釜石の日々

菊の花

今朝は小雨が降って、その後も降ったり止んだりで、曇天の一日であった。この夏は冷夏が予想されていたが、冷夏と言うよりも雨や曇りの日の多い夏になった。その意味では作物への影響はかなりあるだろう。日照時間が少ないので、花も開きが良くない。庭の黄蓮華升麻(きれんげしょうま)など蕾はずいぶん前から認めたが、膨らみが悪く、一向に花が開いて来ない。30度を超える夏日も例年より少ないように思う。その分身体は楽だが。近所の盆踊りも昨夜はさすがに囃子の音が聞こえて来なかった。もう終わったのだろう。 世界には菊の花は21000種もあると言われ、日本へは平安時代に中国からもたらされたとされる。ヨーロッパへは18世紀に中国から入ったが、あまり普及せず、19世紀に日本からヨーロッパへ持ち込まれたものが注目され、普及するようになった。日本で自生する菊だけでも350種もある。しかし、春の桜と秋の菊が日本の国花とされにもかかわらず、157種の植物が詠われている万葉集には菊は登場しないと言われる。ただ、万葉集の防人(さきもり)の歌に「 父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで」(父母の住む館の裏のももよ草のように、いつまでも元気でいて下さい、私が戻るときまで)と詠まれた「草百代(ももよくさ)」が菊ではないかとも言われる。中国では竹、梅、蘭とともに四君子とされる。「菊」の字は菊の花弁を米に見立てて、散らばった米を1ヶ所に集める意味を持つ。文献上、菊の字が初めて登場するのは『日本書紀』の中の「一書」に書かれたものとして、黄泉の国のイザナミを連れ戻しに行ったイザナギが二人の間で言い争った際、菊理媛神が何かを言って、仲を取り持つ形で登場する。どのような神であるかの説明はない。しかし、この字は『日本書紀』本文にはないので、『日本書紀』が引用した「一書」はおそらく九州王朝の史書だろうと思われる。すでに7世紀までに菊の字は日本へ入っていたのだろう。菊は中国では不老長寿の薬効があるとされて来た。平安末期の後鳥羽天皇が刀を作ることを好み、その刀に刃紋として十六弁の菊紋を入れたことにはじまり、天皇家の菊紋となったと言われる。全国には菊の花を愛好して育てている人が300万人以上いると言われる。秋には各地でその菊の展覧会が毎年開かれている。菊は仏花や献花としても使われるが、中国や韓国は無論、フランスやポーランド、クロアチアなどでも白菊が葬儀や墓参に使われているようだ。
たくさん咲いていた小菊

コメント一覧

管理人
まささんへ
コメントありがとうございます。見ず知らずの方がこうしてこのブログを見て下さってることに感激しております。岩手の自然に惹かれながら、とりとめもないことをただ綴っているだけのブログですが、これからも時々訪問いただければ嬉しいです。親戚の方も早く回復されることを願っております。ありがとうございました。
まさ
故郷
いつも楽しみにしています。故郷の季節の移り変わりが、良くわかります。自分は、大槌町の生まれで14歳まで住んでいました。
今週初め帰省し入院中の親戚の叔母を見舞いました。自分にとって母親同然の存在です。昨年、大槌祭りに帰った折り、昔の様に沢山の手料理でもてなしてくれました。約1年ぶりの再会は少し辛かったです。回復を祈る事しかできないです。これからも記事を楽しみにしております。長文失礼致しました。
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