では飼い主のいなくなった動物たちが放置されたままになっていた。5月12日には政府は警戒区域内の家畜について安楽死処分をするよう指示を出した。37歳の民主党の新人、衆議院議員高邑勉氏は郷里の山口県上関町に中国電力が建設を予定している上関原発の参考にと南相馬市を訪れたことがきっかけで警戒区域内の家畜の問題に直面させられた。地域の酪農家や自治体は安楽死に強く反対しており、被爆した家畜を食用にはできないため、むしろ家畜を保護して被爆した動物たちの研究のために役立てようと政府にかけあった。農林水産省は反対の意向が強かったようだが結局は安楽死しないで保護することができることになった。全国の研究者たちの協力も得て、浪江町に希望の牧場プロジェクトが立ち上げられた。地元の牧場主たちの協力も得られたが、何ぶん多くの家畜の飼料を確保するにはその維持費が十分ではなく苦労されているようだ。高邑議員は福島を家畜と放射線研究の拠点に、と訴えている。9日その希望の牧場、エム牧場の場長をされている吉沢正己氏が記者会見をされ、『絶望の街』に希望の光を灯したい」と語られた。「"死の街"と言われたが、その通りです」「私は絶望の街・浪江町と呼んでいる」「6、7ヵ月、我々は戦いながら言うべきところは言い、行動し、絶望的な状況の中で希望という光を自らの力で灯すため取り組んできた。これを一生の残り人生の課題として取り組んでいきたい。『決死救命・団結』、みんなの力で死ぬ気で頑張る。そういう中に希望の光というものは灯ると思うんです」。福島第1原発から14キロ地点まで毎日被曝しながら通われている。記者会見に同席した高邑議員はチェルノブイリではプルシアンブルーを牛に投与して牛からセシウムを除去することに成功し、実際に出荷もされたことや薬剤の開発にも寄与出来ることなどを語られた。エム牧場は常時放射線量を測定していて、ほぼ毎時2.9μSvの線量になっている。平常時の25倍の線量だ。福島県内の除染は政府の決めた規準では十分な除染ではないが、実際に除染にかかわっておられる山内知也神戸大教授(放射線工学)は福島市内には高濃度のセシウムに汚染された地域があることを明らかにした上で、除染について「水を掛けたり、土を取るだけでは線量は下がらない」と警告している。そして福島市が出した除染目標を「何もしない」のと同じだと述べている。森林や山地については「山林、葉っぱ、針葉樹につくと言われている。山林の除染は荒唐無稽なこと。できなくはないが、具体的にどうするか、イメージがわかない」と付け加えている。東京大学アイソトープ総合センター長児玉龍彦教授も南相馬市での除染にかかわっておられるが、子供たちの幼稚園や学校の緊急除染と本格的な住める環境とする恒久的除染とは分けて取り組む必要があることを訴えておられる。本格的な恒久的除染にはしかし相当の財源を要する。10月8日には静岡県伊豆市の乾シイタケからも国の暫定基準を超える599ベクレル/Kgの放射性物質が検出されている。組織的な検査はまったく行われていないため散発的な検査が各地で行われているだけであり、ほとんどの食品が未検査のまま子供や妊婦の口に入っているのが現状だ。全国さんま棒受網漁業協同組合は7日操業自粛としていた福島第一原発から半径100キロの海域を操業禁止にする、と決めた。今月中旬にはさんまの群れが南下しこの海域に入る。さらに、同原発から100キロ以上離れている福島東方沖や、200キロ離れた銚子沖でも今月中旬から11月上旬にかけ、捕獲されたさんまの放射性物質を検査し結果が出るまで操業を自粛することも決めた。一方で北海道サンマ産地流通協議会は同原発から100キロの宮城県金華山より南の海域でとれたサンマの水揚げを拒否するよう道東部の市場に要望している。毎年釜石で水揚げされたさんまは新鮮で、釜石ではじめてほんもののさんまの味を知った。原発事故は生産者と消費者の両方に被害を与えている。二度とこうした事故が起きないと言う保証はどこにもないばかりか、今の原発の規制体制や電力業界の姿勢ではむしろ再度同じような事故が起こる懸念の方が強い。
庭の紫式部 白実の白式部というのもある

