釜石の日々

日高見国の弊伊(へいい)

やはり一昨日降った雪は平地では昨日のうちに融けてしまった。昨日は天気予報通り晴れてくれたが気温は10度までは届かなかった。それでも日中外に出ると春がやって来ている気配を感じられる。職場の近くの蝋梅(ろうばい)もまだ少し花を残しているが花の色がかなり褪せて来た。かわりに薮椿が一斉に開いて来た。その椿の花には毎日メジロがやって来ている。日本書紀によると大和によりはじめて東北へ目が向けられたのは武内宿禰の派遣に始まる。(景行)廿五年秋七月庚辰朔壬午 遣武内宿禰 令察北陸及東方諸國之地形 且百姓之消息也(廿五年の秋七月の庚辰の朔壬午に、武内宿禰を遣はし、北陸及東方の諸國の地形、且た百姓の消息を察しむ。) 年代は西暦95年7月3日ということだ。2年ほど後、武内宿禰は大和へ報告を持ち帰る。(景行)廿七年春二月辛丑朔壬子 武内宿禰自東國還之奏言 東夷之中 有日高見國 其國人 男女並椎結文身 爲人勇悍 是總曰蝦夷 亦土地沃壞而曠之 撃可取也 (廿七年の春二月の辛丑の朔壬子に、武内宿禰、東國より還て奏して言す、「東の夷の中に、日高見國有り、其の國の人、男女並に椎結け、身を文けて、爲人勇み悍し。是を總べて蝦夷と曰ふ。亦、土地沃壞えて曠し。撃ちて取りつべし。」 ) ここでは日高見国の国名が見られており、蝦夷の住む国として書かれている。以来、日高見への大和の攻勢は続き、日本後紀卷第廿一によれば811年に文室綿麿が征夷大将軍に任ぜられると爾薩體(にさて)、弊伊(へい)の二村を攻撃する。この時 謀發勇敢俘囚三百餘人。出賊不意。侵雪襲伐。殺戮爾薩體餘蘖六十餘人。功冠一時。名傳不朽也。つまり300余りの俘囚(帰順した蝦夷)を使って60人余りを殺した。これが大和による蝦夷征討の最後となっている。ここに出ている弊伊(へい)は後の閉伊であるがその名の由来は閉」「幣」「幣伊」「弊」「弊伊」などと記されて来たことから辺境の国の意味であるとかアイヌ語の「ヘ(対面や顔面)」からとされたり諸説あるようだが、それらよりも有力と思われる説がある。現在青森県には八戸市、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町の名が残り、岩手県には二戸市、一戸町、九戸村があり、遠野市もかっては十戸(とおのへ)であったという。四戸を除き一から十まで戸の付く地名が残されている訳だが、この「戸」は弊伊に由来する可能性があるというのである。従って現在の岩手県の太平洋沿岸部の閉伊は上古にはもっと広い地域を指していた可能性が出て来る。とするとその閉伊の中心はどこになるのだろうか。蝦夷で最後まで抗い続けたのが荒吐族(あらはばきぞく)が都を移したとされる閉伊であったこともうなずけるように思う。

やっと見られるようになった紅梅
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