原爆被害は過去のものではなかった

2011-10-10 19:31:02 | 文化
秋の気持ちよい日射しを受けながら周囲の山々を見ていると、ヒヨドリたちの鳴き交わす声が耳に入って来た。四国では今の時期に子供の運動会が開かれるが、釜石や北海道では春に運動会が開かれる。子供の頃の行事が染み付いているせいかやはり秋の運動会という方がしっくり来る。広島県の対岸にある愛媛県で子供時代を過ごしたが、その頃祖母から広島に原爆が落ちた夜、広島の街が焼けて夜空を赤々と染めたのが見えたという話を聞かされた。原爆を「ピカドン」と言っていた。原爆症を伏せて結婚した人がそれが知れたことを苦にして自殺した話なども聞いた。後に広島の原爆記念館を見ることはあっても原爆は遠い過去のものだと思っていた。昨日原爆症に64年間関わって来た94歳になる肥田舜太郎医師のインタビューを見た。今月6日に行われたものだ。原爆が投下されたとき広島の陸軍病院の軍医少尉だった氏はたまたま近隣の村に往診に出かけていて直撃を免れた。投下後に広島市内に入ろうとしたが、火災で入ることができず、結局、往診に行っていた村に戻る。そこにはおびただしい数の被災者がすでに集まっていて、村の道路や空き地は人で埋め尽くされていた。医療品はなく、最初はただただ人々が次々に亡くなって行くのを確認するだけであった。数日後に九州や四国の軍医や看護婦が大挙して医療品とともに到着したが、それでも次々に発症して行く人々を助けるための治療は不可能であった。そのうち、原爆が投下された時には広島市内にはいなくて、翌日以降に市内へ入った人たちも同じ症状で死んで行くことに気付く。しかし、それが何故なのか分からない。敗戦の1ヶ月後に来日した原爆投下を指揮したNO.2の人物が外国記者団の前で原爆投下による死亡者はすべてもう亡くなった、と宣言した。以後日米合同調査団が広島に入り、原爆症の記録はすべて米国に持ち去られ、被曝の被害は口外することを禁じられた。1947年3月に広島赤十字病院に原爆傷害調査委員会(ABCC)が設置され、その流れを汲んで日本にも後に放射能影響研究所や放射線医学総合研究所が設置された。それらの基本姿勢は直接原爆投下時点で広島にいたもののみを被爆者とするというものであった。投下翌日以降に広島に入って健康を崩したものは診療しない体制が形作られた。肥田舜太郎医師は被爆後の診療経験から翌日以降広島に入った、いわゆる入市被爆者も診療対象にするよう働きかけたが拒否される。以後氏はこうした入市被爆者と長く関わり国にこうした人々も被爆者として認定するよう裁判を通じて闘い続けて来た。2008年大阪高裁はこうした被爆者も被爆者として認定する判決を下した。国は上告を断念し、入市被爆者も被爆者であることが確定された。63年もの間原爆の問題は続いていたことを初めて知った。そして、国側の証人として入市被爆者を被爆者としては認めない立場を取って来たのが放射能影響研究所や放射線医学総合研究所に関係した医学者たちであった。その医学者たちが今また福島第一原発事故後も被曝を軽視する規準の設定や健康調査にも関わっている。電力会社へも協力する立場を取っている。原爆被害と原発被害は無縁ではなかった。考えてみれば当たり前ではあるのだが。原爆も原発も「核」なのだ。しかも入市被曝の裁判の中で低線量被曝の実態が明らかにされている。2005(平成17)年12月9日付けで大阪地方裁判所第2民事部甲係へ原爆症認定申請却下処分取消等請求事件の原告側が提出した原告ら第10準備書面をネットで見ることができる。そこには内部被曝やその医学的根拠も明示されている。肥田舜太郎医師によれば入市被曝による一般市民の被曝の事実は人道的な強い反響を世界に引き起こすことを恐れて伏せることを強いて来たのだろうとされる。低線量の長期被曝の実態を認めることは核実験停止後も原子力発電所の普及に差し支えを生じる。英米で起きていた原発事故による低線量被曝の補償にも影響するため決して認めようとはしてこなかった。福島第一原発事故による被曝被害は恐らく障害が出た時点ではそれらが認められることは明らかだろうが、何より、予防が一番であるにもかかわらず、その予防がまったくなされなかったし、今もなお、食品などの安全も保障されていない。「ヒロシマ」が結局繰り返されている。憲法や人権と言う言葉がむなしく感じられてしまう。
杜鵑草(ほととぎす) 百合科の花

南洲翁遺訓

2011-10-09 19:20:59 | 文化
気持ちのいい秋の晴天が続いてくれている。少し前の肌寒さも遠のいた。高い青空がのぞき筋雲が流れる。昨晩も鹿のなく声が響いていた。心なしか虫の声が少しづつ聞かれなくなって来ている。被災した釜石港には長さ100mの貨物船が乗り上げたままになっていたが、この18日に海に浮かべて除かれることになった。市民の一部からその船を見ると辛い被災当時を思い出すため早く撤去してほしいという声が上がっていたようだ。管轄が県であったため県はようやく撤去を決めたのだ。記念に観光用に場所を変えて保存する希望もあったようだが。3月11日の震災から約1ヶ月たった4月14日に初めて復興構想会議が開かれたが、財務省に主導された会議は初めから「復興増税」ありきで始まった。財政難の折から一見国民が納得しやすい「増税」だが、一方で大規模な人災をもたらした東京電力に対しては初めから「破綻させない」という結論があり、そのためにどうどうと財政支援をするという有様だ。東京電力は公共性のある企業ではあってもあくまで民間企業であり、その企業としての責任を問うためにも一旦は破綻整理してすべての資産を拠出させるべきである。それをやっても電力事業は継続出来るのだ。日本航空は破綻整理をしても飛行機は飛び続けていた。原発事故の賠償を考えただけで債務超過は明らかだが、政府の経営・財務調査委員会は賠償金を電力料金に上乗せさせ、東京電力の財務上は債務超過にならないようにすることで破綻処理を免れさせようとしている。その意図は見え透いている。財務省と経済産業省により現在の経済の低迷や震災の復興、原発事故の賠償のすべての責任が国民に負わされる形にされてしまっている。財務省と経済産業省という国家の中枢は自らの利権のみ追及し、日本全体の将来や国民のことなどは視野に入れていない。江戸幕府の財政難と迫り来る外国勢力への無策などを契機に明治維新で政治体制が改まったが、維新間もなく権力を握った者たちがその権力を守ることに拘泥するようになった。西南戦争で自決した西郷隆盛の遺訓が元庄内藩士たちの手で編纂されている。その第四ケ条に「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。」とある。国民が職を失い、薄給に喘ぐ時代に都心の公舎を建て替え、天下り先を確保して70歳までの生活が保障される仕組みだけは温存する。前政権に嫌気がさし、政権交替で国民の期待をかけた新政権はさらに一層官僚たちの言うがままに動き、国民は一段と惨めな状態に於かれてしまった。メディアがそうした現在の日本の状態を報じる役割を負っているはずだが、このメディア自体も無制限の広告収入に依拠するため、とっくにその本来の機能を失ってしまっている。官僚たちのリークする情報だけを検証もせず一様に垂れ流すだけである。岩手県選出の小沢一郎議員は個人的に特に支持しているわけではないが、メディアのあまりに酷い報道ぶりには怒りさえ感じてしまう。小沢氏に関連する裁判にも疑問を感じる。明らかに小沢氏を排除しようとする影の大きな力を感じる。日本はよく法治国家で立法・行政・司法の三権が分立していると言われるが、これも極めて危うく感じる。何よりも政治家に見識がなさ過ぎるためどの分野も官僚のなすがままになっている。個性の強い小沢氏は官僚にとって目障りなのだろう。菅直人氏も優柔不断であっただけでなく、脱原発を掲げてしまったためにメディア上げての袋だたきにあった可能性もあるのではないだろうか。「死の街」発言でメディアにやはり袋だたきにあった鉢呂吉雄氏なども同様だ。5月16日の参議院行政監視委員会で細川律夫厚生労働大臣が「Jヴィレッジから福島原発に行く間、これマイクロバスで行きましたけれども、その間、人が一人も見えない、いない、牛が放牧をされて、主のいない牛が、何というか、漂っているといいますか、そんな風景を見まして、本当に町全体が死の町のような印象をまず受けました。」とすでに「死の町」発言をしているが、このときは全くメディアは取り上げていない。鉢呂吉雄氏もやはり脱原発を掲げていた。岩手県の2009年度の1人当たりの県民所得は221万4千円となった。今年度は職を失ってさらに下がっているだろう。増税は間違いなく、消費を極端に抑え込んでしまうだろう。とてもデフレ脱却など望めそうにない。
季節外れの庭の黄菅

核の影響を過小評価し続ける流れ

2011-10-08 19:26:56 | 文化
久しぶりに比較的暖かい秋の日和になった。庭の犬たちも気持ち良さそうに寝そべっている。ようやく国の復興の基本としての高台集団移転の方向が定まって来たようだ。昨日昼休みに職場を出たところで大阪のTV局に鉢合わせてインタビューを受けた。釜石の防潮堤が5年をかけて再建されることになったことをどう思うか、という質問だった。震災直後から真っ先に頭に浮かんだことは再建は絶対に高台移転でなければならない、ということだった。30年の歳月と何十億円もの金をかけた防潮堤はあっさりと破壊され、津波は市街地を飲み込んだ。一方で大船渡市吉浜地区は明治と昭和の三陸津波に学んで高台移転をしていたため今回の津波では被害は最小限で済んだ。土木工学の専門家も防潮堤などには限界があると言っている。費用と効果を考えると防潮堤に巨額の費用をかけることにはうなずけない。今ネットでは国会での議員の発言が問題になっている。5日の衆議院震災復興特別委員会で茨城県選出の自由民主党の額賀福志郎議員が原発事故の遠因は日本人の怠惰な生き方にもあるというような発言をしている。そして続いて同じ党の兵庫県選出の元通産官僚の西村康稔議員は「電力不足への不安が企業の海外移転を加速している。『来年の夏までに』なんていっている場合じゃない」と原発の再稼働を要請している。企業の海外移転を加速しているのは電力不足などではなく、前政権から続いている経済政策の無策が原因である。大和総研は9月2日「再生可能エネルギー法と電力料金への影響」というレポートを出し、日本の製造業は電力効率的な生産技術を保有しており、他の主要国と比べても日本の製造業の電力負担率は平均的な水準より低い、としている。元通産官僚としてはどうしても原発を再稼働させたいのだろう。今日の共同通信は北海道大の平川一臣特任教授の調査で東北電力東通原発がある青森県東通村で過去約千年間で少なくとも5回の大津波が来たことを示す地層が見つかったと報じている。東通村には営業運転している東北電力東通原発1号機のほか、建設中や計画中の原発3基がある。東北電力は建設時にはこうした掘削による地層調査はやっていなかった。安全神話だけで安易に建設された原発は今回の事故の原因調査も明らかにされないまま再稼働させれば再び原発への安易な姿勢が立ち戻って来るだろう。一昨日福島第一原発の放射能汚染水の貯蔵タンク関連の作業をしていた50代の男性作業員が死亡した。3人目の作業員の死亡だ。1945年7月16日米国のニューメキシコ州で行われたトリニティ実験で人類最初の核実験が始まった。以後地上での核実験は1980年の中国での実験まで断続的に行われた。地下実験は今のところ2009年の北朝鮮での実験が最後になっている。1954年3月1日米国が旧ソ連に対抗して行った水爆実験で日本のマグロ漁船が被爆し、3年後に記録映画「世界は恐怖する 死の灰の正体」が福島県南相馬市出身の亀井文夫監督によって制作された。その後「原子力村」の中心になる科学者も協力している。この映画は現在でもネットで見ることが出来る。映画の中では放射性物質を食べたり吸い込んだ動物たちがどうなって行くか紹介されている。広島で被爆した母親から生まれた子供たちへの惨い影響も映し出されている。「核」への批判をかわすために「原子力」という言葉に代えて「核発電」が推進されて行く。チェルノブイリ原発事故では放射線感受性の高い子供たちの甲状腺異常がたくさん報告されているが、NPO法人「日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)」と信州大学が長野県に避難した福島県の子供たち130人を健康調査した結果10人に変化があった。しかし、福島県の地元紙である福島民報は福島県立医大の教授を登場させ「甲状腺 異常なし」と大見出しを付けて報じている。全国紙ですら「変化」としているものを。ネットを見ていると福島県が県としていかに県民に対して誠実さを欠いているかよく分かる。国以上に情報を曲げてしまっている。大事なことは環境や食物の詳細な放射線調査とそのありのままの開示によって子供や妊婦を被曝から守ることである。堀田伸永氏の『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』を読むと米軍の原爆調査に協力した日本の医学者・科学者たちが戦後の放射線影響調査に関与し、原子力ムラの中核をなした流れが現在も引き継がれていることが分かる。7月27日の衆議院厚生労働委員会で東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授が「プルトニウムを飲んでも大丈夫と言った東大教授がいると聞き私はびっくりしましたが、(プルトニウムが出す)アルファ線は最も危険な物質である」と述べたが、その「プルトニウムを飲んでも大丈夫」と言った東京大学大学院大橋弘忠教授は北陸電力の原子力安全信頼会議の委員にも就任したようだ。「原子力ムラ」は形だけの反省をしただけのようだ。
秋の色

日本史

2011-10-07 19:49:56 | 文化
雨が上がって晴れてくれたが午前中は風が強かった。朝、庭に出ると近くの山から山鳴りが聞こえて来るほどだった。今朝は久しぶりに胃内視鏡検査を受けるためにいつもより若干早めに家を出たが、それでも国道の工事現場の手前から渋滞になっていた。予定通りには鼻からの胃内視鏡検査を受けることが出来た。以前愛知県で浜松医科大学のドクターにやってもらった時よりさらにずっと楽だった。以前も口からの内視鏡検査よりずいぶん楽だと感じたが今回は一層楽だった。ドクターの要領もいい。自分でもモニターを見れるのでかえって安心出来る。県立遠野病院で遠野近辺の内視鏡検査を一手に引き受けておられるドクターで、最近立て続けに胃癌が見つかっている話を聞かされたのでちょっと不安がよぎったが。最近はまた夜休む前に少しづつ古代史の本を読むようになってきた。偶然古田武彦氏の近著『卑弥呼(ひみか)』(「卑」には人偏が付く)をいただいたのがきっかけだ。卑弥呼の時代の3世紀には倭人の住む裸国と黒歯国があったことが魏志倭人伝に書かれている。倭国から船行1年ー2倍年歴のため実際は半年ーの距離にある。現在のエクアドルとチリ北部に当たる。黒潮の流れに乗って日本から実際に辿ることが可能であることが証明されている。堀江謙一氏ら3人の青年たちがすでに太平洋を横断している。エクアドルやチリ北部の遺跡や医学的検査でも倭国との関係が極めて深いことも明らかになっている。Gm遺伝子の分布によって松本秀雄大阪医科大学名誉教授は日本人はバイカル湖近辺のモンゴロイドに由来すると主張された。このことは和田家文書で同じくバイカル湖に由来する神ブルハンがアラハバキの神となったすることにも関連しているように思われる。太古の日本人は現在我々が想像する以上に広範囲に活動していたのだ。旧来の歴史学は大和を中心に据えた歴史学であるためその枠組みを外れる遺跡や科学的発見を無視せざるを得ない、偏狭な歴史学となってしまっている。『東日流外三郡誌』では後の安倍氏に繋がる安日彦、長髄彦兄弟が「筑紫の日向の賊」に追われて津軽に逃れたと記されている。彼等が津軽に逃れて建国したのが荒覇吐王国であり、日本国(ひのもとこく)の再建である。後の安倍氏らは「日本(ひのもと)将軍」を名乗っている。「壷の石碑(つぼのいしふみ)」は「都母の石碑(つものいしふみ)」であり、青森県東北町で発見された「日本中央(ひのもとちゅうおう)の碑」である。(荒覇吐王国、日本国は北は角陽国アラスカ、神威茶塚国カムチャッカから南は安倍川~糸魚川を結ぶラインまであり、そのため青森県東北町を日本の中央とした。) 筑前国那珂郡屋形原村日本(ひのもと)、筑前国那珂郡板付村日ノ本 (ひのもと)、筑前国早良郡石丸村日ノ本(ひのもと)、筑後国生葉郡干潟村日本(ひのもと)、 筑後国竹野郡殖木村日本(ひのもと)があったという。「筑紫の日向の賊」に追われた安日彦、長髄彦兄弟は住んでいた北部九州の「日本(ひのもと)」を追われた可能性が強い。板付遺跡の稲を持って津軽に逃れた。しかし、この稲は晩生品種のため津軽では育たず、後に戦乱を逃れて津軽へやって来た中国晋の君公子がもたらした早成品種を作付けすることになったのだろう。縄文時代から住んでいた北部九州の板付を中心に稲作で生活をしていた日本国(ひのもとこく)へ対馬・壱岐を本拠とする海洋民である天族が侵入し、難を逃れて日本国の人々は津軽へやって来た。そこにはツングース系の早くから津軽にいて岩木山の大噴火で少数になった阿曽辺(あそべ)族と、阿曽辺族の後から一旦は北米を目指して戻って来る時に津軽に漂着した津保毛(つぼけ)族がいた。日本国の安日彦、長髄彦兄弟は彼等を統一して、彼等の敬うブルハンの神を吸収し、新たにアラハバキの神として荒覇吐王国を建てた。この後に晋の君公子たちも漂着したのだろう。北部九州では天族であるニニギの下倭国が建国され、卑弥呼の時代へと受け継がれる。『新唐書』に「日本は、もと小国だったが、倭国(わこく)に、とって代わられた。」 と言うことが書かれているようだ(「日本乃小国、為倭所并」)。この「日本」は「ひのもと」と読むのが正しいのだろう。ニニギと卑弥呼の間の時代に倭国に留まっていてはうだつが上がらないと考えた神武兄弟は九州を離れて、紀伊半島経由で奈良盆地へ入り、7世紀末まで九州王朝の配下であった。白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れて弱体化した倭国の九州王朝に代わり、8世紀以後日本国(にほんこく)として大和に王朝が打ち立てられた。弥生期の北部九州の遺跡や縄文期や弥生期の東北の遺跡はそれらのことが史実であったことを示している。旧来の歴史学では発掘された遺跡の説明ができない。
萩の咲く秋の日和

「先進国」もシステムの再起動が必要なのかも知れない

2011-10-06 19:18:50 | 文化
昨日から雨が続いて今朝の出勤時には国道の工事のため釜石としてはそこそこの渋滞になった。3月11日の地震は道路へも影響を与えていた。釜石自動車道でも工事が続いている。地盤の緩い路面が陥没したのだ。路面に裂け目が走ったところもある。今週から釜石のNPO法人での活動に戻った娘は昨日は各方面との今後の打ち合わせのために釜石市内を飛び回ったようだが、その途中でちょうど昼頃に匠の方の奥様に出会い、先月完成した仮設商店街「復興天神15商店街」に入っている「黄遊(きゆう)」という店で一緒に食事をいただいた。奥様に結局ごちそうになってしまったようだ。この店は震災で被災して店を閉じてしまった宮古市の有名な寿司屋さんの板前さんがいて、いつもすばらしい料理を作られる匠の方の奥様でさえお薦めのおいしい料理が口にできるという。実際、娘もそのすばらしい料理を味合ったそうだ。昼食にはボリュームもあってちょっと食べ過ぎたと言っていた。ぜひ一度行ってみたい。釜石の市役所の建物は古いだけでなくあちこちに分室が分かれ、とても不便な状態で使われて来ている。今回の震災でもそれぞれが孤立して円滑な互いの連絡が当初とれない状況になった。他の沿岸部でも直接市庁舎が被災して機能しなくなったところも多い。こうした被災地の公共の建物が財源の関係で仮の施設で運営されている中で公約で凍結していたはずの国の地方合同庁舎の新設が再開された。本年度予算に600億円が計上された。被災地とは関係ない場所だ。都心部の公務員宿舎の廃止についても官僚の意向でふらつきを見せる政府に情けなさを感じる。元財務省(大蔵省)官僚であった高橋洋一氏や先頃まで経済産業省官僚であった古賀茂明氏によれば今の政権は完全に財務省事務次官に牛耳られてしまっているという。一見温厚な事務次官は政権の中枢部には優秀な財務官僚を配して政権をコントロールしているという。そしてその霞ヶ関自体も電力業界には頭が上がらないのだという。前政党が政権にあった当時から公務員制度改革に取り組んでいた古賀氏は官僚からの強い抵抗に会い、結局は辞職された。氏は今の政権も「官僚任せなので既得権グループと戦う政策が出て来ません。ここで改革出来なければ日本はギリシャへの道を歩むことになるでしよう。改革なき増税、成長できない経済、そして破綻。財務省の路線です。」と言われている。放射線の被爆線量基準も日本は海外からとても文明国だとは思えないとまで言われるほど酷い規準を設定しているが、今回も内閣府の放射線審議会の基本部会は住民の被曝線量限度を緩和しようとしていることが報じられている。そしてこの「基本部会」なるものについて慶応義塾大学の金子勝教授は「例によって「原子力ムラ」御用達の皆さんが多数を占めております。」と述べている。震災後のこれまでにも明らかではあったが、相変わらず、国民の健康が最優先されない状況が続いている。「Occupy Wall Street!」と掲げた米国の市民の抗議行動は今や50州のうち46州の計146都市に及んでいる。「2500万人以上が無職で、5000万人以上が健康保険に入っていない」「我々のシステムは壊れている」と訴えている。そして米国の動きに呼応して日本やカナダ、ドイツなど十二カ国でも同じような動きが出始めている。大手マスコミはこうしたことをほとんど報じないが、昔と違って現在はインターネットで世界中の動きが市民に伝わる。現在の日本の状況はこうした米国よりさらに「システム」が壊れた状態と言えるだろう。東京一極集中した状態にも何ら手が打たれない状況に他都市が結束し始めている。橋下徹大阪府知事が打ち上げた「大阪都」構想は府と大阪、堺両市を再編し広域行政は「都」が、住民サービスは市を分割する「特別区」が担うというもので、愛知県と名古屋市を一本化する「中京都」や、新潟県と新潟市を合併させる「新潟州」も浮上している。また十九政令市でつくる指定都市市長会も道府県から独立する「特別自治市」を提案している。さらに横浜、川崎、相模原、千葉、さいたまの関東五市と京都、神戸の関西二市も共同研究会を設置することになった。これらの動きはもう国の政策では東京以外の大都市ですら危機的状況に於かれてしまったことへの大きな再生への動きと見ることができるだろう。しかし、増税とその結果の経済への壊滅的な打撃はそれらの大都市に再生のための時間を与えてはくれないだろう。
十年一日のごとく

豊かな自然と豊かな歴史

2011-10-05 19:33:46 | 文化
10月の初旬になると釜石では暮れるのが早くなる。本州最東端のトドヶ埼には映画(木下恵介監督)や歌(若山彰)の「喜びも悲しみも幾歳月」の題材となった手記を書いた灯台守の妻田中きよが夫績とともに7年間を過ごした灯台がある。現在は無人の灯台になっている。ここは釜石の近くだ。従って釜石は本州では日が昇るのも一番早く、日が沈むのも一番早い。今は午後の5時を過ぎると薄暗くなって来る。その頃には日中どこかで寝ていたコウモリが飛び交うようになる。夜には最近は鹿たちが毎晩のように鳴く声が聞こえて来る。北と南にそれぞれ小高く連なる山の合間を西の内陸側から東の太平洋側に向けて流れる甲子川に沿った狭い、言ってみれば、かっての河川敷に住宅や工場があるのが釜石の中心部だ。平野部の少ない釜石では稲作はあまり見られない。山を隔てた北側の鵜住居地区から西へ山側に深く入った橋野地区や同じく山を隔てて南に位置する海岸に近い唐丹地区の一部で稲作を見かける程度だ。岩手県も三陸沿岸部は稲作をやるための平地は限られている。都道府県別で米の生産量が10位の岩手の担い手は内陸の北上川に沿って展開される広い平野部だ。東北6県は日本の米の4分の1を生産する最大の米の産地である。東北のさらに4分の1を生産する北海道とともにいずれも寒冷地であるため早生品種が作られている。関東以南の晩生品種とは異なっている。面白いことにこれは稲作が始まった弥生時代から変わらない。このことは何を意味するのだろう。日本での稲作は紀元前10世紀後半に北部九州の板付遺跡や菜畑遺跡で始まるとされ、紀元前9世紀末には高知県の田村遺跡に見出され、奈良盆地には紀元前5世紀に到達している。これらはいずれも品種的には晩生品種だ。ところが弥生前期の青森県弘前市の砂沢遺跡や弥生中期の津軽郡田舎館村の垂柳遺跡で見出された稲は早生品種であった。炭素14による年代測定により弥生時代は500年遡ることが明らかになった。弘前市の砂沢遺跡の水田は従って紀元前8世紀には存在した可能性が出て来た。しかしここは江戸時代に造られた溜め池の底に水没しているためさらに詳しい発掘が行われていない。日本の考古学的な資料でもあまり重視されていない。と言うよりも無視されていると言った方がいいかも知れない。縄文時代の三内丸山遺跡のような巨大な遺跡が何故本州最北端に存在するのか、現在の考古学は何も説明しない。東北はたとえ遺跡が発掘されてもそれを説明することが出来ないため無視される結果になっている。そしてそのため発掘も積極的には行われない。東北の考古学者自体が旧来の歴史観に囚われたままだからだ。北部九州に始まった晩生品種の稲と弥生前期にすでに現れた青森県の早成品種とは別ルートで大陸からもたらされたものと考えるしか説明がつかない。自然に品種が変化するには時間が少な過ぎるからだ。自然に品種が変化するためには1000年単位の時間を要する。中国の浙江省で発見された河姆渡遺跡では約7000~6500年前の最古の水田耕作遺物が見出されている。この地域の稲はすべて晩生品種である。この地域の稲が北部九州に伝わった可能性が強いことは容易に想像出来る。ところで青森県東津軽郡外ヶ浜町の大平山元I遺跡からは16,500年前の世界最古の縄文土器とも言われる祖源的な土器が発見されている。約5,500年前にはじまる三内丸山遺跡など東北の太古を考えると東北は自然が豊かなだけに早くから人々が住着き、そこに豊かな社会が形成されていた可能性が高いと思われる。『東日流外三郡誌』を含む和田家文書はその意味で東北の史実を解明する貴重な資料だと言える。和田家文書には岩手県でも現在の二戸市にあたる「爾薩体(にさったい)」や「閉伊(へいい)」が登場している。後者は閉伊川の流れる宮古市に当たるのかも知れないが、これらの地域の考古学的な発掘が進められれば新たな史実が明らかになる可能性が大いに秘められているように思う。
大地の恵み

「日本人」のDNA

2011-10-04 19:45:39 | 文化
ここのところ晴天が続き、今日もよく晴れたが、気温だけは低くほどよい気温の秋がほとんどなくいきなり晩秋の気温になってしまった。ただ今年は諦めていた庭の彼岸花が昨年よりかなり遅れて芽を出して来た。落ちた松葉の影に隠れてよく見えなかったのだ。数えてみると6~7カ所で芽を出していた。子供の頃はあぜ道にどこにでも見られた彼岸花やレンゲが今はほとんど見られなくなってしまった。田園のそれらの花が無性に懐かしい。愛知県に住んでいるとき彼岸花の名勝地があると聞き、早速出かけた。愛知県半田市の矢勝川と岐阜県海津市の津屋川のそれぞれ川堤に一面に咲いた彼岸花を見ることが出来た。特に津屋川のそれは鏡のような川面に映る真っ赤な彼岸花が印象的だった。関東では埼玉県日高市の巾着田に見られる彼岸花が有名だが、こちらはまだ行っていない。釜石近辺では唐丹小白浜の盛巌寺境内で彼岸花を見ることができたがここも今回の津波で被害を受けているので今年はまだ行っていない。花や犬を見ていると現代は新種が多く、人工的に作出されたものも多く、そうしたものにはあまり惹かれない。以前からあった自然のものが一番いい。彼岸花もあぜ道に見られるのがほんとうは一番いいのだが。それでもこれまでで最も心に残る彼岸花の光景は津屋川の壮大な一群かも知れない。あの光景はもう自然の美しさに十分なり切っている美しさだ。『週刊ダイヤモンド』10月8日号は「日本を見捨てる富裕層」という特集を載せている。「海外と比較した場合の日本政府の放射能に対する意識の低さ」や「海外からすると正気の沙汰とは思えない政策がまかり通」る日本に嫌気がさし、富裕層が家族や資産を海外へ移しているという。移転先はシンガポールやマレーシアらしい。スイスの銀行に資産を移す人もいるようだ。現在の日本人は海外に出かけることは当たり前のようになっているので、海外から日本を見ることが容易で、海外の人たちが日本をどう見ているかもよく分かっているのだろう。戦後一見自由が謳歌される日本の社会が実現したように見えていてもその実日本は江戸300年と戦前までの社会でしっかり根付いてしまった儒教体質とお上意識で常に「我慢をする日本人」「大人しい日本人」が出来上がってしまった。いや、実際にはもっと古代からそうだったのかも知れない。古代に中国は日本人を「倭奴」と呼んでいる。「匈奴」に対する呼び方と対比されて。従順なものと暴れるもの。表面上は「従順」であることというのはもう日本人のDNAにまでなっているのかも知れない。6月11日福島県相馬市の54歳の酪農家が自ら命を断った。「原発さえなければと思います。残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください。仕事をする気力をなくしました」「原発で手足ちぎられ酪農家」と書き残していた。須賀川市でも野菜の出荷を制限された農家の方や飯舘村で避難した家族との別離を強いられた高齢者なども自ら命を断った。昨日情報公開請求に対して経済産業省原子力安全・保安院が開示した資料で土木学会は昨年十二月時点ですでに、福島第一原発への津波が最大一三メートルに達すると予測した報告を東京電力に出していたことが明らかになった。しかし、東京電力はこれを無視していた。東京電力の資産査定を行う政府の「東京電力に関する経営・財務調査委員会」は経営報告書をまとめたが、そこでは福島第一原発の廃炉費用を過小に見積もり、純資産の積算で被害者への損害賠償を差し引かず、政府への資金返済に充てる特別負担金を計上せず東京電力の財務状況を債務超過ではなく、資産超過としている。東京電力が資産超過となると東京電力に4兆円の融資をしている金融機関に債権放棄や債務の株式化などを求めなくて済む。また債務超過になれば当然法的整理が問われてしまう。その上報告書は「再稼働しなければ四兆~八兆円の資金不足が生じる」「著しい値上げをしない限り事業は極めて困難になる」とまで書いている。最初から東京電力を潰さないという結論があって恣意的な貸借対照表が作成され、原発の再稼働や電力料金の値上げまで促す形なっている。大手メディアはこうした実態を報道せず委員会の意図に沿った報道だけを流している。ほんとうに日本には民主主義などと呼べるものがどこにあるのだろう。あまりにも国民が惨め過ぎるのではないだろうか。
遠野ふるさと村に咲いていた彼岸花

世界に蔓延している緊縮財政

2011-10-03 19:54:04 | 文化
釜石では先月末頃から急に気温が下がって来て風邪を引く人も増えているようだ。北海道の旭川では観測史上2番目になる早さで今日雪が降った。今朝も7度ほどの気温だったが日中は日が射して16~17度くらいまで上がって来た。職場の駐車場そばの裏山ではクルミや柿の実が生り、シジュウカラが近辺を飛び交っていた。一面を覆う葛も花はもうほとんど見られなくなってしまった。被災地域を今後どうするのか現在でもまったく何も見えて来ない。市も単独ではとても抱え切れない問題のため、明確な方針を打ち出せないでいる。日本全体の経済が低迷していた中で起きた今回の地震と津波に加え、原発事故がさらに重なった。復興や収束に向けて莫大な費用を要することは間違いない。しかし、それらを増税で乗り切ろうという政府の意図だけははっきりして来た。幾人かの経済学者も言うように、現況での増税は間違いなくさらなる経済の悪化と税収減をもたらすだろう。それは継続的な復興の道を閉ざしてしまうことにも繋がる。スペインでは今年5月に引き続き8月にも大規模な抗議行動があった。経済の低迷による失業の問題に抗議したものだった。米国でも今月はじめ各地で抗議行動が見られた。日本に先行した新自由主義、市場主義の行き過ぎにより、経済格差が進んだことへの米国民の怒りが爆発した。クリントン政権で労働長官を勤めた元ハーバード大学教授のロバート・ライシュRobert Bernard Reich氏は『Super capitalism(邦題:暴走する資本主義)』でこうした格差の生まれた中に民主主義の疲弊を見出して警告を発していた。2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツJoseph E.Stiglitzコロンビア大学教授も以前から同じく1976年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授であった故ミルトン・フリードマンMilton Friedman氏に提唱された新自由主義を批判し、欧州とアメリカに必要なのは緊縮政策ではなく、さらなる景気刺激策であり、財政赤字の要因は経済成長の弱さによる税収の伸び悩みである、としている。日本でも日本金融財政研究所所長の菊池英博氏などは著書『増税が日本を破壊する―本当は「財政危機ではない」これだけの理由』を2005年に著し、日本の20年に及ぶ緊縮財政が長引く経済の低迷、デフレの原因になっていることを訴えている。これほど経済が低迷していても日本は世界一の債権大国であり、政府発表の財政赤字には政府の金融資産も含まれており、純債務はずっと少ないことを強調している。いわゆる埋蔵金と国債の増発による積極財政こそがデフレ脱却の唯一の道だとする。20世紀後半から世界を席巻した「グローバル経済」は事実世界中に経済の低迷をもたらし、弱小国の経済危機を作り出して来た。国際通貨基金IMFや世界銀行はそうした経済力の弱い国々に緊縮財政を強いることで一層経済を悪化させ、国家を破綻寸前まで追い込んでしまった。むろん弱小国に一律に財政出動を促すわけにはいかないだろうが、少なくとも厳しい緊縮財政を強いたことが大きな原因であったことは間違いない。過去20年の日本の経済や世界の国々の経済の低迷を振り返れば、どこに誤りがあったのか通常ならば反省があるはずだが、日本の財務省は財政均衡一点張りでまったく過去の経済状況を反省するところがない。見識のある政治家がいない日本ではその財務省に政治家が踊らされているだけである。財務省にとって日本経済の浮上や国民生活の向上など眼中になく、ただ年度毎の財政の安定だけが問題なのだ。以前には経済企画庁が存在し、そこで中期の経済計画が立てられ、その計画に沿って財務省(大蔵省)が年度毎の財政計画を立案・実行して来ていた。しかし、財務省にとって目障りな経済企画庁は潰されてしまった。今や財務省は自分たちのやりたい放題だ。新しく発足した新政権も当初は増税に慎重な姿勢を示したがあっという間に増税に雪崩を打った。失業や低賃金がはびこる現在の日本で増税は単年度で見れば確かに税収増をもたらすが、それは一層の消費の激減に繋がり、結果として必ず税収減を招く。消費の激減は投資の減少をもたらし、デフレは止まることがない。財務省はそもそも資本主義というものを最も理解していない。資本主義は需要がなければ機能しないのだ。需要が見込まれてはじめて投資の動機付けが行われる。低迷経済下での増税はその需要を決してもたらさないばかりか需要は一層減少する。それをこの20年が証明している。そしてそれをデフレと言ったのだ。増税はわずかでも進んでいた経済という車に急ブレーキをかけるようなものだ。乗客はことごとく車内で転倒するだろう。果たして乗客は起き上がれるのだろうか。
ナナカマドの実がすっかり赤くなった

悲劇は繰り返されるのか

2011-10-02 19:13:00 | 文化
今朝起きると気温は7度になっていた。一気に最低気温が下がって来た。午前中は風がいつもより強かった。道行く人たちも長袖を着ているだけでなく上着もその上から着ている。夕方には小雨も降って来た。昨日遠野の田園地帯を車で走っていると栗やクルミの木にたくさん実が生っていたが、今日の風で落ちる実も多かったろう。栗の好きな娘は昨日も落ちた栗を拾っていた。職場の駐車場のそばにある裏山のクルミの木には毎年熊がやって来る。今年もそろそろ熊がやって来る頃だろう。熊は柿の実も好物なので匠の方の庭の柿の木にも毎年熊がやって来るそうだ。月の輪熊は北海道のヒグマより大きさはずっと小さいが爪の鋭さと腕力は相当のものなので襲われると命を落とす危険性が高い。助かってもかなりの重傷になる。豊かな自然には常に危険も付きものだ。一昨日文部科学省は6月から1ヶ月かけて福島第1原発から80キロ圏内にある市町村の100カ所から採取した土壌を調べた結果、今回の原発事故で飛散したとみられるプルトニウムが福島県双葉町、浪江町と飯館村の計6カ所から検出されたと発表した。また、45カ所ではストロンチウム89も検出している。米国ですでに自動車のフィルターを使ってプルトニウムが検出されているくらいだから日本全土でプルトニウムが検出されてもおかしくない。何を今更という気がする。農林水産省は東北・関東甲信越など17都県(青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に出した腐葉土、剪定枝堆肥、わら等の使用についての自粛要請を未だに解除していない。これらの地域はちょうど文部科学省が管轄する放射線予測システム SPEEDI(スピーディ)で放射性物質が拡散予測された地域に当たる。現在最も心配されるのは食品の安全性だ。厚生労働省が八月から始めた「抜き打ち検査」で埼玉、千葉両県産で既に市販されていた製茶から、暫定規制値を超える放射性セシウムが検出されている。昨日もスーパーで見ると三陸産の秋刀魚がもう売られていた。しかし、農水産物の検査は基本的に都道府県任せで法律がないため法的義務はない。水産庁は北海道から神奈川県までの太平洋側九都道県に、主な漁港で水揚げされる海産物の検査を週一回以上実施するよう「要請」しているに過ぎない。食品規準にも矛盾が見られる。厚生労働省は輸入食料に対しては1kgあたり370ベクレルという規準を設定しながら国内では500ベクレルという輸入食料より高い値を設定している。児玉龍彦東大先端科学技術研究センター教授は食品の徹底した検査の必要を言われている。こうしたいい加減さは何より避難地域の設定の仕方にすでに現れている。チェルノブイリ原発事故ですら原発から30Km範囲は現在でも立ち入り禁止区域となっているにも関わらず、日本では20Km範囲に留められており、20~30Km範囲を中心とする緊急時避難準備区域は解除されてしまった。除染など十分出来ていないにもかかわらず。福島市渡利地区の除染後の状態を調べた神戸大学大学院海事科学研究科の山内知也教授(放射線物理、放射線計測)は「「除染」が行われたということであったが、6月の調査において最も高い線量を記録した側溝内堆積物には手が付けられておらず、地表面における空間線量は当時の2倍に上昇していた。「除染」のモデル地区としてある通学路がその対象になったが、その報告によると平均して7割程度(約68%)にしか下がっておらず、空間線量も1~2 μSv/hに高止まりしている。」と9月20日に報告している。原子力発電所の安全性についても何ら新たな対応がとられず、事故後の放射線汚染への対応もまったくずさんな状態が放置されたままになっており、何も情報を得られない人々は知らない間に被曝し続けている。チェルノブイリ原発事故後、小児の甲状腺癌が世界で認知されるのに20年の歳月がかかっている。緊急被曝医療を担う2次機関の役割を断った福島県立医科大学は先月330床を有する放射線医学県民健康管理センター(仮称)など5施設を5年以内に新設すると報じられた。事業費は約1千億円だという。事故後、福島県内で「100ミリシーベルトは大丈夫。毎時10マイクロシーベルト以下なら外で遊んでも大丈夫」などと発言して来た山下俊一教授が副学長を務める福島県立医科大学が今回の原発事故後の被爆医療を一手に引き受けることになる可能性に危惧を覚える。
今頃咲いていた杜若(かきつばた)